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美佳ちゃんの恋愛事情・3

 5


 少しずつ近づいているような、と思っていたら、ふとした瞬間膝の上に乗せていた手にそっと相手の手が重ねられた。新しくできたビルが期間限定で電飾をピンク色にするんだって、なんて肩に手を置かれてささやかれる。甘いテノール。

 こんなの恋に落ちたらまずいでしょう、もういい年だし。回り道している時間がもったいないし、と言いつつ雰囲気に酔わせられたらこちらもゆるんだオーラが出るというもので。

 一度唇が重ねられてしまったら、続きの展開はスマートでスムーズだった。

 男の指先ってあんなに繊細なのか、と驚かされたり。これは遊び、と自分に言い聞かせて、甘い痛みをわざと味わって楽しんだり。

 男が変わるとこんなにセックスって色が変わるものとは知らなかった。今までの男達とのそれが、どれほど男性本位のものだったかを思い知らされた。比較的わたしを大事に扱ってくれていた初めての恋人も、あんなにやさしかった湯野っちも、藤村さんと比べたら雲と泥、月とすっぽん。三度ほど会ったら気心が知れたわけでもないけど、お酒を飲んだら心も身体も開放的になってしまい、藤村さんと寝てしまった。失恋を新しい恋で誤魔化すと後が大変、というのは新しい恋じゃないもん、の言い訳であやふやにできているようなできていないような。

家族の話はするけれど、過去にいたであろう何人かの愛人の話はけしてしない。唇を重ねるだけで、ずぶ濡れの快感を与えてくれる。わたしがキスだけで満足した日は、それ以上求めてこないし、発情気分だととことんまで気持ち良くさせてくれる。口に出さないのに求めていることを理解してくれるというのはどういうからくりなんだろう。天性のものなのか、何人もの女を知って学んできたのか。今まで出会ってきた男達と、彼は違いすぎた。

 結局事故に遭った時に頑丈で乗ってる人が助かる確率が高いから、という理由で乗っているのだという左ハンドルのベンツに乗せてもらって、夜景を見に行く。美味しい店があるから、と嬉しそうに連絡してくるので、誘われてついつい出かけてしまう。藤村さんのつれて行ってくれるお店はハズレがない。そしてわたしをお姫様の気分にさせてくれる。藤村さんがあまりに可愛い可愛いとわたしに微笑みかけてくれるので、わたしもなんとなくいつでも笑顔でいるようになった。そうすると、店のお客さん達からも今までと違う褒め言葉をいただくようになった。前は、お嬢さんがお店手伝ってくれていいわね、だとか、一緒に働くなんて親孝行だね、などの言葉を聞くことが多かったけれど、最近では、きれいになった、とか、笑ってる顔が可愛い、などとも言われるようになったのだ。

 藤村さんはすごい。素材の良さはあったにしても、聖良をあそこまでの美人にしたのは彼の力なのではないか。

 それにしてもわたしもお手軽すぎやしないか。

 彼氏と別れたからって、既婚者に手を出してしまうというのも。出してきたのは向こうからだけど。でも、既婚者は既婚者だし、聖良の元彼だったって言うのがちょっと。と思いながらも、藤村さんの声は耳に心地良すぎるし、指先はやさしすぎるし、困った困ったと言いながらもお姫様扱いはとろけるように幸せな気持ちにさせてくれるし。

「――なんか怪しい」

「なにが? はい?」

 思い切り動揺した声が出てしまったのは、怪しいといわれて藤村さんがすぐに思い浮かんだからだった。そして、それまでも彼を思い出してぼんやりしていたからだ。

 久しぶりに彩子と飲みにきていた。よく通っていた居酒屋なのに、その雰囲気に一瞬馴染めない。

「美佳ってば、なんかいきなりパタッとあの男のこと吹っ切ったよね? 湯野。なんかあった? 新しい男でもできた?」

「いやいやいや、そんな。ことは。ええっと、」

「やだ怪しすぎる、っていうかできたな? 新しい男だな? こっちは仕事が忙しくて最近出会いもないというのに、コノヤロー!」

 にんまり笑って、今日は美佳のおごりだよね、と言う。誘ったのは彩子からなのに、と口を尖らせてから、男なんてできてないし、と言った。

「えー、嘘だ! だってなんか顔色明るいもん、まだ付き合ってないの? 女性ホルモンばっちり出てるって感じ。お肌つやつや。恋のなせる技って感じ」

「そういえば三日前に生理終ったとこだよ」

「生理後って体調いい時期だもんね! ダイエットにも向いてるしね! じゃあそれだ! って、そんなことあるか!」

 ぎゃはははは、とどうでもいいことで笑い転げて、でも元気になったんなら良かったじゃん、と彩子が言ってくれる。元気、元気かどうかは分からないけど、失恋のめそめそした気分がどこかへ行ってしまっているのは確かだ。

「なに、次のはどんな男?」

「違うって、奥さんとかいる人だし、好きとかそういうんじゃない」

「不倫? ちょっと、不倫とかだったらあんたやめときなさいよ、マジで洒落にならないから」

 久しぶりに飲んだ居酒屋の巨峰カルピスサワーは随分と安っぽい味に感じられる。いやいやいや不倫とかじゃないし、と言いかけるけど、エッチしちゃってる場合はどうなんだろう。でもそれだけだし。別に向こうがわたしを好きとか言ってるわけじゃないし。可愛いとは言ってくれるけど。

「お金持ちの飲み友達ができた、ってだけ、だと思う」

「そうなの? 本当に? 失恋を忘れるために不倫したとかって、もうとんでもない泥沼だからね」

「だって、その人湯野っちの初恋の娘の不倫相手だった人だもん」

「え、なになに? なんか今頭混乱した、なんか関係ぐちゃぐちゃじゃなかった? 美佳ってば湯野の女と会ったりしてないでよ、自分が情けなくならない?」

 言いたい放題だなこいつ、とちょっとむっとしたので、彩子の楽しみにしていたつくねサラダのつくねだけ箸で刺して急いで口に入れた。ぬうおおおっと女子の声とは思えない叫びを上げて、彩子が怒る。でもすぐにまた笑い転げた。なんでもおかしいらしい。

「あ、そだそだ、眞由美から電話とかきた?」

 急に話題を変えたのは彩子で、さりげないけど変な振り方だったので一瞬間が空いた。きょとん、としてるわたしと、えっと、という顔をしている彩子の間に言葉が途切れて、周りのざわざわした雑音が意味も持たずに耳に届く。

「なに、いきなり」

「あ、いや、それがさ」

「なによ、なんか歯切れ悪いな。急になんで眞由美?」

 そういえば少し前に眞由美から電話があったけど、あの時は聖良が藤村さんと別れ話をする日だったからろくに話を聞かないままになってしまった。あれから連絡はしていない。向こうからも再度電話があるとかメールがあるとかではないから、特に大した用事ではなかったのだろうと勝手に思うことにしたけど。

「それがさ、」

 今までわたしを茶化していた人間とは思えないほどはっきりしない物言いになってしまった彩子は、何度か言葉をゆずサワーと共に飲み込んだ後、林さんとさ、と口にした。

「寝ちゃった」

「ちょっ、なにしてんの、彩子?」

「ああ、違う、違わないけど、別に眞由美との関係を壊すとかそういうんじゃなくてね、手を出してきたのはあっちからだし、別にあたしは関係を続けようとか二番目の女でいいからとかってタイプじゃないし、もうないと思うし。向こうが誘ってきたら知らないけど」

