幕間 月下の観察者(ミア視点)
――主様がこの世界に来てから、十日が経ちました。
わたくしは毎日、その背中を見つめ続けています。
最初はただの迷える魂。生まれたばかりのダンジョンに怯え、石の壁を触って確かめていた。
けれど、今の主様は違います。
まるで“この世界の構造”そのものを理解しているかのように、迷いなく命令を出す。
「索敵通路を左翼側に。マナバットを分散配置して、死角をゼロに――」
指先が動くたび、空気が震え、ダンジョンが生き物のように形を変える。
魔力の流れを、まるで“神経信号”のように読み解いて。
……本来、ダンジョンの拡張とはこんなに早く行えるものではありません。
普通のマスターなら一週間かけても“分岐通路”ひとつが限界です。
けれど主様は、一日で三つの罠を組み替え、二種類の魔物を最適配置しました。
わたくしが見た中でも、異常な速度でした。
それだけではありません。
彼は魔物を支配する時も、暴力ではなく理屈で屈服させます。
捕らえたマナバットを前に、彼は静かに呟きました。
「恐れるな。お前は俺を“敵”ではなく、“主”と定義しろ。」
そして指先をコアに当てる。
彼の魔力は荒々しくなく、波のように柔らかく、しかし緻密に構成された信号として生き物に流れ込む。
結果――
マナバットは暴れず、静かに羽を閉じて服従の姿勢をとりました。
普通なら考えられない光景。
魔物は恐怖でしか従わないのに。
詩様は、“恐怖の代わりに理解を与える”のです。
主様はよく言われます。
「支配と協調の境界は、設計次第だ」と。
その言葉の意味を、わたくしはまだ完全には理解できません。
でも、その瞳を見るたびに思うのです。
――この方は、わたくしの知るどんな支配者とも違う。
計算で動きながら、情で迷わない。
なのに、どこか“優しさ”が残っている。
ダンジョンの構造を最適化しながらも、魔物の棲みやすい環境を無意識に整えている。
スライムたちが光苔のそばで安らかに眠るのも、マナバットが通気の良い天井を好むのも、
――全部、彼の設計通り。
詩様はこの迷宮を、戦場ではなく「生態系」として組み立てているのです。
だけど、そんな主様にも一つだけ“欠落”があります。
それは――感情。
まるで、彼の中から“心の揺らぎ”だけを抜き取ったよう。
怒りも悲しみもなく、ただ最適解を積み重ねる。
わたくしには、それがとても眩しく、そして少しだけ怖い。
あの方は、自分が“正しい”と確信していない。
それでも、“正しい動き方”を知っている。
……そんな矛盾を抱えているように思えるのです。
昨夜のこと。
詩様がコアの前に立ち、低く呟きました。
「……ここはもう、俺の一部だな。」
わたくしは思わず言いました。
『主様、それは危険な言葉です。心を置いていかないでください。』
でも主様は、穏やかに笑ってこう言ったのです。
「心は置いていくものだ。
その分、頭で埋めていく。それが生き残る方法だろ?」
その瞬間、わたくしは理解しました。
この方は、もはや“生きる”という行為そのものを、シミュレーションの一部として捉えている。
――命でさえ、計算の変数。
けれど、その冷たさの中に、確かに“人間の温度”が残っている。
それが、彼の矛盾であり、魅力でした。
コアの光が静かに揺れています。
その光に照らされる詩様の背中は、まるで月光のように白く、遠い。
わたくしは誓いました。
この方が“どんな形”であれ、この迷宮を完成させるその日まで――
見届けようと。
たとえ、彼がこの世界で神になっても。
たとえ、その心が完全に失われても。
わたくしはきっと、その傍にいます。
主様の思考が、どんなに無慈悲でも――
その「理屈」は、誰よりも美しいから。




