第四話 <弟視点>
火を止めた味噌汁と壁にかかった時計を見比べながら、「あの子、遅いわねえ」とおふくろが三度目になるぼやきを開始した。俺は適当に「そろそろ帰ってくるだろ」と答えておく。
「そうよねぇ……。まったく、持ち歩かないと携帯電話の意味ないじゃないの」
姉貴の携帯にかけた場合、着信音が姉貴不在の姉貴の部屋から流れてくること多数。
「昔から忘れ物が多い子だったからねぇ」
洗い物を片づけながらばあちゃんが応じる。そのまま続けて「小学校の時なんか、忘れて行った水着を何回届けたことやら」とか懐かしのエピソードを語っていた。
――そうか……。水着の場合はさすがに届けてもらってたのか。そりゃそうだよな……。
俺は自分の中学時代を思い返し、遠い目になっていた。
*
『ちーちゃぁん! 同じ名字のよしみで体操服貸して! お願い!』
三年生の姉貴が、二年生である俺の教室に慌ただしく駆けこんで来る。
「――……悪いが実は両親が一昨日あたりに離婚したから俺はもう同じ名字じゃないんだ。他を当たれ」とかの反論を心の中でタイピングしつつも、実際には、
『……何度目だと思ってんだよ……』
それだけ言って体操服を取り出して渡す俺。
『ありがと! お礼にお姉ちゃんの汗とか匂いとかつけて返すからね!』
新手のいじめか?
急ぎ更衣室に向かう姉貴は、『……洗って返せよ』という俺の言葉なんか聞いちゃいなかった。
残された俺は当然のようにクラスメイトのからかいの的になっていた。
『なあ……ものは相談なんだが』
鈴木はある日俺にこうのたまった。
『おまえの体操服を今日一日俺に貸さな』
『貸さん』
みなまで言わさずに俺はきっぱり断った。
今日の三校時、姉貴のクラスは体育だった。俺らのクラスの体育は、今日は五校時にある。そして今昼休み。俺の手元には、返却された体操服があった。
鈴木は『ふっ』と笑って余裕を見せた。
『わかった。使用済みを手放したくはないというおまえの気持はわかる。俺も無理は言うまい』
『使用済みとか言うな』
『かつおまえはそれを正々堂々とこの後の体育の授業で自分が着ることができるんだ。おまえが今ここで死守しようとする気持ちは大変よくわかる』
『勝手にわかるな。俺が俺の体操服を着ることの何が悪い』
『そうだ、おまえは悪くない。そして己に正直に生きるこの俺も決して悪くない。いいか、俺は明日から「鈴木」を捨てる』
鈴木は固めた拳に決意を見せた。
『俺はおまえと同じ名字になる。同じ名字のよしみでこれからよろしくな』
『……先に言っておくが』
『なんだ?』
『弟のならともかく、赤の他人のニキビ面した野郎の体操服を借りたがる女子中学生がいると思うか? わざわざおまえの体操服の名札を付け替えても無駄だ。諦めろ』
人んちの名字を体操服に貼り付けて授業を受ける気か、こいつは。やりかねないから恐ろしい。後、ひとの姉をそういう目で見んな。
『そこはそれ、おまえの協力次第でどうとでも』
『ならない。自分の体操服を忘れたふりもしないし、おまえの体操服と俺のとを交換もしない』
おそらく鈴木の脳内で展開されていたのは次のような会話なのだろうが――
「えー、ちーちゃんも忘れたのー? 珍しー。ちーちゃんも抜けたとこあるんだねぇ。えー、でもどうしよ、親近感がぐわっと増してちょっと嬉しいけど今は困るよー」
じたばたしている姉貴に、
「いやー、偶然ですねー。俺、お姉さんと同じ名字になったんでお貸しできる体操服がここにあったりするんですよ。どうぞご存分に使ってください。遠慮なんかいりませんよー」
「わっ、ご親切にどうもー。借ります借りますありがたく。ちーちゃんってばいいお友達に恵まれてるねー」
――んな流れになるわけあるか、ぼけが。
『交渉に応じる気は一切ない。もう一度言うが、諦めろ』
『くっ。……このシスコンがっ』
『相手を貶めることで自分が優位に立てると勘違いするな。それからこれも言っておく』
『……なんだ?』
俺は眼鏡を光らせながら静かに告げる。
『「シスコン」は俺にとって最上位の褒め言葉だ。つまり、おまえは俺をののしることすらできなかったんだ』
『……なんてやつだ……』
鈴木の喉がごくっと鳴った。
『俺は姉貴の弟を十四年間やってきた。その俺に、新参者のおまえが敵うと思うなよ』
鈴木の俺を見る目に畏怖がこもる。
『……わかった……。俺の……負け……だ……』
『敗北宣言はかまわないが、……信じんなよ、シスコンとかはただの冗談だ……。おまえののりに合わせただけだからな』
鈴木はその俺の言葉を信じる気はまったく無いようだったが、……まあ、それは別にいい。
姉貴に他の男を近づけないためには、シスコンの汚名くらい、返上せずにいたってかまわない。
*
「ただいま帰りましたー。おばあさま、お母様、弟様、遅くなりましたー」
中学時代を回想しているうちに、明るい声と共に姉貴が帰宅を告げた。
「お帰りなさい。遅くなる時は電話いれなさいよ」
