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美佳ちゃんの恋愛事情・1

 1


 送別会はそろそろ佳境だった。カラオケボックスの一番大きな部屋を貸し切って、二十人ほどの仲間が盛り上がっている。ピッチャーで注文したビールだのジャンボパフェだの、空のグラスはそこら中に積まれているし、マイクも持たずに歌ってる人や怒鳴っている人がいるしで、ものすごいことになっている。

 お遊びテニスサークルの仲間内で、ひとり栄転が決まった。自衛隊勤務の三十二歳、なかなか有名な野球選手に似ている彫りの深いきりりとした男前は、みんなに内緒で付き合っていた女の子を転勤先に連れて行くために結婚することを決めたらしい。テニスが上手く、親切に指導してくれるコーチのような存在だったので、こっそり惚れていた女子もそう少なくはなかった。特にサークル一の美人と自負している彩子は、自分より随分地味な女に彼を掻っ攫われたので、自棄酒に忙しそうだった。

「美佳ちゃん、湯野くんは?」

 今日の結婚発言でサークルの女子半分は敵に回しただろうけど、もう引っ越してしまうので実害はないと考えられる眞由美が、主役の半分は自分なのに相変わらず人の良さそうなにこにこ顔で寄ってくる。飲み物足りてるかな。食べたいものあったら注文するよ。メニューあっちに渡してあげて。曲目の本を一冊回してあげて。同じ年なのに化粧っ気ゼロの彼女はいつでも人の世話を焼いている。

「湯野っち、松平さん迎えに行ってるはずなんだけどまだ来ないんだよね、間に合うのかな。っていうか! 眞由美おめでと! よかったね、林さん結婚決めてくれて!」

 彼女がサークルで一、二を争う顔のいい男、林さんと付き合っていたのは知っていたけれど、まさか結婚までたどり着くとは思わなかった。今年二十九歳、ぎりぎりすべり込みセーフの三十歳前結婚がうらやましくないといえば嘘になる。だけど、余裕の顔をしていられるのは単にわたしにも恋人がいるからだ。

 その恋人である湯野っちは林さんの直属の部下で、他の転勤してしまったサークル出身者を隣の県まで迎えに行っている。年度末が近付くと忙しいのはどこも同じようだけれど、年度が明けたら資格を取るための研修に行くことになってるとかいうわたしの恋人は今とても忙しいらしく、この頃ろくろくデートもできていない。今日はサークル仲間とはいえ上司の送別会になるのだから、やっと顔を合わせられると喜んでいたのに。

「あーん、わたしも結婚したいっ」

 つい本音が出てしまったのを眞由美が笑う、ジンジャーエールを一気に飲んで、わたしも笑顔を作る。

「式場とかどうすんの? こっちでやる?」

「うん、元々ふたりともこっちの出身だし。でも式場って半年以上前に予約して、なんだかんだで打ち合わせがあるようなんだよね。いろんなブライダルフェアとか行ったんだけど、彼と相談して、どこかレストランでも借り切ってのパーティーにしちゃおうかなって」

「あー、その完全なる惚気でしかない悩み! いいな、いいな、本当にいいなっ」

「美佳ちゃんだって、湯野くんがいるじゃない」

 最近ちっともデートできていない恋人がね。だけど彼はまだ二十二歳の若造で、七つも年上のわたしがいろいろ焦ったところで結婚の話を持ち出したら逃げてしまうのでは、とも思ったりしてしまう。

 結婚に焦る女は怖いらしい。男はどうして結婚を墓場と思うのか。去年なんて子供ができたから仕方なく結婚した、というカップル三組の結婚式に招かれた。子供もできてつわりなんかはあるのかもしれないけれど、幸せ絶頂のぴかぴか笑顔でウェディングドレスをまとっている花嫁に比べて、このまま結婚しちゃっていのかな、っていう影が多少なりとも見え隠れする花婿。そんなカップルしかなかった。女はいいよな、子供作っちゃえば切り札だもんな。そんな悪口のような恐れのようなセリフを三回とも二次会で耳にしなかったことはなかったという恐ろしさ。

「あっ、まさか眞由美ってば妊娠したりなんかしてない……よね、」

「やだ、でき婚じゃないってば。なんか授かり婚とかダブルハッピー婚とか言うらしいけど、あれってただ単にお互いの計画性がなかったってだけじゃない? ああいうの、悪いけど私は苦手……。大体ゴムつけてくれない男の人って、女の人を大切にしてないじゃない」

 ゴム、つけたっけ。湯野っちとのエッチを思い返してみるけれど、記憶を引っ張り出してくる前にすぐ思い浮かぶ。つけてたつけてた、回数が少ないからすぐに思い出せる。付き合って随分経つのに、まだ数回しかエッチしてないというのもすごいけれど。誰か、付き合って何ヶ月したら平均のセックス回数はこれくらい、というのを表にしてくれないかしらと思う。今まで年下の男と付き合ってきたことがないけど、もっと年上の男達でも一回しちゃったらその後は会うたびにガンガンしていた。最近の二十歳そこそこってのはあんまりエッチしないものなんだろうか。

「湯野っち、真面目だからな……」

「湯野くん? 湯野くん真面目だよね、絶対でき婚なんかしなさそう。ちゃんと結婚してからふたりで計画立てて、人生設計とかきちんとしてそうだもん」

 その人生設計にわたしも含まれていて、と考えると口元が勝手にゆるむ。結婚という響きがきらびやかで美しい。心底うらやましい。湯野っちと結婚したとして、子供はやっぱりふたりかな。マイホームのために節約して貯金なんかもためて。だけど意外とあいつ給料いいらしいからわたしは専業主婦になれるかもしれない。湯野っちも林さんも、自衛隊の人だけれど自衛官ではなく、中の事務関係の仕事の人だ。問題は転勤が結構多いこと。マイホーム建ても転勤が続いたら単身赴任になってしまうだろうし、それはそれで困る。だけど子供が転校の多いのも可哀想だし。

「っていうか、眞由美、あんた主役なんだからさ、林さん放っといていいの?」

「主役は彼だもん、私はおまけ。春になったら引越しなんだよね、なんかみんなとテニスすることもなくなっちゃうのかって思うと寂しい」

「ああ……そうか……」

 眞由美の結婚はおめでたいけれど、そうだ、彼女が結婚して引っ越したらもうこの毎週火曜日、そして隔週の日曜日に一緒にテニスをすることはなくなってしまう。実は高校が同じだった彼女とはこのサークルで再会したのだけれど、それからずっとサークル内で仲良しだった。彼氏ができないと飲みに行って泣いたこともある、仕事の愚痴を言い合ってお互い励ましあったこともある、もちろんテニスの試合に出たこともある。

「やだ、わたしも寂しくなってきた」

「美佳ちゃん、結婚はいいんだけど、引越ししたくないのよー、私。だって生まれも育ちもここだよ? 三十目前でなにが楽しくて知り合いのいない知らない土地に行かなきゃならないのよ」

 眞由美はみるみるうちに顔を曇らせた。目の細い彼女は、泣きそうなときも笑うときも同じような顔になるから、声色で判断しなくてはならない。あれ、と思いながら彼女の飲んでいたグラスを見る。オレンジ色。オレンジジュースだよな、でもなにかおかしい、と思ったらグラスがアルコール用のものだった。ソフトドリンクはコカコーラの赤い印刷があるけれど、アルコールは青い印刷でアサヒのロゴが入っている。

