第五話 <姉視点>
「……でも、あの子は無理だろ。……あの子は、入れねぇだろ」
過去の亡霊が抜き足差し足忍び足で私の足元に到着しかけていたのだけれど、その弟の一言に、足早に逃げてった。
頭が一気に現実に引き戻されて、私はぽややんと弟の顔を眺める。
それから、なんとなく視線を下げて、弟に足が生えてるのを確認してみた。
こころなしガニ股かも。うん、幽霊とかじゃなく実体だ。生きてるんだなぁ。
納得してから、弟の最前の台詞を反芻してみる。
んー。『あの子は入れない』? 『あの子』とはどの子だろう。うい? おお、詩衣だ詩衣。
こそあど言葉を用いず対象を省略せずついでに理由を明確にして言うと、『詩衣は情緒に障害があるから聖ソフィア学園には入れねぇだろう』、とこうなるわけだ。
やっとわかった。ばっちり起きたつもりが寝とぼけてたようだ。
周回遅れで弟の台詞を理解して、それで腑に落ちた。
『ああ、やっぱりか。やっぱり、ちーちゃん、詩衣のこと、知ってたんだなぁ』
てな具合に。それでやっぱり、詩衣に抱いた違和感は、私の気のせいじゃなかったんだなぁって。そんなふうに思った。
微妙な曲がり具合の足からすすすっと視線を上げて行き、弟の丸っこい目にご到着。家では外していることの多い眼鏡が、今はたまたま装備されていた。希少だぁ。
あ、よく見ると眼鏡の枠が前より黒いかな。あと細くなってるような気がする。いつの間に変えたんだろう。
そのレンズの向こうを見透かす感じで視線を固定し、
「たぶん大丈夫だよ」
なんとなく微笑みながら、言った。
「ソフィアには、特別枠があるから」
「特別枠?」
鸚鵡返しな弟が、なんとなく可愛かった。
「同じ学年にはいないけど、一年と三年にそれぞれ二人ずついるの、そういう人。――うん、それこそ――、天使みたいな人」
自分の言葉に頷きながら、なんとなく、泣きたくなった。
詩衣の背に垂れ下がっていた折られた天使の翼と、そしてあの時詩衣が浮かべた、天使みたいな笑顔。
「天使?」
「そうだよ。天使」
私はもう一度頷き、弟を見た。
「私たちとは違う価値基準で行動して、私たちとは違う世界を生きる人。そういう意味」
ストーカーに狙われ、自室に押し入られ、鏡の破片で切り裂かれ体中傷らだけになって、警察も来て、伯母さんは泣いていて、それなのに、幸せそうに笑ってた詩衣。
あんな時なのに、心の底から幸せそうに笑ってた。
いとこ一家と出会ってからその時まで、言葉に昇華できない違和感を持ち続けて持て余して、私の心はもやもやもやもや霧か煙かよくわからないものに囲まれてた。
これまでずっと詩衣のことを、触れないように、見えないように、聞こえないようにしてきたお父さん。いとこなのに、顔も知らなかった私たち。どこか申し訳なさそうに、こっそりと私に手作りのお寿司を運ぶよう頼んだおばあちゃん。『私は返しに行けない』と、空けたお寿司のお重を私に突き返した伯母さん。
その曖昧な状態が気持ち悪くてすっきりしなくて、その漠然としたものをゴオオと一気に吸いこんでくれる掃除機みたいなものを探してた。そしたら答えが落っこちてきた。
『詩衣の綺麗な笑顔』
綺麗。
綺麗なものを見ると哀しくなるのは、なんでなんだろう。
「ソフィアは受け入れ態勢、ある程度整ってる方なんだ。伯母さんもそのこと、知ってるふうだった。詩衣、学力的には問題ないっぽいし」
