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最後尾一番後ろの背中

作者: るーと

 地元唯一の駅から、朝七時三十分発の電車の二両目に乗り込んだ。かなり田舎の電車である故に、乗客はまるでまばらで座席もだいぶ空いている。いつもそうだ。

 けれど、そんな電車でも不思議と立っている人間は何人かいて、目当ての彼女も、二両編成のこの電車の一番後ろにいつも決まって立っている。

 電車の最後尾から見える景色は、電車が進む程に奥行きを増す。それを見ていると、あたかも世界が生み出されている様を錯覚できるのだと、彼女は楽しそうに語っていた。彼女に恋をしだした時、八年前に聞いた話だ。

 彼女はすぐに何かに没頭するたちで、お気に入りだというその風景を眺めている最中はそれが殊更に顕著で、見知った景色が生まれる様子の他は何も気にならない風に、ぼうっとした表情をしていた。

 その状態の彼女に後ろから声を掛けると、ビックリして振り返る。後ろで一つに纏めた長い髪をはためかせ、驚き過ぎて頬を少しだけ朱色に上気させて。初めてしっかりと見た彼女の顔がそれで、一番の好きな表情。一目惚れしてしまったくらいお気に入りだ。

 もし今話しかけても、同じ表情が見られるのだろうか。

 分からない。

 五年前、彼女との恋愛が終わってからと言うもの、一度も会話を交わしてない。



 第一声をかける時、非常に悩んだ。

 まだ二人とも高校一年の頃。今と変わらない背丈で、今と変わらない髪型の彼女が、今と変わらず電車の最後尾に立っていて、足下に財布を落としていた。それを教えようと思ったのが、最初のきっかけだ。……悩んでいたとは言っても、誓ってそれをネコババしようなどとは考えていない。

 自分自身、昔からどこか抜けているとの評価を受け続けて来た。物を落とす事もしょっちゅうで、しかし心優しい人に財布だの何だのを拾ってもらって助けられて来た。だから、拾得物横領などと言う心ない犯罪を憎んで生きて来たし、自分が拾ったら絶対にそんな事はするまい、と心に決めていた。

 だから、当然であるが財布の事を教えるのは前提事項だった。悩んでいたのはまた別の話。

 果たして、拾って伝えるべきか、拾わずに伝えるべきか。……あまりにちっぽけな悩みだとは当時も思ったし、今でも思っている。

 タイミングを間違えば、拾おうとした時に痴漢と間違われるのではないか。しかし、落ちてますよ、と指摘して拾わせるのは、この人の本心は不親切であると第一印象を下されるのではないだろうか。

 その直後はとにかくその時までは、惚れると言う程の強い彼女への好意を抱いていた訳ではなかった。しかしそれでも、彼女が相応以上に美少女であった事は知っていたし、だからこそ好印象を抱かれたいと思うのは思春期の男子高校生として一般的な心理だったと思う。

 何にしろ、我ながら青い年頃だった。

 その時は結局、拾って声をかけることにした。説明するまでも無いが、その時に痴漢と訴えられた事実は無い。

 拾った財布が柔らかな赤色だった事も、彼女の細かい動作についても、今もはっきりと記憶している。

 拾いあげ、肩を叩く。その肩はひどくか細かった。後々に知ったことであるが、彼女は運動嫌いだった。

 びくりとこちらが驚くほど彼女は大きく肩を震わせ、そしてあたふたと振り返った。そこからの様子は先に説明した通りである。

 その感情を知った時その身に電撃が走るという表現に、その瞬間までは懐疑的だった。しかしその瞬間以降は疑いようも無かった。それほどまでに衝撃的な一瞬だったのだ。


「あの、どうしたんですか……?」


 気がついた時には、落ち着きを取り戻した彼女から逆に声を掛けられていた。今度はこちらが慌てる番になる。

 焦りながら事情を説明し、突きだすように差し出した財布を見て、次に彼女はハッとして自分の手提げ鞄を見て、幾分口が開いていた事に気がついたのだろう。そこから落ちたのだとも理解し、更に鞄の中を見、差し出されたものが自分の物らしいと確認すると、羞恥からだろう顔を一瞬で真っ赤に染めた。

