だから、嘔吐。
「まぁ、そんなあせるこたねぇよ」
訛りが強い。スポーツドリンクを両手に抱えながら、僕は咄嗟にそう思った。僕を吐かせた相手と、さっきから小一時間共に話している。奴の口ぶりは、まさに僕が最も苦手としている、ギャンブラーの類に属する喋り方だった。勿論、これは風貌も含めての僕の勝手な偏見からくる判断なのだが、とにかく僕はこういう「これまで自分は人より辛い人生を歩んできたから、これからは自由に暮らしてもよい」という、自分勝手な指針を決めて行動する奴が大嫌いなのである。人の迷惑も顧みず、今もこうやって未成年者の目の前で煙草を吹かしている。当人に訊いたわけではないが、きっと奴は自分が信じたことが法律で、他人の心情など一切心に入れることが出来ないのだろう。かわいそうな人である。
「決めつけで人格を判断するのは良くないぞ」
煙草を左手の二本指で挟みながら奴は言った。毒の煙が口から漏れている。
「だったら、知らない他人に氷水をかけたり、人を吐かせるような行為をまず止めていただきたいですね。本当なら、警察を呼んだっておかしくないことなのに…… 一体なんなんですか? 若者をいたぶって、老後の暇つぶしですか? 僕はあなたのような浮浪者と違って、ちゃんと社会の役に立っているんです。資格も取って、ニュースや政治情勢について自分なりの意見をもって、アルバイトもしているんです。あなたがこれまでの人生で何をやり遂げたかは知りませんが、僕は貴方みたいな大人には絶対なりたくないんです。年上だろうが、人生の先輩だろうが関係ない。僕はあなたみたいな人を心の底から軽蔑しているんです」
言ってやった。いや、言ってしまった。僕は快感と焦りで頭が一杯になった。こいつに殴られるんじゃないのか。空っぽになった頭を、そんな予感が通りすぎていった。
浮浪者は煙草を砂の地べたに落とした。うっかり落としてしまったかにも見えたが、多分わざとだろうと僕は思った。落下した煙草を奴は穴だらけの靴で踏みつけ、火を消した。
「いろいろ、言いたいことがある」
僕の顔も見ずに、奴は言葉を発した。
「要はつっこみどころだ。言われっぱなしじゃつまんねぇからはっきり言わせてもらう。まず一つ目…… お前は日本語の使い方を間違えている。『たり』は二つ以上、並列させて使うもんだ。お前はさっき、一回しか使ってなかった。直せ」
僕は唾を飲み込んだ。汗がまつ毛に乗っかった。
「二つ目…… お前が得ているのは所詮知識の塊にすぎない。ニュースや情勢の意見なんて所詮は誰かの受け売りなんだろう。要するに知恵がないんだ。ネットで何でも調べられるこの時代。物知り博士なんて少しの自慢にもならない。加えて言えばアルバイトのこともそうだ。アルバイトで社会の役に立っているなんて脳味噌がたかがしれている。お前のやっているビラ配りなんて、サルでも出来る簡単なお仕事だ。あんなのにアイデンティティを感じてるようじゃお前もまだまだってことだな」
僕は恐怖で心臓が強張るのを感じた。奴の言ったこと全てが図星だった。頭が真っ白になりすぎて、綺麗な透明になったようだった。
「ようやく気付いたようだな」
奴の横顔がにやけた。
「もっと早くから気付いて欲しかったことだ。俺はさっきから、お前さんの心の動きを察知して、それに返した言葉を喋っていた。すぐに気付くと思ってたんだが、どうやら俺が思う以上にお前さんは気が動転してたようだな。そんなに、俺の息が臭かったか?」
老人はそこでようやく僕のほうを向いた。さっきよりは怒っていないようだった。
「どうした? 吃驚しすぎて、体が固まっちまったのか。それともまた吐きそうなのか」
煽動されているのか、心配されているのか…… 僕には分からなかったが、とにかく僕は奴に出す言葉の内容が思いつけなかった。それは勇気というか、敗北感というか、負が入り混じったタンブル・ウィードを口に詰め込まれたような心地だった。
老人は続けた。
「今のが三つ目になるな。最後にもう一つ言いたいことがある。……四つ目。お前は俺の風貌から、様々なことを勝手に決めつけている。人を見た目で判断するのはよくない。そうだろう? お前のその白ティーシャツにもあるじゃないか。『俺は見た目じゃないんだぜ』ってな」
僕はロボットのような動きで自分のティーシャツを見た。太文字のアルファベットがいくつもプリントされている。そう言われれば。確かにここには英文が書かれている。いつも着ている服だから、そんなことすら僕は忘れていたのだった。
色々あって僕はまな板の鯉だった。包丁で切られるような命の危険はないけれど、精神的にはだいぶきていた。
