第2話 処刑台のワルツ
運命のパーティーまでの一週間、わたくしはまるでガラスケースの中に閉じ込められた標本のようだった。父の言いつけ通り、一切の業務から外され、自室から出ることもほとんど許されない。食事は使用人が無言で運び、空になった食器を無言で下げていく。そのやり取りの中に、言葉はおろか、視線の交わりすら存在しなかった。
「お姉様、体調はいかが? パーティーのこと、あまり思いつめないでね」
莉奈だけが毎日、その天使のような顔を部屋に覗かせた。その度に、彼女の纏う甘い花の香りが、この息の詰まるような部屋の空気をさらに重くする。彼女の言葉は蜜のように甘いが、その実、ゆっくりとわたくしの心を蝕む毒だった。彼女の言う「心配」は、わたくしが失敗することへの「期待」の裏返しに他ならない。
婚約者である海斗様から連絡が来ることは、ついぞなかった。わたくしの方から連絡をすることも、許されてはいなかった。彼は今頃、莉奈とパーティーの打ち合わせでもしているのだろう。わたくしの知らないところで、わたくしの運命が決められていく。
そして、約束の日は来た。
四宮財閥の創業百年を記念するパーティーは、王侯貴族の夜会と見紛うほどに壮麗だった。シャンデリアの光は無数のプリズムを描き、磨き上げられた床に招待客たちの華やかなドレスの色を映し出す。クラシックの生演奏が、人々の楽しげな談笑とカクテルグラスの触れ合う音に溶け込んでいた。
わたくしは、継母に選ばれた深紺のドレスを纏っていた。肌の白さを際立たせる美しいドレスだったが、まるで夜の闇に溶けてしまえとでも言われているかのようで、落ち着かなかった。
「詩織、遅かったじゃないか」
会場の入り口で待っていた海斗様は、わたくしを一瞥すると、すぐに視線を逸らした。その目は、値踏みをするように冷たい。彼は完璧な仕草でわたくしの手を取り、エスコートする。けれど、その指先からは何の温もりも伝わってこなかった。
「海斗様、お姉様、とてもお綺麗ですわ」
いつの間にか、純白のドレスを纏った莉奈が隣にいた。彼女こそ、今日のパーティーの主役のようだった。海斗様も、莉奈に視線を向けた瞬間だけ、その表情をわずかに緩める。
「ああ、莉奈。君こそ、まるで妖精のようだ」
「まあ、お上手ですこと」
二人の間には、わたくしの入る隙間のない、親密な空気が流れていた。周囲の招待客たちも、囁き合っているのが聞こえる。
「やはり、四宮様には莉奈様のほうがお似合いですわね」
「如月のご長女は、どうにも影が薄くていらっしゃる……」
その囁き声は、小さな針となって、絶えずわたくしの皮膚を刺した。わたくしはただ、海斗様のエスコート人形として、無表情に微笑み続けるしかなかった。
パーティーが最高潮に達した頃、メインイベントである、四宮財閥と如月グループの共同事業の発表が始まった。壇上に立った父と四宮財閥の総帥が、自信に満ちた声で未来のビジョンを語る。その後ろの巨大スクリーンには、華々しいプレゼンテーション映像が映し出される予定だった。
その時だった。
「お姉様、少し喉が渇きませんこと? あちらにシャンパンが用意されているようですわ」
莉奈が、わたくしの腕をそっと引いた。彼女が指し示した先は、壇上の脇に設置された機材が並ぶ一角の、すぐそばだった。
「わたくしは、ここで……」
「まあ、そんな寂しいことをおっしゃらずに。一緒に行きましょう?」
父の「何もするな」という言葉が、頭の中で警鐘のように鳴り響く。必死にその場に留まろうとしたが、莉奈は巧みにわたくしを人々の中から押し出すようにして、機材の方へと誘導した。
(駄目、あそこへ行っては……!)
わたくしが踵を返そうとした、その瞬間。
「きゃっ!」
莉奈が、わざとらしく小さな悲鳴を上げた。彼女のハイヒールが、わたくしのドレスの裾を強く踏みつけていた。バランスを崩したわたくしの身体が、大きく傾ぐ。
そして――。
わたくしの伸ばした手が、プレゼンテーションシステムの中核をなす制御コンソールに、触れた。
刹那、世界から音が消えた。
いや、違う。全ての照明が落ち、巨大スクリーンが真っ暗になり、鳴り響いていた音楽が止んだのだ。会場は一瞬の静寂の後、大きな混乱に包まれた。
「何事だ!」
「システムが、完全にクラッシュしました!」
壇上からの怒声と、スタッフの悲鳴。
そして、闇の中でただ一つ、わたくしを射抜く絶望的な視線。
「……詩織ッ!!」
海斗様の、怒りに震える声だった。
非常用電源が作動し、薄暗い明かりが会場を照らし出すと、彼は鬼のような形相でわたくしに掴みかかった。
「お前……! やはり、お前という女は……ッ!」
彼はわたくしの腕を掴むと、力ずくで壇上へと引きずり上げた。周囲の全ての視線が、好奇と侮蔑の色を帯びて、わたくしに突き刺さる。
「皆様、お見苦しいところをお見せして申し訳ない!」
海斗様の声が、マイクを通して会場全体に響き渡る。
「この女、如月詩織は、我が四宮家と、皆様に対する最大の侮辱を行った! この女こそが、あらゆる不幸を呼び寄せる『災星』だ!」
わたくしは、ただ茫然と立ち尽くす。まるで、悪夢を見ているかのようだった。
「よって、今この場をもって、私、四宮海斗は、如月詩織との婚約を破棄することを、ここに宣言する!」
割れるような拍手……ではなかった。嘲笑と、納得の頷きが、波のように広がっていく。
「詩織! お前には心底失望した!」
父もまた、壇上でわたくしを指さし、雷のような声で言い放った。
「もはや、お前は私の娘ではない! 如月家から、お前の籍は本日をもって抜くものと心得よ!」
ああ、ついに、この日が。
これが、わたくしの処刑なのだ。
莉奈が、海斗様の隣で、はらはらと涙を流しているのが見えた。
「お姉様……どうして、こんな……」
その悲劇のヒロイン然とした姿に、海斗様が優しく肩を抱き寄せ、慰めている。
完璧な舞台だった。
わたくしという悪役がいて、悲劇のヒロインがいて、彼女を救うヒーローがいる。
わたくしは、ゆっくりと目を閉じた。もう、何も感じなかった。何も考えたくなかった。
「この女を、ここから叩き出せ!」
海斗様の命令で、屈強な警備員が二人、わたくしの両腕を掴んだ。抵抗する力も、気力もなかった。
引きずられるようにして、わたくしは壇上から降ろされる。
夢のように華やかだった光の世界が、急速に遠ざかっていく。人々の囁き声と冷たい視線が、最後の鞭のようにわたくしを打ち据えた。
そして、重厚な扉が閉められると同時に、わたくしはパーティー会場から完全に追放された。
外は、冷たい雨が降っていた。
警備員はわたくしを玄関脇の植え込みに突き飛ばすと、唾を吐きかけるように言い捨てた。
「二度と、この敷居をまたぐな。災厄め」
豪華な邸宅の暖かな光を背に、わたくしは一人、雨に打たれる。ドレスは泥に汚れ、美しく結い上げた髪も、今はただ濡れて頬に張り付くだけだ。
心が、死んだ。
空っぽになった頭で、ただ一つだけ思った。
これで、やっと――。
やっと、誰にも迷惑をかけずに済むのだろうか、と。
雨音だけが、わたくしの唯一の弔いの歌のように、冷たい夜の街に響いていた。