美佳ちゃんの恋愛事情・2
3
くっきりの二重はやわらかくまあるいアーモンド形で、薄い唇はやわらかなピンク色をしているせいか冷たい印象がやわらいでいる。意志の強そうな顔は、可愛らしいというより美人の類に入る。鼻筋の通ったきれいな顔は、髪を短くしたら美少年のようにも見えるだろうと思う。結局、きれいな人は男も女もあまり大差なくなってしまうのかもしれない。化粧はほぼしていない。眉毛を整えているだけだという。同じ年だった頃、わたしの肌はここまでぷりぷりとしていただろうか、自信はない。
「お家で飲むのとかって、楽しいですよね」
高すぎず低すぎず、はっきりとした発音の声は耳ざわりがいい。聖良という名前までもが可愛らしい。
湯野っちの初恋の相手は、想像以上の美少女だった。あれからメールがきて、彼の家で飲むことになっていそいそと出かけてしまったわたしは、まんまとバカを見た。一応彩子には相談していたものの、そんなのに行くなと怒られたのを無視して彼の用件を聞いてあげようと思ってしまったわたしが本当にバカだった。まさかこんな美人が相手だったとは。
二部屋に台所、ユニットバスという湯野っちのアパートで、わたし達は三人で会った。生活スペースの部屋はベッドが壁際にあって、テレビと本棚とたんすがある。このベッドで寝たことが、わたしにはない。彼とエッチしたときは、二回ともホテルだった。それも、ラブホテルじゃなくて普通のホテル。女の子を泊まらせるのにラブホテルなんて、というのが彼の考えだったようで、大事にしてもらっていたのかもしれないけどそんなことよりもっと抱き締めて欲しかったかも、と思わないでもない。
その湯野っちのベッドに腰掛けて、美少女はブランデーを飲んでいてわたしを驚かせた。アルコールには強いらしい。時折チーズをつまんだりしているだけで、湯野っちが用意したポテトチップスだのチョコレートだのさきいかだのにはちっとも口をつけず、勧める彼にきれいな横顔を向けたまま、いらない、なんて言ったりしていた。
美人は冷たい顔をしていても絵になる。それでいて、気紛れに微笑んだりしてもこれまた絵になるんだから嫌になる。だけどこんなにきれいな人がライバルだったと知れたら、争う気持ちも抗議したい気持ちもしゅるしゅるとしぼんでしまう。負けた、という気持ちばかりが膨らんで、後ろを向かせる。そうすると、わたしは本当に湯野っちのことが好きだったのかな、なんて考えてもしまう。だって、命をかけてでも大好きで仕方なくて傍にいたかったら、相手がハリウッド女優でもミスユニバースでも立ち向かっていくはずなのに。多分。でもでもでも、この女が出てこなければ湯野っちとわたしは別れていなかったはずなのに。そうなると恨めしい。ちらっと殺意なんかも覚えたりする。胸の苦しさにプラスしてトゲトゲの痛い塊を飲み込んだようでもあって、どうして彼の家に彼の初恋の人なんか見にきたんだろうと自分のおろかさを呪う。
「私、友達いないんですよ」
二十歳を過ぎてのこの美少女っぷりは腹が立つのを通り越して感心してしまうほどだ。そんな彼女が長いまつげの目を伏せると、途端に憂いを含んだ表情が艶やかになる。白い肌お酒を飲んでもすこしも赤味を帯びない。ますます白く透き通るようになるだけで。
友達は確かにいなさそうだ。この美少女と友達をやるのも大変だろう。異性の目も同性の目も、すべてさらってしまって後にはなにも残らない。隣にいるのに透明人間扱いされるのは必須で、よほどのマゾでも彼女と共に行動することは嫌がると思う。
「だから、湯野が成人式で声をかけてくれたとき、嬉しかったんです。そしたら、今度は自分の大事な友達も紹介してくれるって」
不意に顔をあげてわたしを見た。ゆるゆると、花が開くように微笑みを広げていく。その表情の変化は声にならない感動すら呼び起こす。どうしてわたしがこいつに見惚れないといけないのか、うっかりすると彼女の笑顔に骨抜きにされかける。
大事な友達、っていうのが引っかかるんですけど。
そしていくら同級生だからって彼を湯野と呼び捨てにするのも引っかかる。子供の頃からそう呼んでいたなら、今更呼び方を変えるのも違和感があるんだろうけど、男子を呼び捨てって。わたしがおばさんなのか、どうも小学校で「男の子は君付け、女の子はさん付けで呼びましょう」と刷り込まれているので、異性を呼び捨てることがどうもできない。
湯野っちがいそいそと台所から一升瓶を持ってきて、なかなかに有名だと言う新潟の日本酒、というのを彼女に差し出した。もらいものなんだけど、とか言ってるけれど、きっと自分で捜してきて買ったのだろう。
「話相手が欲しいって、湯野っちじゃいけなかったの?」
ちょっとトゲのある言い方をしても、酒の席だから許されるだろうと言ってみたけど、大してトゲがある感じでもなかった。気が小さいのよね、と自嘲してしまう。あんまりひどい言葉を吐いて、湯野っちに嫌われたくないとか思っている自分がいる。今更嫌われようが好かれようが、とは思うものの、でもやっぱりどうせなら別れた後でも好かれていた方が嬉しいし、もしかしたら複縁とか、そういうのも。あったりするかもしれないし。
わたしの言葉に、だけど美少女は不思議そうな顔をした。首を傾げつつ、グラスについだ日本酒を手に取る。
「あ、あれ、えっと、俺の勘違い、って訳じゃなくて、先走りっていうか、なんか、佐野が女友達とかに相談ごとがあるような感じがして、それで」
佐野。そういえば美少女の名前は佐野聖良だった。もしも万が一、そんなことはあって欲しくないけど、彼女と湯野っちが付き合うことになったりしたら、お互いをどう呼ぶつもりだろう。エッチするとき、湯野、佐野、なんて呼んでたらムードもあったもんじゃない。なんて考えたらふたりのそういうシーンをうっかり想像してしまって、予想以上に自分で落ち込む。
「……男友達じゃ言えない悩みとか、あるじゃん」
「……湯野ってば昔からそういうやさしいとこあるよね」
見つめ合って話すな。白桃のチューハイを缶から直接飲みながら、けっ、とやさぐれる。
「それで湯野は美佳さんを紹介してくれたんだ」
「あのさ、友達ぐらい自分で作れるもんなんじゃないの?」
「あ、私、友達作るの苦手で。男友達ならそれなりにいるんですけど、女の人となるとどうも」
確かにそうだろう。美人だし頭も良さそうだし、だけどそういう人間は往々にしてちょっとだけ空気が読めないところがある。それが同性を苛立たせる。いい奴でもいやな奴でも、結局美人は敵にされやすい。
「ちょっと湯野さ、コンビニでチーズ買ってきてよ。もうなくなりそうだから」
「あ、分かった」
「え、いいよ、なんならわたしが行くけど」
「いいんですよ美佳さん、湯野が行ってくれますから。ね、湯野?」