「林さん大変っ」

 うっかり誰かのソルティードックかなにかを飲んだらしい。わたしは眞由美を抱きかかえるようにして彼女の彼氏の許へ引きずっていく。

「眞由美が飲んじゃいました!」

「え、何杯目?」

 尻で割り箸を割る、という芸当の持ち主のブリーフに、割り箸を何本も挟んで大笑いしていた林さんがその集団から抜ける。

「分からないですけど、わたしが見た時点ではグラス半分以上」

「マジでか! 他で飲んでないよな、おい眞由美、お前酒飲んだ?」

 基本的にアルコールの苦手な眞由美は、味が嫌いだとかではなく、体質的にダメらしい。グラスに一杯なら大丈夫、二杯だとどこででも眠ってしまい、三杯以上飲むと身体中に発疹ができる。それもうんと痒く腫れるもので、ひどくなると病院に駆け込まないといけなくなる。

 林さんは眞由美を抱きかかえると、ごめんな、と言って一旦カラオケボックスを出た。主役が消えても飲みすぎてはしゃぎすぎている集団は関係がないらしく、誰かがトイレに行ったくらいにしか思ってないらしく見向きもしない。

「あっ、市瀬さんっ」

 出て行った林さんがドアから顔だけ出した。誰が歌っているのか、アニメソングがうるさい部屋の中で、彼の声はよく通る。はい、と返事をしたけれど、わたしの声は通らないようだった。声にもカリスマ性のようなものの有無があるのか。

「湯野来たよっ」

 聞こえてるのかな、という顔で首を傾げた林さんがそう言う。声が届いた瞬間、ジーンズのお尻のポケットに入れていた携帯電話が震えた。聞こえました、のジェスチャーで両腕を上にあげて大きくマルを作る。林さんは大きく頷いて、にっこり笑ってみせた。


 二月半ばの夜は結構寒い。カラオケボックスの駐車場は、中の大盛り上がりを考えると異次元なのではないかと思えてしまうくらい、人気がなかった。

「湯野っち、」

 迎えに行っていた松平さんは酒だ酒だと嬉しそうに、わたしの顔を見るとおうっと手を上げただけでさっさと中に入っていってしまった。紺色と白のしましまマフラーをしている湯野っちは、迎えに出たわたしを見てぎこちなく微笑む。

「遅くなってごめん」

「仕方ないじゃん。道、混んでたんでしょ?」

 あのマフラーはわたしの手編みだ。去年のクリスマスにプレゼントした。特に欲しいものはないという彼に、わたしだと思って冬の間は毎日つけててね、と二十九の女がやるには恥ずかしすぎる乙女ちっくなことをやってしまった。もちろん、そういうのが似合う二十九、三十でも四十でもいるだろうけど、わたしの場合はそういうキャラではない。彼は照れたように笑って、その場でつけてくれて、その時わたしは後ろにひっくり返ってしまうくらい嬉しくて仕方がなかった。彼はペリドットのネックレスをくれた。マッチ棒のような細長いシルバーに、三つのペリドットが埋め込まれている。わざわざ誕生石を調べて買ったのだと言われて、わたしは再びひっくり返って地中に潜れそうなくらい嬉しかった。

「寒いでしょ、外。早く中においで。なんかもうすごいことになってるけど」

 手を差し出す。だけど、彼はわたしの手を取らなかった。宙ぶらりんな右手は空気をつかんだままで、しばらくしてから仕方なく下ろされる。

「……どうしたの?」

「……美佳、」

 先日のバレンタインデーは仕事で会えなかった。今日は彼が松平さんを迎えに行くために送別会までは会えないというので、朝から暇だった日曜日、彼のためのバレンタインプレゼントを買いに行っていたのだ。クリスマスでさえ特に欲しいものがない人なので、悩んだ末にテニスのラケットをプレゼントすることにした。お店の人と相談して、ダブルスの試合だと前衛型か後衛型か、カットが得意かサーブが得意かなど、いろいろ悩んだ挙句に多分彼に一番合うであろう一本を購入、カバーも買ってプレゼント用に青いリボンを結んでもらってあった。それがわたしの車のトランクに乗せてある。もしかして、彼も。わたしと同じようなことを考えていて、プレゼントを用意してあったとか。

「あ、でも男はホワイトデーだよね」

「なに? なんか言った?」

「あ、ううん、独り言。湯野っちこそ、なんかわたしに言いたいことがあるんじゃないの?」

 もしかして、上司の結婚報告に感化されて、自分も結婚を考え始めたとか。そうだったらどうしよう、嬉しいけれど、嬉しいけれど、ものすごく望むところだけれど、心の準備が……でもやっぱり嬉しい。どうしよう、嬉しい、どうしよう。

 湯野っちは本当に真面目な子で、高校のときにひとりだけ部活のマネージャーと付き合ったことがある以外は恋愛経験がないそうで、わたしと付き合うことになったときには林さんをデートの場に誘って、お付き合い報告をしたくらいだ。あれには驚いたけれど、それだけわたしと真剣に付き合ってくれるのかととても嬉しくなった。彼はまだ二十二歳だけど、きっともう人生設計がきちんとしているのだろう、もしかしたらわたしの年齢も考慮してくれていろいろと考えたのかもしれない。

「……なんで、分かるの?」

 たぬきみたいにくりくりした目がわたしをとらえる。正直、顔はそんなに格好良いだとか、そういうことはない。垂れ目でたらこ唇でひどいくせっ毛だからと頭はほぼ坊主状態で、身体はずっと運動をしてきたというだけあって引き締まっててなかなかいいけれど、顔のほうは十人が十人、いい人そうではあるよね、としか言えない顔立ちだ。

 だけど顔に左右されたのではないこの恋愛こそ、本物なのだとわたしは思う。

「分かるよ、わたし、湯野っちのこと大好きだもん」

 今のは三十目前の女が言っていいセリフだっただろうか。ぎりぎりアウトだったかもしれない。それでも彼が微笑んでくれたから大丈夫だったのだろう。彼は自分のマフラーをはずして、わたしに近付く。わたしの首に、自分のマフラーをそっと巻きつけてくれる。

「ずっと、待っててくれてありがと」

 彼の匂い。鼻先まで毛糸に埋まってしまったので、自然と彼の匂いがする。待っててくれてありがとうだなんて。寒いことも忘れて舞い上がりそうになる。なんてお手軽に幸せになれる女なのだろう、そんな自分も好き。

「でも、こんなところで話は……、」

「いいのよ、ここでいいから」

 後で、もっとロマンチックな場所で言って欲しかった、なんて文句は言ったりしない。自分のマフラーをかけてくれただけでも充分にロマンチックだ。ここでプロポーズされたら、わたしはみんなのところへ戻ってから「うちらも結婚します!」と言っていいものなのだろうか、それともしばらくはふたりだけの幸せで秘密にしておいて、幸せをかみ締めているほうがいいのだろうか。

 どちらも震えるほど気持ちがいい。わたしもブライダルフェアにふたりででかけたりするのだろうか、どこで結婚するのか悩んで。結婚。素敵な響き。ふたりの生活。そのうち子供が生まれて、ふたりではなくなるけれどいつまでも恋人気分で。

「……ごめん、美佳。美佳のこと、本当に本当に好きだった。だけど……ごめん、別れて下さい」

「……え?」

 ほらきた、別れて下さい! ……別れて下さい?

「別れて……?」

「言いたいことがあるんでしょ、って言われて驚いたけど、美佳はもう分かってたんだね」

 なにが? 