「そういう問題じゃなくてさー、彩子もだけど林さんもなにしてんのよー!」

「人生色々」

 お前が言うな、と言うと、さすがに罪悪感でもあるのか、へへへと力なく綾子が笑った。

 でもまあ。

 それはそれとして。

 他人事だからこそ面白い話でもあり。

「分かった、ここだけの話にしよう。で、なんでそんなことになったんだい、言ってごらん」

「美佳のしゃべり方なんか気持ち悪い」 

 藤村さんが移ってた、確かに今。自分でもキャラじゃなかった。ぶふふっと吹き出したら、彩子も顔をゆるませる。

「いや、実はさ。うちのお客さんで眞由美のお母さんと友達って人がいて。ネイルするっていっても普通のおばさんも多いからさ、今。その人から、眞由美が結婚するの渋り出して、もう両家にも挨拶したし後は籍を入れるだけって状態なのにやっぱり結婚しないって言い出して、お母さんが困ってるって話を聞いたのよ。みんな結構噂話好きだからさ。で、あたしも話合わせて、転勤の多い相手だし、マリッジブルー入ってるだけだからってみんなで励ましてるんですけどねって言っといたんだけど。美佳、眞由美からなんか聞いてる?」

「知らない、なんにも聞いてない……」

 あの電話は相談の電話だったとか。それだったら、すぐに返信した方が良かったんじゃ、と後悔するけどはじまらない。

「それでさ、ちょっと面白いなーって思っちゃってさー。林さんにメールしちゃったんだよね。出来心だったんだけどさ、林さんも困ってて、じゃあ元気付けに飲みに行きましょうかーってなって、で、うっかり。魔が差して」

「魔が差したって、えーっ!」

「やっぱまずいよねぇ」

 まずいかどうかは相手次第だろう。結婚前のお遊びでした、っていうのならもう大人なんだからなかったことにして接すればいいし、向こうがはまり込んで泥沼ずっぽりになっちゃったんだったら下手すると婚約解消でどうのこうのという話になってくる、かもしれないし。

「やだやだ、あたし婚約カップル壊したいんじゃないし!」

「ってことは、彩子はもう別に林さんと付き合いたいとかって……」

「あんましエッチ上手くなかったからもういい」

 そういうことを言うし。そしてそんな話でついついお酒が進んでしまうのはどうしてだろう。聞いてはいけないと思いつつ、そうなの? とか聞いてしまう。身近な人の性事情は想像が容易い分聞きたくないような、知りたいような。

「そうなのそうなの、眞由美ってばこれでよく満足してるなーって感じ! 自分勝手に動いてるだけで、なーんか触ってくるところとかみんな的外れだし」

「たまにいるよね、自分は同じとこ触られたら感じるのか? みたいなところ撫でてくる奴とか」

 梅サワーとファジーネーブルを注文して、たこわさを追加する。こんなところでサークルの女子に噂されてるなんて、林さんも想像していないだろう。きっとくしゃみしまくりだ。

「最悪なのがさ、お風呂に入ったらあたしがバスタブにいるのに、林さんってば立ったまんまシャワー浴びるんだよ! こっちに水飛ぶっての。もうそれで頭きちゃってさー」

「え、一緒に入ったの?」

「美佳は一緒に入んないの?」

「お風呂はひとりでゆっくりしたい派だもん」

「えー、お風呂でいちゃつくのってエッチの基本でしょー、もったいないー、絶対もったいない、入んなきゃ」

 話がずれたよ、と彩子が笑った。どうせなら眞由美呼んじゃおうか、とわたしが提案する。

「えーっ、えーっ、ここに? あたしどんな顔して会えばいいのよ、マジ勘弁、やだやだっ」

「マリッジブルーなら話聞いてあげようよ、彩子だってさ、眞由美の顔にさっさと慣れて、林さんと寝たくらいで動揺しないようにならなきゃダメだよ」

 って、なんかわたし酔ってるかもしれない、言ってることが自分でも変で笑い転げる。彩子もげらげらと笑い出して、その勢いで電話をかけはじめる。携帯を耳に当てたまま笑っていた彩子だったけれど、そのうちに首をかしげてわたしに電話を差し出した。

「ね、ずっと呼び出し音。出ないよ」

「まだ寝る時間……じゃないよね」

 七時から飲んでいるので、もう九時に近い時間とはいえ大人はまだまだ起きている時間だろう。

「彩子からの電話だから拒否られてるんだよ、わたしがかけてやるってば」

 電話を切らせて、今度はわたしがかけてみる。佐々木眞由美で登録してあるアドレスを呼び出して、かけたけれど確かにずっと呼び出し音が続くだけだった。

「出ないよね? 出ないよね?」

「デート中? あ、仕事中かな?」

「眞由美って仕事何?」

 店内の壁にかけてある時計を見る。全国チェーンの店なので、すべての店の時計は同じなのだろうか。福々した恵比須顔のおじさんの顔になっている時計は、さっきも確認したけれどやっぱり九時少し前だ。農業機器の販売、修理の会社で事務仕事をしている眞由美は、基本的に残業がないはずで、いつも五時十五分には仕事を上がる。彼女とご飯を食べに行くときは、だからわたしの仕事終わりに合わせてもらうので間違いない。七時に終わって、片付けたりなんなりがあると八時近くなってしまうこともあるわたしは、毎日早い時間で仕事が終わる眞由美をうらやましがったことがあるので覚えている。

「事務員さん、残業なしの」

「えーっ、うらやましいっ。けど、あたしは自分の趣味が仕事になっちゃったからなー。実はあんまし労働が苦ではないのよね。って、そんな話はどうでもよくて、じゃあなんで電話出ないの?」

「わたしに聞かないでよ、彩子と林さんのことがバレたんじゃないの?」

「ちょっと、それ洒落にならないからやめて、マジやめて。罪の意識でー、とかって林さん眞由美に言っちゃってたらどうしよ!」

 言わないでしょう、別れたい女にならまだしも、これから結婚する相手に言ってどうする。そこまで真面目な男だったら、そもそも彩子と寝ていないだろうし。

「……メールでも送っとく?」

「実は彩子がね、って?」

「ちょっと美佳、ひっぱたくよ? そうだよ、あたし別に眞由美と話すことないもん、呼ぼうかって言ったのは美佳だもん」

「あっ、そういえばわたし、眞由美の家の電話番号分かるかも」

 前に眞由美が自分の家からわたしに電話してきて、それをなんとなく登録したような記憶があった。携帯のアドレスを探っていくと、「眞由美ん家」の名前で確かに登録してある。酔った勢いもあって電話をかけたら、眞由美のお母さんらしき声が出た。

「こんばんは、夜分にすみません。市瀬と申しますけど、眞由美さんいらっしゃいますか?」

 夜分って時間じゃないじゃん、と彩子がげらげら笑っている。夜八時過ぎたらそう言えと祖母に教わってるからいいのだ。

 人差し指を唇に当てて、黙れのジェスチャーをすると、電話の向こうで眞由美のお母さんが言ったことを聞き逃した。はい? と失礼な聞き方をしてしまったけれど、向こうはそんなことを気にする余裕がなかったらしい。

