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期間限定のお嬢さま  作者: 駅員
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第六話 <弟視点>

「――私は行くよ。連れて行くよ」


 うなだれる俺を包む霧雨のように、冷たくひそやかに姉貴の声が降り注ぐ。


「あの子を連れて。あなたたちからは見えないところに行くよ」


 決意を込めた宣言だった。


「大丈夫だよ。ソフィアは遠いから。ばれても、ちーちゃんたちには関係ないから。お姉ちゃんだけの問題ですむから」


 目を見ずともわかる。姉貴はすでに決めている。彼女の中で決定している。


 こうなった時、俺に姉貴を止めることはできない。彼女はかたくなに自分の信じることだけを行い、またそれが正しいと信じ続ける。

 これから先、詩衣と、詩衣の両親の説得に熱心に取り組むんだろう。そして詩衣がソフィアに来たなら、詩衣に対して最大限の援助を続けるんだろう。


 それは同情心とか、世間体とか、そんなもののためじゃない。


 俺たちのためじゃない。


 詩衣が社会的な弱者だから。誰から見ても、『弱い』存在だから。自分よりも『弱い』から。姉貴が『弱い』と認めた者だけが、唯一彼女にとって安心できる存在だから。


 だから彼女は、詩衣を連れて行く。後に残された俺たちのことなんか、考えもしないで。


「……姉ちゃんはいつも逃げてばっかりだな」


 怒りとか寂しさとか理不尽さとか切なさとか。その他にも形容しがたい色々なもやもやしたものが胸に込み上げてきて、煙が体に充満してるみたいに息が苦しくなった。だから顔を上げ、姉貴を見据えながら、少しでも楽になるよう、もやもやの一部を言葉に変換してやった。


「詩衣がお仲間になってくれてよかったな?」


 口の端を冷ややかに捻じ曲げて、少し顎を引き、俺は上目づかいに姉貴に言った。


「ソフィアっていう逃げ場があってよかったなぁ」


 もう一人の俺が慌てて止めようと心の中で手を振るが、


「あそこにゃ俺たちはいねえもんな。女しかいねえもんな」


 その手がGOサインであると勘違いしたかのように、止まらない。


 どこかの馬鹿が言っていたことが不意に鮮烈に耳に蘇り、ますますもやが濃くなっていく。

『「お嬢さま」とは期間限定の美だ!』

 嬉しそうに、誇るように自らの価値観を主張していた鈴木の言葉が、髪を焦がした時のように独特の臭気を漂わせながら俺の胸に立ちこめる。


「それでもなぁ、あんたのお遊びは期間限定なんだよ。『ごきげんよう』なんて馬鹿なこと言って遊んでられるのは今だけだ。猶予期間が終わったら、あんたの『世界』はそこで終了なんだ」


 時は無慈悲に流れる。傷がまだ癒えずとも、心が俺たちを受け入れられないままでも。


「あんたを守ってくれるものなんか、なくなるんだよ。ざまあみろ」


 その時姉ちゃん――、あんたは、耐えられるのか?



 瞬きすらせず俺を見つめていた姉貴の体が、その瞬間、ガクンと傾いだ。


「……なぁ、姉ちゃん。なんで姉ちゃんが俺のこと『ちーちゃん』って呼び続けるか、自分で理由わかってるか?」


 蟻地獄の主が俺の口の前で手招きしているかのように、言ってはいけない言葉が次々とこぼれ落ちる。落ちたらもう、戻せないのに。


「なんで『ちーちゃん』としか呼ばないのか、本当に理由、わかってるか?」


 あの日までは、ちゃんと『篤志あつし』と呼んでくれることもあった。俺が『ちーちゃん』呼ばわりされることを嫌がりいつまでも返事をせずにいると、『篤志。……怒った?』、悪戯を叱られた子供のように俺の顔色を窺いながら不安そうに呼び直す、そういうことも何度かあった。 


「もともとは、俺が昔チビだったからそう呼ぶようになったんだよな。でも今の俺、姉ちゃんから見てどんなだ?」


 姉貴が帰省する度に、姉貴の前に立つ俺はどんどん大きくなっていく。


「ぜんぜん『ちーちゃん』じゃないよな?」


 対する姉貴は、俺の目にはどんどんどんどん小さくなっていく。


「姉ちゃんにとって……、俺ってなんだ?」

「……弟、だよ……?」


 かすれた声で姉貴が答える。


「君は私の弟だよ? ……なに言ってるの? …………ちー、ちゃん?」

「まだかろうじて、な?」

「……ちーちゃん?」

「姉ちゃんにとって、俺はまだかろうじて『弟』で、『肉親』で、――『男』じゃあない。でも俺の中のその部分は、確実に増えてってるんだ。だから」


 俺はいっそ優しいとさえ言えるほど落ち着いた声で、言った。


「あんたは俺が怖いんだよ」


 姉貴に何があったのか、何が姉貴を変えたのか、俺は何も知らないし、誰の口からも聞いていない。

 ただ、いつもいつも聞こえていた。

 二年前のあの日から。姉貴が靴を片方なくして帰って来たあの日から。


『あなたが怖い。そばにいるだけで震えるほどに。足音を聞くだけで身が竦むほどに。怖くて怖くて、死にそうになる』


 姉貴の声が、表情が、そう語っているのが聞こえていた。


「怖く……なんか……」


 虫の息で反論する姉貴の肩に、できるだけそっと手を置いた。


「ほら、こんなに震えてるだろ」


 俺の手の下、姉貴の体は壊れた洗濯機みたいに制御不可能に揺れていた。


 *


 昔はこうじゃなかった。もっと互いに無関心で、普通の姉弟のように、適度な距離を置いていた。でも今の姉貴には、その距離が思い出せなくなっている。

 姉ちゃん。あんたがそんなだから。あんたが俺との距離に戸惑うから、その距離ってやつがいったいどのくらいあったのか、今では俺にもよくわからなくなっている。姉ちゃんのせいで俺まで戸惑ってるんだ。