ひとっ走り買ってくるよ、と湯野っちが満面の笑みを見せる。湯野っち、ただのパシリにされているというのに、その嬉しそうな顔ときたら。
失恋したばかりの、しかもその失恋原因がそこにいるというのに、わたしはちょっとだけほうけてしまった。人を好きだという気持ちは、あんなにも笑顔を輝かせるものなのか。わたしの顔も、湯野っちと付き合ってた頃はきっと今より断然輝いていたはずなんだけどな。
「じゃ、ちょっと飲んでて」
財布と上着をつかんで、あっという間に彼が飛び出した。忠犬だね、と聖良が笑い、あんたが言うか、とわたしが聞えないように極小でつぶやく。
「そんなにチーズが食べたかったの?」
呆れ声で聞くわたしに、いいえ、と彼女は可憐に首を振った。
「美佳さんとお話したかっただけです。湯野ってたまに鋭いところがあるからびっくり。恋愛相談、してもいいですか? あんまり聞かれたくない話で」
「してもいいですかって、もうする気なんでしょ? わたし、失恋したばっかだから役に立たないよ」
「ええっ、美佳さんが失恋って、その男見る目なさ過ぎじゃないですか!」
お世辞を言ってくれてるんだろうけど、嫌味にしかなってませんが。彼女は大きく目を見開いて、驚いた顔になっている。彼女は花束のようないい匂いがする。首を振ったりすると、時折香る。その男って、今までここにいたあなたの同級生くんだけどね。言ってみたらどういう顔をするだろうか。
「美佳さん美人なのに」
「聖良ちゃんみたいな美人に言われると、からかわれてる気分になるからやめてよ」
「ええっ、私全然美人じゃないです! ごっついし、中身オッサンだし、人の気持ちとか疎いし」
中身オッサン、のサンプルで彩子が思い浮かんで、いやいやこの子がオッサンだというのなら彩子は世界を極めたオッサンになりそうだとか変なことを思って笑ってしまった。
「どうしたんですか?」
「ううん、ごめん、なんでもない。たださ、あなたは美人の部類に入るし、自覚なかったとしてもそういうこというのって嫌味になると思うから、あんまり言わない方がいいと思うよ」
うっかり自分の方こそ嫌味になってしまった。けれど彼女はまたしてもにっこりして、「謙遜ではなくて自分の意識的には美佳さんの方が美人です、一重のすっとした切れ長の目とか、羨ましいです」と言い直した。天然なのか天然を装っているのか。ある種外見コンプレックスの人に同じような態度で接したら、嫌われるだろうな、と思う。
「私、実は今不倫してるんです」
「不倫。……わたしも過去にあるよ、付き合いはじめたときに妻子持ちだって知らなかったんだけどさ。不倫とかってあんまり深く考えちゃうと泥沼にはまったりするけど、え、もしかして奥さんから奪いたいとか、考えてる?」
「いえ。不倫相手がお店を持たせてくれるっていうことで、こっちに戻ってきたんです。でも、それって私の実力じゃないし、そういう甘えは人生においていい作用をしないような気がして、悩んだんですけど。別れたほうがいいかなって考えはじめて」
お店を持たせてくれる、でついイメージとしては夜のお店で煌びやかでお金が舞っていて、みたいなのを思い浮かべてしまい、思わず口が開きっぱなしになったのを聖良が見ていて、ふふっと微笑んだ。ママとか似合いそうな娘だもんな、着物とかちょっと着崩してさ、なんていうのが容易く想像できてしまう。
「美佳さん、なんかきっと違う想像してますよ。お店って、パン屋さんです。一軒任せてくれるって話になっていて。口約束かと思っていたら、相手は本気だったみたいなんです。多分、奥さんと別れて私と結婚、とかできないから、その代わりなんでしょうね」
なんだ、パン屋か。と納得しかけて驚く。いやいや、二十歳そこそこの娘がパン屋一軒任されるってすごいことでしょう。わたしが実家の和菓子屋の経営を任されるのと同じでしょう。でも随分と淡々と話しているのが気になる。まるで他人事のようで。
「……聖良ちゃんはさ、その相手に対する愛情ってないわけ?」
「いえ、彼のことは、好きですけど」
「あんまり好きって感じに聞えないような」
「……なんだか良く分からなくなってきちゃったんですよね。私、高校卒業と同時に上京してパンの修行はじめたんです。パン屋さんになりたくて。それで、そこの社長さんに可愛がってもらって、十八でその人と付き合いはじめちゃった。ずっとその人に与えられた価値観で生きてきちゃったから、自分で考える力が弱くなっている気がしたんです。恋愛が楽しくなってくればくるほど、パンを焼く仕事とかが不純になってきて。彼に褒められたいから頑張る、っておかしいじゃないですか。食べてくれる人が喜んでくれるから、美味しいって言ってくれるから、っていうのが正しいはずなのに」
手酌でぐいぐいと日本酒を飲みながら、顔色ひとつ変えずに水でも流しているかのように話す。もしかして顔に出ないだけで酔っているとか。
「だけどだからってじゃあ別れようってすぐ考えられるほど、相手のことそんなに好きじゃなかったの?」
「よく分かりません。だけど恋ってものに憧れているときに、大人のスマートなやり方で素敵な恋愛に引きずり込まれたら、舞い上がってしまいません?」
「聖良ちゃんの話し方だと、どうも相手のことそんなに好きなようには聞こえないんだよね。冷静すぎるような」
「……私、感情を外に出すの、苦手だから。っていうよりも、元々あんまり自分の中で感情の起伏ってないんです」
感情のブレがない人間って生きやすそう、と思うけどどうなんだろう。自分の芯が揺れなさそうで。缶チューハイをちびちびと傾けながら、ちらりと視線を送る。日本酒を普通のコップですいすいの飲んでいく彼女は、わたしより年下なのに年上に見える。恋だなんだでいちいち騒いでいるわたしがバカみたいだ。
「でも、感情の起伏は少なくても、やっぱり今までお付き合いしてた人と別れるとなれば心苦しいんですよ。しかも向こうの家族にバレた訳でもなければ、彼の心変わりでもなくて、私だってなんか小難しいこと考えてないでただ純粋に好きって気持ちだけでこのまま突き進んでいくんだったら誰も傷付かないで幸せじゃないですか」
「相手の家族は傷付くと思うけど」
「知られてなければないのと同じです、私は彼の家庭を壊したいわけじゃない」
「じゃあ聖良ちゃんの恋も誰も知らないんだから、最初からしてないのと一緒何じゃん」
とん、と空のコップがテーブルに置かれた。はっとして彼女を見る。少しうつむいて、淋しそうな表情のまま微かに笑ったように見えた。
「あ、ごめ……ん、」
「いいんです、そうなんです。別に彼と手をつないで昼間の太陽の下を誰に見られても平気な立場でにこやかに歩きたいとか思ってはいないんです。……でもそうですよね。誰にも言えない恋なら、存在しないのと一緒ですよね」