 マフラーで鼻から下がすっぽり隠れてしまっていて良かった。口がバカみたいに開けっぱなしだから。

 今。彼はなんて言ったんだっけ、別れて下さいって。別れるということは恋人関係を解消するということで、恋人関係を解消したら結婚なんてありえないわけで。いや、結婚するから恋人ではなくなるのか。いやいや、それだったら一度別れるのはおかしい。

「マフラー、すごくあったかかった。だけどそれも返します。持ってると辛くなっちゃうから。ごめん、本当に今までたくさんありがとう、俺を好きでいてくれて本当に本当にありがとう」

 涙声になりたいのはこちらのほうで、言いづらいことを言ってしまったためか彼はすっきりと晴れ晴れした顔になっている。はにわ顔なのはこちらだけだ。だってどうして。そんな予兆もなにもなかった。嫌われることをした覚えもない。だってまだ、二回しかセックスしてない。デート中になにかしてしまった覚えもない。なにがなんでどうしてそうなるのか。

「……と、りあえず、」

 気持ちの整理と返したりするものがあるからもう一度だけデートしましょう、と口が勝手に動いていた。デートなんて、と彼の表情が曇る。デートっていうのは言い方なだけだからとりあえずもう一度だけふたりで。

 勝算があるわけでもなかったけれど、ここで一方的にすっぱり切られてしまうのも納得がいかない。わたしにも気持ちの猶予をちょうだい、その為に一日空けて。なんだかなりふり構わなくなりつつそれだけ約束させると、もうわたしは身体も思考も動かなくなってしまった。いきなりすぎて涙も出てこない。涙の回路まで感情が到達しない。少なくとも今はっきりと言えることは、結婚するふたりの送別会、の会場になど死んでも戻りたくないということだけだった。


 男と別れるのは苦手だ。得意なんて人は滅多にいないだろうけど、世の中は広いから分からない。だけどわたしは振るときも振られるときも醜く大騒ぎして落ち込む。前の彼氏のときはわたしから振った。年上なのに甘えてくるところが可愛くて、我儘をついつい許していたらご飯を作って当たり前、洗濯をして当たり前、掃除をして当たり前、エッチばっかりしたがって自分勝手に腰振って果てればさっさと終わり。挙句の果てにわたしの前で他の女を褒めたり誘ってみようかと相談までするようになって、わたしはあなたのお母さんではない、と怒って別れた。だけど一週間もしないうちに淋しくなって、相手が仕事で出られないのを分かっているのに日中電話をかけつづけて、繋がったときには逆に怒られて別れて良かったかも、なんて言われた。わたしから振ったのに、こっちが失恋気分で。しつこいと言えばその前の彼氏は平日休みの車のディーラーで、景気がまだそれなりのときのやり手営業マンだったからそれこそ忙しくてデートは夜にご飯もそこそこでエッチするだけ、おまけに友達には濁しまくってわたしを彼女として紹介しないしで、こちらも電話やメール攻めにしてしまい、呆れられて別れを切り出された。そんな重い女だと思わなかった、って、飲みに行った先で転職したという彼の友達に会ったときにわたしを「飲み友達」と言ったのはなんだ、同僚の結婚式に式場まで送ってあげたらばったり会った他の招待客に「彼女?」って聞かれて、「いや、まだそういうんでは、」って言ったのはなんだ。その前の彼氏は口説かれていい気になって付き合ったら妻子持ちだった。わたしも二十三で若かったけど、相手も三十前だった。結婚指輪なんかしてなくて、たれ目にぽってりした唇、さらさらの髪の毛は少しだけ長くして後ろで子犬の尻尾みたいに結ばられていて、ひげをそるのが面倒だといいながらよく無精ひげを伸ばして、そのひげでわたしの頬や首筋や胸やお腹なんかをくすぐって笑わせるのが大好きだった。土曜日でも日曜日でも平気で会って、飲みに行こうと不意に平日の夜だって電話してきて、会いたいと言えばにこにこしながら会いに来てくれて。どうすれば彼が既婚者なんて知り得ただろう。まさか子供がふたりもいる、年上女房持ちだったなんて。

 彼がわたしの初めてお付き合いした男の人だった。五年前に処女喪失してから放っとかれっぱなしで、これは再び処女といってもいいんじゃないかしらというようなわたしを解きほぐしてやわらかくして気持ち良くしてぐにゃぐにゃにしたのは彼だ。最初なんて痛がってベッドの上へ上へと這いずって逃げてしまうわたしをやさしく抱き締めて、大丈夫だからと髪を撫でたり全身にくちづけをしてくれたり、「本当はもっとやりたい盛りの若いのとかが相手だといいんだけどね。女の子が嫌がっても性欲だけでつき進んじゃってくれれば、慣れちゃうからさ。でもオレ、女の子の痛そうな顔、苦手なんだよ。早く慣らしてあげられなくてごめんな」なんて甘くささやいたりして、わたしが付き合ってきた中であの人が一番やさしくていい男で相性が合っていた気はするけれど、既婚者。既婚者って印籠をつきつけられたら、不倫は面倒じゃないから大好き、だとか、愛人やりたいです、とか、所有欲も独占欲もないし時々セックスしたいだけだから別にいいって人でない限り、塩をかけられたなめくじみたいになるのは必然だと思う。しおしおしお、ぺちゃあ。

 そういえば初体験といえばそれはそれで最低だった。高校卒業も間近の十八歳、なんの気なしに男友達の家に遊びに行って、処女なんて言うの恥ずかしいよな、とか考えているうちに迫ってきた男を払いのけるタイミングを失って、処女喪失。それも相手は後から考えると笑っちゃうほどの極小で、多分あれが小指サイズというものだと思う。入ってきて、痛いというよりは違和感があるな、と首をひねっているうちに「ごめん、出ちゃった」。もちろんコンドームなんかつけてなくて、妊娠の知識もまだあやふやだったわたしはすぐに子供ができてしまうものだとひどく焦ったけれど、幸い次の日に生理がきた。血も出ない初体験だった。だから、処女喪失で血が出るというのは都市伝説だとばかり思っていたのに、あれは相手のサイズのせいだったのだ。実際、五年後にその妻子持ちとエッチしたら止まらないほどの血が出てびっくりした。彼ははじめてだったんだ、と感激したんだか、ただでさえやさしい人が仏様みたいになっていた。

 もしかして、わたしは男運が悪いのだろうか。

 だけど男の人と付き合えていないわけじゃないし。経験値が低いのか。それはあるかもしれない、経験不足で、雑誌の類が苦手だからリサーチ不足でもある。だけど耳年増の頭でっかちは嫌だし、自分の経験から学習して経験値を上げていくしかない地道な方法でこつこつこつこつと……わたしはいついい男に出会えるのだろう。湯野っちは初めの彼氏に似たところのあるやさしい男で、付き合う前からどちらかといえばわたしから狙いを定めていて、告白されたときには嬉しくて思わず彼に抱きついたくらいだというのに。

