愛されたかったから
*
大陸はもう目と鼻の先だった。
百隻以上の船は特に何の障害もなく、隣を走る追い風と並んで進んでいた。面白いくらいに全てがうまくいっている。こんなに簡単に事が運んでいいのだろうか。茜壁の戦いで経験したあの時の状況とよく似ている。あの時も、不安こそしていたが、結局波乱の事態を僕は防ぐことができなかった。蘇る恐怖の時間。勝利を確信する最後まで何が起きるかは分からない。
僕は指導者らしいことをほとんどせずに今まできた。理由は一つ、時間がなかったからだ。この計画自体、奇襲という言葉の上で成り立っている。勿論それを言い訳に使ってはいけないことは分かっているのだけど、この胸を覆う煙のような不安をさらに色濃くしている要因なのは事実だ。
大陸はもう目と鼻の先。不意に声が漏れた。
「お母さん……」
「どうしたんだ」
あいつの声がした。
李はいつの間にか僕の左横に立っていた。僕の横っ腹を弱めにごついた。
「またしょぼくれてるのか」
「いや、別に……」僕はそう言いながらも俯いた。
彼のため息が聞こえた。「ちょっと、来い」
僕はよく分からなくて、李のほうを向いた。彼はとうに歩き出していた。
僕はついていくしかなかった。
船内に続く扉があった。錆びた鉄の臭いが鼻をかすめる。警戒心は当然なかったが、背中が猛烈に痒くなった。
前を歩く彼がドアを開けた。彼は急に無言になっていた。この不気味な空気に僕は何と気持ちを置いていいかわからなかった。波の音も、船の揺れもその空気感には一切介入できなかった。
空気で構成された小さなドームは空の監視から退いた。僕が船内に入ったのはただの一度だけ。寝るときは上の別の部屋を使っている。
中に入っても李は黙々と歩いていた。一歩一歩に木の軋む音が聞こえて、厚みを感じる。もう戻れないという意識がどことなく体の中心にあった。
「もうすぐなのか?」
返答はやはりない。僕は歩きながら、唾を何度も何度も飲み込むしかなかった。
天井の低さによる圧迫感にも慣れてきて、彼の後ろをついていくという酷く単純な作業にも僕は慣れていった。それはまるで操り人形のように、僕を感情のない物体にしていった。ただ歩く。歩いている。
それが「歩いている?」と考えが変わったところで僕は人形になるのを止めた。馬鹿げている。僕は人形じゃないし、一般市民でもない。人の命を守る一人の兵士なのだ。
彼は変化もなく僕の前を歩き続けている。余りにもいつもの彼の姿とはかけ離れているので、彼のほうが誰かに操られているんじゃないか? と、一瞬思った。だけど、彼の力ある一歩一歩の波を感じるたびに、そういう疑惑は徐々に消えていった。疑惑が消えると、先ほどの恐怖がまた押し寄せてくるようになった。彼は一体何を企んでいるのだろう。
息づかいも、軋む音も、刹那に止まったような気がして、僕の内臓は悶えた。彼が足を止めた。僕も当然足を止めた。ぶつからなくて良かったと思った。
彼は振り返った。神妙な面持ちで僕の方を見る。僕らは赤色の扉の前に立っていた。色は所々剥げていた。李は僕の様子を窺っていた。
「心臓の用意は?」
彼は静かにそう言った。相変わらずおかしな言葉。僕も静かに……頷いた。大丈夫。心の準備は出来てる。
「じゃあ、ひらくぞ」
感じたことのない李の緊張がこちらにも伝わってくる。僕は深く息を吸い込んで――肺には何も入れずに――扉の向こうに覚悟を投げた。
李がついにノブに手をかけた。もったいぶらずに一気にドアを開ける。
中は、暗闇だった。
「えっ」
困惑の声を漏らした直後に、光が僕の視界を覆った。
僕は右手で顔を覆った。
そうしたら、大きな大きな拍手が耳に飛び込んできた。
「朱! 隊長!」
「ん、なっ……」
僕はとっさに左腕で眩しい光を遮った。大勢の声が聴こえる。これはもしかして、もしかして……。
僕は腕を恐る恐る下げた。目はもう光に慣れていた。
酒場のような部屋。そこにこれから命を共にする沢山の兵士たちが集まっていた。男の比率が多いが、勿論女性もいる。皆が僕を見ている。僕も皆を見ている。
抱えきれないほどの笑顔がそこにあった。僕は状況をすぐに判断した。そして、混乱した。初めての、ことだから……こういうことをされたのは。……何て言うんだっけ、こういうの。
「……サプライズ」
右耳に天使の囁きが掛かった。驚いて僕は隣を向いた。僕の眼前にエミの微笑があった。僕の拍動が一瞬、完全に止まった。
「どうして……君が……」
「あんまり深く考えるな」
後ろの李の声が割って入った。僕は情けない表情で、李に向き直った。
「深く考えるな」
李はもう一度言ってから僕の肩に手を置いた。
「隊長らしいことを、お前は殆どしてこなかった。なら今くらいは、堂々と振る舞ったらどうだ?」
僕は彼の目を改めて見た。そしてエミが言ったことを再度、頭の中で繰り返した。
さぷらいず。
何もかもが変わっていく。僕はそんな風の気まぐれを感じ取った気がした。国境線を越えて、海を漂って、僕……いや僕たちは進んでいく。本当の自由なんて、この世に存在しているのかすら分からない。それでも僕らは、その回答に葛藤しながらも、戦っていくしかないんじゃないだろうか。愛されているとか、自分が生まれてきた理由とか、僕という存在そのものに対する意義とか、考えるだけ無駄なことなんだけれど、それでも考えてしまうこれらのことには、何か魔法のようなカラクリが眠っているような気がする。僕はそれを、仲間と共に解き明かしていきたい。綺麗事も味方につけて、現実を目の前にしても躊躇せずに、情熱が冷めない心を僕はいつまでも持っていたい。
「朱……」
エミに呼ばれて僕は思考の膜を破った。彼女は僕の名を知っていた。
エミは白いブラウスの代わりに、上品な空色のドレスを着ていた。僕は今さら彼女の服に目が入ったことに照れくささを感じ、彼女の口元を見つめた。桃色の花が高熱で溶けていくのが僕には分かった。
「私、あきらめないから」
彼女は言った。
「あなたが悪い人じゃないことは、分かってる。でも、あなたがやろうとしていることは絶対に許されることじゃない。犠牲の上に平和は成り立たない。誰かを排除すれば、次に排除した側が、ゆくゆくは同じ目に遭うことになるの。それを朱は分かってない。私があなたを止めなければ、恐ろしいことが起こるような気がする」
彼女の鋭い眼と言葉に、僕はすぐに反論しようとした。だけど、僕は何も言わなかった。言葉が出てこなかったのではない。ただ、僕がここで彼女との言い争いはしたくなかった。
エミから目線を逸らすと、料理が並べられたテーブルの向こうに小さな正方形の台があるのが見えた。僕はエミの言葉に反論する代わりに、自分の喉元を指差してこう言った。
「僕の分のお酒ってあるかな?」
エミが怒って去ってしまうのを見届けながら、僕はスピーチの台詞を考え始めた。
*
亜国にも黄昏は来る。
ただ、意義だけがそこにあった。
別に愛されたいわけじゃない。自由を手にしたのも、国を造ったのも、別に愛されたかったからやったわけじゃない。
ただ、甘えたかっただけ。
甘えるタイミングを見計らっていただけ。
誰かに求められることの喜びを、必要とされる歓びを……僕も味わいたかっただけ。
上弦の月に、命令を出した。後悔はない。