「ああっと、えっと、」
「美佳さん、お願いがあります。私、彼と別れます。でもさすがに勇気がなくて。すみません、ついてきてもらえませんか?」
やっぱり酔っ払いだこの娘は、大体どうしてそれをわたしに頼むのか、っていうより他人の別れ話に首を突っ込むのでさえややこしいことになりがちなのに、どうして別れ話に立ち会えとかそういう。ことを。言うって、なに。
「ちょっと、そういうのこそ友達に頼むもんじゃ……」
「私、友達いないって言ったじゃないですか」
「だからってどうしてわたしが選ばれる……」
「湯野が美佳さんと会わせてくれるって言ったとき、私の一番欲しかったものは友達なんだって、やっと分かった気がしたんです」
一番欲しかったものは友達、じゃなくて、別れ話についてきてくれる人なだけだろうが。
「お願いします、美佳さん」
ベッドから降りて、聖良が向かいにぺたりと座りこむ。白い手がテーブルの向こうからするすると伸びてきて、わたしの手をチューハイの缶ごとがっしり握る。なるほどパン職人を目指すだけあって意外と力強い、とかって感心している場合ではなく。
「私を助けると思って」
なぜにわたしの失恋原因である女を助けないといけないのだ、一瞬この女も彼氏と別れちゃえばざまあみろじゃん、なんて思ったけれど、そうしたらフリーになるということで、湯野っちが付け入る隙ができてしまうということで。
「そんな、別れなくてもいいじゃん、店持たせてもらえるんならもらっておこうよ、この不況時だよ? いい話じゃないの」
「これから先ずっと彼と付き合い続けられるって決まってるわけじゃないんです、もし別れたときに元彼から持たせてもらった店なんかで働いていられますか? 二十代三十代はこのまま付き合えるとして、四十代で捨てられたらどうするんですか、結婚もしてないでしょうし、結婚してないってことは子供もいないってことですよ? 嫌だ、そんな年で路頭に迷うの!」
「そんな先まで見通して勝手に不安になったりしてないでさ、なんとかなるさ明日は明日の風が吹くって言うじゃない」
「明日の風が暴風雨で台風で津波とか引き起こす恐ろしいものだったらどうするんですか!」
約束ですからね、と聖良はきっぱり言い放ち、にっこりしてからわたしの携帯を取り上げ、勝手に赤外線通信で番号交換をしてしまった。
「ちょっ、聖良ちゃんってば見かけによらず強引……」
「大丈夫、美佳さんがうっかり私の番号やアドレスを消しちゃっても、私は美佳さんのをちゃんと登録しときましたから」
可愛い顔して、湯野っちだけじゃなくてわたしの携帯番号まで取っていきやがった。怒ったほうがいいのか笑ったほうがいいのか判断できずに呆然としているところに、湯野っちがコンビニのビニール袋をぱんぱんに膨らませて飛び込んできた。ただいま、なんて褒められて嬉しくて仕方ない犬みたいなはしゃぎようで、チーズにプリンにケーキにチョコレートにスナック菓子にといろいろ出してくる。
「あ、仲良くできてた?」
できるわけがないだろう、バカ。あんたは大好きな彼女を前にしてご機嫌だろうけど、わたしにしてみたらあんたと別れることになった大元なんだぞ。というのを怒鳴れたら楽なんだろうか。自分の惨めさが露呈されるだけだろうか。
「うん、美佳さんって本当にいい人だね。湯野、ありがとう。私、美佳さんみたいな友達欲しかった」
「良かった、俺も佐野と美佳さんなら合うと思ってたんだ」
思うな、バカ。それでもはしゃいでしまっている湯野っちはこっちの表情も伺うことなくにこやかに聖良の前で購入品を広げ始める。
なんだかな。
急にいろいろが悲しくなってきて、わたしはふらりと立ち上がった。さすがにふたりともわたしを見上げて、どうしたの、などと聞く。
「トイレ?」
「あ、トイレならそっちで、」
「違う、帰る」
なんで、だの、せっかくいろいろ買ってきたのに、だのとふたりが引き止める中、わたしは玄関に向かった。大人気ないかも、と思いつつ、帰りたくなってしまったのは仕方がない。
「……明日早いの忘れてたの」
「あ、美佳さんの実家って和菓子屋さんでね、美佳さんそこで働いてて、」
説明するな、湯野っち。彼女にやさしくしたいのは分かるけど、わたしの気持ちにも気付け。
「じゃあ帰るから」
送っていく、と言いかけた湯野っちを制して、ひとりで帰れるからと告げる。彩子が飲んでるからそれも拾って帰る約束してるの、と咄嗟の嘘もつく。
「それじゃ」
「おやすみなさい」
玄関先で並んで手を振るふたりはまるでカップルのようで腹立たしくて、わたしは振り向かずにおやすみだけ投げ捨てるように言うと湯野っちの部屋を出た。外に出るとひんやりした空気が湯野っちの部屋の匂いをわたしからさらう。なんだか涙腺がゆるんできてしまい、だけど泣くのが嫌だから鼻の上にしわを寄せながら変な顔をしつつぐっとこらえた。
家に帰ってお風呂上りに化粧水も乳液も美容液も放棄してベッドにもぐりこんだら、聖良からメールがきてげんなりさせられた。男との別れ話に本気でつき合わせるらしい。返信もしないで充電器に突っ込むとわたしは布団をかぶった。濡れた頭がきしきしいって、明日の朝最悪だろうな、とため息をついた。
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「だから、どうしてわたしが……」
「証人です、ちゃんと別れるところを見届けてください」
「そんなの、湯野っちでも連れて行けばいいじゃないの」
「湯野なんて連れて行ったら、新しい彼氏かって勘違いされるじゃないですか。そんなの嫌なんです、私は彼氏ができたから別れたいんじゃなくて、恋愛に対して真剣に取り組めていない自分が嫌で別れることを決意したんですから」
聖良の目は固い意志で純粋な炎を宿している。少女マンガじゃないんだから、ひとりで正義に燃えて愛する人より正しい人生を選んだ女、悲しみの決断がいつか花を咲かせる日まで、みたいな自分の世界にどっぷり浸らないで欲しい。浸るなら、わたしを巻き込まないで欲しい。
「じゃあもう湯野っちと付き合っちゃって、結婚することになりましたからって連れて行けばいいじゃん」
あ、自分で言って心にぐっさり突き刺さってしまった。
「人を騙すために結婚なんて軽々しく口に出すのは間違ってます! それに、湯野はいい奴だけど私の好みではないです」
さらっと残酷なことを言うものよね、と変な感心をしつつも、彼女について行ってしまうのは単に頼まれごとを途中で放り出す勇気がないだけだ。