 湯野っちと別れたらまた新しくお付き合いの対象を捜して、モーションをかけて、なんとなくいい感じになって、付き合いはじめたとして、そこから結婚するまでにまた時間がかかる。そもそも付き合いたいと思う男と出会うのが大変な話で、最近では結婚しない男女が増えているというけれど、そんなのとどこで出会うのかというところでもうすでに躓いている。そんなことよりなにより。わたしは湯野っちと別れたくない。最近は忙しいからとデートの約束もままならなかったけれど、クリスマスだって会えないかもと言っていたのにどうにか時間を作って二時間だけ会ってくれたり、それまではテニスに行くのに車で乗せて行ってくれたり、サークルの仲間にもきちんと報告してくれた。市瀬美佳さんとお付き合いすることになりましたので、と。湯野っちは性格も良くてまめまめしくいろいろと気付いて動いてくれる子だけど顔はそんなに格好良くないというか、「あの人いい人だよね!」で終るタイプだし、わたしもそう取り立ててモテたりするタイプというよりは「お前と飲んでると女といるって感じじゃないよね、目が覚めて裸のお前が隣で寝てたら、こいつ自分の家と間違えてんだな、って布団かけてあげなきゃって思うだけ」と男友達に言われてしまうような人間なので、サークルの人達はめでたがってくれたけど特に誰から恨まれるとか実はライバルがいたとか、本当は誰かに好かれていましたとかいうことはなかった。だけどそんなことはどうでもいい。俺の彼女、とみんなに報告してくれるということは、他の女は俺を好きだと言ってくれてもお付き合いできませんと、この女は俺のものなので他の男は手を出さないようにと、言外に告げているということで、それがわたしを有頂天にさせる。所有物扱いされるのが実は大好きだったりする。

 だけどわたしはもう、湯野っちに所有されていないのだ。

 自由。

 野良猫と一緒。

 三月の春分の日、最後のデートと称して湯野っちと会った。どこに行くとも計画してなくて、初デートの公園に行ってしまうという愚かしいことをしてしまった。公園とはいうものの市街地の広大な敷地が広がるそこは、体育館も陸上競技場も体育館も図書館も博物館もある巨大なもので、それぞれのゾーンに分かれている。わたし達は森のゾーンと名付けられた、植木でできた巨大迷路と展望台がある場所でベンチに座っていた。初デートのときは迷路で手をつないでぐるぐると歩き回った。女の人に慣れていないんです、と言って、もくもくと歩き続ける湯野っちに手を引かれて一緒に歩いた。買ったばかりのブーツが慣れなくて、靴擦れを作ってへたり込んだわたしに、彼は困った顔で何度も何度も謝った。足が痛いと言い出せなかったわたしも悪かったのに。おんぶすると言うから、そんな恥ずかしいことは絶対にやめて、とお願いしたらまた困った顔になってしまって。

 それ以上は歩けそうになかったから、仕方なしに車に戻って、反省会みたいに謝ったり謝られたり笑ったり落ち込んだりしているうちに。

 目が、合って。

 ふとした瞬間、運転席と助手席でそれぞれ前を向いていたはずなのに、ちょっとお互いがお互いの顔を見ようとしたら目が合って、それからもう動けなくなった。エンジンを掛けっぱなしの車の中でふたりともが好きなバンドのはちみつみたいに甘い音楽が流れていて、先に動いたのはどっちだったんだろう。わたしが顔を少し持ち上げて、彼が顔を少し落とした、そして近付いたふたりの間で空気がとろとろに溶けて、唇は重なった。

 CD三枚分のキス。

 十三曲入りのCDがぐるっと一周して、また一周して、もう一度一周して。その間、延々と唇を重ねていた。時折離して、くすくす笑って、再び重ねられて、うっとりと目を閉じて。離れられないキスなんてロマンチックなものがあるなんて知らなかった、服を脱いだわけでもないのに、露骨な言葉を使ったわけでもないのに、わたしは身体の芯からとろとろにとろけてしまってどうしようもなくなった。

 あの、キスはこれでおしまい、と、離れたくないのに離れなきゃならなかったときの不安と不満と絶望感と淋しい気持ちときたら。キスしたのはほぼこれがはじめてみたいなもの、と言っていた湯野っちのキスは当然のようにへたくその部類に入ったけれど、情熱だけはきっちりたっぷりで、それがわたしを幸せな気持ちにさせた。息継ぎするのも切ないくらいだった。

 そんな思い出の場所に、どうしてお付き合い終了の日までも出かけてこなくてはならないのか。どこか行きたいところは、と聞かれて、どこでもいいと答えてしまったわたしも悪いのだけど。ここでなにを話せというのだ、靴擦れしたよね、おんぶするしないでもめたよね、日が沈むまでキスしたよね、なんてほのぼの語り合える日ではないと思っているのはわたしだけなのか。

「……どうして別れたいのか、理由だけでも聞いておきたい、んだけど」

 いつものようにアパートまで迎えに来て、車の助手席のドアをわざわざ開けてくれて、コーヒーが飲めないわたしにミルクティーを買っておいてくれて、にっこり笑って、どこか行きたいところある、なんてやさしく聞いて。この前の別れようってのはわたしの空耳、幻聴、悪夢の類で、そんなこと言ったなんてなにかの勘違いで、湯野っちとわたしはこのままずっとお付き合いが続いてそのうち結婚し、ふたりは末永く幸せに暮らしました、めでたしめでたし、となりそうなくらい穏やかな雰囲気だったので、ついうっかりこの前の話、と言いかけたら、途端に彼の表情が曇ってしまった。この前の話は心臓に悪い冗談でした! なんてことはないよね、と茶化す前にどんよりとした彼の顔を見たらそれ以上なにを言わなくてもふたりの恋人関係が今日で終了するのは明確で、どんよりしたいのはわたしの方なんですけど、って感じだった。

「……聞きたい? どうしても?」

「そりゃ、こっちに非があるんだったら改めておきたいし、その……次の恋愛のためにも――」

「美佳には非なんてないよ、本当に俺の我儘なんだ。美佳のことは今でも好きだし、本当に、本当に美佳は自慢の恋人だった」

 過去形で言わないで欲しい、自慢だったんならそのまま自慢し続けていて欲しい。

「じゃあどうして」

「……初恋の人が、」

 初めてのキスをした駐車場で、ミルクティーの缶に時々口をつけながらわたしは湯野っちに顔を向ける。でも彼はこちらを少しも見ようとはしなくて、ハンドルを見つめたまま、ぽつりぽつりと話す。

「……小中と一緒だった初恋の人に一昨年の成人式で会って。そのときはこの人を好きだったんだよなって思っただけだったし、向こうも東京でパンの修行をしているとかって言ってて、楽しいし帰ってくるつもりはないからって言うから、メールのアドレスだけ交換したんだ。でも今年に入って、こっちに帰ってきてるって。なんか修行してたところのオーナーだかが元々こっちの人で、こっちにも店を作るからどうせなら戻ってくればってことになって、で、来たけどいろいろ悩んでるって」

「それって、その初恋の人と付き合うことになったとかってことじゃないよね?」

「違う、全然向こうは俺の気持ちなんか知らないと思うし、ま、中学のときに告白はしたけど振られてるから」

「その人と付き合いたいから別れるの?」

 わたしと。

「別に付き合いたいとかってわけじゃ……でもこの前あんまり落ち込んでるっていうから会ってみて、やっぱり好きなんだなって思って。いや、美佳のことも大事だし好きだし、悩んだんだ。本当に悩んで、林さんとかにも相談して。……だけど、他の誰かも好きかも知れない状態で、美佳と付き合い続けていくのって間違ってるだろ? そんなの、失礼すぎる」

 知らず知らずのうちに手から力が抜けていた。ミルクティーの缶を落としそうになって慌てて握る。ちょっと待って。初恋の相手が現れて、別にその人と付き合うことになったわけではないけれど、わたしへの想いのうちの何割かがその初恋の人にも向かってしまっているので、それは失礼だからお付き合いを解消したいと。そう聞こえるのだけど、そのままの意味で受け取っていいものだろうか。