「ごめんなさい、話しこんじゃって忘れてた。バスに乗る前にかけようかなーと思ったんだけど、公衆電話が見当たらなかったのですよ」
「あんたまた携帯忘れて行ってたわね」
「私の場合は『携帯電話』じゃなくて『携帯可能電話』なんですのよ。可能だからといってしなくちゃいけないわけじゃないのね」
「ごちゃごちゃ言わない」
「はーい、ごめんなさい」
おふくろに答えつつ、姉貴はばあちゃんの前に立って、手に持っていた風呂敷包みを差し出した。
ばあちゃんは、渡された包みをテーブルに置いて、「重かったじゃろう。ありがとうなぁ」と、しわしわの手でそっと姉貴の腕をさすった。それから、「食べてくれたじゃろうか」とぽつっと呟いた。
姉貴が「うん」と頷くと、「そんならええんよ」と目を細め、皺を寄せて微笑んだ。
薄紫の風呂敷を外して一度広げ、綺麗に畳む。姉貴は少しの間だけ、そんなばあちゃんの姿を眺めながらぼんやりしてた。
俺は公園で雨に濡れてる子犬を見つけてしまった時みたいに、見なかったふりをして目をそらし、食べ終えた夕飯を流しに持って行った。
*
「ちーちゃん聞いてよう」
居間でテレビを見ていた俺に、姉貴がいつものように猫の子みたいにすり寄ってきて、甘えた声を出す。
「……んだよ」
それ以上近寄ってくんな。
『子供の部屋にテレビやパソコンを置いておくとひきこもりになる』という一方的で迷惑な両親の思い込みから、俺らの部屋からそれらが撤去されて久しい。
……あー。本当に迷惑だ。退屈した姉貴がこうやって部屋の外を漂い、俺が頻繁にそれに遭遇してしまうのだから。
「今日ねー、詩衣ちゃんをソフィアに入学するよう勧誘しちゃった。誘惑してやったぜい。乙女の園にご招待! したのだー! いぇい」
姉貴は『いぇい』と同時に両手をあげた。大分無理なテンションで奇怪なことを言っている。
「はぁ?」
「うらやましかろう。ちーちゃんなんかどんなに頑張っても入れないもんねー」
「いや……、そんな頑張りをする人間にはなりたくねえよ」
俺の頭に、さっき回想したばかりの人間のツラが浮かんだ。
姉貴の進学先を知って以来、やつは姉貴が中学を卒業するその時までシャウトし続けていた。
『いいか、俺は真剣だ。「お嬢さま」とは期間限定の美だ。刹那ゆえの美しさだ。散る花だからこそ愛でるのだ。だから今だ! 今この時しかないんだ! さあ我が友よ。今こそ俺をおまえの家の玄関に迎え入れ、そしてそのまま家族の一員として迎え入れるがいい!』
――あの馬鹿なら、女装して聖ソフィア学園に潜入ということもやりかねない。
「でも詩衣ちゃんならぜんっぜん問題なし」
現役お嬢さまは、俺の頭痛に気付くことなく快活な笑顔で一方的なお喋りを続行されていた。
「お胸はあんまりなくっても下さえついてなかったら入れるもんね。進路はもう決定したも同然なりよ」
『なりよ』……そりゃねえだろ、いくらなんでも、その語尾は。
この姉の思考回路がだいぶ老朽化されているのは知っていたが、聞いてて哀しくなってくる。
「禁断の園! 麗しき上級生! つまり私とのめくるめく官能の日々! 『ああ、お姉さま、およしになって……』『こわがることはなくってよ、わたくしの可愛い子猫ちゃん』」
もういい加減、そのへんにしとけ。
「……おい……」
「……今日ねえ……」
姉貴は唐突に、蚊の鳴くような声で言った。
言葉と共に、その表情から虚飾がいっぺんに剥ぎ取られる。
「詩衣、男の人に襲われかけたの。ストーカーに狙われてたんだって」
「……マジか?」
俺の声は、おぼえず押し殺したような、怖れるようなものになっていた。
「私もそこに居合わせたんだよ」
姉貴はぽつぽつと、今日あったことを聞かせてくれた。でも、俺を相手に話していはしたが、ガラス玉のような瞳は俺を見てはいなかった。――多分。
言葉にするたびに、姉貴の中の何かが砂になってさらさらとこぼれ落ちていくような、気がした。
欠けていく。
「……きついよねえ。未遂だったし、犯人はその場で捕まったんだけど、襲われかけたって事実は変わらなくって、それでそういうのって、心の傷として残るだけでなくって」
沈んだ声音で俯きながら、姉貴は続ける。
「それに、噂って――怖いから。本当に噂されてるわけじゃなくても、『噂されてるんじゃないか』って自分自身の心の声に追い詰められるの。知られてるんじゃないか、見られてるんじゃないかって、人の目や会話がすごく怖くなるの。だから――」
きゅっと唇を噛んだ後、自分の中の真実を確かめるように、言った。
「居づらくなると思うよ、きっと」
それはとても危うい告白に思えた。『俺にそこまで言ってしまっていいのか?』と心配になるほどだった。今の姉貴はあんまり無防備で、俺の方が緊張に息が詰まる。
「……だから詩衣をソフィアに勧誘したのか?」
話題を変えたくて、
「……でも、あの子は無理だろ」
姉貴がそれ以上自身の記憶の中に沈み込んでいくのを防ぎたくて、
「……あの子は、入れねぇだろ」
俺はあえて、今まで避けていたその話題に触れた。