奴の持論
病室と点滴。時刻は夕方の五時。
ベッドに横たわったあたしの前に奴は突然やってきた。
あたしは思わずナースコールを手に持ち、ボタンを押そうとした。でも急に吐き気が襲ってきて、それをする気力を失くしてしまった。ナースコールを持つ左の手が震えているのがわかった。周りには誰もいない。奴はそれを狙って襲ってきたのだ。
「あなたは……誰なの?」あたしはベッドから起き上がって恐る恐る訊いた。臭い。奴の体臭があたしの鼻を転がしている。
「俺か?」奴はあたしのベッドの前でそう言った。全身から鳥肌が立つほどのひどい声だと思った。ぼろきれのような服からあたしは死神を想像した。でもこんな美しい夕陽が沈んでいる時に死神なんてくるわけがないとも思った。では、ただの浮浪者だろうか。あたしから何かを盗もうとしているのだろうか。
「何も捕ろうとは思っちゃいねぇぜ」
奴の言葉にあたしは胸がビクンとなった。
「あなた……あたしの気持ちが分かるの?」
奴は頷くかわりに、気味悪く口角をあげた。
「ああ、お前の気持ちも、お前の悩みも。そして、お前の未来も」
そして、奴は一呼吸置いたあとにこう言った。
「俺は超能力者、そして自由の評論家を名乗っているものだ。これから死という自由を迎えるお前に、もう一つの自由を見せてやろうと思って俺はここに来た」
あたしは目をぱちくりさせた。浮浪者から発したとは思えない予想外の言葉に思わず狼狽えたのだ。
「超能力者? 自由?……評論家?」
「そうだ」奴はここで頷いた。「お前がこのまま黙って死を迎えるというのはあまりにも寂しすぎると思ってな。お前はまだ若い。究極の幸福も、惨たらしいほどの災厄も経験していない。それはいくらなんでも勿体なさすぎると俺は思うんだ」
「災厄なら、もう経験しているわ」あたしは言った。「今がまさにその時よ。余命を宣告されて、希望もなく俯いているだけの毎日。これ以外の惨たらしさなんて一体何があるというの?」
「確かに、その通りだ」奴はまた口角をあげた。「だから、俺はお前にこういっているんだ。『これから、もう一つの自由を見せてやろう』と。面白い話だろう」
「全然面白くない」あたしは言った。本心からの言葉だった。「あたしにはもう喜ぶ力がないの。もう、絶望しかないの」
「絶望か……」自称超能力者は紳士のように顎を親指と人差し指でさすった。「面白い言葉を使う娘だな。まるで俺みたいだ」
「あなたみたいになんかなりたくない」あたしはきっぱりと言った。奴のことはもちろん何も知らないのだけど、あたしはついそう放ってしまった。
浮浪者は首を傾げた。あまりにもオーバーな首の曲がり方だった。
「まぁ、いい。お前が俺の用意する自由に相応しい素質を備えていることが確認できた。お前は、変わった人間だ。変わった人間でなければ、この自由の中に入る意味がない。前に入った奴は、メンタルがひどく弱い奴でな。よく何かを吐いていた。俺はすぐに帰ってこいと言ったんだが、結局戻ってこなかった」
「その人のことは知らないけれど、人は誰でも大なり小なり変わった所があると思う」あたしは静かにそう反論した。「みんな自分が普通であると信じて、実は普通じゃないのよ。普通じゃないから、普通になりたがるのよ」
「また面白いことを言った」
「だって、そうでしょう?」あたしは言った。
「一理はあるが、それが正論というわけではないな」
「反論してみてよ」
奴は鼻息をこちらに吹きかけた。「確かに……現世を生きる人類は、みな自分が一番正しいと思い、自分が一番平均的だと信じている。だが、それだからといって人間みなが可笑しくないというわけじゃない。中には本当に頭のねじが飛んで行って、そのまま開いた穴にコンクリートを流し込んじまっているような奴がいる。例えばお前のように。そういう奴は社会から見捨てられ、まるでそこにいなかったような扱いをされる。ようは社会的な抹殺だな。そういう奴は大抵幸せが得られず、死ぬまで不当な扱いを受ける。誰も面と向かって当人に悪口は言わない。奴らもそこまで馬鹿じゃない。だがな、陰では誰もが言っているんだ。万が一口には出さなかったとしても、心は確実にそいつを卑下している。憐れみの目を向けている」
あたしは目を大きくさせて、持論を語る男の表情をじっくりと眺めていた。……わからない。あたしがその奴の言う「社会的な抹殺」を受けた人だっていうの? あたしは今まで何不自由なく生活してきた。友達もそれなりにいたし、不当な扱いを受けたという覚えもない。だから、奴の言っていることは単純にあたしにとっては一つの暴言として胸に響いた。
「暴言じゃねぇ……」奴はあたしの心を読み取って言った。「お前はただ現実を直視できていないだけだ。友人がたくさんいても、嫌われている奴は普通にいる。仲間にひどい奴がいない限り、本人は一生分からないままでいる。分からないから自分は普通の人間なのだと思い込む。……悪いことだ。人間の、愚かなところだ」