 と、いうか。

 真面目すぎるでしょう。

 そんなの。向こうに告白してダメだったら何食わぬ顔をしてわたしのところに戻ってきて、関係を続けてもいいわけであって。湯野っちの真面目さは愛しいけれど、こんなところまで真面目でなくてもいい、むしろそこは不真面目であってほしい、そして彼の初恋の相手が湯野っちを相手にしなければもっといい。そうしたらすべてが丸く収まるのでは。

「あいつを、支えてやりたいって思っちゃったんだ、それは美佳に対するひどい裏切りだろ? 自分が自分で大嫌いになったんだ、美佳に悪くて悪くて、こんな男と付き合ってちゃいけないって」

 だから、別れよう。

 湯野っちは涙声になってしまっている。わたしは自分が振られている立場なのに、思わず彼に手を伸ばして頭を撫でてしまった。ぴくりと反応はしたけれど、彼はうつむいてこちらを見ることはなく、されるがままになっている。

 他の男が口にしたら、どれだけ陳腐なセリフか。

 女友達が付き合っている男にこう言われたと相談してきたら、何様のつもりだってぶん殴ってやれ、と言ってしまうだろう。

 だけど相手が湯野っちだと、そんなバカみたいなことを真剣に口にして泣きそうになっているのが彼だと、真面目すぎて動けなくなっているのが痛いほど分かるような気になってしまってこちらまで黙り込んでしまう。

 彼の、この真面目さが好きだった。

 一緒に買い物に行って、エスカレーターに乗ろうとしていたおばあさんに、ぶつかって謝りもせず先にさっさと乗り込んだおじさんをつかまえて文句を言ったときも、ご飯を食べに行ったカフェでグラタンの中が冷たいと言ったら、店員さんを呼んで「新しいのを出してくださいとは言わないけれど、もう一度温めてきてもらえませんか」と言ってくれたときも、初めてのキスで雰囲気に流されて「このままホテルに行ってもいいよ」と口走ったわたしに、それはそれは切ない顔をしながら、「今だと気持ちだけでつき進んじゃうから、美佳さんのこと大事にできないと思う、だから今日は我慢する」と微笑んだときにも、その真面目さに照れくささを覚えるくらい、いいな、と思ったのだ。

 そういえばあの頃はわたしのこと、美佳さんって敬称付けで呼んでいたっけ。

 彼の髪を撫でながら、いろいろを思い出す。サークルの帰りにお茶を飲んで行くという仲間とこっそり別れて、ふたりでご飯を食べに行ったこと、同じ県内出身ではあるけれど、実家は南の方にある彼が、氷祭があるからと連れて行ってくれたり、通っていた小学校に連れて行ってくれたり。うちの炊飯器のコードが千切れて、それを直してくれたこともあった。今まで付き合った男の人で、そんなことができたのは湯野っちだけだった。お母さんがいたけど、ちゃんと挨拶もして、にこやかにお茶を飲んで帰って行った。ただドライブするだけなのも楽しかった。無意味に夜の高速道路に入って、サービスエリアで缶のコーヒーや紅茶を飲んで。夜遅くに女の子が出歩くのは、と渋い顔をしながらも、会えると嬉しいなんて結局顔をほころばせて、どうしよう帰したくないな、ずっと一緒にいたいな、なんて言われたらそれはもうこちらだってとろけるしかなくて。それでも彼は実家暮らしのわたしを少なくとも九時までには家に送り届けてくれた。ご両親の印象を悪くするのも嫌だし、と少し照れた顔をしながら。

 幸せだったのに。

 幸せだった、あれは永遠に続くと思っていた、彼のやさしい笑顔はずっとわたしだけのものだと思っていたのに。

 どうしていきなり横から現れた女に、ふたりの仲を引き裂かれないといけないのか。いや、横から出てきたのはわたしの方なのかしら、向こうからしてみれば小学校からの付き合いらしいし。だけど付き合いといっても内容が違うから、やっぱり横から飛び出てきたのはその女の方だ。ちょっと若いからって。……湯野っちと同じ年ということは、二十二歳。わたしより七才も年下。やはり男は若い女の方がいいと考えるものなのかしら。年上、ということで、しかも三十間近、ということで弱気になる。結婚したいオーラが出てしまっていて、まだ若い彼をびびらせてしまったとか。だけど結婚のけの字も口にしないでいたはずだけど。男は結婚を口にすると逃げるものだと友達みんな言っていたし。それに、どちらかといえば彼の方が俺は子供早く欲しいんだ、とか言っていた記憶があるんだけど。

 いろいろ考えすぎて、急に鼻の奥がつんとした。

 痛いような苦しいような、つかえるものがじわじわと食道辺りで膨らんできて、胸を苦しくさせる。

 なんだか悔しいから泣かないようにと力を入れていたら、喉が大きく変な音を立てた。ぐう、とか、ごお、とかそんなような音。それで張っていた気が一度にゆるんで、あ、と思ったときにはもう鼻がぐずぐずてきて、視界がゆるゆるに潤んでくる。ああもう、とつぶやく口がへの字になって、鳴った喉の音に驚いた湯野っちがやっとわたしの顔を見る。細いというよりは縦横に小さめの目は黒目がちで、小動物を思わせる。悪いことなど考えていなさそうな瞳に、わたしが映っているのかもしれないけれど覗き込むほどの接近はもうできない。そんなに近付くのは、くちづけるときだけだから。

 隣にいて、こんなに近くにいるのに彼はもうわたしの恋人ではなくて、だからキスしたりしてはいけないと思ったら、悲しかった気持ちが再加熱して燃え上がってしまった。涙は堰を切ってあふれだす。嫌だ、と駄々っ子のようにくり返す。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。湯野っちがわたしの恋人でなくなるなんて、嫌だ。

「わっ、わたし、と、つきあっ、付き合ったまま、はっ、初恋の、ひっ、人をすっ好きでいれば、いい、いいじゃんっ」

 泣くのをそれでも我慢しようとして呼吸困難になる。しゃっくりがでてしまって、ひどく格好悪いことになった。

「にっ、二番目でっ、いっ、いいからっ、すっ、好きで、いてっ」

「ごめん、美佳、泣かせてごめん、本当にごめん。美佳を好きな気持ちは変わらないんだ、本当に。好きだからこそ、他に気になる人がいる状態でなんて、そんな不真面目な気持ちで付き合うことなんてできない……」

 喉の奥が焼けたように痛む。しゃくりあげるとひりひりする。

「どっ、どうしても?」

「どうしても、なに?」

「わっ、わたし達、つっ、付き合い続け、らっ、られないの?」

 本当にごめん、と涙声で彼は言って、それからふたりで声を上げて泣いた。いい大人がなにをしているんだか。だけど泣くしかできなかった、その女ここに連れてきて一発殴らせなさいよ、と言うこともできたけれど、殴ったからってどうにかなるわけでもない。

 今まで湯野っちで埋まっていたわたしの時間は、ぽっかり空いてしまう、その隙間をなにで埋めればいいんだろう。湯野っちがいなかった頃のわたしは、なにをしていたんだろう。彼はもうわたしの一部になってしまっていて、別れるなんて言われたからって、はいそうですか、と元のわたしに戻ることはできない。腕一本持っていかれるようなものだ、足一本もがれるようなものだ。