『入れるところならいくらでもあるのにね』と伯母は言っていた。見栄だったり、『そうであると信じたい』という気持ちが言わせた言葉なのかもしれない。でもそれよりも、『学力的にはなんの問題もないのに……、それなのに――』というやりきれなさを含んだものだったように感じられた。
その様子を思い出して、決意を固める。――もう一度、いやもう二度でも二十度でも、伯母さんたちに会いに行こう。嫌がられても迷惑がられても推し進めよう。全寮制のソフィアで詩衣が集団生活を送ることはどれだけの困難が予想されるかは今の段階ではわからないが、それでも私はあの子をソフィアに連れて行く。それは私の中ではすでに確定事項なのだ。
「……そか」
「そう」
「…………」
「なんか言いたいことある?」
「…………。あるけど、言いたくねえ」
弟は私から目をそらしつつそう言った。そして会話は途切れなん。
「……」
「……」
『……あまり、詩衣に関わるな』
弟は何も言っていない。前述の台詞は、耳元で聞こえた気がする幻聴さんです。そしてその幻の台詞は、父の声でもあり、弟の声でもあった。
今から推測重ねます。
父は身内に障害を持った人間がいることを周囲に知られたくなかったんだろう。
それで、そのことを、私たち子供にも知らせたくなかったんだろう。
だから詩衣と伯母を極力私たちに関わらせないようにしていたんだろう。
伯母は、詩衣をそんなふうに生んでしまったことに罪の意識を抱いているんだろう。
またその引け目から、実家との交流を絶っていたのだろう。
『だろう』『だろう』がしつこく積み重なっていく。そしてその上に更にも一つ重ねる。ぐらぐら。ちーちゃんの立ち位置は、お父さんに近いん『だろう』な。
「……」
「……」
三点リーダ×2が続く嫌な感じの沈黙が私たちの間に落ちている。溶いた絵具が沈殿していくみたいに、吐いた息が足元の畳の上に溜まっていくのが見えるような気がした。
その間、眼鏡のレンズ内という限られたスペースの中で、弟の目はあっちゃこっちゃ、器用に私の視線から鬼ごっこしていた。
『姉ちゃんは鬼だ!』
『鬼ごっこの鬼役に立候補した姉に対して叫ぶ架空の弟』を脳内製造してみたけど、あんまり意味なかった。気分は緩やかな下降の一直線。
弟に何かを言わせたくて、私は下記の台詞を口にした。
「……私、この空気、なんか最近どっかで吸ったり吐いたりしたことがある。多分今年の夏休みにおける某我が家の応接間あたりで」
詩衣の一家が帰郷の挨拶に来たあの時、伯母と父との間に流れる今のこれよりもっと濃いやつを呼吸し続けて、私は胸糞悪くなっていた。
「――それがどうした」
弟は、押し殺した低い声で言った。そしてまっすぐ顔を上げ、ぴたりと合わせた目に迫力込めて、
「それがどうした」
もう一度言った。
「むかつく。なんで俺が責められなくちゃいけねぇんだよ」
『責める』? 責めてないよ? なんで私がちーちゃんを責めるの? ちーちゃんが責められる理由、なんかあるの?
「だって、聞こえるんだもん」
私は不機嫌を詰め込んだ声で、口尖らせて反論していた。
「だって聞こえるんだもん。『詩衣に関わるな』って声が、はっきり聞こえてくるんだもん」
――あれ? 私、これってやっぱり責めてる?
