フラれちゃったんだ。
フラれてしまった。
高校卒業から五年間、ずっと付き合っていた彼に、フラれてしまった。
『もう、お互い限界だろう』
そう言われた。
私は全く限界なんて感じていなかった。そう思っていたのは彼だけだった。一体いつから、彼は限界を見ていたんだろう。『もう』だなんて、思ってしまうにはどれだけの時間が必要なんだろう。
一方的に言って、彼は去っていってしまった。
私はひとりで電車に乗る。
時間も遅い。車内には人はまばらだ。近くに誰も座っていない席に座ろうと、そちらへ向かって歩いていき――ふと目に入った向こう、隣の車両の一席に、懐かしい顔を見た。
一度置いた鞄を持ち直し、その人の隣へ向かう。
「隣、いいですか」
そっと話しかける。私の言葉で、彼は読んでいる小説から顔を上げ、「いいですよ」と答えて、気付いた表情になった。あ、という顔の彼に、私は笑いかける。
「吉彰くん、久し振り。こっちに帰ってたんだ」
私の言葉に、久し振り、と微笑み返してくれたのは、高校の頃同じ部活にいて、県外の遠い大学へ進学していった吉彰くんだった。私は県内に進学して、彼は成人式以外は帰ってきたという話を聞かなかったから、三年以上振りということになる。
「ちょっと用事があってね。明後日にはまた出ていくよ」
「同窓会にも来ないんだもん、皆気にしてたよ。吉彰くん元気かなって。どこに就職したの?」
「M県の市役所。愛宕さんは?」
「こっちの製薬会社だよ」
並んで座りながら、何気ない会話。初めは思わぬ邂逅に驚いた様子の吉彰くんだったけれど、物腰はとても落ち着いていて、昔とほとんど変わりなかった。
私を苗字で呼ぶのも、変わらない。
高校の頃の部活は、全部で二十人ほどの部で、慣例的に親しみを込めて、男女問わず名前で呼び合っていた。その中で、一貫して苗字で呼び続けていたのは、吉彰くんだけだ。特に深い理由はない、とあの頃の吉彰くんは言っていたけれど。
「…………」
「どうかしたの?」
「……え?」
気が付くと、吉彰くんが私の顔を覗き込んでいた。何が、と返すと、小首を傾げながら、
「いや、何だか元気がなさそうで。何かあった?」
どきっとした。吉彰くんには言わない方がいいんじゃないかと、私の中のどこかが囁いた。吉彰くんは多分、私と彼が付き合っていたことを知らない。でも、知っていたとしたら――彼と私と、吉彰くんは、同じ部活だったから、だからこそ、吉彰くんには言えない。なのに、
「――フラれちゃったんだ」
思うより先に、言葉になってしまっていた。え、と吉彰くんは表情を硬くする。それから、そっと視線を外して、困ったように頬を掻く。
それはそうだろう。久し振りに会った相手がフラれて落ち込んでいるんだと知って、何と言葉をかければいいのかなんて、私にだってわからない。
まして、私と吉彰くんの間では。仮に吉彰くんが、私のフラれた相手を知らないでいてくれているのだとしても。
「それは……残念だった、ね」
たどたどしい、吉彰くんの言葉。それは吉彰くんの精一杯気遣っての言葉だとわかっていたけれど、それでも、私に深く突き刺さった。
私の表情が歪んだのを見て取ったのだろう、慌てたように吉彰くんは言葉を重ねる。
「で、でも大丈夫だよ! 男なんて世の中には星の数ほどいるし、愛宕さんは美人さんだから! 愛宕さんをフるだなんて、あ、相手の男の気がしれないね、本当に!」
――愛宕さんは、美人さんだから。
五年前、まだ私と彼が付き合い始めるより前の頃。吉彰くんに、まさにそれと同じことを言われた。
思い出す。
吉彰くんは、覚えているだろうか。
「だから、そこまで落ち込まなくても――」
「――ねえ」
視線を泳がせながら懸命に慰めを重ねようとする吉彰くんを遮って、私は言う。え、とこちらを見る吉彰くんに、
「――高校を卒業するとき、吉彰くん、私に好きだって、言ってくれたよね」
卒業式の日、私は吉彰くんに告白された。
でも、断った。
彼が好きだったから。
「……覚えてる?」
窺うように、吉彰くんの顔を見る。吉彰くんは、遠くを見るような視線になっていた。
小さく、頷く。
「うん、覚えてるよ」
「……今でも、好き?」
訊いてはいけない。でも、自分を止められなかった。
どんな答えであっても、誰も幸せになれない。私の弱さから出た問いで、吉彰くんを傷つける問いだ。何より、私自身が、どんな答えを求めているのかわからない――
吉彰くんは、数秒、沈黙した。そしてやがて――苦笑した。
「いや、さすがに」
「そっか……そう、だよね」
私は一体、何を期待していたのだろう。
どんな答えを望んでいたんだろう。
どのような結果を望んでいたとしても――ただ、残酷だった。
私自身にとっても、そして多分、吉彰くんにとっても。
「……御免ね、急に変なこと訊いて。忘れて」
吉彰くんの顔を見ないようにしながら、早口に言う。それからちょうど電車が駅に滑り込んだのに合わせて、立ち上がった。
「それじゃあ、私ここで降りるから、またね。今度同窓会やるときは、吉彰くんも来てよ。皆でお酒飲もう」
「……ああ、うん。多分ね」
それじゃ、とお互いに言って、私は開いたドアから飛び出した。すぐに背後でドアは閉まり、電車が発進する。
私は、泣いた。声を上げて泣いた。泣き声は電車の音にかき消されて、誰の耳にも届かない。
見知らぬ駅で、私以外には誰もいない夜の中で、私はただ泣き続けた。
どうしてあんなことを訊いてしまったのだろう。
どうしてこんなことになったんだろう。
何が悪かったんだろう。
何を間違えたんだろう。
何も、わからない。
ただ、私は泣いた。わけもわからないまま、終電が来るまで、ベンチでひとり、泣き続けた。やがて声は枯れてしまったけれど、涙はいつまでも溢れて止まらなかった。
吉彰くんは、高校の同窓会も、部活の同窓会にも、一度も出てはこなかった。これからも、来ることはないかもしれない。
私もきっと、もう出ることはないだろう。
積み上げてきたもの、残してきたもの。思い出の全てが、痛いから。