 毎日のメールも寂しい夜に理由もなくかける電話も、全部なくなる。

 もう、声が聞きたいだけで電話してはいけないし、顔が見たいだけで会いに行ってもいけない。友達ならまだ許されるのに、元、がつく恋人にはそんなことをしちゃいけないのだ。

「……いやだ、湯野っちと別れたくない」

「俺だって、」

「だったら、だったら付き合ってようよ、そんな、初恋の人のことなんか気付かない振りして、今まで通り楽しくやっていこうよ……」

 まだ、気に入らないところがあったとか好きになれない部分があったという理由で別れ話を持ち出される方がマシなのに。それだったら直す努力もできる、もう一回やり直すチャンスを土下座したって泣き落としたってもらうことはできるのに。他の女が気になっただとか。初恋の相手が出てきてしまっただとか。そんな、こっちが戦えない理由で別れ話をしないで欲しい。

「……嘘。泣いたらすっきりした、いいよ別れてあげる。しばらくは顔も見たくないけど、いつかお互い思い出になったときに会えたら、笑っていようね」

「……うん、ごめん、美佳、本当に好きなんだ、その気持ちには絶対、嘘はないから」

「好きとか言わないで、決心揺らぐから。好きならなんで付き合っていられないのって、暴れちゃいたくなるから」

 お別れのキスをしたい、と言ったのに断られた。こんなところまで真面目で嫌になる、でもそういう彼が好きだった。仕方がないから握手だけした。車の中で泣いているだけで終わってしまった最後のデートは、湯野っちの最後の奢りでご飯を食べに行って締めくくられた。一緒によく出かけていた串焼きの店に行ったけれど、もちろん注文したものの半分以上は胸が苦しくて食べられなくて、うんとたくさんの料理を残してしまった。最後に食べたいものを聞かれたとき、湯野っち、と言ったのに苦笑されて流されたからわたしも笑っておいたけど、本当に食べたかったのは彼だった、舐めてしゃぶって噛み付いて、わたしの中に少しでも彼を残しておきたかった。


 2


 失恋して泣き喚いて一晩明かして、腫れたなんてものじゃないまぶたでさすがに人前に出るわけにいかず、仕事を休もうと思ったけれど無理だった。父が許してくれなかった。

 わたしの就職先は実家の和菓子屋で、けれど特に名が通っていたり伝統があったりするのではなくて、結婚式場にお赤飯を下ろしていたり、ギフト用のマドレーヌ、パウンドケーキ、アップルパイなども焼いておいてあったりする「和菓子屋だけどリクエストがあればなんでも置きますよ」という懐の広い、もしくは和洋折衷、いやただ単に節操のない店だ。今は祖父が和菓子、父が洋菓子を作っていて、どちらも作る職人さんがふたりと、パートのおばちゃんがひとりいる。わたしと母と祖母は店番兼配達係で、遠いところに大量発注などがあると父が運んだりもする。家族経営の小さなお店だ。兄がひとりいるけれど、奴はなにを思ったのか銀行に就職して、日本中を転勤して歩いていた。落ち着かなくて彼女を作る暇もないらしい。

 跡継ぎの問題とかを考えないこともない。だけど祖父も父も店を次の世代につなげていくことはあまり考えていないらしく、婿を取ってお前が継げ、とも言われたことはない。わたしも、菓子職人とのお見合いを持ってこられても困る、と常々思っていたけれど、今なら持ってきてくれても構わないのに。真剣に考えるのに。でも恋を忘れるための恋をすると泥沼にはまるそうなので、やっぱりやめておこう。目が覚めたときの後悔が尋常ではなさそうだし。

「あれ、美佳の目はどうした、虫にでも食われたか」

 お店に出たわたしにびっくりして祖母が言う。泣き腫らしました、とも言えず曖昧に笑っていると、母がもう花粉症の時期かしら、と勘違いして同情してくれた。確かに、わたしの花粉症は毎年ひどいけれど。

「あー、痒いと思ってて、夜すごく擦っちゃったんだよね……」

 嘘も方便、これ幸いと母の誤解に乗っかって花粉症のせいにする。その顔でお店に出てもお客さんをびっくりさせるから、裏で品出しの梱包でもしてなさい、と言われてそうすることにした。父が焼いたマドレーヌを個別の袋に入れて箱詰めしたり、パウンドケーキを真空パックの機械にかけたりしてこれも箱詰めしたりする。そして包装紙をかけておくのだ。

 祖父は口数が少ないけれど、わたしのことを一番可愛がってくれている。目が腫れているわたしを心配して、あんこの味見だの大福の味見だのとしょっちゅう厨房脇にある事務室になにかしら運んできてくれる。うちは一階の手前が店舗で、裏が厨房とその隅の一角がちょっとした事務所になっている。ファックスや電話での注文も入ったりする。遠方からでも送って欲しいと言われれば、日持ちのする洋菓子だけは代金引換で送ったりするけれど、和菓子は祖父が冷凍して送るのを嫌がるのでお断りしている。だけど滅多に送って下さいの注文が入ることはない。

 マドレーヌを箱詰めして、ちょっとしたしおりを挟みこみながら、ぼんやりと湯野っちを失ったことを思い出して噛み締める。もう彼はわたしの恋人ではない。胸にはもやっとしたものが溜まって重たくなっているのに、逆にぽっかりとはっきりと、喪失感がどかんと大きな穴も空けている。重たいのに空っぽ。

 じわじわと悲しみは絶え間なくにじみだしてきていて、身体を常に包みこんでいる。別れた男なんて、死んでしまったのとそう変わりはない。心から抹消してひたすら忘れることに専念して、うっかりばったり会ってしまったりしながらも時間が経って平穏な気持ちが戻ってくるまで待ち続ける。そしてできればもう金輪際会ったりしない。

 元彼と友達になれるという人がどうしても不思議で仕方ないのだけど、世間では一般的なんだろうか。恋人と友達は根本的に関わり方が違うから、あんな顔もこんな顔も見せてしまった恋人と、あれはなかったことにして友達としてもう一度やり直しましょう、なんてことはわたしは絶対にできない。基本、友達の前では泣かないし、友達の前でしか愚痴は言わない、役割がまったく違う上に友達とはセックスしないし、どこをどう触ると感じるのか、なんて知られている人と、友達になんてやっぱりなれない。

 だから、わたしは恋人と別れると、その人は死んだも同然となる。

 死んだも同然、までの道のりが長いのだけど。


「いいじゃん、元彼なんて欲求不満の解消道具よ、もちろん身体の。きゃはははは」

 狙っていた林さんを、サークル内でも地味な眞由美に掻っ攫われて悔しがっていた彩子は、もう平気な顔で焼き鳥をかじっている。それでも美容のために、と軟骨ばかり注文しているのが彼女らしい。

「別れて正解、湯野なんかに美佳は絶対絶対ぜえええええったいもったいない! あんな真面目なの、うっかり浮気でもした日にゃ殺されかねないって」

「うっかり浮気なんかしないって」

「あたしと違うもんね、あっははははは。あのね、大体その理由ってなによ、マジで? 初恋の相手とかっていって、キモいんですけど。女振るときにはね、悪役に徹しないといけないのよ、男ってもんは。うんとうんと嫌われてやって、女が次の男に目を向けようって思うくらい完璧に嫌われてやんないといけないのよ、それをなにあんた、一緒に泣いただって? 美佳が別れてあげるって言っただって? 最低最低、なにそれ、本っ当にそんな男別れて大正解、そもそもあたし、湯野の顔大嫌い! なにあののっぺり顔」