「知らねえよっ。勝手に聞いて勝手に怒ってんじゃねえっ」
弟の苛立ちが、顔面に吹き付けてくる突風みたいに感じられた。私の心は風に押されてよろけそうになってたたらを踏んだ。
「俺は言わなかっただろ? 親父だって言わなかっただろ? 詩衣と関わるなと。血が繋がってるから、よけいに関わるなと。見ないふりをしろと。忘れろと。周囲に知られるなと」
弟がスタッカートに畳みかける。
「そう――声に出しては言わなかっただろ? なのにあんたは、『姉貴』なのに、年長者のくせに、俺よりずっと小さい子供みたいに、自分の感情を制御しようとする努力も放棄して、自分の一方的な正義を振りかざして。――いい加減にしろよ! 俺に何を求めてんだよ!」
弟は年の割に落ち付いてる方だ。ある種の風格をも漂わせていて、私はなぜかその威厳を指してツンデレだと言ってみたりしている。
難しい年頃のはずなのに荒れるとか全然なくて、それがかえって心配になったりしたこともある。いつも冷静で淡々としている弟の姿は、私から段々遠くに離れて行ってるように感じられて、その隔たりに奇妙な心もとなさを感じもしてた。
その弟が私に向かって感情に任せて怒鳴る姿なんて、見たの本当、どれくらいぶりだろう。
弟の語気の荒さに肩の震えを自覚しながらも、
「……」
私は弟に向ける瞳の力を緩めようとはしなかった。黙って、弟を見据え続ける。
「……なんで俺が姉ちゃんにこんなこと言わなきゃいけねえんだよ」
弟は、眉を八の字にして、クシャッと顔を歪めて言った。
「わかれよ、年上なんだから」
『お姉ちゃん』なのに弟にこんなこと言わせて。こんな顔させて。本当、情けないなぁ。
そう思ってるのに、
「わからないよ」
私は聞き分けのない幼子のように口をへの字にまげ、水気の増した瞳で弟を見つめていた。
「そんな理屈、わかんないよ。わかりたくない。私にわかるのは、……伯母さんが、もう二度とうちに来ないってことだけ」
私の声は、覚えず涙声に近いものになっていた。
「伯母さんは、お父さんにも、おばあちゃんにも会おうとしないよ。自分たちの存在が迷惑だって思ってるから」
眼差しにも声にも湿り気を帯びさせて、私は弟を責め続ける。
「家族だったのに。本当のお兄さんなのに。たった一人のお母さんなのに。きっと、うちに挨拶に来たのだって、すごく勇気がいったんだよ。でもそれをお父さんが否定した。あんなに冷たく否定した。だからもう、二度とうちに来ないよ」
「本当に、迷惑だろうが」
「でもそんなのっ、伯母さん達のせいじゃないじゃない! 伯母さん達が悪いわけじゃないじゃない!」
「ああっ、悪くねえよっ。あいつらは悪くねえよっ」
私の叫びに呼応して弟も声を荒らげる。
こんな時だけど、私の心には小さな安堵が灯っていた。
私と弟の体に流れる血が繋がってて、それで私がぐらぐら揺れていると源流同じな弟にもその揺れが伝わってるって感じがして。
「でもそれがどうした! 俺らだけが悪いのかっ? 自分は違うって言いたいのかっ?」
叩きつけられる言葉が弟の感情の振幅を示してくれて。ほっとした。ちーちゃんは間違いなく私の弟なんだなぁ。
「勝手に被害者ぶって、勝手にむきになってんじゃねえ。弱いやつらに自分を重ねて勝手に肩入れしてんじゃねえ!」
「お姉さんでも捨てるの?」
私の混乱は弟が吸い取ってくれたので、静まった波にたゆたうような気持ちで私は訊いた。
「……え?」
意表を突かれた感じで弟がぽっかり口を開いた。
「お父さんが実のお姉さんを捨てたみたいに。もし私がそうだったら、ちーちゃんも、私を捨てる? 私が普通じゃなくなったら、普通って言えなくなったら、ちーちゃんも、私のことが見えなくなるのかな? ちーちゃんの人生から、お姉ちゃんのことを切り離しちゃうのかな?」
私、なんでこんなこと訊いてるんだろう。自分が発した質問の意図が自分自身わかっていないって――、そういうこと、他の人にもあるのかなぁ。
「そんなの……」
ほら、ちーちゃんも困ってるよ。
答えに詰まった弟は、また目を伏せた。
私は鬼ごっこの鬼役のまま。
「そんなの……わからねえよ」
そっか。
目の端が緩むのを感じた。
『わからない』って言葉はすてきだ。答えを保留にしてすべてを曖昧にしておける。
私は自分の言いたいことがわからないし、ちーちゃんの言いたいこともわからないし、それで何もかもわからないままでいい。
『もやもやがあったらすっきりさせたい』とか思ってるかと思えばこれだ。ああ、矛盾してるなぁ。でも、どうでもいいや。
私の口は、頭が真っ白に漂白されればされるほどなめらかに動く傾向があるので。せっかく私の相手をしてくれている弟を置き去りに、思考を放棄。とろとろ~っと私自身が体の中から流れて出て行く。漂うように白。
後はお口だけに任せて、ほなばいなら。