共学になりました!僕はスカートを履きます! 男子校姫ポジションから男の娘へ。男子部と女子部が統合して初の体育祭、応戦合戦はオタダンスで決まり⁈
花びらは三月のうちに散ってしまった。緑の葉桜が彩る新学期の始まりだ。登校中の男子生徒たちの視線はハートマーク。桜よりもさらに濃いピンクの希望に溢れている。浮足立つ彼らの心は一つかもしれない。
スカート! スカートだ! スカートからのぞく生足が、学校にたくさん!
川沿いの通学路を彼らが歩くのは始めてだ。しかも女子生徒と一緒に。
男子が浮かれるのも無理はない。吟華大学付属高等学校は今年度から共学になったのだ。もともと男子部と女子部に分かれた中高一貫高校だった。男子高等部は電車で一つ離れた駅に校舎があったのだが、今どきのご時世で少子化が問題となった。生徒数の減少を見込み、二つをまとめて共学校になった。女子部の校舎の方に余裕があった為、春休みに設備を整えたうえで統合される事になったのだ。中等部はそのままで、高等部のみ合併である。
男子は初の女子部校舎へ登校だ。対して女子は男子を初受け入れとなる。
紺一色だった制服も新調された。上着は濃いめのベージュのジャケット。ネクタイかリボンを組み合わせる。スカートとスラックスは淡いグレイに赤や紺を組み合わせたタータンチェック。着用はどちらでも良いとなった。このまま繁華街に繰り出しても可愛らしい印象だ。
男たちは、無意識に女子達に目が行ってしまう。そんな男子の一部がざわついた。彼らの視線は一人の学生に集中する。百六十センチくらいの身長で、髪は肩につかないぐらい。それだけならあまり目立たないし、少し短めに履いているスカートのせいばかりではない。視線を感じたのか、くるっと振り返る。丸い目が更に見開いた。やあ、と軽く手を振る。小さな唇がにっこり笑う。前髪を軽く流して留めてあるのはピンクのお花のピンだ。すっかり女子集団になじんでいる。
しかし。
元男子高校生達は手を振り返してから固まった。
「アイツ...相生じゃね?」
相生志音は二年生になったばかりの男子であった。軽い足取りにチェックが揺れる。スカートだ。確かに自由化された。男女の区別なく着用は自由だ。だから志音はスカートなのだ。もちろんネクタイではなくてリボンが首元を飾る。鼻歌でも歌いそうな楽し気なステップだ。緑の桜並木のトンネルを通り過ぎる。
やがて大きな公園にさしかかる。そこを曲がるとすぐに校門だ。バス停や徒歩で登校する生徒が合流して一気に人数が増える。その中に背の高い男子がいた。すっきり整えてある黒髪に、切れ長の瞳だ。どちらかといえば冷たさと感じさせるような秀麗な顔立ちだ。それがじっと志音の姿を追う。
(...あいつは...)
スカートか、と小さく呟いて先に門を過ぎた。
男子! 男子だ! スラックスが校内に溢れている! イケメンはいるのか? いるかイケメン!