 とりあえず彼と別れたことは、サークル内でも眞由美と同じくらい仲のいい彩子にだけ報告してみた。つけまつげばさばさ、化粧はラメ使いが派手で、もともとの顔立ちも彫りが深くて典型的な美人顔、でも中身はオッサン、オバサンの類な彼女は、口は悪いけれど一緒にいて気が楽だ。存在自体で好き嫌いが分かれるので、敵も多いけど味方も多い。友達は圧倒的に異性が多い。

「っていうか! 美佳ってば、王子と眞由が付き合ってたこと知ってた? 知ってたよね、あんた驚いてなかったよね、送別会で!」

 林さんを王子と呼ぶのは違和感があるけれど、サークル内では一番白馬が似合いそうじゃん、と彼女は言う。王子が他の女の王子になっちゃうなんて予想外だった、と嘆いているけれど。

「いや、はっきり知っていたわけじゃないけど……だって、彩子ってば林さんのこと本気だったわけ?」

 わたしより年齢はひとつ年下だけど、社会人歴は先輩の彼女はわたしを年上と思っていない節がある。そんな彩子とは三年ほどの付き合いになるけれど、その間ずっと彼氏いない歴を重ねていたわたしと違って、四人ほど男が変わっていた。どれも似たような外見の男で、小奇麗で連れて歩くのに恥ずかしくないような今時の彼氏、という感じだった。美容師だとか服屋の店員だとかそんなのばかりで、林さんは確かに格好良いとは思うけれど彩子の歴代彼氏と比べるとかなりタイプが違う。

の「本気本気、結婚と恋愛は別じゃん? 恋愛だけだったらそこらのそれなりーな男で間に合うけどさ、結婚考えたら違うでしょ。やっぱ職がちゃんとしてるとか、先を見通せる人でないと。恋愛は個人責任だけど、結婚ってそれぞれの家が関わっちゃうからね」

「おっと。まさか彩子からそんな発言が飛び出そうとは」

「去年一昨年とうちの兄ちゃん達が結婚したからさ、そこら辺は見る目養わせていただきましたわよ。だって、あたしの好き系な見た目重視の男達なんて、はっきり言って生活力ないもん。そりゃ、一緒になっちゃえば本気出して生き始めるかもしんないけど。でも結婚してみたらやっぱダメ男でしたってのは困るじゃん、簡単に別れるわけにもいかないだろうし、っと、ごめん」

 別れる、の言葉に反応したわたしに両手を合わせて拝む格好を見せた。とりあえず食う、不味かったら捨てる、気に入ればまた食ってみるってのでいいのよ男なんて、と言っていた彩子も、結婚となると考えは違ってくるのか。結婚条件としては、年下過ぎる、ということを除けば湯野っちは最高だったと思うんだけど、そんなことを穿り返してめそめそしていても仕方ない。だけど傷はそんなに早く癒えるものでもないし、めそめそするのも仕方ない。

 軟骨入りつくねに、みじん切りのネギがたっぷりと入れられた卵の黄身をべったりつけながら、彩子は突き出しのキャベツを左手に、わたしの分までせっせと食べてくれている。万年ダイエット女の彩子が、少しでも元気付くようにといろいろ注文してくれてわたしが食べない分は全部平らげている。口には絶対出さないけど、彼女なりに気を遣ってくれているのが分かって少し嬉しい。

「でも本当に、美佳には他のいい男が絶対いるから」

「じゃあどこにいるのよ、今すぐそいつをここに出してよ」

「えー、あたしの紹介でいいの?」

「……いらない。やっぱいらない。わたし、彩子は大好きだけど彩子の男の趣味は理解できない」

「きゃー、失礼な女! あたしだって美佳の趣味は理解できないもん」

 カシスサワーをちびりちびりと飲みながら、わたしは大きなため息をつく。みんなに俺の女宣言してもらって嬉しかった過去があるということは、彼の女でなくなってしまったときにその発言を撤回しないといけない作業がある。それがもう、恥ずかしいし面倒だし辛いしで、ついつい弱気な言葉がこぼれる。

「……わたし、サークルやめちゃおうかな。あー、振られた女って言われたくないっ」

「美佳が振ったことにすりゃいいじゃん」

 それは湯野っちからも言われた。わたしが振ったことにしてくれていいから、と。言われてそのときはやさしい人だと思ったけど、それって振った人間の傲慢発言、もしくは哀れみの発言でしかなくて、今頃ちょっと腹が立ってきている。

「……そういう問題じゃないもん」

「まあね。彼氏と別れると、世界の終了を宣告されたような気分にはなるよね。でも美佳がサークルやめちゃうと、あたしがつまんなくなるからそれは却下。しばらく休んでるのはいいよ、傷が癒えるまではさ」

 自棄酒も愚痴もみーんな付き合ってあげるから、無理に笑おうとしないでちゃんと泣いて恋を清算しなさいよね、なんて恋愛達人のような失恋達人のようなことを言ってくれるから、わたしはもううるうるきてしまう。

「あー、今更眞由美の結婚が祝福できそうになくなってきた」

「いや、それはあんた、あたしだって祝福してあげるつもりなんだから、美佳も頑張って祝福してあげなさいよ」

 湯野っちのそうない悪口を吐き出したり、彩子がそれに突っ込んだり笑ったり、サークルの人の噂話をしたり、夜がどんどん更けていくのにほっとする。失恋した後で怖いのはなんといってもひとりの夜で、昼間は忙しく働いていたり人と接していれば泣いているわけにもいかないからなんとかなる。だけど夜はダメだ。ひとりで持て余す長い時間。いいことも悪いことも思い出して、告白の言葉も別れの言葉も繰り返し脳裏に浮かんで、死にたくなるほど後悔したり叫びたくなったり落ち込んだりする。最悪。それをしないために、こうやって長い夜を付き合ってくれる友達の存在は偉大だ。飲み疲れてふらふらになって帰ったらなにも考えないで寝てしまえれば、また朝がやってくる。そうして少しずつ薄皮をはぐように失恋の痛みが薄れていって……というのは今までの経験上も分かってはいるけれど、その道のりが長い長い。

「うわあああん、なんでそんないきなり初恋の相手とかが現れちゃうのよおおおおお、ずるいじゃん、わたしのことまだ大好きとか言うなら、別れなくたっていいじゃんんんんんんっ」

「だからさ、相手はお子様過ぎて美佳の良さにちっとも気付かなかったんだって、あんな奴にあたしの美佳はもったいない!」

「わああああん、彩子おお、彩子おおお、もうわたしと彩子が結婚しようよおおお」

「いいよ、そうしようそうしよう、あたし子供産むの痛そうで嫌だからさ、美佳が産むといいよ! 一緒に働いて、美佳ご飯作ってね。あたし、お風呂掃除得意」

 食欲がないからお酒だけが胃に落ちていく。身体に悪いとか考えてる場合じゃない、先に元気にならないといけないのは心の方だから。健全な肉体に健全な精神は宿るとかって、失恋したら身体鍛え出す奴とか信じられない。悲しいときはとことん自堕落に、そしてそんな自分ではいけないと気付いたら生活も精神も正しい方にちょっとずつ進めばいい。