市内の一番高いホテル、ウェディングでも人気だけど他の式場で挙式するよりも百万は軽くプラスされると噂のある場所の、十二階のバーはもちろん全面ガラス張りで夜景がきらめいている。お友達に一番なりたくない女のお友達にならされかけている上に、不倫相手との別れ話に付き合えときたもんだ。別れ話なんて勝手に当人同士でやってくれればいいものを、大体そこに居合わせた第三者はどういう顔をしていろというのだ。
タイミングよく眞由美から携帯に電話がきたけれど、聖良が唇の動きだけで「早く用事すませてください」なんてパクパクしつつ睨むから、眞由美には悪いけれどちょっと取りこみ中で、と話も聞かないまま電話を切ることになってしまった。
「わたしが友達なくしたらどうしてくれんのよ」
「後で私からも謝りますから! 今日を逃したら、もう私、別れるって言えなくなっちゃいそうなんですもん!」
そんなの知るか。眞由美はずっと友達だけど、あんたなんかにわか友達ですらないんだから、優先度は雲泥の差、と言ってやりたいけどあまりに真剣な顔を強張らせているので、結局わたしが折れることになる。
「いつもここで待ち合わせるんです。――あ、藤村さん、」
いつもここで待ち合わせってことはまさかここからラブホテルに移動するわけでもなかったんだろうし、ツインの部屋でも取っていたのか。女とエッチするのに一番いいホテルって、と好奇心が首をもたげてしまわないでもない。ウェイターがドアを開けてくれたとほぼ同時に聖良は相手を見つけたから、多分待ち合わせはいつも同じような席でと決まっていたのだろう。
「美佳さん、こっちです」
「え、あ、ちょっと、わたしは傍まで行かなくていいってば、ちょっと!」
聖良は春色のワンピースに白いカーディガンなんか着ているけれど、わたしは黒いタートルネックに黒いロングスカート。華も光もあったもんじゃないし、髪の毛だって一本にくくってあるだけ、化粧は日中仕事をしてきてそのままだから、ほとんどはげてる。こんな高そうなバーに来ていい格好ではないので、できれば回れ右をして、間違えましたと愛想笑いして帰りたいくらいなのに。
「勇気が出ないからホテルまででいいんです、とかって言ってたくせに」
確かにわたしの前で、彼女は今の恋愛は不倫だから相手と別れたいと言った。自分の人生をお金のある不倫相手にゆだねてはいけないと気づいたから、だけど嫌いで別れるわけではないからさよならを言うのは辛い、できればホテルの前まででいいからついてきてくれ、と。湯野っちと別れる原因になった彼女が、別れたくないけど今の恋人と別れるというので、そりゃ意地悪な気持ちになったのは否めない。好きな人と別れるのって辛いぞ、とほくそ笑んだのは否定しない。すぐに彼女がフリーになる危険性にも気付いたけど。なんか゜頭もぐちゃぐちゃしてきたので、これ以上わたしを巻き込まないで欲しい。
さりげなく逃げようにもがっちりと腕をつかまれていて、聖良に引きずられていく。
「……藤村さん、」
U字型のカウンターの、向こう側まで引っ張られて行き、彼女は不意に足を止めた。いきなりだったので聖良にぶつかりそうになる。
「こんばんは。あれ、お友達?」
座っていた男性は、想像よりずっと若く見えた。やさしそうなタレ目をしていて、口が大きい。背はあまり高くないかもしれない。四十代、かなりの童顔だとして五十代。と推測してみるものの、わたしは人を見る目がないので分からない。ただ、やわらかなテノールの声をしていた。
「藤村さん、ごめんなさい。別れてください」
「えええええっ、どうしていきなり言うの、ちょっとバカ!」
椅子にも座らずに聖良は頭を下げ、わたしは心の声がつい口から出てしまう。藤村さんと呼ばれた男性は、驚いた顔をしたけれどすぐに笑顔に戻った。
「どうしたの、また僕は君を不機嫌にさせるようなことをしちゃったかな」
「……また、なんて、藤村さんは別に私を不機嫌にさせることなんて、」
「不機嫌な顔も可愛いけど、別れるなんて言われると焦るな。とりあえず、座るかい?」
お友達も、と言われて頷きかけるわたしの前で、聖良が首を横に振る。
「もう、藤村さんの傍にはいられないの、決めたの、私は未来を一緒に歩いていける人を捜します」
「……そう言われると辛いな。聖良、誰かに何か言われたの? ちょっと、席を外そうか」
また首をぶんぶんと横に振って、ここでいいです、と聖良が言う。微かに、涙が声に混じる。顔をちらりと覗くと、鼻の頭を赤くして目を潤ませているのが分かった。見ればこぶしがぎゅっと硬く握られている。酒を飲んで顔色ひとつ変えない女も、さすがに好きな人の前では違うのか。それなりに感情だって漏れてるじゃん、と思う。なかなか席につかない女ふたりを脇に立たせている男に、ちらりちらりと視線が周囲から送られてくる。それでも品のいいお客さんが多いのか、それとも他人の諍いにはそう興味がないのか、露骨な野次馬はいなかった。だけどわたしはものすごく居心地が悪い。わたしは第三者です、関係ありません、というプラカードでも持っていたいくらいだ。
「ここで、いいです。ふたりきりになって、甘いこと言われると決心、揺らいじゃうから。――別れてください」
「僕が、君を幸せにできないからかな」
「藤村さんには充分幸せにしてもらいました、本当に。本当にです。本当、なんです……」
聖良の声がどっぷりと涙に浸る。両手で顔を覆ってしまって、言葉が続かなくなった。さてどうしよう、これを連れて帰るのか、男の人に頭を下げたらそれで済むだろうか、と考える。なるほど、確かにわたしを連れてきたのは正解だったかも、と考え直していた。わたしが一緒なら、なんだかんだいって部屋に連れ込まれてエッチしちゃって別れ話は保留です、とかできないし。できればわたし以外の誰かを連れてきて欲しかったけど。
「あの、」
「さようなら、本当に今までありがとうございました」
わたしの声に被せて聖良は言うと、そのまま背を向けた。大きく歩き出して、そのうち早足になる。
「また連絡するから」藤村さんという男性がその背中に声をかけた。
「連絡する、一度ゆっくりきちんと話そう」
その声に彼女は頷いたのか首を振ったのか。分からないままドアを出てしまった。後に、振られたばかりの男と未だ突っ立ったままのわたしが取り残される。
「……良かったら座りませんか」
「え、あ、ああっ! 聖良ちゃん行っちゃいましたよ、わたしも帰らなきゃ、なんでひとりであの子、あれ、ちょっと!」
「この後お急ぎでなかったら、一杯だけ僕に付き合ってくれません?」
「でもっ、わたしこんな格好だし、」
椅子から立つと彼は隣の椅子の背を引いた。座らないわけにも行かず、渋々腰を下ろす。想像と違って彼はそう背が高くなかった。わたしより少し高いくらいだから、百七十をちょっと超えるくらいか。
「なにを飲みましょうか」