そんな心の叫びを隠さない女子もいる。掲示板に張り出されたクラス分けの表に、喜んだり残念がったり様々な声が上がる。
2Aの教室はにぎわっている。HRにはまだ時間があるものの、初登校のおかげか早めに来た生徒が多いようだ。大きくは男女のグループに分かれてお互いをけん制しあっている感じだろうか。黒板に臨時の座席表が貼ってあるが、誰もそれに従っていない。
そこへ志音が来た。教室の後ろからこそっと入る。ドア近くの女子が振り返る。
「おはよー」
反射的に挨拶をしてからきょとんとする。あれ? スカートって事は同じ学校にいたはず。だが知らない顔だなあ。と表情に表れている。
「おはよう...」
まじまじと顔を見られて、志音はちょっと頬をピンクに染めた。小声で首をかしげて挨拶を返す。新しいクラスメイトは片手をごめん、という形にした。
「誰だっけ?」
志音はもじもじっと肩をすくめた。
「男子部の相生志音...です」
「えっ、マジ? 男子? や~ん可愛い~!」
絶叫に近い声。教室中の視線が集中した。スカート男子に。
「私は佐々木梨乃。後で一緒に写真を撮ろう!」
「え? そんな」
志音としては誉めてもらったのは嬉しい。だがそこまで注目されるとは。
そこへスラックスの女子がつかつかと近づいた。志音より目線が高い。彼女の鼻先に志音の髪がある。ショートヘアーが活動的な印象を与える。ボーイッシュな雰囲気だ。
「名前は? もう一回。何て?」
「相生志音」
「あ、名簿が一番上のコ。私は井上美麗。笑っちゃうでしょ、美しくて麗らかかなんてね」
「何て素敵な名前...」
ほっと笑顔になる志音。美麗はふん、と顎を上げた。
「誉め言葉? 一応お礼は言っておく。で? 何でスカートなの?」
「制服が自由化になったからだよ。何を選んでもいいって。だからスカートにしたんだ」
「短いよ」
「え? そう?」
志音はきょろきょろと教室内を見渡した。確かに膝すれすれの丈が多いようだ。
「これが可愛いバランスだと思ったんだけど」
そう言いながらも、ウエストに折り込んだウエスト部分を少しずらした。スカート先輩の言葉だ。素直に従う。
「敢えてスカートなんだ。男が好きなの?」
ド直球の質問が来た。最初に声をかけた梨乃が目を見開いた。
「ちょっと美麗ちゃん、いきなり?」
「梨乃も気にならない?」
いやいや、と梨乃が首を振る。彼女たちは知り合いのようだ。
志音は真っ赤になった。口をぽかんと開けた後、もごもごと口ごもった。
「そ、そういう理由じゃないんだ。制服が可愛いから」
三人のそばを男子が大股に通りすぎた。ポケットに手を突っ込んでいる。先ほど志音を見つめていた彼だ。前を向いたままぼそっと呟く。
「女子でスラックス選んだんだ。女が好きなのか? って聞かれたらどうなんだ?」
美麗はうっと詰まった。ぐっと唇を噛み締めてそっぽを向いた。志音は彼を見上げた。
「確か去年は隣のクラスだったよね? 上野颯君だ」
「ああ」
視線がスカートに降りて来たのを感じた志音は少し慌てた。
「スカートが好きだから履いただけなんだ。女の子は好きだよ? キラキラしててとっても可愛いから。でも女子になりたいわけでもないよ」
颯は黙って志音を見下ろす。ちょっと気まずい雰囲気が流れた。美麗も少し下がって成り行きを見ている感じだ。
教室の前のドアがガラッと開いた。長身の男子が大股で入って来た。明るい色の髪は少し長めだ。額にさらっと流れる。色白で瞳も少し茶色い。きゃあ、と女子がざわめいた。そちらへニッコリ笑顔で軽く片手を挙げる。そつのない挨拶だ。そして後ろの三人組にも目をやる。
「そこ! 何か雰囲気暗くない?」
そして志音に近づくなり、前からがばっと抱き着いた。颯と美麗だけではなく、周囲も目が点になった。
「可愛い! 男の娘ってやつ? 本当にいるんだ!」
志音は悲鳴を上げた。
「わあ! 離してよ!」
「驚かせた? 悪いね」
ぜんぜん悪そうもなくへらっと謝る。抱擁は解放したが、髪をなでなでする。
「...だれ?」
元の学校では見覚えがない。颯もそのようで、胡散臭そうに見ている。
「僕は大下透伍。春まで海外にいて戻ったばかりなんだ。日本の文化はアニメやネットで研究していたよ。アキバ、メイド、絶対領域とか」
その情報に『男の娘』も入っていたようだ。しかしちょっと偏っているような。
