77.傷物
「お待たせ」
脱衣所から戻ってきた俺は、奏にドライヤーを見せた後、彼女の座るソファの隣に腰を下ろした。
「じゃあ、後ろ向いてくれる?」
「うんっ」
奏は大層嬉しそうに俺に背を向けた。
そして俺は、ドライヤーのスイッチを入れて、彼女の髪を乾かし始めた。
先日買い替えたばかりの我が家のドライヤーは速乾仕様。動作音も静かで、昨今の科学力の高さを感じずにはいられない。
「うふふ。まさかあっくんに髪の毛を乾かしてもらう日がやってくるだなんて」
「思ってもみなかった?」
「うんっ!」
奏の声は踊っていた。
「しかも、あっくんから! あたしの髪を乾かすって提案してくれるだなんて思ってもみなかった!」
「はは」
「あっくんから! あたしの髪を乾かすって提案してくれるだなんて、思ってもみなかった!」
「そんなに?」
「うんっ! あっくんから! あたしの髪を乾かすって提案してくれるだなんて! 思ってもみなかった!」
……。
…………。
こんなに喜んでもらえるだなんて。
嬉しいなぁ。
「あっくん。あたしの髪、つやつやでしょ?」
「ん?」
「いつも一生懸命お手入れしているのっ! いつあっくんに髪の毛を触られてもいいように」
「そうだったんだ」
確かに奏の言う通り、彼女の髪の毛はきめ細かい上に艶があった。
「……前のあたしとは、大違いでしょう?」
さっきまで浮かれていた奏の声のトーンが少し下がった。
「ねぇ、あっくん」
俺は彼女の髪の毛を乾かしながら、彼女の言葉を黙って聞いていた。
「……あっくんは、どうしてあたしが綾香ちゃん達との海水浴を断ったか、理由、わかる?」
……それは丁度、俺が聞きたいと思っていた話だ。
「さすがのあっくんなら気付いているよね。あたし、来週の水曜日に予定なんてないの」
「うん。勿論」
勿論、気付いている。
だってさっき、それは高垣さんに教えてもらったから。
「半信半疑だったけどね」
高垣さんの言葉を全て鵜呑みにしていいのか、わからなかったし。
「……さすがあっくん。あたしのことはなんでもお見通しだね」
「……」
「うふふ。……本当、全て筒抜け」
「…………」
「あっくんは本当……あたしのこと、大好きすぎだよ」
……奏は俯いてしまった。
「あっくん。あたし……あたしね。水着姿を見せたくないの」
奏はお腹を擦りながらそう言った。
水着姿になりたくない。
奏という女子は……俺の所属するクラス内でも……いや、この国でも一番の美貌を持つ女子である。
そんな彼女のスタイルは、服越しでもバツグンであることは明瞭だ。
しかし、彼女は水着姿に……柔肌を晒したくないと言い出した。
それは一体……どうして。
思い当たる節はある。
それは何より、奏が今、お腹を擦っていることから連想出来た。
「……手術痕を見られたくないとか?」
俺の言葉に、奏は返事をくれなかった。
奏はかつて死にかけた過去がある。死にかけた彼女は、長く辛い闘病生活を余儀なくされた。
手術の一度や二度、経験していたっておかしくはない。
……そして、その手術痕が体に残されていたって……何ら不思議ではない。
うら若き女の子の肉体に、傷跡。
それは確かに……仲良しの友達相手でも一緒に海に行くことを躊躇ってしまう理由になるかもしれない。
「違う」
奏は否定した。
「……違うんだ」
「うん。違う」
奏は俺に背を向けたまま、頭を数度横に振った。
「……手術痕を見られることが嫌ってわけじゃない」
「……」
「だってこれは。この傷跡は……あたしがこの世に命を繋いでいる証。この傷がなかったら今のあたしはない。あたしの命の灯火はとっくに消えていた。……だから、この世に生ける大多数の他人に見られることは問題ない」
「……」
「そう。他人なら構わないの」
……他人なら、か。
「でも……この傷をどうしても見せたくない人がいるの」
……それは、彼女のかけがえのない友人?
「その人は……小さい頃からの知り合い」
……高校から出会った高垣さんや門倉さん、というわけではなさそうだ。
「そして……衰弱しきったあたしの姿を見て、悲痛な顔を見せていた人」
……思い出されたのは、入院し学校に来なくなった彼女のお見舞いに行った際に見た光景。
綺麗な黒髪が抜け落ち、やせ細り、弱り切った奏の姿。
「……その人にあんな辛そうな顔をもうさせたくない」
「奏。その人ってもしかして……」
「ううん。違う」
奏は首を横に振った。
「あたし、ただ……怖いんだ」
奏は上目遣いに、俺を見た。
「あっくんに……今のあたしを、受け入れてもらえないかもしれないことが」
数秒の沈黙の後……。
「あっくん。あっくんは傷物のあたしを見ても、幻滅しない?」
奏は震えた声で、そう尋ねてきた。
奏の問いに、俺はしばらく返事をすることが出来なかった。
答えを出すことを渋ったわけでもない。
迷いがあったわけでもない。
……ただ、なんて言うべきか。
表現の仕方に困ってしまったのだ。
しかし……俺はすぐに気付いた。
……表現の仕方に困ったことは、これまで何度もあった。
でも結局、俺はいつだって……彼女にありのままを打ち明けてきたではないか。
今回も同じことをすればいいだけなんだ。
「奏」
俺は彼女を呼んだ。
「……何?」
奏はしばらく待たされたせいか、声が暗かった。
「……お願いがあるんだけど」
「何、あっくん」
俺は一度、大きく息を吸って……。
「今ここで、君のお腹を見せてくれない?」
「えぇっ!?」
奏の声は明らかに動揺していた。
「奏、今ここで、君のお腹を見せてくれない?」
「さ、さすがにそれは……」
「今ここで、君のお腹を見せてくれない?」
「あ、あの……」
「今ここで、君のお腹を見せてくれない?」
「う、うぅぅ……」
奏の背中が丸まった気がした。
「わかった。わかったよ……」
奏は深いため息を吐いた。
「もう……。あっくん、強引すぎだよ」
思えば、奏の深いため息を聞くのは……なんだか珍しい気がする。