『――眞由美のお友達ですか? うちの娘、今どこにいるか知りませんか?』

「……え?」

 娘さんいますかと聞いて、娘がどこにいるか知りませんかと質問で返されたら、さてみんなで捜している娘さんはどこにいるのでしょう。答え、分かりません。

「眞由美さん、お家じゃないんですか?」

 誰も答えない質問ばかりの会話なので、すべてが一方通行になっている。おかしいと思ったのか、彩子も笑うのをやめてわたしに顔を寄せてきた。

 サークルで一緒にテニスをしている者だと告げて、結婚のお祝いを言って、引っ越してしまう前に女達だけでご飯でもということで電話したのだと話す。さすがに酒盛りするとは言い辛い。

『あの、もしかして市瀬……美佳ちゃんって方かしら。時々娘からお名前だけ聞いたことがあるような』

「はい、市瀬美佳です。あの、眞由美ちゃんいつから……」

『昨日会社から帰らなくて、そのまま。今朝会社に電話したんですけど、休みの届けが出てるって言われてしまって。婚約したばかりだっていうのになにをフラフラとしてるんだろうって思ったんですけど、あの子は今まで連絡もなしに帰らなかったことなんてないんですよ』

 涙声などにはなっていないけれど、心配そうな様子は伝わる。林さんのところにも連絡したけれど、来てないと言われたらしい。事件とか事故とかに巻き込まれたんじゃないといいけど、と言うので、それだったら会社に休みの届けなんて出してませんよ、と慰める。

 なになに、どうかしたの、と彩子が小声で聞いてくるのをとりあえず払いのけて、「こちらでもちょっと心当たり捜してみます、いたら連絡しますから」と電話を切った。心当たりなんてまるでないけど。眞由美のお母さんは受話器の向こうで頭を何度も下げていたのか、最後の方は声が少しぶれていた。

「眞由美、行方不明」

「えーっ、なにそれ、あたしのせいー? ……冗談だよね?」

「昨日から帰って来ないみたいなのは本当。……わたし、この前眞由美から電話もらってたんだけど、立て込んでてろくに話しないまま切っちゃってたんだよね」

「その後連絡は?」

「してないし、向こうからもなかった」

 まずいでしょー、まずいよねー、やっぱりマリッジブルーだよねー、そうだよねー。

「って言ってる場合じゃなくて、こういうときってどうするもん?」

「眞由美も子供じゃないんだし、結婚に躊躇してるだけだったら別に死にゃしないだろうし。あたし、眞由美の心当たりってないなぁ。美佳はある?」

「一緒にご飯食べた店とかくらい」

「そんなもんだよね。他にサークルで仲良かったのって誰だっけ」

 眞由美はいつもにこにこしてみんなのお世話をしていたから、誰とでも仲良くしていたけれど、特に誰と仲が良かったか聞かれればわたしになるかもしれない。だけどいざ聞かれると、眞由美の何も知らないことに気付く。

「子供じゃないんだから、帰ってくるのを待つしかないんじゃないの?」

「それもちょっと薄情じゃない?」

「だって仕方ないじゃん、悪いけどそこまで仲良しでべったりで一緒じゃないとトイレも行けませんー、みたいな中学生じゃないんだから、自分の一から十までさらけ出してお互いに秘密を持たないことが親友の証、とかってやってるわけでもないし」

 とりあえずこまめに電話とメールはしてみることにする、ということで意見が一致したので、飲み会続行しようとしたけれど、どこか白けてしまって酔いが醒めかけていた。

「……やっぱ、眞由美の行方不明ってマリッジブルー、だよね?」

「それ以外考えられそうな理由がないんだよねー。実は会社で不倫してて、嫉妬した不倫相手から誘拐されたとかだったらまた別だけど」

「そんなの事件じゃん、……でも最近変な事件多いもんね」

 多分わたしも彩子も、五十代の会社役員が二十代の不倫相手に自分との結婚を迫られて、家族にバラすからと脅されて困ったので殺してしまい、バラバラに切断して堆肥場に投げ捨てた、という最近のニュースを思い浮かべていたと思う。

「眞由美に限って……」

「でも意外と、大人しそうな女ばっかが、不倫ってはまりこんでるよね」

「いい女って男に不自由してなかったりするし」

「あたし、いい女だけど最近男に不自由してる! ま、金もらえる不倫とただの不倫ってあるから、一概には言えないんじゃない?」

 ただの不倫ってなんだ。

 わたしと藤村さんも形だけ見れば不倫だ。不倫だけど別に好きとか、一緒にいたいとか、そういうのではないような気がする。たまたま同じような時期に恋人を失っているから、その時傍にいただけで別に互いではなくても良かっただろうし、だけど関係を持っているのは事実だし。

「……友達の話なんだけどさ、」

 この前置きはほとんどが自分の話の場合が多いけど。

「友達の友達が不倫してて、でもやっぱ良くないって言って関係を解消したんだって。で、その別れ話にわたしの友達が付き合ったんだけど、たまたま友達の友達が不倫していた相手となんか飲みに行ったりする関係になっちゃって、で、やっぱそうすると男と女だし、エッチしちゃったりするじゃん? そういうのってさ、男側からしたらどうなんだろ」

 友達という単語が多すぎる。途中で自分もこんがらがりつつ、何が聞きたいのかいまいち分からない質問になった。彩子も、どうってなにが? と首を傾げている。

「あー、なんていうか、男側からしたらお手軽に見えてるのかなー、とか」

「美佳の友達の気持ち次第なんじゃない? 最近彼氏いないし不倫相手ってことは年上だと思うからさ、まあ年上のテクニックでも味合わせてもらおっかなー、ご飯とか奢ってくれるしラッキー、くらいの気持ちだったら、別にお手軽に見られても平気だろうし。でも恋愛に関してもそうだけど、不倫とかって最初は軽い気持ちでもあるとき突然本気モードにスイッチ切り替わりそうで怖い」

「本気モードって、」

「やっぱあれでしょう、奥さんと別れてわたしと結婚してー、みたいな」

「そんなことはないと、思う」

 あたしだったら友達のお古で不倫相手なんて嫌だけど、と彩子が言うので、笑っておいた。聖良のお古だと思うと、藤村さんが色あせるようなそうでもないような、それにわたしと彼は別に恋愛関係ではないし。

 ファジーネーブルを飲んでしまった彩子がピーチサワーとハニートーストを注文している。

「あ、ちょっと、それって本当に友達の話だよね? 美佳のことじゃないよね?」

「失恋した直後に不倫って、もう泥沼決定じゃん! さすがにわたしでもそんな恐ろしいことしないって」

 それより眞由美が心配だよ、とまた話を戻して誤魔化して、彩子に本当のことを言う機会を自分で失くしてしまった。別に泥沼にならなければいいだけの話だと、気楽に考えている部分がないわけでもない。お手軽に関係を持ってしまったことは、きっとお手軽にやめられる。多分。

 運ばれてきたハニートーストはパンを丸ごと一斤使ったもので、想像より大きすぎてふたりで絶句した。眞由美呼びたかったよね、とわたしが言い、林さんでも呼んじゃう? と彩子がふざける。

