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贄にされた災星令嬢、実は万物を浄化する福の神でした  作者: 河合ゆうじ


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第3話 呪われた館の住人

あの夜、わたくしは全てを失った。

家も、名前も、婚約者も。わたくしという存在を証明する、あらゆる繋がりを断ち切られた。雨に打たれながら、どこへ行く当てもなく、ただひたすらに歩いた。ずぶ濡れのドレスは鉛のように重く、高級なハイヒールはとうの昔にぬかるみに捨てた。


夜が明ける頃、わたくしはまるで導かれるように、古びた洋館の前にたどり着いていた。蔦の絡まるレンガ造りの壁、色褪せた屋根。門のプレートには、かろうじて「黒瀬堂」という文字が読み取れた。


かつては伝統ある菓子メーカーとして名を馳せたが、近年は不幸な事故や原因不明の業績不振が続き、今や倒産の噂が絶えない会社。社交界の隅で、皮肉を込めて「呪われた館」と呼ばれている場所だった。


(呪われた、か……)


今のわたくしには、お似合いの場所かもしれない。

わたくしは、まるで吸い寄せられるように、その重い鉄の門を押し開けた。


数日後、わたくしは「詩織」という名だけで、黒瀬堂に住み込みの雑用係として雇われていた。身分を証明するものは何もなかったが、人手不足に喘いでいた老執事が、わたくしのなりふり構わぬ懇願に根負けしたのだ。


「いいかね、お嬢さん。ここは見ての通りの有り様だ。給金も、大したものは出せんぞ」

「構いません。屋根と、一日一度の食事をいただければ、それで十分です」


わたくしの仕事は、この広大な、しかし活気のない館の清掃と、数えるほどしかいない社員たちの雑用だった。誰とも言葉を交わす必要のない、影のような仕事。それが、今のわたくしには何よりありがたかった。


そして、この館の主であり、若き社長である黒瀬樹様と、わたくしは初めて顔を合わせた。


彼は、まるで夜の闇を切り取ったかのような、漆黒の髪と瞳を持つ人だった。彫刻のように整った顔立ちは、しかし一切の感情を映さず、その全身からは近寄りがたいほどの冷気が発せられている。


「……新しい雑用係か」


彼の声は、冬の湖のように静かで、冷たかった。わたくしが深々と頭を下げると、彼は興味なさそうに一瞥しただけで、すぐに自らの執務室へと消えていった。


業界では、彼もまた「呪われた社長」と呼ばれていた。類稀なる経営手腕を持ちながらも、彼が社長に就任して以来、黒瀬堂の不運は加速する一方だったからだ。


わたくしは、彼と自分を重ねていた。望まぬ『呪い』を背負わされた者同士として。


それから、わたくしの静かな日々が始まった。

朝は誰よりも早く起き、長い廊下を磨き、窓を拭く。昼は社員たちのお茶を淹れ、夜は書庫の整理をする。わたくしは、自分の体質が再び災いを招かぬよう、極力、物や人に触れないように細心の注意を払った。特に、電子機器には決して近づかないように。


そんなある日のこと。

わたくしが社長室の清掃をしていた時だった。黒瀬社長は不在で、室内には静寂だけが満ちていた。

ふと、彼の机の上に置かれた一台の古いノートパソコンが目に入った。それは、この会社の業績が悪化し始めた頃からずっと使われているもので、最近は起動するのにも時間がかかり、頻繁にフリーズすると聞いていた。


(わたくしが触れたら、きっと完全に壊れてしまう……)


そう思い、距離を取って机を拭いていた、その時だった。

バランスを崩した花瓶の水が、パソコンのキーボードの上に、派手にこぼれてしまったのだ。


血の気が引いた。

ああ、またやってしまった。わたくしは、どこへ行っても、災いを振りまくことしかできないのか。


絶望に打ちひしがれながら、慌ててハンカチで水を拭き取る。その指先が、パソコンの電源ボタンに、微かに触れた。


その瞬間――。


パソコンのスクリーンが、淡い光を放って、静かに立ち上がった。今まで聞いたこともないほどスムーズで、軽やかな起動音と共に。画面には、エラーメッセージ一つなく、美しい壁紙だけが映し出されていた。


「……え?」


わたくしは、自分の目を疑った。

壊れるどころか、まるで新品のように、完璧に作動している。


「そこで、何をしている」


背後から、氷のように冷たい声がした。

振り向くと、黒瀬社長が、眉一つ動かさずに立っていた。その手には、わたくしがこぼした水を拭き取った、濡れたハンカチが握られている。


「申し訳、ございません……! わたくしが、水を……」

「そうか」


彼は、それ以上わたくしを責めることはなかった。ただ、その黒い瞳で、完璧に起動しているパソコンと、わたくしの顔を、じっと、値踏みするように見比べているだけだった。


その日から、館の中で、小さな奇跡が起こり始めた。


わたくしが掃除をした部屋では、何故か古びた照明のちらつきが収まった。

わたくしが整理した書庫では、長年見つからなかった重要な書類が、まるで手招きするように棚から現れた。

わたくしが淹れたお茶を飲んだ社員は、長引いていた風邪がすっきりと治った。


そして、黒瀬社長は、その全てに気づいていた。


彼は何も言わなかった。ただ、廊下ですれ違う時、以前よりも長く、わたくしに視線を留めるようになった。その瞳には、もはや冷たさだけではなく、深い、深い好奇の色が浮かんでいた。


ある雨の日の午後、わたくしは庭の温室で、枯れかけていた一株の薔薇の手入れをしていた。もう何年も花をつけず、誰もが見捨てていた薔薇。わたくしは、ただ、その姿が自分と重なって、放っておけなかったのだ。


そっと、その枯れた枝に触れる。

わたくしの指先から、温かい何かが流れ込んでいくような、不思議な感覚。


「……やはり、君か」


静かな声に振り返ると、いつの間にか、黒瀬社長がそこに立っていた。彼は、わたくしの手元と、薔薇の株を交互に見つめている。


見ると、枯れていたはずの枝の先に、小さな、しかし確かな緑色の新芽が、芽吹いていた。


「君は、『災星』などではないな」


彼は、初めてわたくしに向かって、断定的な口調で言った。


「君は……」


彼はゆっくりとわたくしに近づき、その冷たい指先で、わたくしの頬に触れた。それは、わたくしがこの世界で初めて受けた、温かいとさえ感じられる、優しい触れ方だった。


「君は、一体、何者なんだ?」


彼の黒い瞳が、まっすぐにわたくしの魂を覗き込んでくる。

わたくしは、答えることができなかった。


なぜなら、わたくし自身にも、分からなかったからだ。

自分のこの力が、一体何なのか。


ただ一つだけ、確かなことがある。

この「呪われた館」に来てから、わたくしの『呪い』は、初めて、誰かのための『祝福』に変わろうとしていた。


黒瀬社長の冷たい指先に、わたくしの頬から、一筋の温かい涙が伝っていくのが分かった。

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