「まぁ、そんなことはどうでもいい」今度はにやけずに奴はふふっと笑った。
「問題なのは、俺が浮浪者だとお前に決めつけられたことだ。そんな失礼なことがこの先にもあるだろうか。いや、ない。じゃあ過去にはあっただろうか。いや、それもなかった……」
まるで漢文の反語を訳した時のような言葉遣いだった。奴は体を震わせた。
「俺は浮浪者じゃない。俺は浮浪者じゃない…… ギャンブラーでもない! 俺は、『超能力者』だ。自由の評論家。俺は浮浪者じゃない。俺はお前以上に社会の役に立っている自由の評論家だ。繰り返す。俺は自由の評論家だ」
奴は突然そう叫び、僕の前にまた汚い牙を向けてきた。強面なその表情に圧倒されて僕は真に言葉を失った。
「ア・セ・ス・メント」
狂乱の塊は繰り返した。
「アセスメントだ。つまりは俺に対する評価のこと。……正せ。お前が見た目で決めつけたその大いなる誤解を正すんだ!」
唾が僕の鼻にかかり、僕はここでようやく身体の硬直が解かれるのを感じた。同時に頭が一つの命令を出し始めた。
逃げろ、逃げろ、逃げろ……
僕はこの狂った老人に、本当の意味で鯛の煮つけにされると思い、体を反対の方へ急いで向けた。しかし奴はすぐに僕の背後を襲い、僕を羽交い絞めにした。向いた方向に僕の嘔吐物を掃除する年配女性が見える。それに対して無言の謝罪を送った後、僕は叫び声を出して、周りの人に気付いてもらおうとした。
「ううっ…… 助けて!」
声は出た。しかし、反応がなかった。僕の横を二人組の大学生が自転車で通りすぎていった。どこかでカメラのシャッター音も聞こえた。
「荒廃しているんだよ」
ガムを噛みながら喋ったような奴の声が、背後で聞こえた。
「この世界は、もう駄目になっちまったんだ。一人一人が、まるで虚像であるかのように、この世界に存在している。傀儡なのさ。要するに、世の中の人間は皆、操り人形になっちまったんだ。ゲバルト…… そう、これは暴力みたいなもの。世界の終りが来たように、あまねく人民が狂っちまったんだ!」
「狂っているのは……あんたの方だ!」僕は残りが少なくなった息を吐きながら返した。
もう言葉を発せないことはなくなっていた。
「誰か、助けてくれ! 誰か…… 警察を……」
「無駄なあがきだ」奴はぼそっと囁いた。
「荒廃した世界ではお前の常識は通用しない。お前さんは、突如として失恋を経験し、頭の中が自分の意識とは関係なく、混沌としちまったんだ。混沌。お前にこの言葉の意味が分かるか? ……カオスだよ。お前さんの頭はカオスの泥と化しちまったんだ。イニシアティブを発揮するのはお前さんの心しだいなんだよ。そしてその事象に対して帰結を行うのが俺の仕事なのさ」
超能力者の高笑いが両耳に溜まった。奴の言っていることはほとんど分からなかったが、たぶん奴は自分の超能力を試したがっているのだろうと僕は推測した。そもそもこんな老人の口からカタカナ語がいくつも飛び出すこと自体が、僕にとってとてもシュールな出来事だった。神様も仏様も、僕に対して集中的に試練を与えすぎているのではないか。
「ふんっ」
三国志の武将のような意気のある鼻息を奴が出して、僕はようやく老人の檻から解放された。反動で身体が白ベンチに当たる。頭に文句を言われたような激痛が走って、僕はまた嘔吐しそうになった。一粒だけ出てきた涙を人差し指の第二関節で拭い、僕は立ち上がって逃げようとした。
「あっ」
無様にベンチの横に倒れ込む。今の衝突で足の骨を折ってしまったのだろうか。僕はもう一度立ち上がろうとした。しかし、また倒れてしまった。
「無駄だ。無駄だ」
奴の声と二度目の高笑いが聞こえた。怖かったけど、僕は振り向かずにまた立ち上がろうとした――うまくいかない。
「だから、無駄だと言ってんだろ。日本語がわからねぇのか」馬鹿にしたように、また吐かれる。でも僕はその言葉を気にせず、四度目の起立に挑戦した。だけど、本当にどうしてか、僕の二本の脚は力の入らない筒のようなものになっていた。僕は地面に顔を伏せた。
靴音が僕の足から頭へと移動し、後頭部に気配を感じた。顔を上げると奴が僕の顔をのぞきこんでいた。僕は吐き気が止まらなくなった。
「どうだ。参ったか」奴の表情がにやけた。「お前が立てないのは、俺が超能力を使っているからだ。骨折じゃねえんだよ」
僕は項垂れた。コンクリートの臭いを直に感じる。失恋、非日常、狂乱爺、アセスメント、カオス、シュール、超能力。もう、どうでもよくなった。
僕は吐き気をこらえながら、彼女の顔を頭に浮かべ、再び意識を失った。きっと、夢だ、悪夢だ、きっと…… 僕はそう自分に唱え続けていた。