「あんまり軽く考えてると、後で大変なことになるかもよー」

 自分で言って、自分の言葉にどきっとする。後で大変なこと、それは困る。

「ちょっと、脅かさないでよ、もう林さんと寝たりしないって、多分」

「多分が怪しい、多分が!」

 せっかく結婚が決まったのにそこから逃げ出したくもなるものなのか。

女って面倒くさいよね、と呟くと、彩子が不思議そうな顔をした。生理の話? と聞いてくる。確かにそれも、面倒くさい。


「藤村さんって、結婚するって決まったとき、どんな気持ちになりました?」

「どうしたの、急に。美佳ちゃん結婚でもするの?」

 市内で一番お高いホテルの、十階のツインルームはアメニティが充実していてお風呂も広い。感動するのがバスタオルで、大きくて厚手でふんわりしすぎている感じなのに、水をよく吸って肌触りがいい。

 ルームサービスで食事をしたことがないと言ったのを覚えていたそうで、今夜の食事は藤村さんがあらかじめ予約を入れておいてくれた。ワンプレート、よくて折り詰めのお弁当のようなものを想像していたわたしは、きちんとしたフルコースがうやうやしく運ばれてきたのにものすごく驚いた。本日のコースというメニュー表もついてきて、カラトリーも数が揃っている。ワイングラスだっていくつも用意されていて、サーブしてくれる人がきちんとついた。フレンチレストランがそのままホテルの個室に移動しただけの晩ご飯は、贅沢すぎてくらくらする。庶民のわたしには心臓に悪い。

「わたしの友達が、マリッジブルーになっちゃって。今、ちょっと行方不明中なんです」

「……行方不明中ってまずいんじゃないのかな、大丈夫? 事件や事故なんかに巻き込まれたりした可能性はない?」

「携帯電話は繋がるんです。出ないけど。でも、かかるってことは電池が切れてないってことで、本人がちゃんと充電してるんだと思うんですよね」

 じゃあひとりで旅行してるかもしれないんだ、と言われた。なるほど、そういう可能性もある。あまりひとりでいろいろするタイプには見えないけれど、眞由美はサークルのお世話係になっていたようなもので、夏の合宿のペンション予約や飲み会などがあると出欠席を取って店との調整役をしてくれたりしていた。目立ちはしないけど、わたしよりよっぽど出来る子だ。

「でも分かるな、マリッジブルー。僕も逃げようと思った」

「藤村さんが? 男の人もなるものなんです?」

「僕、お見合いだったんだよ」

 ええっ、と大きな声で驚いたら彼が微笑んだ。しかも婿養子、と言われて、更に驚く。

「あれ、でも前におじいさんが洋菓子店やっていて、藤村さんは三代目って……」

「うん、祖父と祖父のお兄さんが。それぞれやっていたんたけど、祖父のお兄さんの方が才能はあったみたいで、事業を拡大していってね。でも何故かあちらは女系っていうのか、娘ばっかりが生まれてて。で、あんまり余所から入ってきた奴に大きい顔されたくないからって、それなりに血縁関係のある孫同士で結婚させられたと」

 はとことかになるのかな、違うな、なんかもうごちゃごちゃでよく分からないんだけど、と藤村さんが言った。望まない結婚だったのか。それで愛人を作り続けているとか言うのなら、なんとなく分かる。奥さんのことを愛することなんてできるものだろうか。もしかして引き裂かれた恋人なんてものがいたりして。親、ではなくて祖父同士が決めた結婚をさせられて、人知れず離れ離れになった恋人達ってロマンチック……なんて妄想してるだけなら楽しいけれど、本人達はそれどころじゃないだろう。わたしもどっかに親が決めちゃったような結婚相手がいたりしないものなのか。ほぼ絶対にありえないけれど。

「……なんか美佳ちゃん、壮大な想像をしていない?」

「え、あ? そんなことないですよ」

「そう? 鼻がぴくぴくしてる」

 うさぎみたい、と笑ってから、そういえばうちの娘の名前はうさぎなんだよね、と言ったので、一瞬そのまま聞き流しそうになった。

「――うさぎ? うさぎって、耳の長い動物の?」

「うん。長女がありす。次女がうさぎ。両方ひらがなでね」

「……藤村さんがつけたんです?」

「まさか。うちの奥さんがつけたんだよ、ルイスキャロルが好きで」

「不思議の国のアリス」

「正解。鏡の国、もあるけどね。でもまあ、チェシャとか帽子屋とかって名前より断然マシだけどね」

 中学一年生と三年生の娘さん。彼女達はお父さんがお母さん以外の女の人とお付き合いをしていると知ったら、どんな気持ちになるだろう。結婚したのにわざわざ婚姻外で恋人を作ったり、結婚が決まったらなんらかの理由があるにせよそこから逃げ出してしまったり。

 結婚って、決まったらそれこそ天使が祝福してくれて、人生最大のイベントで絶頂期で、といったイメージばかりがあったわたしの考えがおかしいのか。

「どうしたの、美佳ちゃん」

 難しい顔して、と藤村さんがからかうような顔で覗き込んでくる。

「なんだかいろいろが分からなくなってきちゃって」

 結婚って何。結婚したくて恋人と別れたくなかったわたしが、フリーになって既婚者と付き合ってるって何。結婚してるのに未婚の女と付き合う藤村さんって何。

「考えれば考えるほど分からない」

「なに、将来のこと? 市瀬和洋菓子店の跡継ぎのこととか、それとも転職のこととか?」

「……へ?」

 そういえばうちはどうなるんだろう。銀行員の兄は跡なんて絶対継がない。継ぐとしても、その前に修行しなきゃならない。じゃあ、今現在実家で働いてるわたしは? ただの販売員で、お菓子なんて作れない。修行? 今から? でもわたしは別にお菓子なんて作りたくない。でも市瀬和洋菓子店はずっといつまでもあり続けてくれるような気がするし、あり続けてくれないとわたしの職場がなくなってしまう。でもおじいちゃんもお父さんも永遠に、少なくともわたしよりずっと長生きして働き続けていられるというものじゃない。

「な、なんかさっきよりもっとぐるぐるしてきました……」

「大丈夫? ワインが合わなかったかな」

 わたし、なんで藤村さんとデートしてるんだろう。でも彼は優しく微笑んで、具合が悪かったら頭を撫でていてあげるから横になってる? なんて言ってくれる。奥さんにもこんなに優しくしてあげているものだろうか。そうでないのなら、ますます結婚ってなんのためにするのか分からなくなってくる。


 6


『自衛隊祭りがあるそうなんですけど、美佳さん一緒に行きませんか』

 電話がかかってきたのは仕事終わりで、お腹が空いている時間だった。七時まで開店している店は、後片付けと掃除などに三十分ほどかかり、八時近くになってから家族揃って晩ご飯を食べる。

「ど、どうしてわたしが、」

『湯野が、良かったら美佳さんも誘っておいでって』

 自衛隊のヘリコプターとか戦車とか、触ったり乗ったりできるそうですよ、とはしゃいだ声が返ってくる。わたしの、どもりつつも嫌そうな声はまったく耳に入らなかったらしい。

 大体、聖良に誘わせるあの男はなんだ。デリカシーがなさ過ぎて切なくなる。湯野っちのことだから、もうわたしと彼女が仲良くなったものと思ってるのだろうけれど、そして聖良に女友達ができて良かったとか思ってるんだろうけど、間違ってるぞ。そして聖良の元愛人と仲良くなってしまっているわたしは、どういう顔をして彼女に会えば良いというのか。

『来週末なんですって。このところ暖かいから、桜は散っちゃいますかね。行きましょうよ、便乗して近くの公園の広場で、屋台とかも出るって言ってました。なんか楽しくないですか?』

