元勇者の家族3
魔王が懇願している。
弱点である真名まで捧げて。
まるで命ごいをする人間そのものだ。
そんなものは見たくない。
魔王は憎むべき者で、道義からはずれた存在。人間のように慈悲や憐れみなど持ち合わせていないはずだ。
頭を垂れた姿など見たくもない。
アンは思わず視線をそらす。その先に見えたのは剣をにぎる己の手だった。
赤黒い染みが手に、衣服の袖口に、剣の鍔にも柄にも、いたるところについている。
それはここへ来るまでに倒した魔族の血。
たくさんの命をうばい、人道にそむいているのはアン自身だった。
「真名など、いらない。…わたしと戦え、魔王」
動揺してすきを見せたらおしまいだ。
アンは自らの手から目をそむけ、ふたたび魔王をにらんだ。
紅い瞳がアンを見上げていた。
「おまえと戦ってどうなる? それで五千年も続く争いが終わるとは思えない」
これまで何人の「魔王」と「勇者」が死んでいったか、アンも知らないわけではない。
「勇者」が死んでも「魔王」が死んでも、新しい「勇者」と「魔王」が擁立されて戦争は続いていた。
アンはなにも言い返せなかった。
それは魔王の言うことを肯定したと同じだ。
魔王が立ち上がる。アンは一歩退いた。
背の高い魔王が今度はアンを見下ろしている。
「おまえは今までの勇者とは違う。五千年間、われらが有利だった戦をたった数年でおまえはくつがえしてしまった。なにがおまえをそうさせたんだ」
魔王の問いに答えるつもりなどなかった。
このまま剣をふるい魔王を殺せば自分の望みはかなう。
相手は丸腰、しかも真名をささげている。
優位なのはアンのはずだが、追いつめられているのもアンだった。
一方、魔王は嘲るわけでもなく恐怖にすくむわけでもなく、なんともいえない表情でアンを見つめていた。
だまそうとしているようには思えない。
迷いの末にアンは剣を鞘におさめた。