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第4話 福の神の覚醒

黒瀬社長に正体を見抜かれてから、わたくしの日常は静かに、しかし確実に変化し始めた。彼は、わたくしの能力について、それ以上深く問い詰めることはなかった。ただ、その黒い瞳は、以前にも増して雄弁に、わたくしの行動を追いかけるようになった。


そして、彼はわたくしを「利用」し始めた。

それは、かつてわたくしが如月家で受けていたような、冷たく打算的なものではなかった。彼の「利用」の仕方は、驚くほど巧妙で、そしてどこか優しささえ感じさせるものだった。


「詩織、この部屋の埃が気になる。徹底的に掃除しておいてくれ」


彼がそう言って指し示したのは、黒瀬堂の心臓部であるサーバールームだった。そこは、わたくしが最も恐れ、近づくのを避けていた場所。彼の命令に、わたくしは血の気が引く思いだった。


「わたくしが、ここに……?」

「何か問題でも?」


彼の静かな問いかけに、わたくしは首を横に振ることしかできない。

恐る恐るサーバールームに入り、わたくしは細心の注意を払いながら清掃を始めた。サーバーラックに積もった埃を、直接触れないように、長い柄のついた羽箒でそっと払う。その指先が、わずかにラックの金属部分に触れた瞬間、システム全体が微かな光を放ち、軽快な動作音を立て始めたのが分かった。


翌日、技術部の社員が「社長!サーバールビアの動作が、奇跡的に安定しました!」と興奮気味に報告しているのを、わたくしは廊下の隅で聞いていた。


またある時は、こうだった。


「この書類の山を、書庫の正しい場所に戻しておけ。一冊でも間違えるなよ」


分厚いファイルの山を渡され、わたくしは一日がかりで書庫の整理にあたった。その中には、長年、黒瀬堂を悩ませてきた競合他社との訴訟に関する、膨大な資料が含まれていた。わたくしは、埃まみれのファイルを一冊一冊丁寧に拭き、棚に戻していった。その指先が古びた紙に触れるたび、インクの文字がわずかに輝くような錯覚を覚えた。


数日後、黒瀬堂の顧問弁護士が、血相を変えて社長室に飛び込んできた。

「社長!信じられません!訴訟資料の中から、相手方の不正を証明する決定的な証拠が見つかりました!これで、我々の勝訴は間違いありません!」


わたくしは、給湯室でお茶を淹れながら、その歓喜の声を耳にした。胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。


黒瀬社長は、わたくしの力が「浄化」――すなわち、物事や場所に溜まった淀みや不運、故障の原因となる負のエネルギーを取り除く力であることを見抜いていたのだ。そして彼は、誰にも気づかれぬよう、会社の危機を乗り越えるために、わたくしのその力を静かに導いていた。


彼からの命令は、いつも素っ気なく、事務的だった。

「庭の雑草を抜け」

それは、土地の気を浄化するため。

「古くなった備品を磨いておけ」

それは、会社の資産価値を回復させるため。


けれど、彼の配慮は、それだけではなかった。

わたくしが夜遅くまで書庫で作業をしていると、いつの間にかドアノブに温かい夜食の入ったバスケットが掛けられていた。

庭仕事で泥だらけになったわたくしのために、誰も使っていなかった浴室が、いつでも使えるように綺麗に掃除されていた。

そして何より、わたくしが清掃を終えた部屋で彼と二人きりになる時、彼は決まって、こう言うのだった。


「ご苦労だった」


たった、その一言。

その言葉が、わたくしの凍りついた心を、少しずつ溶かしていく。この世界で初めて、わたくしは自分の働きを、自分の存在を、認められた気がしたのだ。


そんなある日、わたくしは初めて、黒瀬社長から個人的な問いかけを受けた。

社長室の清掃を終え、退出しようとしたわたくしを、彼が呼び止めた。


「詩織」

「はい」

「君は……甘いものは好きか?」


あまりに唐突な質問に、わたくしは目を瞬かせた。

「え……? は、はい。好き、ですけれど……」


彼は何も言わず、机の引き出しから、小さな箱を取り出した。それは、黒瀬堂がかつて看板商品として作っていた、伝統的な焼き菓子だった。業績不振のため、もう何年も製造が中止されている、幻の菓子。


「試作品の残りだ。……やる」


無造作に差し出された箱を、わたくしは戸惑いながら受け取る。


「君は、自分が何者なのか、知りたくはないのか」

「……」

「君のその力は、おそらく君が思っているような『呪い』ではない。むしろ、それは……」


彼は、言葉を切った。そして、静かに立ち上がると、窓の外に広がる、手入れの行き届き始めた庭を見つめた。


「この会社は、ずっと『呪われている』と言われてきた。私が社長に就任してから、その不運はさらに増した。何をしても裏目に出る。まるで、見えない何かに足を引っぱられているかのように」


彼の横顔は、いつも通りの無表情だったが、その声には、今まで感じたことのない、深い疲労の色が滲んでいた。


「だが、君が来てから、空気が変わった。風が、吹き始めた」


彼は、ゆっくりと振り返り、わたくしをまっすぐに見つめた。


「君は、災星などではない。君こそが、この会社にとっての……いや、私にとっての『福の神』なのかもしれないな」


初めて聞く、他人からの肯定的な評価。

『福の神』。

その言葉の響きに、わたくしは胸が締め付けられるようだった。嬉しくて、でも、あまりに恐れ多くて。


「そんな……わたくしなど……」


「一つ、頼みがある」

彼は、わたくしの返事を待たずに言った。

「来週、重要な商談がある。相手は、長年我々を苦しめてきた、強大なライバル企業だ。この商談が、黒瀬堂の未来を決めると言っても過言ではない」


彼の黒い瞳が、真剣な光を宿す。


「その席に、君も同席してほしい。私のアシスタントとして」


「わたくしが、ですか!? し、しかし、わたくしは作法も何も……それに、もしまた、わたくしのせいで何か起きたら……」

「私が、そばにいる」


彼の言葉は、短く、しかし絶対的な力強さを持っていた。

それは、命令ではなかった。

わたくしの力を利用するための、策略でもなかった。


それは、パートナーに対する、信頼の言葉だった。


わたくしは、差し出された焼き菓子の箱を、ぎゅっと胸に抱きしめた。

箱の中から、ほんのりと甘い香りがした。


わたくしを『災い』と呼んだ世界で、初めて、わたくしを『福』と呼んでくれた人。

その人のために、わたくしのこの力を使いたい。

心の底から、そう思った。


「……はい。喜んで、お供させていただきます」


わたくしがそう答えると、黒瀬社長の唇の端が、ほんのわずかに、本当にごくわずかに、綻んだように見えた。それは、わたくしが今まで見たどんな宝石よりも、美しい微笑みだった。

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