「あのええっと、そんなにお酒が得意ではないので……」
「じゃあベリーニなんてどうだろう。ここは生の桃をその場でピューレにしてくれるから、とっても美味しい」
なんだか分からないけど、という言葉を飲み込んで、じゃあそれを、と告げる。藤村さんとバーテンダーを呼ぶと、ベリーニをピューレ多めで、と注文してくれた。
「お腹が空いているなら、なにか取りますか」
「あ、いや、」
聖良からメールがきたのは昨日のことで、湯野っちの家で会ってから一週間近く経っていた。「明日決行です、付き合ってください」と送られてきて、無視すればいいもののついついのこのこと出てきてしまったのは自分が悪いけれど、まさかその場に取り残されるとは思ってもいなかった。
「ここのマッシュオムライスはなかなかいいですよ」
「マッシュ?」
「マッシュポテトに半熟の卵がかかっていて、デミグラスソースがたっぷり。マッシュポテトも角切りのベーコンがごろごろしていて、こしょうが効いてて美味しいんです」
「あ、説明がすでに美味しそう……」
ふふっと笑うと彼はいつ取り出していたのか、名刺をわたしの手の中にすべり込ませた。目を落とせば、メルヘン製菓代表取締役藤村奈津也と書かれている。
「メルヘン製菓……聞いたことがある、んですけど」
「虹色鈴カステラって聞いたことある?」
「知ってます、七色の鈴カステラでしょ? 紫とか赤とかオレンジとかあって。わたしあれ好きです、百円で買えるし、美味しくて可愛いから好き」
「チョコかりんとう白黒ピンクは?」
「知ってます知ってます、細いかりんとうにチョコがかかってるやつ。あれって意外にあっさりしてて美味しいですよね。開けるとうっかり一袋食べちゃう」
「うさぎましゅまろん」
「あ、あれも可愛い。中にブルーベリーとか苺のジャムが入ってて、ちゃんと耳と目がついてるの」
「他もあるけど、あれ全部うちの会社の製品」
うちの会社の製品。
と、いうことは。
「えええっ、藤村さんって社長さんっ」
「名刺に代表取締役って書いてあるじゃない」
楽しそうに笑うと、子供みたいな顔になった。そういえば聖良も社長って言っていたっけ。地元のスーパーだとどこでも置いてあるお菓子の会社だ。だけどテレビでCMも流れているのを見たことがある。なかなかすごい人と聖良ってば不倫してたじゃないの、と驚くのが半分、こんな普段着で化粧も落ちかけている自分がさっきより一段と恥ずかしくなったのが半分で、ちょっとパニックになる。
その時カウンターから細長いグラスに淡い桃色のとろりとした飲み物が差し出されて、目が吸い込まれたまま動かなくなった。
「あ、きれい……」
「飲みやすいからどうぞ。桃のピューレとシャンパンのカクテル」
言われるままにグラスの細い柄を取って、薄いガラスに口をつける。濃い桃の香りが鼻の奥まで広がって、シャンパンの炭酸がとろりとした桃を飲みやすくすべらせる。
「……美味しい」
「でしょう。美味しいよね、笑われるかもしれないけど僕も好き。だけど男だから見栄張って、あんまり飲まないんだ」
「どうしてですか、美味しいんだから藤村さんも飲めばいいじゃないですか」
「君は可愛いことを言ってくれる人だね。……ごめん、名前を聞いてもいいかな」
あああ、名乗るのすら忘れていた。なんという社会人失格。だから実家で働いている甘やかされのお嬢さんとかとよく勘違いされるのよね、お嬢さんなんて素敵なものじゃないけど。お給料もらってちゃんと働いているのに、家事手伝いに分類されたり、お小遣いもらってのお手伝いだと思われたり。
「すみません、自己紹介もまだで。市瀬美佳です」
「美佳ちゃん」
「はい。……でももういい年なので、ちゃん、は合わないです」
「僕より断然若くて可愛いんだから、美佳さんってより美佳ちゃんだよ」
おっと。一瞬ぽわっとなってしまうのはベリーニのせいだということにしておこう。聖良と不倫していたような人なのだから面食いだろうし、これは社交辞令だ、社交辞令。
わたしはきつい感じの一重で、学生の頃から「美佳ってば怒ってる?」と一日一回は聞かれるような顔をしている。唇も薄めで、そこのところがどうも薄情そうな顔に見せてしまうらしい。仲良くなれば「美佳って意外といい奴」とか「美佳って外見じゃないよね」とか言われるので、まあ外見ではあまり得をしているようではないのだろう。店のお客さんには愛想笑いが上手いんだけど。客の年齢層が高いから、同じ年くらいからそれより下は慣れていないというのもあるかもしれない。もうじき三十の女が「年寄り受けはいいんです、年頃の異性は苦手なんですけど」なんて言っている時点でただの逃げでしかないのはよく分かっている。
「聖良ちゃんとお付き合いしていたような人からのお世辞じゃ、信憑性ないですよ」
「え、どうして?」
どうしてって。あんな美人と付き合っていたってことは、女の好みにうるさいってことでしょう。付き合ったのがたまたまあのレベルだった、ってことでも、基本レベルがもうそこまで上がっちゃってるってことでしょう。そんな人から可愛いとか言われても、お世辞を蜂蜜で塗り固めたようなもので。
「聖良は聖良で可愛いし、美佳ちゃんは美佳ちゃんで可愛いし。比べる必要があるのかな」
「藤村さんって……すごく女扱いに慣れているっていうか、女ったらしですよね」
失礼だったかしら、でもどうせもう会わない人だしな。怒らせてここの会計済ませないうちに帰られたら困るけど。そういえばわたし、お財布にお金入ってたっけ。
「あはは、僕が? いやあ嬉しいな、でも僕はただ女の子が好きなだけだから」
にっこり笑った顔が少し聖良に似ている。いや、まったく顔の作りは違うのだけれど、唇の端をきゅっと持ち上げて頬をふっくらとさせる笑い顔が同じなのだ。彼女は笑い方をこの人から教わったのかもしれない。
「ベリーニが気に入ったら、次はマンゴーのカクテルをもらおうか。ここはフレッシュマンゴーを使ってくれるから、そっちも口当たりがいいよ」
顔を少し寄せて藤村さんがささやいた。深い水のような匂いがする。香水だろうか、嫌味にもならず香水をつけている男の人なんてはじめて見る、というより、わたしの周りで香水を付けている男なんて皆無なので新鮮に驚く。こういう匂いをさせている人って、もっと気障だったり勘違い野郎ばかりだと勝手に思っていた。
「そうだ、虹色鈴カステラってみんな同じ味みたいだけど、一応色ごとに味がついているのって知ってる?」
「知らないです、みんな美味しい鈴カステラの味でしたよ。って、わたしが味音痴かしら……」
「いや、子供向だから好き嫌いがでないように、そんなに味の差を出していないだけなんだけどね」