 閉店まで焼き鳥屋で飲んでから、平日だというのに彩子は次のバーまで付き合ってくれた。明後日も一緒に飲んでくれるという。明日は仕事の都合でどうしてもダメらしい。

「友達とかとの約束ならブッチするんだけどさ、ごめんね。明日、研修会と会議とがあるんだよね」

 ネイリストをしている彩子は最近チーフになったらしく、後輩を抱えて仕事も忙しいようなのに、失恋したわたしになんか付き合ってくれる。湯野っちと付き合ってたときには彩子と全然お茶したりご飯したりしなかったのにな、とちょっと反省する。

 飲酒娘ふたり組は駅で別れて、ぽくぽく家路についた。うちは駅から徒歩十五分。彩子のアパートは徒歩二十分。またね、と手を振ってから五分くらいして、携帯のメール着信音が流れた。彩子からかな、と何気なくスモークピンクの薄型携帯を手に取る。と、ディスプレイに表示された名前は湯野浩人で。酔いなんか一度吹っ飛んで、倍ぐらいになって返ってきた。心臓がひと跳ね、肋骨をへし折って胸から飛び出しそうなほどばくばくする。

 ちょっと待って今あんたを忘れるために彩子と必死で、とアルコールがぐるぐるする頭で悪態を吐きつつ、手の方はいそいそとキーをいじっていた。やっぱやり直そうとか? この前はどうかしてたごめんとか? この際、初恋の人に振られてしまったのでまた付き合い直してくださいってのでもいい、それでもいい、プライドなんてクソ食らえだ、とメールのフォルダを開くと。

件名、遅くにごめん

本文、もう寝ちゃってるよね

 以上。

「ちょっとちょっと、なにこれなにこれ!」

 大きな独り言で不審な人になりつつ、心臓のどきどきは止まらない。頭がぽわわんとしている、考える間もなく指が勝手にメールを返信している。

 件名、まだ。

 本文、寝てないけど。

 パタンと携帯を勢いよく折りたたんで、そのままバッグに突っ込んだ。もう二時も近いのに、彼はどうして起きているんだろう。やっぱりわたしと別れたことを後悔して眠れないとか。わたしと付き合っていたときの楽しさを忘れられないでいて、寄りを戻したくなったとか。いやいや、だけどそんなことはない、都合のいい解釈ばっかすると後が大変。また傷付いたりして。あの最後のデートのときに貸し借りしていたCDも返したし、本も返してもらった。クリスマスのプレゼントはそれぞれ結局持っていようということになったけど、もうわたしはあのネックレスを身に付けることはないだろう。すっぱりきっぱり終ったことなのだから、あまり期待してはいけない。というよりも、別れた女に連絡するとかって、傷を広げるだけなんだからあんまり軽々しくやらないで欲しいものよね、と思っているところに着信音が鳴った。携帯電話、メール受信のものではないということは、電話で。そして、この音楽は湯野っちだけに設定された、彼専用の着信音。星に願いを。解除し忘れていた。

「……もしもし?」

 焦って取ったら浅ましい気がして、わざとゆっくり電話に出る。ちょっと不機嫌そうな声を作って。

『……ごめん、こんな時間に』

 やわらかな湯野っちの声。最後に会ってから一週間ちょっとしか経ってないのに、やたらと懐かしい声に聞える。ちょっと元気のない感じで、自分が意地悪な声を出したせいかしらとこっちがおろおろしたりして、それからじんわりと会いたい気持ちが胸の奥から湧き上がってくる。まずい、目が潤んできてしまった。

『なに、してた?』

「彩子と飲んでたの、今まで。駅から歩いて家まで帰る途中」

『危ないって、こんな夜中に女の子ひとりで歩いちゃ。……迎えに行こうか?』

 そういうことを。

 言ってはいけないんじゃないかしら。

 きゅんと胸が痛むから、わざとまた冷たい声を作った。湯野っちにわたしを心配する権利なんてもうないんだから、と。彼は、ああ、と深いため息を電話の向こうで吐いて、でも友達としてでも心配だよ、と言った。友達。だから、わたしは別れた男を友達にできるほど心が広い女ではない。

『彩子さんに、俺達のこと話してたの?』

「俺達?」

『あ、いや、その。……別れたこと』

 これはやり直したいの電話ではないな、と悟った途端に切りたくなる。せっかく失恋を忘れようと健気に女友達と飲んだり、幸せだったことを思い出させる長い夜に怯える毎日をどうにかやり過ごしている元カノに、こいつはなんだ。

「用事があって電話してきたんじゃないの?」

『あ、うん、ごめん。なんか美佳……さんと話すの久しぶりで、うん。図々しいお願いがあったんだけど、なんか本当に図々しすぎるって電話しながら後悔しはじめて、だから、いいんだ』

 美佳さん、だって。敬称を付けるまでにあった間が、淋しい。迷ったんだろうな、と思うともっと淋しい。

「図々しすぎるってのはわたしが決めることじゃない? そんなもったいぶったような言い方されて、気になるじゃない。なによ、話してみれば?」

『うん、でも、』

「ああもう、気持ち悪いな、言ってよ、言ってから怒られるのと今すぐ怒られるの、どっちがいい?」

『結局どっちでも怒るんだ』

 彼の声が楽しそうに揺れた。ああ、もうこの声も他人なんだ、と思いつつ、言いなさいよ、とちょっとやさしい声を出す。

『うん、あのさ。美佳……さんに、話相手になってあげて欲しい人がいるんだけど』

「話相手? ……もしかして、例の初恋の人とかって言うんじゃ……」

『あ、やっぱり図々しいよね、ごめん、本当にごめん』

 しかもこんな夜中に本当に本当にごめん、とまた湯野っちの声は恐縮して硬いものになってしまい、彼の声をもう少し聞いていたかったわたしはちょっと待ってと言ってしまった。さっきは自分から切っちゃいたいと思った電話なのに、自分で自分の心が分からない。その人の話相手になってあげたら、湯野っちの傍にいられるかしら、とやたらとしおらしく考える自分と、あんたがわたしになにをしたのかどれだけ傷つけたのか胸に手を当ててじっくり考えてからもう一度言ってみなさいよ、とケンカ腰の自分とがぐるぐる混ざる。

 とりあえず考えさせて、と言うのが正解だろうと思っていながら、口からは「とりあえず詳細をメールしといて」と言ってしまっていた。

『詳細って?』

「……いきなりふたりきりで会うわけじゃないでしょ」

 なにが悲しくて自分が振られた原因に会わないといけないんだろう。でも湯野っちの頼みだし、もしここで広い心を見せたら彼が「やっぱりこんな素敵な女性と別れてしまった自分はバカ」とかって思い直してくれて……という打算がないわけでもなくて、歯切れも悪くそのくせ電話は切りたくなくて彼の声を聞いていたいような、そこに酔っているのもプラスされてぐちゃぐちゃな気持ちのままとぼとぼ歩いていたら、家に着いてしまった。それなりに外灯もしっかりある明るい道とはいえ、夜だったし変な人に絡まれたりしなくて良かった。電話してたら家に着いたよ、と言うと、湯野っちが良かったね、と返す。

『電話してたら何かあったとき、叫んでくれればすぐ助けに行けるし』

 またこいつはそういういい人発言をして。腹が立つのと照れくさいのでぶっきらぼうに、切りたくないのに「もう切るね」と言ってしまう。それじゃおやすみ、とやさしい声なんか出したくせに結局湯野っちから電話を切ってしまって、わたしは夜の中にひとりぼっちで取り残される。暗い夜がうんとよそよそしい。泣きたい気持ちがまた大きくなる、湯野っちのバカ。

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