第三話 <姉視点>
――この時のことを後から思いだそうとしても、私の心には、伯母が振り回していた手の、その軌跡だけが残されていて、それ以外のことはぼんやりとした灰色の影のように感じられている。だから後で他人の口から聞かされた事実だけを、ここに羅列してみよう。
・ 『男』はいわゆるストーカーで、詩衣が通っている中学の同級生だった。
・ 詩衣をつけねらっていた男は、伯母が家を出て行くのを見て、好機と思い詩衣を襲った。
・ 私たちが外で耳にした物音は、襲いかかられた詩衣が抵抗の際に投げた置時計が的を外れ鏡を割った、その時の音だった。
・ 出かけていたはずの伯母と、それだけでなく『私』と言う想定外の人間の突然の乱入に、男は驚き、逃げようとした。そして置時計に足をひっかけ、転倒した。
・ その際に男が頭を窓枠に強く打ちつけ、足を捻って動けなくなったので、逃げることも私たちに襲いかかることもできずにいた。
・ 警察に通報したのは、この時の『私』だった。
そう言われればそうだった気がする。確かに私が電話して助けを呼んだ。駆けつけた警察に知っているかぎりのことを話した。
私の知り得たことなど微々たるもので、警察に教えられることなど更に少ない。そして『言ってはいけない』ことを言わずにいたら、伝えた言葉のほとんどすべてが『怖かった』になっていた。
そうだ。私の目にだけ男の姿が映らなかったことを、私は誰にも言わなかった。私の心が認識を拒んだその理由に心当たりがあったから、誰にも知られるわけにはいかなかった。
『私の世界にあの男はいらない』
一方的な暴力による襲撃という直接的な恐怖よりも。理不尽な蹂躙に対する嫌悪や怒りよりも。ほとんど疑問を挟む余地なく自分の中で結論付けられる――そんな自分自身を知られることを、他の何より怖れていた。
*
警察が到着し、連行されるまで。それまでの間、男は自棄なのかなんなのか、叫ぶように何かを喋り続けていたのだが、私には切れ切れにしか思い出せない。わかるのは、その言葉が詩衣の魂を穢していったということだけ。
男を乗せた車が遠ざかる。体中の力が抜けて、頭の芯が鈍い痛みを発している。残されたのは女三人。
「綺麗なのは、いけないこと?」
詩衣の頬に貼られたガーゼがわずかに震える。ぽつりと呟かれた娘の言葉に、伯母はビクンと身を竦ませた。
『無垢で清らかな綺麗なものを穢してやりたかったんだ』
――あの男の声が、哄笑とともに、耳に一瞬だけよみがえる。
「馬鹿なことを言うんじゃないわよっ」
私は叱りつけるように詩衣をたしなめた。その横で、はじかれたように伯母は動いた。
「ごめんなさい。詩衣、あなたのせいじゃないのよ。私のせい。全部私のせい」
膝をつき、ぼろぼろに泣きながら伯母は詩衣にすがりついた。
「あなたのせいじゃない。ごめんなさい詩衣、詩衣許して」
伯母があまりに『自分のせい』と繰り返すから、見ているうちに段々不安になってくる。
ナイフで裂かれたシャツの一部が詩衣の体から垂れ下がっているのが目に付いた。――白い。
私がかけてやった上着の下からのぞく白い布切れが、翼のように見えた。折られた天使の翼。
あの上着を詩衣の肩にかけた時、私は何を思っていた? 何を感じていた?
衣服を裂かれた女の子に上着を貸すのは当たり前。でもその前――。あの、私の体を走り抜けた、一瞬の衝動。
血。純白。のぞく肌。なめらかな。羽ばたきを失った翼。力なく自分の体を抱いていた、あの細い腕。もっと。もっと見ていたい。そして――鮮やかな色彩を灰色に塗りつぶすために、私は上着で視界から遮った。
思うことだけで罪となるならば、私はあの時確かに罰されるべき罪人となったのだ。
「馬鹿言わないでよ。伯母さんも、詩衣も、何も悪いことなんてしてないでしょう? どう考えたって悪いのはあいつでしょう? しっかりしてよ」
自分の不安を押し隠して、私は意識して力強い声で言った。
「悪くないよ、伯母さんも詩衣も悪くないよ。ぜんっぜん悪くない」
そう生まれたからって、そうなってしまったからって、そうなろうとしているからって、
「自分のせいだなんて思わないでよ。自分が悪いって思わないでよ」
私は拳を握る。固く握る。
人が真実罪人となれるのは、自分で自分の罪を認めた時だけなのだろう。罪などなくとも、自分がそう断じてしまえばそれは自分の罪となる。
私の言葉を聞いた伯母は、何も言わず、詩衣の体に強く額をこすりつけた。
当の詩衣は世の中のすべてをわかっているようないないような、そんな曖昧な眼差しを伯母に注いでいた。
*
嵐のように何もかもが過ぎた後、伯母は沈黙を恐れるように、ぽつぽつと語りだした。
詩衣がこちらの中学に通い始めてすぐに、あの男のストーキングは始まったらしい。家の中にまでこっそり忍び入り、だが意図的に自分の痕跡を残していくことを常としていたそうだ。例えば、閉めたはずの扉や箪笥がいつの間にかわずかに開いているということが幾度もあったらしい。
警察には相手にしてもらえない、『気のせい』で済ませられる範疇での、悪戯。悪意ある戯れ。
墨を溶かし入れた水が耳から注がれ、全身に回っていくようだった。語られるほどに濃くなっていく男の悪意に、吐き気がしてきた。
「もういいわ、伯母さん。考えるのよしましょう」私は伯母の肩に手を回して言った。「大丈夫よ、あいつは捕まったんだから」
喋ることが心の安定に繋がることもあるが、それよりも思い出すことで追体験させることになる今の状態の方がまずいと判断した。それに、これ以上の悪意に触れることは、私自身にとってもきつかった。
肩に置かれた私の手を軽く握りながら、伯母は「詩衣……、大丈夫?」と、恐れるように娘に声をかけた。
『綺麗なのは、いけないこと?』
あの問いかけの後ずっと沈黙を貫いていた詩衣。
視線を向けられ、「お母さん」と答えた彼女は、思いのほか平静な声を出せていると思った。
けれどそのすぐ後、「お腹すいた。あのお寿司、食べていい?」と彼女は続けた。
私を指さし、
「あの子が持ってきてた。冷蔵庫?」
伯母に顔を向け、そう訊ねる。そして伯母が頷くのを見て、こんな時だというのに、詩衣は笑った。幸せそうに笑った。
幸せそうに笑った。
「詩衣」
私の中の『あの人』がほんの少し顔を出し、彼女の名を呼んだ。私は叔母から手を外し、ゆっくりと詩衣の前に歩を進めた。そして、
「詩衣。私の学園に来ない?」
詩衣の肩に手をかけ、言った。
「綺麗なところよ。女の子しかいないの」
詩衣は不思議そうに私を見つめ、小首を傾げた。
その時、窓の外に車が見えた。乱暴に停めた車から慌ただしく吐き出されてきたのは伯父の姿だった。連絡を受けて帰ってきたのだろう。
「おぉいっ。上かぁっ?」
玄関付近から声が上がる。伯母が涙の跡を拭きながら階下に急ぐ。私は詩衣の乱れた髪を直してから、微笑んで言った。
「今日はもう、休んだ方がいいわ。美味しいお寿司をいただいたら、ゆっくりお休みなさい」