赤は苺、オレンジは蜜柑、黄色は卵、緑はほうれん草、青は天然食用色素、藍色はブルーベリー、紫は小豆。
「微妙にフルーツ分類とか出来ないですね、青色はなんかパッケージに書かれていたらいくら天然でも食用色素ってあったらちょっと敬遠しちゃいそうな。あ、ごめんなさい。でも食用色素の味ってなに?」
「そうなんだよ、だから書いてないんだけどね。でもちゃんと裏の成分表には書いてあるよ。そこ誤魔化したら表示法違反になっちゃう。食用色素に味はないから、普通に鈴カステラの砂糖の味」
「なるほど。駄菓子って元々身体にそんなに良くなさそうでも許されるイメージがあるかも」
「身体に悪い成分は使ってないですから、安心して召し上がってくださいよ」
そこだけ丁寧に言葉になったけれど、悪戯っぽくはねるようなイントネーションにもなった。
あの青色って何から作られているんですか、花とかですか。と聞くと、海草からだと教えてくれた。ワカメや昆布のようなものを想像してみたけどどうやら違うらしい。
藤村さんは少年のような顔で笑うと、自分の飲んでいたお酒のグラスを傾けた。大きく砕いた氷が入っている、濁りのない濃い茶色のあの飲み物は聖良が湯野っちの家で飲んでいたブランデーと同じ色だ。価格はまったく違うだろうけれど。彼女は飲むお酒も彼から学んだのか。だけどどうせなら藤村さんも好きだという、ベリーニのような可愛らしいカクテルの方を好きになっておけば良かったものを。
「あ、藤村さんって日本酒も飲まれます?」
「ああ、まあ一応は。そんなに強くないけど、アルコールの類は嫌いじゃないんで。美佳ちゃんも日本酒が好き?」
「聖良ちゃんがこの前、ぐいぐいと飲んでいたから」
「ああ、聖良はお酒強いんだよね。あんまり顔に出ないし、だけどちょっと目を離して飲ませすぎちゃうと一気に酔っちゃって。顔に出ないのも良し悪しなんだよな、周りが気付かないから」
聖良、と呼ぶ声が愛おしそうだった。あの子は本当にこんな別れ方で良かったんだろうか、惜しいとかって思って後で後悔しないとは言い切れない、っていうか惜しいってなんだ、恋愛に「惜しい」感情が入ってきたらちょっと不純で嫌だ。もっと純粋でなくちゃ、恋愛は。あれ、そうすると結婚したかったから湯野っちと別れた時動揺したし泣いたわたしは不純か。恋愛ってなんだろう、好きって気持ちはイコール結婚したいって気持ちになっていいものかしら。なってもいいけど、年齢のこととか考えてたし、あれれ、わたしの恋愛が純粋でなくなってしまった。
「美佳ちゃん?」
そういえばピアノの音がする。さっきまでジャズっぽい音楽が流れていたような、と思いつつさらっと見回すと、照明を抑えた室内の隅でアップライトのピアノが置かれ、赤いドレス姿の女の人が演奏しているのが目に入った。生演奏か、と感心する。さすが市内一お高いホテルの、お高いバー。そういえば彩子が友達の結婚式でここにきたとき、オレンジジュースが千六百円だったって驚いていたことを思い出した。千八百円って言ってたっけ。
「あ、ピアノ弾いてるなって思って。あの、藤村さんは聖良ちゃんとこのまま別れちゃっていいんですか」
「……美佳ちゃんは、僕達が不倫関係だって知っててそう言ってくれてる? 友達だったら普通別れたほうがいいって勧めない?」
「わたし、彼女の友達じゃないから別に」
「そうなの? じゃあどんな関係だろう」
「わたし達のことはいいですよ、別に」
「そんなこと言わないでよ、余計気になる」
もしかしてこれは誘われている? そんないけない、この人たった今愛人と別れたばっかりでもうそんな。しかも妻子ありだし、童顔でなかなかいい人そうに見えるけど。その前にわたしも失恋したばかりだし、そうか失恋したもの同士傷を舐め合ってとかそういう……そんなお手軽で簡単な関係の持ち方は年頃の女として大変間違っているかと、ああ、でも。
「もしかして従姉妹とか?」
「どうして従姉妹なんかに不倫の別れ話についてこさせるんですか、わたしだったら絶対嫌ですよ、親に筒抜けになっちゃう!」
それに顔のつくりがあんなにも違う従姉妹って切なくないですか。むしろあんなにも違うから、姉妹じゃなくて従姉妹って言われたとか。
「面白いね、美佳ちゃんは」
「何言ってるんですか、藤村さんってどうしてそんなに余裕なんですか、聖良ちゃんのこと惜しくないんですか」
「惜しい……惜しいって感情で恋愛維持したいと思わないから、その気持ちはないな。美佳ちゃんは恋人と別れるとき、悲しいとか淋しいとか思う前に惜しいって思うの?」
「……なんだかよく分からなくなってきちゃうんですけど、少なくとも惜しいって気持ちは後から出てくるような出てこないような、別れたばかりのときは淋しいばっかりです。そして苦しくて痛くて泣いてわめいて暮らします」
「僕、まだ聖良を失った実感がないんだけど、やっぱりさっき本当に失っちゃったのかな」
よく分かりませんけど、といいつつグラスを傾けてベリーニを飲み干した。マンゴーで同じものを作ってもらおうか、と言ってくれた藤村さんにお断りをすると、彼はそれじゃあ、と自分のグラスも空にした。
そういえばこのホテルで聖良とこの人はいつもエッチしてたと推測される。まさか別れることになるなんて思っていなかったはずだし、部屋は取ってあるだろう。ということは、不在の女性の代わりの女性、つまり聖良の代わりのわたしがいるということで、これってもしかして、わたしってば貞操の危機とかいうことでは。なんて考えて自分が恥ずかしくなる。そんな魅力はございません。自惚れの自意識過剰ってみっともない。
ひとりで勝手にいろいろと想像して赤面したり自嘲したりで、隣で見ていた藤村さんは気持ち悪かったかもしれない。
「さっきの名刺、ちょっと一回貸して?」
「え、あ? はい、これですか」
彼の名刺をバッグから取り出して渡すと、相手は胸ポケットから細いボールペンを取り出して裏にさらりと何かを書いた。並んだ数字。
「僕の記憶力っていいと思う?」
「え? 藤村さんですか? ……頭良さそうなお顔だとは思いますけど、お酒飲んでますしね」
「じゃあ確かめてみる?」
なにを、と思っていると、彼は数字を書き込んだ名刺をわたしに返してくれた。やっぱり携帯電話の番号だ。
「美佳ちゃんの携帯番号教えてよ。その代わり僕は一切メモしないから。覚えていたら電話するよ、覚えてなかったり間違えて記憶してたら美佳ちゃんに僕からの電話はかかってこない。どう? 記憶力テスト、やってみない?」
アルコール摂取後の十一桁の番号か。最初の三つの数字は簡単だけど、残りの九つ。生憎わたしの番号はちっとも覚えやすくない。
「いいですよ、面白いから」
