第8章 ダンジョン・ウォー:紅と蒼の戦略線
地の底が、低く唸っていた。
静寂。だが、その沈黙の下で世界は確かに軋んでいた。
ふたつのダンジョン――。
一方は蒼く、冷徹な理性の結晶。
一方は紅く、燃える感情の生体。
そしてその狭間で、今、戦争が始まろうとしていた。
『主様。敵勢力の先遣部隊、接触まで残り七分。
構成は――リーダー格《紅牙将ヴォルグ》を筆頭に、およそ四百。』
「ヴォルグ……知能指数は?」
『推定A−。セリアの直下では最も“思考寄り”の個体です。』
「なるほど。なら、最初に“試そう”。」
ヴォルグは、コボルト種の進化体だった。
体高は二メートル半、漆黒の毛並みを纏い、両腕に刻まれた魔紋が淡く光る。
その目には、戦場を見極める知性と、主への忠誠が共存していた。
「あの女の敵――“理性の魔導士”とか言ってたな。
匂いが薄い……冷たすぎて、鼻が利かねぇ。」
彼は鼻を鳴らし、
その後方でうごめく獣たちに低く命じた。
「いいか、群れを散らすな。匂いを追って進め。
目じゃなく、“心臓”で感じろ。」
一方、詩は淡々と指を走らせていた。
「敵は知性がある。なら、誘導可能だ。」
《展開:幻影結界層 第3構造式》
《目的:匂い・音・魔力波の全感覚擬似化》
ダンジョンの通路が震える。
空気が変わり、熱と冷気が入り混じった“矛盾の空間”が形成されていく。
『主様、感覚撹乱層が起動しました。これで敵は“存在しない通路”を実在と認識します。』
「いい。敵が賢いほど、深く騙せる。」
最初の接触。
ヴォルグ率いる突撃隊が、第1層の裂け目を突破。
だが彼らが進んだその先で――“空気の匂い”が変わった。
「……おかしい。匂いが、増えた?」
次の瞬間、数十の幻影モンスターが通路に出現する。
同種族、同じ匂い。だが――全て幻。
「おい! 散開するな! 幻だ!」
ヴォルグが叫ぶが遅い。
後衛の獣たちが反応し、敵味方入り乱れる混戦に。
幻影の群れが触れた瞬間、爆ぜた。
衝撃波と共に、現実の魔物を焼き尽くす。
『命中率87%。敵損耗率、三割。』
「……いい流れだ。」
詩は冷静にモニターを眺める。
その瞳の奥で、何かが静かに灯っていた。
(人間のゲームなら、ここが“チュートリアルボス”。
だがこの世界では、命がリソースだ。)
彼は僅かに笑みを浮かべる。
――だが、その笑みを見て、ミアの胸が疼いた。
混乱の中、ヴォルグは膝をつきながらも唸った。
「……理性の罠、か。だが……俺たちは“心”で動く。」
彼は自らの胸を爪で裂いた。
その中から溢れ出すのは、紅く燃える血――“感情核”だ。
セリアから与えられた、感情制御の中心器官。
「我が心よ――主の怒りに応えろ!」
瞬間、紅の光が爆発的に広がった。
幻影層がひび割れ、空間そのものが脈動する。
『主様、幻影構造が不安定です!』
「逆に利用する。」
《緊急構文書き換え:幻影層→反射層》
《対象:敵感情波》
蒼の光が紅を包み、反転する。
ヴォルグの“感情波”が、まるごと詩の防御層へ吸収された。
「なっ……俺の、怒りが……喰われた!?」
詩は低く呟いた。
理論の隙間に、わずかに混じる熱。
「怒りとは、エネルギーだ。
……なら、資源にするのが効率的だろう。」
セリアが遠隔通信の中で、僅かに口角を上げた。
「なるほどね……。
詩、あなたは感情を“理解できない”からこそ、最も巧みに使えるのね。」
彼女は静かに手をかざす。
魔力の糸が、ヴォルグの残滓と繋がる。
「ヴォルグ。あなたの魂、まだ燃えているでしょう?」
その声に応えるように、
瓦礫の中で彼の眼が再び紅く光った。
「主……! まだ、戦える……!」
彼は幻影の中から立ち上がり、
虚構と現実の狭間で吠えた。
「この“嘘の世界”ごと、喰らってやる!!!」
その瞬間、詩の前に警告が走る。
『主様! 敵リーダーが幻影層を“認識破壊”で突き抜けました!
情報層への侵入を確認!』
「……!?」
モニターに映るヴォルグの姿は、
幻影空間そのものを“喰いながら”進んでいた。
「この世界が嘘だとしても――“主の怒り”だけは本物だ!!!」
彼はまるで、感情そのものの化身。
理性では制御できない、純粋な熱の塊。
詩は思考の速度を上げた。
幻影、罠、魔力線――すべてのパラメータを重ねながら、
ひとつの答えに辿り着く。
《幻影の本質:観測されるまで存在しない》
《観測:敵が世界を“確信”した瞬間》
「――なら、確信ごと壊す。」
詩は目を閉じ、静かに命じた。
《命令:幻影再構築――「現実の模倣」ではなく「現実そのもの」へ》
空間が裏返る。
幻影は、幻ではなくなった。
ヴォルグの一撃が壁を砕いた瞬間――
その壁が“本物”として反撃した。
「な……これは……ッ!」
蒼の光が紅を飲み込み、
ヴォルグの身体が崩壊していく。
「主よ……すま、ねぇ……」
消滅直前、彼の目に一瞬、理解の光が宿った。
彼は、最後に理性を見たのだ。
『主様……勝利判定です。敵軍、撤退を開始。』
「……そうか。」
詩は短く答え、ふっと椅子に身を預けた。
静寂が戻る。だが、ミアはその表情を見て息を飲んだ。
笑っていない。
勝利したのに、心が凪いでいる。
『主様。敵のヴォルグという存在……あなたは、どう感じましたか?』
「……理解できない。だが、面白かった。」
その瞬間、ミアの瞳に一瞬、紅の光が映る。
感情が、理性の隙間に染み込んでいく――。




