若年の節
決戦の日まで、残り一週間となった。
普通は緊迫し始めるのだろうが、朱雀兵たちの精神に変わりは見られない。僕が鈍いのか、あるいは元々緊迫している集団なのか。勿論、いざとなったら彼らはやってくれる人たちだと信じているので、大きな心配はしてないのだけれど。
「軍を大きく二つに分け、挟みこむように攻撃して――」
楊様が僕にそう言い、朱色の駒を二つ移動させた。僕らは今、皇天府という屋敷に居る。ここは楊様の家にあたり、当然のことだが、迷ってしまうほど敷地が広い。僕が居るこの一間も、宴会が開けるほどに大きい部屋なのだが、作戦会議中なので、今は僕と楊様しかいない。檜板の卓に地図を乗せ、僕らはこの先の運命を仲間と共にするための道程を考えていた。
「難しいですね。南側の方には黄塵川が流れています。ご存じの通り広い河ですので、攻略するには準備が必要かと」
「大丈夫だ。玄王の軍が河を埋めてくれることになった。作戦は成功するだろう」
「本当ですか。信じられないです」
「玄王の力を舐めるな。数が我らの比ではない」
楊様は真面目にそう言った後、僕の方を向き、にんまりと笑った。
僥様が名付けた茜壁の戦いという言葉は、朱雀兵たちの間でもすでに広く知られていた。僕は指導者として凛々しい態度をするように心がけているものの、不安は相変わらず拭えないまま残ってしまっている。きっと今趙や馬と話したら、すぐにばれてしまうだろう。まぁばれるもばれないもどちらにせよ、二人とは最近、会うこと自体がないのだけれど。
それでも、強く見えるように振る舞わなければならない。リーダーとは常にそうしていなければならない辛い地位なのだ。普段は無敵の風格を湛えている楊様でさえも、時々僕だけには弱音を吐いてくださる。僕は最初、楊様の弱い部分を知って驚いたが、同時に安堵した気持ちもあった。考えてみれば当たり前のことだ。弱点のない人間など、この世には存在しないのだ。
強い酒をたらふく呑まれた楊様は、様々な意味で心を酔わせていた。気をわざと混乱させて、忘れたいことを、二度と浮かべないように努めてらっしゃったのかもしれない。
「朱雀様の御加護がありますよう」
楊様は一言そう呟くと、そのまま地図を見ながら黙り始めてしまった。声をかけようとも思ったが、止めておいた。もう何を言っても口を開いてくださらないと思ったからだ。
僕は寝室に向かうことにした。寝るためもあるが、もう一つやる事がある。五十歩ほど歩き、僕は寝室の扉を開けた。すぐに立体的に掘られた青龍の絵が僕に向けて礼を下げてきた。今にも動き出して炎を吐きそうなリアルな絵だ。僕は俯きながら、毛布を一枚拾い上げた。毛布はこれまた青色をしていた。でも、普通の毛布だ。僕はまた五十歩歩いて、作戦会議室へと戻った。楊様は永遠の眠りをしてしまったかのように未だ寝ていた。亡くなっていないことを祈りながら、僕はそっと毛布をかけた。
「朱雀様の御加護がありますように……」
僕も、呟いた。
茜壁の戦いまで、残り三日を切った。
一応司令官なので、敵の動向にも気を使わなければならない。しかし、麗軍は全くといっていいほど、目立った動きを見せてはくれない。安心して良いのか、それともなのか。楊様もそのことについては大変疑問を持たれていて、白軍や玄軍に度々都での現況を伝えるよう文を送っている。罠だったら恐ろしいと、楊様は時々仰っている。僕もそう思う。朱雀軍が誕生してから今日まで、何もかもが上手くいっているような気がしてならない。嵌められているのか、考えすぎなのか。不安や緊張はなるべく持ったほうがいい。でも持ちすぎても、逆に慎重になりすぎて良くない。この究極のバランスを素人の僕はどう扱っていいのか分からない。一方、楊様は僕よりも酷い境遇で育っておられるからか、そのバランスの調節方法をよく熟知してらっしゃる。本当にあの方には頭が上がらない。
拠点を都から十キロほど離れた村に移し、そこに大勢の軍が集まるようにした。人が多くなれば、そこは一つの町となる。やがては知識人も地主もここに来て生活するようになるだろう。中心にある町の広場には大勢の兵士たちが集まり、日々武威を磨いている。そこには一人一人が他を介入させない空間を保持していて、それは僕だろうと楊様だろうと、忍び寄ることが出来ないものだった。僕はそれを眺めるだけだ。町人もそれを眺めるだけだろう。個々のそのような世界は、不安にいつまでも捉われている僕に、一筋の光を与えてくれる。