「……なんか楽しくないから行きたくない」

『え、どうして? あ、美佳さんもしかして……花粉症ですか?』

 違います、の言葉に被せて、私よく効く薬持ってるからあげます、と嬉しそうに言われた。

 この鈍感女、と言いたいところを堪えて、今わたし藤村さんと付き合ってるんだけど、と言ってみたらどうなるのかなという好奇心も押さえて、とりあえず仕事だからどうなるか分からない、と言ってみる。うちは木曜が定休日だ。用事があれば別に土日でも休めないことはないけれど。

 私は予定空けてますから、と聖良が言って電話は切れた。

「美佳、ご飯だよ」

 一階から母の呼ぶ声がするので、はいはーいと返事をする。いい年して母親にご飯を作ってもらっている自分。それだけじゃない、洗濯だってしてもらってる。掃除こそ自分でするものの、それだって自分の部屋だけだし、週に一度掃除機をかければいい方で、うっかりすると一ヶ月くらい掃除しなかったりすることもある。廃品回収の新聞紙やダンボールを束ねたりは手伝うけど、廃品回収当番は母にまかせっきりで、町内のことなんか何も知らない。有料ゴミ袋がいくらするのかも知らない。それより何より、わたしは料理が作れるのか。自分で自分に疑問系っていうのもなんだけど、カレーくらいは作れる。学校の調理実習で炊きこみご飯とかオムレツとかは作ったから、多分できる。でも、結婚したら毎日のことになるわけで、じゃあ毎日ご飯を作れと言われたらとっても困る。ずっと外食、もしくはお弁当、なんて言ったら旦那になる人は怒るか呆れるかわたしに期待しなくなるかのどれかだろう。

 結婚したいとばかり言って、基礎がなにもないのってどうなんだろう。

 それとも見切り発車ですべて結局なんかかんかどうにかなるものなのか。

「お腹空いた……ぬわっ」

 ベッドに寝転がっていたので、上半身を起こして携帯を放り出そうとしたら着信音が鳴った。出ると、今度は彩子で。

『ちょっと美佳ー、どうしよーう』

「なに、なんかあったの?」

 普段はメールばかりなので、電話がかかってくると緊急事態かと思って身構えてしまう。

『林さんからまたお誘いがきちゃったー』

 眞由美の婚約者か。真面目そうだし好青年なのに、結婚前の最後の女遊びのつもりとか。でもそういうことをする人には見えないのに。

「なんだって?」

『飲みに行こうって。眞由美がいないの知ってるんだよ、なのになんで暢気にあたしなんか誘ってんの、あの男!』

 そういえば眞由美が家に帰らないと聞いてから、と指を折ってみる。いち、に、さん、四、五の六の七の八の。心当たりを捜すなんて言ってもそんなのはなくて、思い出したように電話をかけてみるととりあえず呼び出し音だけは鳴るから安心して。友達っていっても薄情な、でもきっとそれは眞由美にとっても同じことで、わたしを本気で友達だと思っていたら電話に一度くらいは出てくれてもいいような。

「……眞由美、いなくなってから一週間以上経ってない? やばくない?」

『それがさー、家の方には連絡あったんだって』

「なにそれ、どっから聞い……林さんか」

『うん。絵ハガキが一枚だけだったみたいだけど。心配かけてごめんなさいとかって書かれてたって。で、林さんは自分のところにはなんの連絡もないって言っててさ。だからって彼女がマリッジブルー理由でふらっといなくなってるときに、他の女に手ぇ出してられるもんなのかなー。ちょっと幻滅。ってより、かなり幻滅』

 そりゃ一回は寝ちゃったけど、だからって二度目も当然みたいな顔されると萎える、だとか、結婚するならああいうタイプって思ったけどあたしもまだ男見る目がなかった、だのと騒いでいる彩子に、また今度飲みながら話そうか、と話をまとめて、そろそろ本格的に空いてきたお腹を撫でる。電話の途中から聞えていた「美佳ー」「ちょっと美佳ご飯よ!」「いらないなら片付けちゃうわよ!」の母の声は苛立ちがだんだん濃くなってきていたので、皿洗いは必須だろう。やらされる。

 と、再び着信音が鳴った。

「ちょっともう、今日はなんなのよー!」

 また彩子だったら無視しよう。聖良だったら電源ごと切ってやる。そう心に決めて携帯電話を手にすると、表示されていたのは「佐々木眞由美」の文字で。

 慌てて電話に出ると考える前に、眞由美、と叫んでいた。

『……何度も電話もらってたのにごめんね』

 いつもと変わらない、大人しくゆっくりと話す声。実際に眞由美がいなくなっていた場面に直面していたわけではないので、なんだかすべてが冗談だったようにも思える。噂話に尾ひれがついただけのような。

 ごめんね、と言われるほどのこともしていない。

「わたしこそ、なんか何にも知らなくて。ごめんね、悩んでるのにも気付かなくて」

 悩んでいたと決め付けてしまったけれど、間違えてはいなかったようで眞由美が電話の向こうでため息のような笑い声を力なく上げた。

「どこにいたの、って聞いていいもの?」

『生まれて初めて、女一人旅ってのをしちゃった。そうは言っても、ビジネスホテルに泊まってただけなんだけど』

「……良かったら会って話そうか」

『そんな、美佳ちゃんに悪いし』

 いいよそんなの、と言ってから、だって友達じゃん、の言葉が上手く言えないまま口をつぐんだ。友達って、結婚って、恋愛って、なんだかもっと若い頃の方がただそこにあるものとして受け入れて、当然な顔をしていたのに。三十になるところでいちいち引っかかって考え直しているなんて。

「眞由美が都合よければ今からでもわたしは構わないから。あ、もう家に帰ってる?」

『ううん、まだ。実は駅まではきてるんだけど、いろんな人に迷惑も心配もかけたって分かってるから、気が重くて帰れないの』

「じゃあ今から駅前行くから。待ってて、本当に今すぐ行くから」

 ありがとう、と眞由美の小さな声がして、一度電話は切れた。四月とはいえまだ夜は肌寒いので、薄いモスグリーンの上着を羽織って、携帯と財布だけ持つ。

「ちょっと美佳、あんた何度もご飯って呼ばせておいて、今更いらないって何!」

 母親には当然のように怒鳴られながら、自転車の鍵をちゃりちゃり言わせて玄関を勢いよく開ける。ごめんねっ、と振り向きもせずに叫ぶと、母からバカッと怒鳴り声で返された。


 駅前のファミレスは先月閉店してしまったので、近くのファーストフードのお店に入った。低価格が売りの店は、あきらかに学生と思しき若者で賑わっている。時折混じるスーツ姿のサラリーマンが肩身の狭そうな様子で本を読んだりしていた。もう長いことこの手の店に入っていないので、むしろ新鮮に思えるけれどすぐ飽きる。

「美佳ちゃん、ごめんね」

 そう大きくない旅行カバンひとつだけを持って、眞由美は駅前のポストのところにいた。一緒に入ったファーストフードの店で、晩ご飯がまだだというのでふたりともセットのハンバーガーを注文したけれど、ポテトのあまりの量に持て余し気味になっている。美味しいけど芋ばっかそんなに食えん、といった感じで。