同じくらいの高身長。顔面偏差値の高い二人。颯と透伍に挟まれて困り顔の志音。女子部単独ではあり得なかった構図だ。意図せず女子達の注目を浴びてしまった三人であった。
予鈴が鳴る。透伍と颯は視線を逸らして、それぞれに前の方に歩いて行った。梨乃がにっこり笑った。
「本当に可愛いよ! 志音ちゃんって呼んでいい?」
「もちろん」
数歩進んで美麗が振り返った。視線が泳ぐ。
「ごめん。言い方が悪かった」
「あ、いや、いいんだよ」
ぶんぶん、と手を振る。
「男か女が好きとか...考えてなかったんだ。それでびっくりしただけだから!」
それから春風のように笑った。
「スラックスもいい感じだよね」
「...どうも...」
美麗の頬が少し赤くなった。照れているようだ。
口には出さない。けれども志音は心の中で『やっぱり女子って可愛い~』と呟いていたのだった。先ほど言った通り、女性になりたいのではない。自分が可愛いと思う姿を体現したいのだった。
それからどちらも座席表の確認の為に進んだ。
ドアが開く。
「席について~。皆の担任の渡辺敬一だ! 花の三十代、独身だぞ」
やって来た担任は、男子部で見かけた教師の渡辺敬一だ。白いベストにグレイのチノパン。爽やかな色合いのセレクトは、女子の目を意識してなのか。顔立ちはまあまあ普通である。しかし女子達の目がハートになった。これまで女子部に男性教師は数少なかったからだ。渡辺もそんな視線がまんざらでもないようで、和やかにホームルームが始まった。委員や係を決めるのもこの日だ。最後は立候補がいなくて、じゃんけんで決まったのも例年通りだった。
ちょっとした事件は放課後だった。まあ志音がスカート姿のせいで、やたら声を掛けられたり驚かれたりはあったのだが。
清掃の時間だ。下校の生徒も入り混じって校内はがやがやしている。
志音は校庭の水道まで来たところだ。ジャケットを脱ぎ、シャツは腕まくりという勇ましい恰好だ。バケツをひっくり返す。モップを洗った水を流した。もう一回ゆすごうかな、と水を汲んでいると、同じクラスの加藤和彦がやって来た。一年生の時も同じクラスだった。なれなれしく肩に腕を回す。
「志音ちゃ~ん、まさかスカート履くとはね」
体をひねって手から逃れた。バケツを地面に置く。
「どれを選んでもいいからだよ」
「えらい度胸だよな」
スラックス女子はちらほら見かけたものの、スカート男子は志音だけだった。
「度胸ついでだ。ちょうどスカートだしさあ、ジェンダーレストイレに行ってみろよ」
男子専用トイレも、もちろん設置済だ。しかし春休み期間に改修したとはいえ、まだ全部に手が回っていないのか。或いは時代の先端を狙ったのか、男女問わず誰でも入れるトイレが複数あった。元は女子トイレのようで、入口の掲示だけ変えてあるようだ。
「何で?」
「全部個室だろ? 中で待ってたら女子が来るんじゃね? どんな感じか教えろよ」
「嫌だよ。それじゃチカンとか覗きっぽいじゃないか」
「見るわけじゃないし、女装してるなら女子の反応も拒否らないだろ? なあちょっと行けよ」
「自分で行ったら? 覗きじゃなくて本当の目的で」
「お高くとまってんじゃねえよ!」
和彦がバケツを振り上げた。もう半分上入っている。ばちゃ、と大量の水が志音にかかった。
「いつまでも姫ポジのつもりでいるんじゃねえ。わあびしょ濡れ。スカートで冷えてお漏らしか」
姫ポジとは。小柄で可愛らしい男子は、同性ばかりの校内で目立つ。女子の代わりというわけではないが、可愛がられる対象になりがちだ。それを一部ではお姫さまのポジション、いわゆる姫ポジと呼ぶ。目が大きくてまつ毛がばさばさの志音は、間違いなくそこにいた。
それが実際の女子と一緒になったらこの仕打ち。しかし志音のショックは、和彦の姫ポジから滑り落ちた事ではなかった。初めて履いた制服を初日に汚された方だ。お腹から下に水がかかり、スカートのすそから水が滴る。しばらく呆然と立ちすくんだ。
それからぐいと顔を拭い、黙ってその場から背を向ける。
ふん、と偉そうに腕を組む和彦の周囲がざわめいた。その意味を、未だ男子校ノリの彼は気が付いていなかった。
教室に戻ったものの、着替えはない。まだ残っていた生徒がちょっと静かになった。志音の様子を窺う。梨乃がいた。
「どうしたの? 大丈夫?」
曖昧に笑ってごまかす。
「モップを洗ってたら...水が...」
しょんぼりとカバンを持ち上げた。
(一度帰るか...でも遅刻しそう...)