いつまでも、そしていつまでも……恐らくこの戦いが終わっても、僕は迷い続けているのだろう。自由を手にしても、きっとまた別の問題で、迷い続けてしまうのだろう。僕はみんなをそうやって困らせているだけだ。何も残さず、何も生み出さず、ただこうやって自問自答を繰り返し続けている。詩を書き続けている。友人が救いの手を差しのべて来ようとしても、悪魔の自分がそれを乱暴に掃い除けてしまう。そんなもので、一体何が変われるというのだろう。僕はこの人たちの上に立つ人間ではない。そんな器の大きさはない。
「どうしたんだ」
不意に声をかけられて、僕はすぐに隣を見た。声だけでも誰か分かる――楊様だ。
「すいません。ちょっと考え事をしておりまして」
「決戦時の作戦でも練っていたのか?」
僕はしどろもどろになった。「いえ、個人的なことで……」
弱気にそう発したら、楊様に鼻で笑われた。
「考えるのは結構だが、茜壁の戦いを眼前にして、私的な悩みを抱えている場合ではないぞ」
「すみません……」僕は視線を下に降ろした。するとすぐに、楊様の大笑が聞こえてきた。
「ふはははっ、冗談だ。何もそんなに落ち込むことはないだろう。緊張で精神が強張り、いつも以上の力が出せなくなることは誰にでもあることだ。私も朱より年上というだけで、年齢はまだ若い部類に入る。だから朱の気持ちも、よく分かる。先人たちは皆口をそろえて『若い時代を取り戻したい』と嘆いているが、私はそうは思わない。若いということは分からないということだと私は思っているのだ。何も明るくて怖いもの知らずだけなのが若さではない。若いというのは常に恐れ、常に迷っている、敏感で、傍から見れば愚かな時代なのだ。自分自身だってそうだ。その時は真剣に思いを巡らせていたのに、十年後に振り返ってみると、案外小さなことで驚くことがよくある。私はそれをほんの二か月前に経験した。若いというのは一種の病気のようなものなのだ」
話の途中から、僕は顔を上げていた。心も同じように上へ上へと向かっていた。何と言っていいのか分からない、何と表してよいものか分からない感情が喉元までせりあがってきていた。
「どうした? 朱」
「いえ……とても嬉しくて……」
楊様は驚きと困惑が入り混じったかのようにまた明るい響きを出した。
「私は持論を述べたまでだ。解決策も光となる道標も言ってはいない。だが、それでも朱が嬉しいと言ってくれたのなら幸いだ。自らを誇りに思うことが出来る」
僕は静かに目を閉じた。兵士たちの声だけが耳に響いてくる。
「僕のこの気持ちを、初めて理解していただける人に出会いました。こんな弱虫な気持ちを肯定してくれる人に。……でも、いいんでしょうか。僕はこのままで。青軍の一指導者として、迷ってばかりではまずいのではないでしょうか」
「もちろん、完全に感心できることではない」もう一人の指導者は腕を組む。「朱も自覚していると思うが、戦というのは一瞬の判断で命にまで関わってしまうという大変危険なものだ。だから本来は、歴戦を勝ち抜いた実力のある戦士に指導者を任せなければならない。しかし、残念ながらこの朱雀軍というのは国民たちが集まった反乱軍に過ぎない。項州での戦いはあれど、実際に戦争を切り抜けてきた兵士は本当に零と言っていいほどだ。僥様がなぜ朱をこの位置に就かせたのかは不明だが、僥様のことだ、あの方なりの御考えがきっとあるのだろう。だから、その期待に応えられるように朱は努力するべきだ。茜壁にも勝ち、その抱えている悩みにもいつかは打ち勝って、真の意味での自由を得る歓びを味わってほしい。私はそれを願っているし、応援もしている」
「ありがとうございます」僕は頭を下げた。涙こそは出なかったものの、胸の奥が浄化されて澄んでいくような感覚を味わった。
兵士たちの威勢が止み、青空が存在を強くした。僕はまたこの分岐との死闘を演じるため、リングへと戻った。