 わかれよ。

 あんたが俺を怖がるほどに、俺にはあんたが『女』に見えちまうんだ。


 *


 こわばった姉貴の肩からすぐに外した手を、俺は固く握りしめて、そのまま手のひらに寄った皺を眺めていた。その俺のすぐそば、姉貴は交差させた手で自分の両肩を抱きしめて、体の震えを止めようとしていた。


「怖くないよ……」


 震えながら、姉貴は俺にあははと笑ってみせる。


「ちーちゃんのことなんか、ぜんっぜん怖くないよ。これはあれだ。今日のストーカーのこと思いだして、ちょっとぶるってるだけなんだよ。だって私、現場に居合わせたんだもん」

「…………」

「あそこにいたんだもん。そりゃ怖いさ。震えもするさ。なのになんで君がそんなふうに言うのか、お姉ちゃんわかんないよ」

「……」


 返事を返さない俺に、姉貴は困ったような笑顔を向けて、小首を傾げた。


「ごめん。お姉ちゃん、今日ちょっと言いすぎたね? 『お姉ちゃん』なのにね。ちーちゃんが気を悪くするのもしょうがないよね」

「……」

「気を悪くさせたから、ちーちゃん怒ってそんな変なこと言っちゃったんだよね」

「……」


 俺の沈黙が姉貴を追い立て、恐怖心を加速させていく。


「ごめんね、まだ怒ってる?」

「……。……いや……」


 握っていた拳を開く。血の気の失せた手のひらには爪の跡がくっきりと残されていた。


「俺も……、変なこと言って、すまなかった」


 気だるい脱力感に全身を覆われる。俺の答えを聞いて、姉貴は震えの残る唇で「気にしてないよ」と笑った。

 笑って、――そして、何もなかったことにした。


「ね、ちーちゃん」


 姉貴はそれまでの会話を忘れたように、ことさら明るい声を出してみせた。


「ちーちゃんの変な誤解はさておくとして、私は君に告げねばならないことがある」

「……んだよ」


 姉貴は俺をびっと指さした。


「今日君は見せ場を逃したんだよ。あのピンチの時ちーちゃんが、『姉ちゃんっ、大丈夫かっ?』って必死の形相で飛び込んで来てたら、きっと今頃私はちーちゃんの『姉ちゃん』から『お姉さま』に変わっていたね」


 この姉貴の態度には、既視感があった。


「……意味わかんね」 


 そう呟きながら、ああ、と納得する。


「君はどこかでストーカーのこと聞きつけてて、それで詩衣の家に行った私のことを心配して、こっそり後をつけて来てたんだよ」

「……そうかよ」

「そうなのだよ」


 うんうんと頷きながら、どこまでもいつもの調子で続ける。


「そこで君は姉といとこの窮地に気付き、自分が弱っちいのもかえりみず単身無謀に駆けつけるんだよ。なのに助けに入ったはずの君は犯人に返り討ちにあってだな、瀕死の重傷っぽいものになってしまう」


 俺は姉貴の台詞の途中で席を立ち、廊下に出た。


「だんだんまぶたが閉じて行くちーちゃんに、私は嗚咽しながら言うんだ。『なんで……? 助けてなんて頼んでないよ……。勝手なことしないでよ!』。で、ちーちゃんは虫の息の下」


 そしてドスドスと床板を踏み鳴らしながら、自分の部屋まで歩いて行った。


「……あれ? ちーちゃぁん? どこ行っちゃったの? お姉ちゃんが独り言続ける哀しい人になっちゃったじゃないか~」


 俺を追い払いたい時、姉貴はたまにこの手段を使う。うんざりした俺が自分から姿を消すように、あの調子で喋り続ける。その『場』を崩すことが怖いあの人は、俺に『出て行け』という勇気がなくて、そしてまた自分からその場を離れる勇気もないんだろう。あんなふうに喋り続けることが、姉貴のSOSなんだろう。


 だからお望み通り消えてやる。あんたからは見えないところに行ってやるよ。わざと足音を立てて、俺が遠ざかって行くのをあんたの耳に届けてやるよ。だから安心して、一人で膝抱えて泣いていろ。


 そしてあんたも行けばいい。居心地の悪いここじゃなくって、俺らからは見えないところに。


 そこでしか安らげないなら、そこでしか傷を癒せないなら。

 ソフィアにでもどこにでも、勝手に行きやがれ。



 自分の部屋の扉を閉め、大きく息を吐いた。しびれた手のひらには爪の跡よりも鮮明に、姉貴の華奢な肩の感触が残っていた。

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