春休みからバイトを始めたばかりだ。可愛らしい私服を買う為だ。電車に乗って二駅の場所だった。着替えて向かうと時間が微妙に足りないかもしれない。
不意に背後から腕を掴まれた。見上げると颯だった。
「濡れたのか。着替えは?」
「...ない...」
始業式の日だ。体操着は持って来ていなかった。ふう、と颯がため息をついた。しかし、そのまま引っ張られる。颯はもう片手で自分のロッカーからジャージを出した。
「え」
有無を言わさず連れられて来たのは男子更衣室だった。まだ部活は本格的に始まっていない。無人だ。
「自主練用で置いてある。俺ので良ければ着替えろ。帰りはまだ涼しい。風邪を引くぞ」
「あっ、あの」
迷惑では...と言いかけた。だが颯はさっさと外へ出てしまった。本当は少し寒かったのだ。有難いものの。
(でかい...)
オーバーパンツは少し濡れていたが、代えなくても平気そうだ。下着は無事だったからスカートを代えるだけで済んだのだが、颯と身長差が二十センチくらいはありそうだ。足の長さも比例する。ぐるぐると裾をめくった。おまけにウエストというよりも胴回りが広い。筋肉があるのだろう。ぶかぶかだ。何とか腰骨にひっかかる。我ながら布に包まれて保護された子猫のようだ。
颯は外で待っていた。志音を見下ろすと、むっと唇が歪んだ。
「大きかったな」
「そうかな...そうだよね。返すの明日でもいい?」
「ああ」
普通に歩き始めたつもりだが、どうしても颯に数歩遅れてしまう。
(やっぱり足が長いなあ)
そう思っていると、彼が歩く速度が少し遅くなった。志音と並ぶ。やっぱり高い。首を傾けて見上げた。
「ありがとう。助かる」
「いや」
会話が発展しない。ちょっと気まずい。
「あんまり話した事ないよね、クラスが違ったし」
「そうだな」
「陸上やってたよね? 放課後に走っているのを見たよ」
「そうか」
返事がいつも短い。颯の視線は前を向いたままだ。何を話していいのか困ってしまう。
「そういえばカトーが姫ポジなんて言ってたけど、周りが面白がって呼んでいただけだよ。僕はそんなつもりは...」
「そうか? 俺には今も」
「えっ?」
言葉が途切れた。ちょうど教室に戻ったタイミングだ。帰ろうとしていた透伍と出くわした。
「あれっ志音ちゃん! どうしたの? 生まれたてのハムスターみたい。可愛い!」
やはり小動物系の形容をされた。
「掃除してたら濡れちゃって、ジャージを上野君から借りた。てゆーか、いきなりちゃん付けなの?」
「それは志音ちゃんが可愛いから」
頭を撫でようとするのを急いで避ける。
「やめて。ちょっと濡れてるし」
スカートをどうやって持ち帰ろうかと少し悩んだ。濡れている部分を中にしてたたみ、カバンに押し込む。はああ~とため息が漏れた。透伍が言った。
「僕の家は近くなんだ。乾かしていく?」
「ううん。これからバイトに行くんだ」
「そっかぁ。今度その話を聞かせてね」
バイバイ、と手を振って透伍が教室を出た。
颯がまだそばにいた。
「相生はバイトか。駅に行くのか?」
「うん」
彼もバッグを抱えた。
「俺もそっちに用がある」
「ごめん...ジャージ借りちゃったから練習が...」
「いいんだ。今日はやる予定はなかった」
おそらく志音が気にしないようについた嘘だ。練習するつもりがなければ、始業式早々に体操着を持っては来ないだろう。
「あ...。じゃあ駅まで一緒に行ってもらっていい?」
「ああ」
志音としては、スカートよりもぶかぶかのジャージで一人歩く方が恥ずかしかったのだ。ああ良かった...と顔がぱーっと明るくなった。二人で遊歩道を歩きながら、ついつい口が滑らかになる。
「バイト先の制服が可愛いんだ。それで決めたってのもあるけど。男子もシャツがピンクなんだよ! 帽子もピンクで金色の星やハートマークがプリントされてるんだ」