 再び見惚れてしまった。もはや早くも痘痕も笑窪だったのかもしれないが、例えそうでなくともきっと同じように見惚れたろう。


「あ、ありがとうございます!」


 財布を受け取ると、そそくさと鞄にしまう。その様子にまで可愛いと感じてしまっていた頃、既にのぼせ上っていた。

 普段から積極的な人間ではないという自覚はあった。だから、更に声をかけてしまったのものぼせ上がったせいで、熱に浮かされたゆえの事だったのかもしれない。

 何が見えるのか、とその時その瞬間に初めて聞いた。


「え?」


 既に惚れてしまった目下、一番興味を惹かれる秘密は彼女がいつもこの場所に立つ理由だった。気になってどうしようもなかった。

 彼女は照れくさそうに、そして少し自慢げにその理由を教えてくれ――一方でそれを聞きながら、会話するほどに、自分の内側の熱はどんどんと温度を増していった。

 その日から、まだ一方的だった彼女への恋が始まったのだ。




『間もなく○○。降り口は右側です――』


 もの思いに耽っていると、いつの間にか降車する駅についてしまっていた。

 彼女はまるで微動だにしない。……この駅で降りない事も、いつもと同じだ。

 明日も同じ電車にいるはずと、仄かに期待しながら電車を降りた。



 電車に乗ると、背の高い男に声をかけられる。周りの人間の多くがスーツや制服である中で、アロハシャツ姿のそいつは異彩を放っていた。

 いつもこの曜日この時間帯の電車にそいつが乗るから、最早それも日常の一部なのだが。


「よう、一週間ぶり。今日も元気か?」


 変わらずだ、と一言だけ答えた。


「そりゃあ結構」


 こう見えて小学校の頃からの友人同士で、それも親友といえる間柄を築いている仲である。

 その日も、いつものように彼女は電車の後ろに立っていたので、そちらばかりが気にかかり、そいつへの受け答えは普段よりもおざなりになってしまう。けれどこいつは大雑把な奴であり、気付いているのかいないのか、何でもないように話す。少なくとも彼女がこの電車に乗っている事には、気づいている様子は無かったけれど。


「お互いいつの間にやら社会人でよお。終わった事って大抵そうだけど、学生時代なんてあっという間だったし、惜しいもんだったよな」


 そいつは、同じ電車に乗る学生服とブレザーの集団を横目で見やりながら言った。言葉こそ返さなかったが、内心で強く同意した。学生の頃。あの後ろ姿に並んでいた頃。忘れ難い、いやさ忘れることなど到底出来ようもない日々。

 ふと、昨日出会いの記憶を振りかえった事を思いかえし、隣に立つそいつが、告白した時の切欠であった事も思い起こす。



「……お前、いい加減何とかしろよ」


 うんざりとした様子をありありと声音に表して言ってきたのは、いつかの昼休み、互いに殆ど食べきった頃だったはずだ。

 何を言いたいのかは、すぐに察せた。というか、その頃は言われた心当たりの事ばかり四六時中考えて居たため、他の選択肢が無かった。言うまでもなく彼女の事である。

 電車でのきっかけ以来、自分の中でのブームは当時延々と最盛期を誇っており、口を開けばあの時の話、視線を振れば姿を追って。首ったけにも程がある。傍から見れば、本当にどうしようもない状態だったに違いない。だからこそ、業を煮やしての『いい加減にしろ』だったのだ。


「もうお前は本当にどうにもならねえって。このまま行ってもただのストーカーにしかなりえねえよ」


 自覚が無かったわけではなく、だから否定しようも無かった。むしろ、それを自分で分かっていても先へ進めずに尻込みしている事実に目を逸らしたかったからこそ、過剰なまでに夢中になっていた、夢中になって居た振りをしていたのかもしれない。

