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どうせ、自由。  作者: 劉之介
第一章 恋おわり、今は自由。
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こんな、世界。

 目を開けたら、視界には何もなかった。

 いや、厳密に言えば何もなかったというのは間違いなのかもしれない。無の景色なんて、現実にはありえないのだから。もしそれが可能なのだとしたら、ここは夢の世界でなくてはならない。

 では、ここは夢の世界なのか? そう問われたら、僕は絶対にノーと言う。僕の意識はアメリカに生まれて初めてやってきたときのドヴォルザークのように、ちゃんと自分の中に起こっている衝撃を確かなものとして捉えることが出来ていた。ここは夢じゃない。僕が生みだしたわけでもない。元からそこにあった空間に僕が偶々侵入しただけの、単純な現実世界なのだ。

 なにやら難しく言ってしまったが、ともかく僕は辺り一面が真っ黒な空に、地面だけが純白色という、不可思議な場所に来てしまったのだ。どうして、こんなところに辿りついてしまったのか。そんなことは僕が自分に一番訊きたいことだ。僕はただ「目をつむって走っていた」だけなのだ。出口に向かって、奴の目の届かないところまで逃げて。それなのに、どうして僕はこんなところの地を踏んでいるのだろう。走り始めてからそんなに長くは経っていないはずだし、第一、辺りを見渡しても廃墟が見えない。あるのは闇と無表情な地、それだけだった。

 僕は慌てず、その無愛想な地面を一度叩いてみた。手が痛くならない程度にこんこんと。材質はコンクリートだろうか。触ったことはないが、大理石のような気もする。要は硬い地面なのだ。こういうのは立っているだけで足が疲れてくる。僕は彼女に振られた日、雨の中街路樹のそばにずっと立っていたことがあるのだ。そう思えば、あのときの地面も白いコンクリートだった。もし本当にこの地面が大理石だったら違うけれどコンクリートだったら、ここは僕にとって悲しみのエリア、ということになる。

 雨が降れば完璧なのにな。僕はすぐにそう思った。しかし、匂いをかいでも雨の気配はない。その前に、ここはいったいどこなのかという最大の疑問を解決するのが先なのかもしれない。でも僕は、そんな至極「当然なこと」をする気にはどうしてもなれなかった。訳の分からない場所で迷子になっているというのに、なぜか僕はパニックにならなかったのだ。むしろ、誰もいない地、誰も邪魔できない世界に来られたという二重の喜びで一杯だった。失恋し、失神し、超能力者に誘拐され、僕の心は真夏の積乱雲のように荒廃していた。何よりも他との隔離を求めていたのだ。あのときはそんなことなど微塵にも思わなかったが、ここに来た今ならそれが悟れる。僕はこんな誰もいない異世界を求めていたのだ。

「ずいぶんと居心地が良さそうだな」

 太い低い声が聞こえて僕は途端に動きを止めた。頬を嘗められたような不快な声……アイツだ。幻聴かと思い僕はそのまま動かずにいた。身体が微かに震えていた。

「どうだ。もう少しそこにいたいと思ったか」

 聞き違い……などではない。例のあの人の口を通って出る音が、上空から確かに、僕に語りかけているのだ。胃の中がスクリューする。もう出すものなんてない。夜中、忘れた頃に取りだしたコインランドリーの中の洗濯物のように、いま僕の手足は腐った臭いがしていた。デオドラントを体中にかけたい。でも、この異世界にコンビニの類はない。

「願っていたのだろう…… こんな世界にいられることを」

 僕は彼の言辞にあまり耳を傾けずに――それでもやっぱり気になってしまう――静かに目を閉じた。失神しないように、嘔吐しないように、自分を支えてくれる力をしっかりと抱きしめる。

「慌てていないようだが、お前がさらに落ち着けるようにここの世界の説明をしよう」

 奴は続けた。奴の低い声が、耳介に巣を作っていく。

「ここは、俺の作りだした完全に外界と隔離された世界。いわば『自由』を抽象化して目に見えるように再構築してパッケージ化したものだ。馬鹿なお前には理解できないだろうが、とにかくここが危険な場所だということはありえない。だから、思う存分楽しんでくれ」

 僕はまだ目を閉じつづけ、僕の顔を周回している空気の匂いを嗅ごうとした。何もかもがよく分からない。真の言葉で意味不明だ。現実なのに、現実じゃない。夢のようで、夢じゃない。

「俺は、お前を助けようとしたんだ……」奴の言葉が頭にふりかかる。「どういうことか分からないだろ? 教えてやる。俺は最初から、お前をここに入れ差す目的で、お前に近づいたんだ。超能力で、お前のショックを感じ取ってな。お前は迷惑がっていたようだが、俺は必死にお前のことを想ってやってたんだぞ。だから、抵抗するお前をなんとか隔離し、失神させたんだ。ブツ吐いたのにゃビックリしたけどな。あれは予想外だった。まさかお前が吐いちまうなんて……そこまでは俺も読み取れなかった」

 天からの騒音は止まらなかった。

「お前、どっか身体でもやられてるんじゃないのか? お前が知らない間に病にでも蝕まれてるんじゃねぇのか? 俺にはそうとしか考えられんが、どうなんだ?」

 僕はようやく目を開けて、顔を奴のいる上に向けた。

「静かに……してくれないか? いい加減疲れてるんだ。こんな場所を提供してくれたことには感謝するけど、そうやってずっと喋って僕を一人にしてくれないのならここにいる意味もない。色々と謝らなければいけないのだろうけど、それも今は疲れていて出来ない。お願いだから一人にしてほしい。僕は失恋の続きがしたいんだ」

 今まで奴にかけた言葉とは対照的に、僕は過剰に丁寧な口調で彼に投げかけた。別に彼のことが気にいったわけではない。本当に、本当に……僕はくったくたになっていたのだ。

 超能力者は黙っていた。僕の心を読み取っているのだろうか。沈黙が続いて、僕はさらに鉄球が肩に乗っかったような心持になった。このままずっと何も起きないでほしい。自由が永久に続いてほしい。僕の側から離れないでいてほしい。

「分かった…… お前の希望通り、一人にさせてやろう。だが、孤独なことがそんなにいいことだとは俺にはどうしても思えない。独りが嫌になったら、遠慮なく俺を呼ぶんだぞ。いつでも出してやるから。ここに居続けるのは危険すぎる」

「分かったよ」僕は前に向き直った。「分かったから、もう……自由にしてくれ」

「本当だな」彼の口調が強くなった。「ここにいつまでも引きこもったりはせんか?」

「分かんない」僕は正直に答えた。「さっきも言った通り、僕はひどく疲れてるんだ。それに、激しく頭も混乱してる。そんな今の状態でちゃんとした判断が出来るかどうか僕は自信がない。頭の整理が今は何よりも必要なんだ」

 言葉が口をついて流水のように出てくる。考えて話しているわけではないので一秒前に喋った内容も思い出せなかった。日本語も、たぶん間違っているだろう。

 老人は答えなかった。もう、返す言葉が無くなったと言っているようだった。彼は本当にいい人だったのだろうか、それともただのいかれた浮浪者だったのか、結局分からない。でも今は、とりあえず信じてみるしかない。何もかもが分からないことだらけだから、自分の思考に頼るしか方法がないのだ。

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