「あ~『あのねバーガー』か? 二つ先の駅だったか」
「うん、そう! 上野君も知ってるんだ」
「ああ。遅くまでバイトか?」
「ううん。まだ試用期間だし、七時までだよ。実は僕、ここが最寄り駅なんだ。徒歩通学になったよ」
そして駅前で別れてから、自分の話ばかりだったと志音は気が付いた。不愛想な印象はあるが、とてもていねいに話を聞いてくれた。とても心地よくおしゃべりしてしまった。
(うるさい奴とか思われたかなあ)
とにかく今は急がねばならない。
男子部は隣の駅だった。統合されて徒歩通学になったのは良かった。バイトへ行くにも、一度家に戻れる。さっさと着替えて効率的に行動できる...はずだったのだ。
しかし今日はアクシデントが起きた。家に寄る時間がない。ジャージのままで電車に乗った。バイト先の駅に着くなり、トイレで濡れたスカートに履き替えた。幸い駅前にコインランドリーがあった。ジャージをセットしてから勤務先へ向かった。履いたまま返すのはマナー的にどうなんだ、というのと、家に戻ってから洗濯しても乾かないと困る。家にも乾燥機はある。だがこれだけ洗うのでも、心配性の母は手伝おうとするに違いない。スカートにかかったのは一応水道水なので、アイロンをかければいいだろう。
(明日の朝、学校で返そう)
そしてピンクの帽子をかぶってバイトに精を出して七時。あのねバーガー制服の紺のズボンを借りて家路に着いた。帰りの駅に着いたのは七時半近くなってしまった。改札を出れば駅ビルがある。その前を通って帰るのだが、出入口付近に背の高い黒髪の男性が立っていた。制服のままだ。スマホに目を落としている。
「上野君?」
志音の呼びかけにすっと目を上げた。さりげない動作でも、清新な顔立ちなので絵になる。志音はちょっとどきっとした。
(待っててくれた? まさか...)
だがあまり表情が動かず、何を考えているのか分からない。
「用事は終わったの?」
「ああ。いろいろ見てたら遅くなった。もう帰るところだ」
「そうなんだ。荷物になっちゃうけど、今渡してもいい? コインランドリーで洗濯したんだ」
手にしたあのねバーガーの紙袋を差し出した。中身はジャージだ。
「そのズボンはどうした?」
「バイト先のだよ」
「スカートは?」
「家に帰ってから何とかするよ」
「お前、俺のジャージなんか先に」
ふう、とため息をついて袋を受け取った。志音が目を細めて微笑んだ。
「ありがとう。色々と助けてくれて嬉しかった」
朝の美麗の『オトコ好き』発言も、彼がかばってくれた。本当はとても嬉しかったのだ。
颯は目を逸らした。
「いや。俺はもう帰る」
「あ、あの」
志音の胸がどきっと鳴った。
「連絡...交換してもいいかな?」
颯が目を戻した。無言だ。嫌だったのか? 連絡先を教えてもらうには知り合い度がまだ浅かったか? 志音はちょっと焦った。そもそもクラスメイトに連絡先を聞くだけだ。それなのにこんなに緊張するなんて初めてだった。
「同じクラスになったし! でも、あの...嫌なら...」
「別に」
颯がスマホを構える。急いで志音も取り出した。その場で登録した。
「ありがとう! 明日、学校でね」
「ああ」
歩み始めた颯が振り返ると、志音はまだ同じ場所にいた。目が合うと、小さく胸の前で両方の手を振る。動きがやはりちょっと小動物系の愛らしさだ。
受け取った袋を見下ろした。中には小さなビニールの包みもあった。ピンクのリボン付きだ。二つのマドレーヌと『ありがとう』と小さな札が添えてあった。
バイトの終わりの時間を聞いたのは深い意味はなかった。颯の用事は、この駅近辺で確認する事が幾つか。それが終わったら、志音が帰ってくるような時間だった。だったら少し待ってみようか、などと思ってしまった。明日も学校で会えるのに。