「心配かけたし、迷惑かけたし、本当にごめんね」

「全然迷惑なんかかけられてないし、心配はそりゃしたけど……眞由美、全部自分で抱え込んじゃうんだもん。やっぱり、結婚したくなくなったの?」

「あはは、美佳ちゃんはストレートに聞いてくれるねぇ」

 ああっごめん、と慌てて謝ると、聞いてくれた方がいいの、と眞由美はにっこりとそう言ってくれた。

 このまま結婚して、夫の転勤について行って、各地を回って。子供ができたら学校へ上がるくらいには落ち着いているかもしれないし、まだ転勤が多いならどこかで単身赴任になるかもしれない。離れて暮すことが決まっているとしたら、結婚して一緒になる意味ってなんだろう。離れることは決まっていないけれど、ずっと一緒にいられる保障も同じだけない。そもそも自分は子供を産んで育てることができるのだろうか。転勤が多いなら実家の助けも容易には借りられないだろう、と。

「そういうのを考えたらぐるぐるぐるぐるしちゃって。私は結婚して子供産んで育てられるだけの大人かなって思ったら、全然違うから、悩みはじめちゃって。笑われるかもしれないけど、私、ゴミの分別方法も知らないのよ。今まで全部お母さんがやってくれてたから。なのに、結婚したら今までお母さんがやってくれていたこと全部自分がやらなきゃならないでしょ? 自信ないよ、無理だよ」

「眞由美はサークルのみんなの面倒だってよく見てたじゃん、飲み会の幹事だって上手くこなしててさ、」

「だってあんなの間違ったって失敗したって責任ないもの。でも結婚したら違うでしょ? 子供が生まれたら全然違ってくるよ、いろんな責任がいっぱいになるでしょ、考えてたらもうどうしていいか分からなくなってきちゃって……」

 騒がしい店内で、わたし達の席だけが妙に重たい空気になっている。慰めようにも慰められないどころか、うっかり林さんと彩子が頭に浮かんでしまって、それを急いで追い払う。結婚前に相手の友達と寝てしまえる男が知らん顔で旦那になるのは、わたしだったら嫌だ。でも知らぬが仏と言うし、多少の後ろめたさがあると人はやさしくなるものでもあるし。

 もしもわたしが結婚していたら、もっと的確なアドバイスができただろうか。

「……結婚、やめたい?」

「……分かんない。そういうのすら、考えたくない」

「林さんと結婚するのが怖くなったとかじゃなくて、結婚自体が嫌で?」

「それも分かんない、結婚しても旦那が養子に入ってくれて、今までとなんにも生活が変わらないんだったら結婚なんて怖くないのかも。でも、それだったら結婚する意味ってなに?」

「好きな人と、一緒にいたいから、っていうのは?」

「でもそれだったら付き合ってるだけでもいいでしょう? 結婚するからには、お互いの成長がないといけないと思うのね。結婚することによって。でも私は、その成長を怖いと思ってるってことで、それってどうなんだろうって……」

 自分なりに考えはまとまっているらしく、ため息をつきながらも眞由美はゆっくりと話す。時折紙コップのコーヒーを口に運んだ。わたしもつられて、コーラのストローをくわえる。お酒でも飲みながら話す内容だったかもしれない。

「結婚したらなんとかなる、ってもんなんじゃなくて?」

「私もそう思うんだけど……なんかね。彼と話してても、なんか向こうは私が仕事をやめて子供育てるのを当たり前みたいに言うんだよね。悪気はないと思うんだけど。私は彼と結婚したいと思ったけど、人生を預けたいと思ったわけじゃないのよね」

「それ、林さんに言った?」

 言ったけど私が何言ってるのか理解してくれなかった、と眞由美が力なく笑った。そういえば結婚した女友達が必ず言うことが、「女ばっかり苗字が変わるから、口座だのカードだの免許だのの名義変更が面倒くさい」だし、「子供が生まれたらこっちは自分の時間もまったくなくなっちゃったのに、旦那は趣味のバスケットだのパチンコだのに平気で出かけちゃう」だし。もちろんそうでない人達も多いんだろうけど、女はどうも結婚に憧れすぎる分だけ失望も大きすぎる気がする。

「結婚したら仕事やめていいからねって言うの。私、仕事やめたいなんて一度も言ったことないのよ? 養って欲しいなんて思ったこともないのよ? なんでそんな上から目線で言われるんだろう。最終的には結婚してあげるからって言われるんじゃないかと思って、なんだかいろいろが本当に嫌になっちゃったのよねぇ」

「……わたしさ、結婚って今でもすっごくしたいって思ってるし、三十になる前にって焦ってるんだけど、実際結婚目前になったらそんなもんなのかな」

「……ねぇ、どうして美佳ちゃんは結婚したいの?」

 どうしてって。

 女に生まれたからには、ウェディングドレスに憧れるし、一度は子供も生んでみたいし、ずっと独身なのも老後が心配だし。

 考えはじめると、誰もが口にしそうな薄っぺらい理由しか出てこない。

「えっと、ほら、結婚すればさ、ただの恋愛と違って簡単には別れられないって言うか、」

「それはこっちも同じ条件なんだよ? 美佳ちゃんが旦那さんを嫌いになっちゃったらどうするの?」

「だって、ほら、世間体というか周りの目も多少気になるじゃん、いい年していつまでも独身ってのもさ、」

「他人の目のために結婚ってするもの?」

 う、違う。違うけど、でも人の目が気になるのは確かで。お店のお客さんだって、直接わたしには言わないけれど、母や祖母には「娘さんいい人いるのかしらね」だとか「そろそろ孫なんかが欲しくなるものよね」などと言ったりしているらしい。孫って欲しがるから作るものなのかと反発してみたものの、子供を産んだ友達は「子供産んだら親がこれ以上ないほど喜んで、人生で一番の親孝行を果たしたって感じがした」なんて言ったりしているし。

 好き、だけで結婚ができるなら、適齢期なんて言葉は必要ないだろう。妊娠適齢期や出産適齢期ならともかく、結婚適齢期なんて。

「じゃあ眞由美はどうするわけ、もう結婚やーめたって白紙に戻すの?」

「……もう親同士も顔合わせしてるし、婚約も済ませてるし、……私、実は林さんが生まれて初めてきちんとお付き合いした男の人なんだよねぇ」

 なんとそれは初耳でした。

 と、いうことは。

「じゃあ、キスとかエッチとかも林さんが……」

「やだ美佳ちゃん、そんなことばっかり! うん、でもそう。だから尚更、この人で正解なのかなって考えちゃって。恋愛や結婚に正解なんてないんだろうけど、自分に合うもっと別の人がどこかにいるんじゃないかなって考えちゃうと、すごく不安にならない? 私の決断はこれでいいのかなって、ちょっと違う部分に目を向けたら、すぐそこに彼よりもっと私にぴったりの人がいるかもしれない、とかって」

「……経験がないからよく分かんないんだけど、それをマリッジブルーって言うんじゃないのかな……」

 結婚に対する漠然とした不安。

 何気なく言ったわたしの言葉に、コーヒーのコップの縁をかじっていた眞由美が、ばっ、と顔を上げた。

「――私、マリッジブルー?」

「え、そうじゃないの? これから環境だっていろいろ変わるし、不安もいっぱいなのは結婚するせいだからって思ってるから、だからマリッジブルーなんでしょ?」

 ポテトの山は半分くらいで断念した。ちびちびとかじっていたハンバーガーは薄っぺらでほとんど冷めかけていて、食が進まない。学生時代は美味しいと思って食べていたのに。口が肥えたのか、ジャンクなものを身体が受けつかなくなったのか。年のせいだったら切ない。