「もしそれが本当なのだとしたら……」あたしは途切れ途切れの息で言った。「わざわざ、なんであたしに教えるのよ。あなたが来なければ、あたしは分からないままで幸せに生きることが出来たのに」
「それは無理だろう」浮浪者は嗤った。「現にお前はもうすぐ死ぬんだから。自分で幸せを否定してたじゃないか」
「それはそうだけど……」
「とにかく」奴はあたしの言葉を遮って強引に話を始めた。呼吸が苦しくて、あたしは耳の奥が痺れたような心地になった。
「本題に入らせてもらう」奴は右手の人差し指を天井に向けた。少し滑稽に見えた。
「これからお前は今から生や死の意識を感じない、俺の作った自由な世界へと行ってもらう。これは強制で、お前にイエスノーを選択する権利はない。全ては死が訪れる前のモラトリアム。お前にとってのアイデンティティを如実に表現するための場所が、俺の手によって提供されるんだ」
あたしは呆然としながら奴の話を聞いていた。先ほども実は思っていたのだが、この人は身なりの割に話す言葉が複雑だ。
「簡単に言えば、だな」奴はまたあたしの心を読み取った。
「余命が延びるという話だ。お前は医者から一ヶ月の期間だと宣告されているはずだ。それが、俺の力によって延びる」
「ちょっと待って」あたしは一気に呼吸が乱れた。「あたしは……あと一ヶ月しか生きられないの?」
「知らなかったのか」
あたしは頷いた。言葉が中々出てこなくなった。心臓が、スクラップにされた。
「参ったな」奴は頭を掻いた。「俺の読心能力も衰えたもんだな。とっくに知ってると思ったんだが」
あたしはこの時にはもう、奴の言葉など、耳に入ってはいなかった。両親の顔、そして友人との思い出を回想していた。奴はあたしの友達のことを悪く言ったけれど、そんなことが真実かどうかは関係ないと思う。あたしはこんな気持ち悪い奴よりも、自分のことを長い間頼ってくれた仲間たちのことの方を信じる。たとえ、それが裏切られるものだったとしても……それでもいい。あたしは無垢な心のままでいたいから。
「無垢な、心か」
「そうよ」あたしは強く言った。
「そんなもの、本当にあると思ってるのか?」
「どこかにはあると思う」
「なんじゃそりゃ」
「あるから。あたしはそれを信じてるの」
自称超能力者は腕を組んだ。あたしは窓の外に目を向け、空を見つめていた。
「あなたを信用するわけではないけど、でも、もうお別れになるのは避けられないことなのよね」
「そんなこと、俺が来る前から分かっていたことだろう」
「そうだけど……」
「とりあえず」奴の低い声が左耳から入ってくる。「もう、行かなきゃなんねぇ。自由のために。お前さんのアイデンティティを見つけるために」
あたしはもう一度、男の方に顔を向けた。「あたし、あなたがもしかしたら死神なんじゃないかと思ってきた。普通の人に見えないもの」
あたしがそう言うと、奴は意外にも嗤わずに――あたしの方へ近づいてきた。
「目を閉じろ」
奴はそう言った。
「えっ?」
「目だ。今から連れて行くから。眠るように目をつぶれ」
あたしはもう奴の言いなりになっていた。本当にこの人は死神なのだろうか。奴は肯定もせず、否定もしなかった。それは……果たして何を意味するのか?
「準備はいいか?」
あたしは頷くことも‘はい’の言葉も口に出さなかった。眼を閉じると、奴の汚い手が間近に来るのが感じられた。でも、不思議とそこまで不快ではなかった。
「ここまですんなり俺を信用してくれる奴は初めてだ。この前の奴に比べたら……」奴のその台詞を最後に、あたしの聴力は完全に無のものとなった。確かに奴の言う通りだ。なぜあたしは、突然やってきた侵入者のことをこんなにも受け入れてしまっているのだろう。
「じゃあ、いくぞ」
耳で聴いたわけじゃない。脳というか心臓というか、曖昧な部分から奴の声を理解したのだ。
目をつぶっていたのは、どれくらいだろうか。もちろん初めてのことだけれど、怖くはなかった。愉しくもなかったけれど。
「もう、いいぞ」
あたしは最初、聞き違いかと思って、すぐに目を開けることはしなかった。だけど、奴がまた同じことを繰り返したので、目をとうとう開けることにした。この言葉はちゃんと耳から聴こえたと思う。
さようならの一言を……言っておけばよかったと後悔した。奴は超能力者だと言っていたから、頼めば、時間を巻き戻すこともやってのけちゃうのかな。
あたしは目を開けた。光が当然のようにやってくるかと思ったら、意外にも外は真っ暗だった。状況を把握しようとしていると、上のほうから声が届いてきた。声色はまぎれもなく奴のものだ。
「もう一つの自由な世界へ」汗が頬を流れる…‥。
「ようこそ」