自分のジャージを着ている志音がとても可愛らしかった。にやけてしまいそうで、堪えるのに必死だった。それが怖い顔に見えていたなんて、颯自身は気が付いていない。
はあ、とまた息を吐いた。
翌日の朝の教室は、どことなく緊張感に満ちていた。席についた和彦の背中が丸い。背後には目付きの鋭い数人の女子達...梨乃と美麗を筆頭に、クラスの女子のほぼ半分が控える。
「おはよう...うわ」
今日もスカートの志音は、教室内に漂う不穏なオーラに驚いた。和彦はそんな志音にがばりと抱き着いた。
「許せ志音! 俺が悪かった」
「放してよ! 何だよ急に」
「昨日怒られたんだよ~」
水をかけたのを目撃されたうえ、暴言まで聞かれてしまった。何だよこの野蛮人は? と女子の群れが和彦に迫ったのだ。そう。つい先月までは女子高だ。いわば彼女たちがしきっていた校内である。そこへ新参者が現れて、同じスカートを履く者に無礼を働くなんて許さん! と一致団結したのだった。しかも、もともとは『トイレを覗け』である。変態だのDV男だのさんざんに罵声を浴びせられ、ここがどこかを改めて認識したのだった。騒ぎは今朝まで尾を引いている。
腕組みしている美麗が、嫌な物でも吐き出すような調子で言った。
「全く、怒られないと自分のした事さえ分からないなんてね」
「だから懲りました。もうしません」
とか言いながらも、志音から手を離さない。梨乃が口を尖らせた。
「放せよカトー。志音ちゃんが嫌がってるじゃん!」
「抱き心地いいんだもん」
ぎゃーキモイ、とか離れろ、と女子たちからも抗議の声が上がる。
横から別の手が出た。透伍だ。和彦から志音を奪ってバックハグだ。胸にすっぽり収まる。
「本当だ。抱っこにはちょうどいいサイズ感」
今度はきゃ~とハートを含んだ声が上がる。和彦が抗議した。
「同じ事してるだろうが。どうして俺にはぎゃあ、で透伍にはきゃ~なんだよ!」
しかし黙れ黙れとやり返されて玉砕だった。
美麗が透伍に尋ねた。
「男ってやっぱりスカート好き?」
「僕に限って言えば、もちろん。でもパンツスタイルも好きだよ」
ようやく志音は奪い合いから逃れた。そそくさと自席に向かう。
女子たちは立ち話を始めた。
「私もスラックスを履こうかな。一応買った」
透伍の発言を受けてだろうか。しかし内容は別の方向へ向かった。
「あ~いいよね。楽だし。生理の時は履きたいけどさあ、その時だけズボンだったらバレバレじゃん?」
「言えてる~。でも年中スラックスにしたらすね毛処理が楽じゃね?」
「それな~」
彼女たちにとってはいつもの会話だ。しかし聞こえてしまった男子生徒にはいささか刺激が強すぎた。少しずつ女子達から距離を取る。そして大人しく着席した。男子たちは思っていた。
(女子高のノリ...侮れないっ!)
志音も少しとまどってはいた。席にかばんを置く。頭の上から声が降って来た。颯だ。
「昨日は逆に悪かったな」
洗濯とお菓子の件だ。
「えっそんな! とても助かったよ」
「今でも姫ポジの扱いだな」
透伍と和彦の取り合いを見られたようだ。
「よく触られるって事?」
自覚はある。おそらくスカートを履かなければ、ここまでボディタッチをされなかったかもしれない。度が過ぎたお触りはやっぱり嫌だ。
「女子には触れないじゃない? 僕はその代わりだよ。面白がってふざけてるだけだ。本当に好きな相手だったら、そうだなあ。髪に触るのさえドキドキしてそっと...って感じじゃない?」
こんな事を言うのは照れてしまう。ちょっと乙女な言い方になってしまった。どう思われたかな、と伺う目付きで見上げる。まともに目があった。颯の黒い瞳に自分が映っているような気がした。きゅん、と胸が痛む。
(え、どうした僕?)