 眞由美はずっと京都にいたらしい。電車のCMで昔あったよね、とついメロディーを口ずさむ。サウンドオブミュージック、と眞由美が微笑む。

「懐かしい。私、テニスの他に実は合唱もやってるの。歌ったのよ、それ。一昨年かな、定期演奏会があって」

「嘘、全然知らなかった、歌なんか歌うんだ!」

「……結婚したら合唱団もやめないといけないんだよね。もちろんテニスのサークルもやめることになるでしょう。なんか、好きな人と結婚するために、今までの自分を全部捨てなきゃなんないのがどうも腑に落ちなくて」

 あの人は今までも転勤ばかりだったから、区切りの付け方は上手になってるんだろうけど。眞由美はそう言って、でも私はずっとここで生まれて暮してきてるから、上手くそんなの切り替えられないのよ、と続けた。

 誰もが同じような葛藤をしながらも結婚しているんだから、案ずるより産むが易しだよ、眞由美なら上手くやれるよ大丈夫。言葉でならどれだけだって言えるけれど、わたし自身が自分の言葉を信じ切れないから上滑りしてしまう。それで躊躇して、結局何も言えなくなってしまう。

「……ごめんね、眞由美。気の利いたことも言えないし、安易に大丈夫だよとかとも言えないし、だからって軽々しくじゃあ結婚やめる? とも言えないし、わたし、眞由美の役にちっとも立てない」

 失恋したわたしに、彩子は慰めるわけでもないけどほぼ毎晩付き合ってくれた。ずっと一緒にいてくれた。それですごく救われたのに、わたしは眞由美に何もしてあげられてない。傍にいてあげればいいのか、アドバイスが必要なのか、どうすればいいのかも分からない。

 それとも湯野っちに振られて藤村さんとうっかり関係を持ってしまって、なんだかおかしな恋愛事情になっている自分のことでもぶちまけて、大変なのはみんな一緒だねあはは、とでも笑ってみればいいのか。それじゃただのバカか。

「ありがとう」

 なんの助けにもなってあげられていないのに、眞由美はそう言った。見れば目に涙が溜まっている。

「私がこんなに不安なのに、みんなおめでとうしか言ってくれなかったの。おめでとうおめでとうって、なにがおめでたいんだろうって思って聞いても、みんな面白い冗談でも聞いたみたいに笑うだけで、おめでとう以外の言葉をくれなかったの。……時々、愚痴こぼしたりしてもいい? その時は、ご飯でもお茶でも付き合ってくれる?」

「そんなの当たり前だよ、もちろんだよ、眞由美がどこにいても絶対駆けつけるよ、眞由美も家出したら今度はうちにおいで」

「京都行っても、なんの観光もしないでずっとホテルにいて、外に出てもどこにでもあるようなコーヒーショップ入るだけでなんにもしなかった。もったいないね、ずっとぐるぐる考えてただけで、本当にもったいない」

 家に帰って謝るの嫌だな、と眞由美は微笑んで、林さんにも謝らないと、と言う。あの男は彩子と……というのはさすがに言えないけれど、そういえばまた誘われたと言っていたから、メールだけでもしておこう。眞由美が帰ってきたから、林さんには誘われてももう会わないほうがいいよって。

「あっ、」

「なに、美佳ちゃん?」

 いやなんでもなくてその、と口をもごもごさせながら、林さんってエッチあんまり上手くないって本当? と聞きたい好奇心を押さえつける。彩子があんなことを言うから。だけど眞由美は林さん以外を知らないんだったら、比較するものがないからそれでいいのかもしれない。

 ごめんちょっとメールを、と携帯をジーンズのポケットから取り出すと、着信がきていた。不在中着信の表示が出ている。また彩子かな、と思いつつ折りたたみ式の携帯を開いて確認した。

「あっ……、」

 そこには湯野浩人の名前が三回分、不在という文字付きで並んでいた。


「もしもし、電話くれてたみたいだけど」

『……あ、ごめん、なんか忙しいときに電話しちゃった、かな』

 自転車を押しながら眞由美とゆっくり歩いて、彼女の家まで送って行った。眞由美のお母さんもわたしがいる手前、怒ることもできなかったのか、それとも心配していただけで怒るつもりはなかったのか、泣きそうな顔でおかえりと言っただけだった。

 わたしが探し出したと勘違いされて、深々と頭を下げられたので慌てて否定し、上がってお茶でも、というのを断って、帰り道の途中で着信のあった湯野っちに電話をかけ直した。

 それにしても今日はよく電話のかかってくる日だ。携帯料金半額とか、電話の日とか、なんかあるんだろうか。

「ちょっと人と会ってて、すぐ電話返せなかったの、ごめん」

 なんでわたしが謝っているんだろう。電話の向こうで湯野っちもそう思ったらしく、なに謝ってるの、と微かに笑う。片手で自転車を押しながら電話をするのはバランスが崩れやすくて、ちょっとしたところでタイヤを取られる。乗りながら電話しちゃおうか、それともいったん切って家に帰ってからまたかけ直すか、と考えながらも、彼の声に元気がないことに気付かないわけにはいかなかった。

「……なんかあったの?」

『なんか、って?』

「……声に元気がないみたいだから」

 眞由美とずっといたので、すでに夜の十時近いと思う。外灯がひとつ、切れかかってチカチカしているのが向こうの方に見える。駅前通りなのに、人影は少なかった。車の往来も勢いは弱まり、すみやかに帰路へ着く人達ばかりなのか、粋がる若い子達の騒がしい車は見当たらない。

『――美佳にはなんでもバレちゃうんだよな』

 さりげなく呼び捨てにされて、胸がひとつ鳴った。だけどそれと同じだけの強さで、いらつくトゲトゲの感情もお腹の底で生まれる。わたしは彼に、もう呼び捨てにされる理由と関係性はない。

「で?」

『え、』

「なんか用事があってかけたんでしょう? お金貸してとかだったら無理だからね」

『そんなこと言わないって。いや、別に用事があったとかじゃなくて、その、さ、』

 生ぬるい風邪が吹いてきて、髪をぐしゃぐしゃにしていった。片手に自転車のハンドル、片手に携帯だと髪を直す手がないので、ぼさぼさの頭のまま進むかいったん立ち止まるかで悩み、前が見えないのも困るのでバス停のベンチを見つけて足を止める。

「ごめんね、今外出てるんだ」

『あ、ごめん、じゃあかけなおそうか』

 ううん別にいいよ、と言いながら自転車の鍵をかける。ベンチに腰を下ろすと、どこからか花の匂いがしたような気がした。

「今、ベンチ座ったし」

『こんな時間に外にいるのなんて、』

「小学生じゃないんだから大丈夫だよ。自転車だし。なんかあったら速攻逃げるから。で、心配とか言うんなら、湯野くんがさっさと話してくれればいいんだよ」

 湯野くん。自分の口から自然に出た言葉が、彼との関係に区切りがついたのだと教える。いろいろありすぎて失恋の傷なんて放っておきっぱなしだった。勝手にふさがり始めていたんだと、今更ながらに思う。