 それでも、せっかく得たきっかけと現状を壊すのは恐ろしかったし、儘ならない現実の居心地の良さはこの上なかった。それに歯痒く思う、相反する感情も大きくなっていた事は忘れようとしていたフシさえあった。言われなければ、ずっと。どちらが本心かは自分でも理解はしていたはずであり、虚弱な嘘ではあったので壊れるのも容易かった。


「決着をつけろよ。知らぬ仲でも、悪い仲って訳でもないんだろう? 傍目に見ても、勝算がねえようには見えねえし。ここらですぱあっと決めろよ」


 あまりにも安直だが、この言葉がきっかけだったのだ。

 かねてから、短絡的で竹を割ったような男だった。良くも悪くも、待ちの手を知らない男であり、故にいつも人に行動のきっかけを与えることに非常に長けた男だった。

 ……翌日の電車で告白したのは、改めても当時の自分の度胸が信じられない。初めて会話したあの場所で彼女が大好きだと言う景色の見える場所で、どうしても伝えたかったので頑張った記憶も大きいのだけれども。



 たった一言だったが、言われねば行動出来なかったかもしれないので、感謝している。

 そしてそいつは、今も昔も変わらない、シンプルで、人にきっかけを与えるのに優れた男であると、今日また再確認させられる事となった。

 いくらかかつての思い出話に花を咲かせると、そいつは一度半眼でこちらに目を向けてきた。


「っても、お前も相変わらずぼんやりしてるな。また何かに集中力取られてんだろ。気をつけろよ、お前は気を取られると他がまるで疎かになるからな」


 いわばかつての片思いの頃と変わらぬ状態なので、言われたこともそう間違っていない。


「で、どうなんだ? 大学出て、彼女は出来たのか?」


 ニヤリとした笑みを浮かべ、けれど言葉の奥のふざけた物を隠して聞いてくる。返事は曖昧な笑みだけにしておいた。それをどう受け取ったのか、溜息をつくと苦虫を噛み潰したような表情となり、目を伏せる。


「そうかい。……五年だぜ。一途ってのは悪い事じゃねえかも知れねえけど、過ぎれば間違いなく毒だ。言っちゃ悪いが、昔も言ったろ。そのままだと、お前は本当にどうにもならねえって」


 丁度こちらも言われた時の事を考えていたので、妙な一致にくすりと思わず笑みがこぼれた。


「笑い事じゃねえって。……終わったんだよ。引き摺るなとか、そういうのは第三者には関係が無いだろって思うかもしれねえけど、それにしたって、お前にも、何よりも彼女にも良くねえよ。お前、俺よりか頭はいいんだから本当は分かってんだろ?」


 これも、昔と同じように、返せる言葉が無かった。現状が良くないのは知っている。だが、それでも幸せを手放すには覚悟が居る。それが、吹けば飛ぶように薄っぺらなものと知っていても。


『間もなく、××、××です。お降りの方は、左側のドアから――』


 アナウンスが停車駅を告げ、そいつは舌打ちを一つすると、せめてこれだけは、と再び口を開く。


「……いい加減、切り替えてやれよ。式だけ出てその後は行ってないんだろ?」


 その言葉を遮るように、ぷしゅう、と空気が抜ける音がして戸が開いた。この駅が降車駅であるそいつは出口へと足を向ける。

 そして、最後に一言だけ言い残して、電車を降りて行った。


「でなけりゃ、彼女も浮かばれないぜ」


 いちいちもっともなそいつの言葉は、確かに一番懸念すべき事柄を的確についていた。



 五年前の彼の日。彼女との恋愛は突然過ぎる死別という形で、終わってしまったのだ。

 その年の夏が過ぎ、段々と気温が下がって来た頃のある日、彼女は電車に乗っていなかった。そんな事はそれまでその日が初めてで、不安になって何度も携帯に連絡を入れたが、一度たりとも連絡は返ってこなかった。ひどく、ひどく嫌な予感を胸に抱えたまま電車に揺られ――結局それから、彼女の笑顔を見る事は無かった。

 彼女が死んだ。恐らくは学校でその話を聞いたのだろうが、その辺り、学校についてからその日以降数カ月分の記憶がまるであやふやで途切れ途切れだった。彼女の葬式に出た事は確かだ。車に轢かれたと言う、けれど安らかな物言わぬ顔以外は、何も覚えていないが。