しかし颯はそっぽを向いて行ってしまった。
(ナニ? どうして? あ、行っちゃう)
プチパニックになっていると、前の席に美麗が来た。椅子に後ろ向きに座り、志音の正面に肘を付く。やけに真剣な表情だ。
「おはよう、志音ちゃん」
女子達からの「ちゃん呼び」は、もはや定番化したようだ。
「おはよう。どうしたの?」
「お願いがあってさ」
う~ん、と額に手を当てる。
「今度の土曜日、時間があれば付き合ってほしいな、と」
「え?」
まさかのデートのお誘い? 美麗は言いにくそうに続けた。
「コラボカフェなんだ。一緒に行くはずだった子に用事ができちゃって」
予約制のコラボカフェはキャンセル不可が多い。しかもワンドリンク制ならその料金込みの前払いという場合もある。美麗が申し込んだのはそのシステムだった。
「もう二人分払ってあるの! ドリンクもったいないし一人はつまんないし、良ければ! あ、料金はいいから!」
「何のコラボ?」
「......」
耳まで赤くなった美麗がスマホを差し出した。鎧をまとった二次元のイケメンが現れる。『バトル鎧ホーリーホックサーガ男女ダンジョン』というやたら長い名前のゲームだった。古今東西の鎧がエネジーを駆使してバトルを繰り広げ、レベルが上がるごとにアイテムが増えてさらに強くなる...というよくあるパターンだ。鎧が擬人化されているあたりも、これまでにあるゲームを踏襲している。
キャラクター名も多岐に渡る。西洋鎧の『合金メイルサーガ様』『鉄メイルサーガ様』はまだ分かるとして。日本鎧の『竹製メイルサーガ様』とかネーミングセンスがエグイ。弱そうだ。そもそも竹を使っていないのでは...。とにかく全員メイルサーガ付きの名称かと思いきや、『足軽』もいる。これは色々と違うだろう。うまく訳せなかったうえに、位が低いからか呼び捨てだ。そもそも鎧を着るのか疑問である。
(なんかちょっと...キャラの名前が微妙...)
という失礼な心の声を抑える志音だった。
「僕はこれ知らなかったなあ。人気あるの?」
「コアな感じ?」
はぁそうですか。とはいえコラボカフェを開催するくらいだ。それなりに人気があるのだろう。美麗のスマホを覗いていると、とあるキャラクターに目が留まった。西洋鎧だがすっきりしたフォルムだ。人型も細身で、漆黒の髪を横に流している。名前は『黒曜石メイルサーガ様』。そもそも黒曜石を鎧に使うのかという疑問と、ネーミングセンスは横に置く。
梨乃が寄って来た。
「なになに~」
スマホを覗き込む。失礼にもぷっと噴き出した。
「出た! 鎧の何だかダンジョン! ある意味とっても面白いよね」
「まあねえ。私もちょっとは思ってんの! 敢えて言うな」
美麗は軽く梨乃の横腹を突いた。
「志音ちゃんもやっぱりダサいって思う?」
少しばれていたようだ。しかし首を振る。
「ううん。この人はカッコいいね」
「そうだね。人気投票ではいつも五位以内をキープしているよ。ちなみに私の推しは」
美麗の瞳がきらんと光った。あきれた様子の梨乃を置き去りにして何気に二人は盛り上がった。結局、志音はコラボカフェに行く事にしたのだった。バイトの時間は何とかやりくりできそうだ。
いつの間に予鈴が鳴ったのか、渡辺が入室した。
「はいはい座って! 今日は体育祭の話し合いをするから」
三年生の受験準備とクラスの親睦の為に、体育祭を秋ではなくて春に開催する学校も多い。吟華高校もそうだ。去年までは男子部と女子部に分かれて開催していたが、今年からは一緒だ。
「ちょっと種目が変わるぞ」
と言いながら渡辺が黒板に競技を書いて行く。女子部の種目自体はさほど変わらない。名物の集団ダンスがなくなったくらいか。
開催方法にも変更がある。学年を越えたクラス対抗になった事だ。一年から三年生まで同じ組が一つのチームになる。つまりチームはAからDまで四つ。競技の結果でチームに点を加算する。その合計で優勝が決まるのだ。
他にも、棒倒しなど体力勝負の競技は消えた。