一回しか言いませんから、と前置きして、早くもなくゆっくりでもないスピードで番号を言った。藤村さんはひとつずつの番号に頷きながら、最後のひとつを言い終わるとにっこり笑って、多分大丈夫、と頷いた。
「さ、あんまり遅くなるとおうちの人も心配するだろうし、下まで送るよ。タクシー代は僕に払わせてください、って、チケット渡すだけになるけど」
「そんな、いいですよ歩いて帰れますし」
歩いてきたんだし。
「そんなのダメです、女の子が夜にエスコートもなしにひとりで歩いちゃいけない」
バーテンダーに声をかけて、運ばれてきた伝票にサインをする。自分の分は、と言うわたしに、これくらいは奢らせてよ、と微笑むと、藤村さんは席を立った。
腕を差し出したりはせず、腰に手をまわしたりはしない。ただ、絶妙な距離のとり方で、わたしの歩幅に合わせて歩いてくれる。女の扱いに慣れている。別になにかをしてもらっているようでもないんだけど、心地が良い。
世の中にはこういう男もいるんだ、と改めてこういう男と付き合っていた聖良って何者、と思った。藤村さんはわたしをロビーまで送って、タクシーに乗せるまで、一度も携帯の番号を思い出しているような素振りは見せなかった。おやすみ、とやさしく掛けられた声が、耳にとても心地よかった。
マドレーヌとどら焼きの詰め合わせを三十八箱、クッキーの詰め合わせを七十二。どら焼きには壽の焼印が押されていて、めでたく白あんと紅あんが三つずつにマドレーヌが五つで割り切れない数字になっている。クッキーはプチギフトに使うのだろう、五枚入りでラッピングしてくださいとの注文だったようで、祖母と母とわたしでブルーやピンクや赤や黄色やオレンジのリボンをせっせと結んだ。それで虹色カステラの話を思い出して、ついでに藤村さんのことを思い出した。あの人の別れ話に首を突っ込むこととなった日から、三日が経っている。携帯番号の件はからかわれただけだろう。名刺に書いてくれた番号まで嘘だとは思わないけど、だからってかけてみる義理も理由もない。あれは聖良の別れた男であって、わたしには何の関係もないし。ただ、あのベリーニは美味しかった。
いつもなら父が納品に行くところだけど、四月のイベントシーズンで配達も製造もいろいろとあり、結婚総合式場ブライトフラワーへの配達はわたしが任されることになった。ブライトフラワーなら前にも配達で行ったことがあるし、友達の結婚式でも行ったことがある。一階の受付の向かいにある喫茶室で、結構本格的な紅茶が飲めるのと、あたたかいアップルパイを食べられるのでちょっと有名だ。だけどそれだけのために結婚式場に出入りするのはどうも苦手で、こういうチャンスは嬉しい。市瀬和洋菓子店と書かれた白いバンに荷物を積み、午前中の内に搬入した。今日の結婚式は先負という日だからなのか、平日だからか、受付には午前中の予定は一件だけ、残りの二件は午後からの挙式となっていた。平日の木曜日、どんな人達が結婚式をするのだろう。注文の品は裏口から搬入したけれど、係の女性とは何度か会っているので喫茶店の話をし、是非食べていってくださいよ、と言われたので別に奢ってもらうわけではないけれど、お言葉に甘えることにする。出入りの業者さんとかがうろうろしているのを快く思わない職員がいたりするところもあるらしい。作業着などでいられると、お客は一生に一度の晴れの舞台、夢と希望の演出をしに来たり、その打ち合わせで来たりするのに、小汚いオッサンとかがうろうろしていたら興醒めだからだろう。勝手にわたしがそう想像してるだけだけど。
深い緑色と渋い銀色の刺繍がしてある重たい椅子と、同じ深い緑色のガラスがパズルのピースのように埋め込まれたテーブルに、メニューはシンプルな一枚仕立てのものがカードスタンドに差し込まれてテーブルの隅に立っている。紅茶が数種類とコーヒーが数種類と、オレンジジュース、リンゴジュース、ペリエ。本日のケーキとアップルパイとチーズケーキ、チョコレートケーキと書かれていて、一番最後に本日のコーヒー、本日の紅茶、とある。
本日の紅茶とアップルパイを注文して、サボリは配達の特権、いやいや醍醐味、なんか違うな、甘え? それだと全面的に悪いのを認めているような、とぼんやり考えているところで、携帯電話が鳴った。正確に言えば仕事中はマナーモードにしているので、バイブ機能が作動しただけだけど。
「なに、もうサボリがバレたとか!」
忙しいから帰ってきなさいとかかな、と思いつつジーンズの尻ポケットから電話を取り出した。表の小さなディスプレイには携帯電話の番号が表示されている。
誰だろう。
家からだったら登録してあるので「家」と出てくるはずだし。
変な詐欺電話とかだったら嫌じゃん、と思いつつ出てしまう。結婚式場の喫茶店だからだろうか、携帯電話禁止のメッセージはなかった。
「……もしもし?」
『こんにちは、美佳ちゃん』
「……えっと、どちら様……あっ、もしかして藤村さん、」
『あ、覚えててくれた? 嬉しいな、今は電話してて大丈夫なのかな』
覚えててくれた、って。そっちこそわたしの番号覚えてたんですか、本気で。しかもそうやって電話かけてきちゃうんですか。
『記憶力は悪くない方なんだって言ったよね? でも電話出てくれてよかった、美佳ちゃんの声って電話だと大人っぽいね』
「もうすぐ三十路ですもん、大人っていうかおばさんっていうか」
自分のことおばさんなんて冗談でも言っちゃダメだよ、とやさしく言われて、なんだか恥ずかしくなる。照れた自分を悟られたくなくて、仕事で今ブライトフラワーに来ていることを話すと、僕もそこにこれから用事があるんだよ、と嬉しそうな声が返ってきた。
『まだしばらくいられる?』
「実は今、喫茶店でサボリ中ですから」
『じゃあ今すぐ行くからちょっと待って欲しいな』
待ってるつもりはなくても、紅茶飲んでアップルパイ食べてる間に来てしまったら会うことになるだろう。うまく会えたらここの飲食代もってくれるかしらなんて、下世話なことを考える。今すぐ行くからね、と電話は切れた。アップルパイが運ばれてきたので、電話しててすみません、と、ありがとうございます、の意味で軽く頭を下げる。
パリパリのパイ生地は薄い層がふんわりと幾重にも重なって、表面のほどよく焦げた色から中に向かって徐々に色を落としていく。ここのは中にたっぷりの洋酒が効いたクラムを絡めた大きな煮りんごが、これまたふっくらとお酒を吸ったレーズンとともにごろりと入っている。それでもパイの部分が少ないわけではないので、全体的に大きくて量がある。バターの甘くじんわりとした幸福感。パイはカロリーを怖がって食べるものじゃない、というのが持論というか、カロリーは見ない振り、ではなく絶対見ない、考えないようにしてがっつり取り組むことにしている。食べない後悔より食べる後悔のほうがいい。それくらいここのアップルパイは美味しい。