『あ、その、……会って話したりとか、なんて、』

「ごめん、悪いけど今夜はもう。また聖良ちゃんの相談に乗れとか言うの? もうあの子のメアドなら勝手に交換させられたし、子供じゃないんだから悩みがあれば自分で言ってくると思うよ」

 今日だって電話がかかってきたし。彼女は湯野っちにそこまで心配してもらわないといけないような弱い女子ではない。愛人との別れ話に、関係ない人間を巻き込んでおいて、そういえばろくにお礼も言われていない。

『美佳、なんか変わったね』

「変わった、かな?」

 変わったと言われてもなにも変わっていないから戸惑う。もし変わったとすれば、わたしが彼の恋人でなくなったから、恋人だけに見せる顔や口調が出てこなくなっただけだ。

『あのさ、俺、……昨日佐野に気持ち伝えたんだ。で、俺のことそういう対象に見られないからって振られたんだけどさ。なんか、……悲しいっていうか胸が痛いっていうか、俺と別れたときの美佳もこんな気持ちだったのかなって――、』

 無意識に通話終了ボタンを押していた。携帯電話を耳から外して、そのまま片手でたたむ。

 ほんの少し。

 まだほんの少し、彼に対する気持ちはあったんだと思う。電話で名前を呼ばれて、ときめいたから。だけど今の言葉ですべてが霧散した。上から目線で傲慢な、と腹が立つ以外の何もなかった。

 わたしに別れ話を切り出したとき、そりゃあんたは初恋の相手が再び目の前に現れて舞い上がっていただけでしょうよ。近くに住むことが分かってはしゃいでいただけでしょうよ。恋人と別れなきゃ、なんていそいそと別れ話したんでしょう、あんたの失恋をわたしの失恋と一緒にするな。

 彼が悪気もなく言ったのだということは分かる。嫌味とかでそういうことを言う人じゃない。付き合っていたから分かる。だけど、嫌味じゃないからってわたしが嫌な気持ちになることを言ったのは事実で、わたしが不愉快になったことにきっと彼は気付いていない。気付いたとしても、自分の言葉に原因があったとは思い当たらないだろう。

 てのひらにちんまりと収まっていた携帯が、星に願いを、を流して震えた。小さなディスプレイに、湯野浩人の文字が表示される。

 しばらく見つめてから、結局電話を取った。

 無視できるくらいなら、きっと電源を切っていた。

『あの、今電話、切れちゃって、』

「……うん、ごめん、電波悪かったみたいで」

 電波が悪いって、こんなにも都合のいい言葉。人の付き合いも、電波が悪かったからちょっと離れたとか、しばらく会えなかったとか、言い訳ができたら楽なのに。

「……聖良ちゃんに振られたから、電話してきたの?」

『いや、そういう訳じゃ……いや、そういう訳だよな。うん。ごめん。なんか悲しくて、ひとりでいられなくて、つい美佳に電話かけた』

「……別れてから何年も経ってるとか、思い出話になってるならまだしも、自分が振った女に電話かけて、他の女に振られましたって言うのはどうなんだろう。振られたからやっぱりやり直したいとか言うの? わたし、そんなにお手軽に思われてる?」

 泣きたいわけじゃなかったのに、鼻の奥がつんとする。痛くて顔をしかめたら、視界が潤んだ。言わなきゃよかったと後悔していた。やり直したいなんて欠片も思っていなかったら、とんだ思い違いな発言をしたことになる。もしもほんの少しでもやり直したいと思ってくれていたとしてこの電話をかけていたのなら、わたしはその可能性を自分で踏み潰したことになる。

 お手軽とかじゃなくて。

 離れてみてはじめて大切さに目覚めてくれた、とかなら良かったのに。

 だけど時間が戻らないように、わたしの気持ちも彼を大好きで仕方がなかったときには戻らない。一度他の女に心が揺れたなら、これから先だってきっとそういうことはある。一度枯れた花はもう一度咲きなおしたりしない。次の春を待って咲いたとしても、それはもう元の花ではなく、次の花だから。

「悪いけど――、」

 ずずっと鼻をすすったのは向こうにも聞こえていただろう。寒いと思ってくれたならいい。泣いていると知られたくない。

『……俺、無神経でごめんな』

「もう電話とかしないでおこうよ」

『友達にも、戻れない?』

 お客を乗せたタクシーが目の前を通り過ぎる。駅前の商店街は外灯の明かりを残しているだけで静まり返り、日中の活気を微塵も感じさせない。一本、道を入れば飲み屋などがいくらかあるはずだけど、そこの賑わいは終バスも遠い昔に行ってしまったバス停のベンチまでは届かない。

 今ここに湯野っちが現れたらどうするだろう。友達にも戻れない? なんて女々しいことを言っていないで、聖良に振られて目が覚めた、やっぱり美佳が好きだ、なんて言ってくれたら。そうしたら、ぐっ、ときてわたしもやっぱり彼が好き、なんて燃え上がったかもしれない。妄想は淋しくて、けして本当にはならない。

「……わたし、湯野くんを友達だと思ったことなんてないから」

 彼が息を飲んだのが、携帯越しにはっきりと伝わった。痛い言葉だったかもしれない、でも湯野っちに振られたわたしの心はもっと痛かった。

「好きだったから。友達なんて存在として見たことなかったから、別れたのに違う形で傍にいるとか、辛いよ」

『過去形、なんだ』

 だった、に。反応するのはそこかよ、と苦笑がもれる。

「時間が経って、お互いまた別の形で出会いなおしたら分かんないけどね」

『サークル、やめたりしないよな?』

「まあ、当分休むと思うけど」

『だったら俺が休むから、美佳……さんは行ってよ』

 湯野っちは電話をかけるタイミングを間違えていたし、そもそも聖良に振られたことを話すべきではなかった。真面目すぎるのも問題だ。

 それ以上話すことはなくて、もそもそとさよならを言い合ってどちらからともなく電話を切った。今すぐかけなおして、やっぱりこれから会いたいと言ったらなんだかすべてが上手く元に戻るような気がしなかったわけでもない。もやもやとした、どうしたいのか分からない自分の気持ちをなだめて、この選択で間違ってないと言い聞かせる。

 しばらく握り締めて見つめていた携帯電話を、ジーンズのポケットにしまった。自転車の鍵を差し込んで、スタンドをはずす。と、聖良が自衛隊祭りに行きましょうと言っていたのが急に思い出された。湯野っちは昨日振られたと言い、聖良がわたしに電話してきたのは今日で。

「ちょっと、あの子ってば振った男なのに!」

 振った男の職場に、イベントとはいえ平気で遊びに行くとは。行ったら湯野っちに案内させるだろう。だって友達でしょ、というような顔で。

 強い。鈍感とも言えるかもしれないけど、聖良は強い。

 できればわたしは行きたくないけど、行かないと言えばきっと家まで彼女は押しかけてくるだろう。自分がやりたいように、自分の気持ちに素直に生きている。うらやましいくらいに。自衛隊祭りで湯野っちは聖良とわたしを目の前にしたら、どんな態度を取るんだろう。ついさっきまで泣きそうな気持ちで、実際に多少泣いてしまっていたというのに、今度は楽しくなってきてしまっていた。聖良に会うのは、それはそれで湯野っちと別れた原因であるとか藤村さんのこととかがあるので、純粋に喜んで、というわけにもいかないのだけれど。

 さっきまでの涙は乾いてしまっている。空には星も輝いている。進まないと。とりあえず、わたしも強くならないと。

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