 卒業は出来たので、学校にはしっかりと行っていたらしい。進学先には、高校とは逆方向の場所を選んでいた。彼女との思い出を多く詰め込んでしまった電車に乗りたくなかったのだろう。

 時が過ぎ、彼女の居ない世の中にも慣れてしまった。それに気がついたときには自己嫌悪に陥ったが、生きている以上、慣れざるを得なかった。

 死ぬ事は考えなかった。それを彼女が望まないだろうと、楽しかった記憶が告げていた。

 大学を円満に抜けて、就職先は高校に行く一つ前の駅で降りて通勤できる所だった。

 再び、あの電車に乗る事になる。

 身勝手な話ではあるが、慣れてしまったがゆえに、それで薄れた彼女の記憶を求めたのかもしれない。

 ――そして、そしてまた、彼女をいつかの後ろ姿を見つけてしまった。

 初めて見た時は空虚な喜びがあった。そんな訳が無いと、もう逢えないと自分に言い聞かせてきた出来事である。人違いか、幻覚か。彼女を求めるあまりに歪めてまで見ようとした自分が情けなく、けれど再会の喜びを消す事は出来なかった。

 しかし妙だった。人違いというには見間違えようのないほどに酷似していて、幻覚というには周囲とのブレが無さ過ぎた。しかしそれでもその日はそのままやり過ごし。

 次の日また彼女が立っているのを目にして、打ち震えるような理解があった。彼女が居る事は確かに事実であり、理由も理屈も考える余裕などないほどに、圧倒的な歓喜に感極まった。あまりに深い喜びに、その日は声をかけるということすら忘れてしまった。

 三日目ともなると、思考する余裕まで生む事が出来、彼女について、今の彼女について考え、彼女が自分以外に見えていないらしいと言う事と、そしてある事に気がついてしまい、だからこそ声をかける事が出来なくなってしまった。

 五年である。あの日からこの電車に乗っていなかった為に、彼女がいつから乗っているかは分からない。それでも、ずっと待っていてくれた事だけは分かる。

 そう、ずっとだ。

 何のために立っているのか。会いたいと思ってくれたのか、ただ好いていてくれているからか、呪おうと言うのか、恨み祟ろうとしているのか、或いは、理由など無いのかもしれない。

 得てして、霊というものは心残りで存在すると言う。それが晴れたら、成仏するのだと。

 ……もしも話しかけたら、彼女はどんな目的にしろ満足するだろう。けれど、そうしなければ? 満たされぬ彼女は、満たされるまで残るのではないか? 悪魔の如きの甘い誘惑に逆らう事は出来なかった。

 通勤の毎日、高々二十分の至福を、望んでしまった。彼女にとっては、決して望ぬ事だと理解しながら。

 彼女と会える毎日。言葉など交わせずともそれを取り戻した日々は、あまりに幸せで、彼女への後ろめたさは決して小さいものではなかったが、しかし幸福の味があまりに甘かったのだ。

 しかし、やはり――、言われもした通り、決着をつけねばならないのだ。本当ならもっと早く、彼女の事を思うのならば。

 電車が着くまであと五分も無い。何をするかは決めていた。

 一つ気になる事と言えば、あの頃から変わらない彼女に比べ、五年の時間を過ごした自分は随分変わってしまったこと。果たして、彼女に別人だと間違われないだろうか。

 ……いや、きっと大丈夫なのだろう。

 毎日落としているあの財布。あの時の財布。拾えるのは、落ちていることに気がついているのは、他に居ない。その役目は他の誰にも果たせないし、果たさせたくないのだ。……彼女だって、そうなのだ。

 軽快なメロディに続いて、駅員のアナウンスが入る。

 彼方に、こちらへ向かってくる電車が見えた。

事故現場とか、「場所」に取りついて動かないような幽霊の話がよくある。

そんな幽霊を動かすにはどうしたらいいかと思って考えた所から生まれた話。

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