なんてアホなことをつらつらと思っていたら、テーブルの向こうにさっと影が入ってきて立ち止まった。
「相席よろしいですか」
ほんの少し息が切れている。顔を上げて、藤村さん、と口に出してみた。背は相変わらずそう高くないけれど、昼間の彼も細身のスーツをぴしっとスマートに着ていて、前回会ったときにいい男に見えたのは夜の幻想でした、というわけではなさそうだった。
「もしかしてすぐ近くにいたんですか?」
「それなり、かな。美佳ちゃんに会えると思ったら、ついつい急いじゃって。息切らしてて格好悪いね、ごめん」
わたしと向かい合わせで腰を下ろすと、目を細めてこちらを見た。またまたご冗談を、と持っていたフォークを置いて、とりあえずこんにちはと続ける。
「こんにちは。冗談じゃなくて本当に美佳ちゃんに会いたかったよ。あの後すぐに電話したら美佳ちゃんに嫌がられるかなとかって考えたらなかなか電話できなくてさ。さっき思い切って電話かけたらまさか会えることにまでなるなんて」
ブレンドコーヒーを注文して、藤村さんはわたしにアップルパイを食べるように促す。言われなくてもこれが目的なので、フォークを再び手にするとわたしはりんごの大きいところを目指す。
「美佳ちゃん、ブライトフラワーでお仕事? もしかして結婚式の打ち合わせとかだったりする?」
「仕事です、仕事。引き出物の納品に来たんです。チェックも終わったし、カタログにうちの商品を載せてもらうための書類も提出したし、ここのアップルパイが大好物なので食べて帰ろうってほくほくしてたら、藤村さんから電話が」
僕も納品、と彼が微笑んだ。社長自ら納品とかするんですか、と驚いたら、「本当は美佳ちゃんがブライトフラワーにいるって言ったから、仕事の振りして飛んできちゃっただけ」と悪戯っぽい顔になった。この人って随分表情豊かな、と感心しつつ、わたしは聖良ちゃんと繋がってませんよ、と告げる。
「聖良ちゃんは、まあ詳しく言うと自分が情けなくなるんで省略しますけど、あんまり望ましくない出会い方をした人でして、友達でもないしこれから友達になる予定もないし可能性もないし、だからわたしを通して復縁とか考えているんだったら無駄というか」
「僕、そんなに未練がましくて失礼な男に見える?」
「……いいえ」
未練がましそうにも失礼そうにも、とりあえず見えない。
「でもあの時、藤村さんは彼女にまた連絡するって言ってませんでしたっけ」
「うん、でもしてない。連絡してもう一回別れ話聞くの切ないし。ただ、彼女から連絡してきたんだったら話は聞くよ。やり直したいっていうなら喜んで両手広げて出迎えるよ。連絡するって言えば、向こうはこっちにはまだ気持ちがしっかり残ってるって理解するだろう? それくらいは察してくれる娘だと思うし」
紺色のスマートだけれど厚いコーヒーカップは、縁と底の近くだけ白くラインが入っている。猫舌ではないようで、ろくに冷ましもせず藤村さんはコーヒーを口に運んだ。
「別れ方も慣れているというか」
「買いかぶり過ぎだって、僕そんなに女性とのお付き合いは豊富じゃないから」
不倫だったけど本気だったんだ、とか、いずれ妻とは別れてちゃんと籍を入れるつもりだったんだ、という言い訳はないらしい。わたしが聖良とは友達ではないと言ったからか、元々言う気もないのか。大体この人はどうしてわたしと会っているんだろう、多分、というより少なくともわたしにはこの人に対する恋愛感情はないし、美味しいお酒をご馳走してくれた、ちょっとした知り合いの元不倫相手なだけだし。
「ところで何の仕事なんだろう、当ててみてもいい?」
「当てる? ああ、当たるかな、なんだと思います?」
「ここの従業員じゃないのははっきりしたけど、搬入業者さんか外注職員か……結婚式に関係があるっていうと美容関係、ではなさそうだし」
「あ、失礼な。どうせ美的センスないですし、化粧も適当ですよ」
「違うよ、美容関係だったら大抵ポケットに大きな髪留めみたいなのをたくさんはさんでたりするじゃない。それにこういうところでお茶してる暇はないだろうし。お花かな。フラワーコーディネーターとか。でも搬入口に花は置いてなかった気がするし、あ、引き出物の搬入をしにきた、って言ってたんだもんね。ギフト搬入か」
話しているうちにアップルパイがリンゴの水分を吸ってしんなりとしてくる。添えてあるシナモンの振りかけられた生クリームをすくってパイの上に乗せる。
「ギフト正解。じゃあ問題、わたしは何を運んできたでしょう」
「美佳ちゃんは雑貨とか扱ってるイメージがあるなぁ。引き出物に使う、グラスのセットとか、退場の時のプチギフトの持込とかじゃないかな? 違う?」
「あ、プチギフトは当たってます。でもわたし、雑貨屋店員じゃないですよ。市瀬和洋菓子店って知ってます?」
うん、と藤村さんが頷く。薄皮饅頭と蕎麦饅頭が有名だよね、あとフルーツパウンド。
「市瀬和洋菓子店のフルーツパウンドって、ケーキの半分以上がドライフルーツだよね。ブランデーがすごく効いてて好きなんだよ」
「レーズン三種類とドライフィグと実はドライストロベリーとマンゴーも割合は少ないけど入れてあるんです」
「美佳ちゃんってそういえば市瀬さん、ってことは、もしかして娘さん?」
同業者さんだ、と嬉しそうに言われたけれど、名前を並べるのもおこがましい。お菓子というひとくくりでは同業者なのかもしれませんけど、と言えば、藤村さんはメルヘン製菓は元々メルヘン洋菓子店っていう小さな町のケーキ屋さんだったんだよ、と教えてくれた。
「僕の祖父がはじめたらしいけど、父の代で商業用の菓子類に手を広げて、そこを僕が継いだっていう、典型的なぼんくらぼんぼん」
「ぼんくらだなんて、」
「あ、美佳ちゃん見てたら新しいお菓子思いついたなぁ。フルーツの形した、フルーツクッキーってどうだろう。香料よりドライフルーツとかちゃんと入れた方がいいかな、それともフルーツクリームを挟んだりとか。よしよし、ちょっとちゃんと考えよう。美佳ちゃんからインスピレーション受けたから、試食はお願いしても許されるよね?」
なんだか上手に次の約束を取り付けられたような、それでわたしもなんとなしに嬉しくなって、はい、なんて言ってしまったりして。
ひとり失くしたらひとり知り合った、とか思いつつ首を振る。不倫は嫌だ、そもそも愛人が聖良レベルだし。なんて、もう自分が気に入られるかのような妄想を自意識過剰にしてみたりして。とりあえず彩子にでも、面白い人と知り合ったよって酒の肴にでもして話そうかな。そんなことより早く男作れ、とか言われるかもしれない。なんだかどんどん、湯野っちがわたしの中で薄れていく。