男子部名物の応援合戦は、女子部のダンスと統合して行うことになった。これも一位から四位まで点数をつけてチームに加算となる。参加者は任意だ。
「やる、俺やる!」
これは和彦が立候補だ。二Aの応援団長は彼に即決だった。
「志音、お前も参加しろよ」
「え~っ、何で?」
透伍が手を挙げた。
「じゃあ僕も! 体育祭に花を添えよう!」
本当に何をするのか分かっているのか。彼の参加表明で女子が騒めく。一気に参加者が増えた。
二年生ともなれば誰がどの競技に向いているのか、それぞれ把握している。割とすんなり割り当てが決まっていく。もめたのは騎馬戦だった。学年は関係なく、男女別にチームを組むのだ。
「このクラスは女子の台が一つ少なくなるな~」
渡辺が頭を掻いた。規定は一クラス五台まで用意できる。女子が二十人のクラスなら、土台三人プラス騎手一人の四人組が五台できる。A組の男子は二二人、女子は十八人。四台作って二人余る。さすがに二人では組めない。おんぶになる。小回りは効くが体力的に厳しい。
三人組だと六台で規定オーバー。三人組二台と四人組三台にするか。下が二人だと安定が悪いし、持久力が下がる。算数と体力の兼ね合いで話し合いが紛糾する。やはり競技には勝ちたいのだ。
美麗が手を挙げた。
「機動性を考えると、四人の台が四つと、三人一つがいいと思います」
それには十九人必要だ。
「女子プラス志音ちゃんで。もし皆がいいなら他の男子も助っ人でどうでしょう」
男子二人が加勢すれば四人組が五台になる。和彦が鼻から息を吐いた。今にも立候補しそうだ。
「カトーはダメ!」
梨乃が叫ぶ。他の女子からも声が上がった。
「狙うな! キモイぞカトー!」
「カトーひっこんでろ!」
勢いがすごい。まあまあ、と渡辺が制する。彼も女子高ノリに慣れていないのだ。ちょっと頬が引きつっている。
「いやいや、二人はダメだろう。他のクラスとの体力差が出てくるから。相生、お前の身長と体重は?」
志音は男子である。ちょっと低いのは悲しいのだが、あまり抵抗なく答えた。
「百六十センチくらいかな。体重は四十五キロはあるかと」
何の悲鳴か。教室中に女子の声が響き渡った。
多少こわばった顔のままで渡辺は唸った。
「女子並みだなあ。軽すぎるぞお前」
それから美麗に尋ねた。
「井上さん、男子に担がれて平気なのか?」
「それは」
彼女の返事を待たずに、女子達から口々に返答が返る。
「じゃあ志音ちゃん騎手で! 下から足とか触られるの嫌」
「お尻を乗せるなんて恥ずかしいもん」
「上ならOK」
美麗は肩をすくめた。
「って事で」
「触るのはいいのか...。相生はどうなんだ?」
「いや...ちょっと...」
抵抗はある。しかしクラスの為には有利にしてあげたい。
「できれば土台がいいかな~」
取り合えず職員会議に持ってくわ、と渡辺は話をまとめた。
ホームルーム後、和彦が志音のそばに来た。
「いいよなあ、女子と触れあい」
「嫌だよ。女子の競技に出るなんて恥ずかしい。僕の扱いってどっちなんだろう」
都合よくあっちにもこっちにも転がされる感じだ。透伍がまた髪をポンと叩く。
「女子とも違うね。姫だよ」
「だからそこが...」
しかしまたヨシヨシとされてしまったのだった。
和彦が志音に言った。
「今日、遊びに行かねえ? ゲーセンに新ゲーム入ったぜ」
「ごめん、行けない。バイトなんだ」
「メイド喫茶か?」
またもや透伍が割って入る。
「なになに? 志音ちゃんのメイド姿、見たい」
「違うって! ファストフードだよ」
それがどこか、和彦はお見通しだ。
「もしかして制服もピンクの店か? そこもスカート履いちゃう?」
「履きたかったけど、ダメだって」
がやがやとたわいのない話が続く。
そんな光景を、教室の対角線上でじろっと見つめる女子の一団がいた。美麗とはちょっと違うタイプだ。長い髪を縦ロールしているのが田辺恵茉だ。茶色がかった髪とすっきりした目鼻立ちが印象的な美人だ。こちらはちょっとおしゃれさんが集まるグループだ。名波塔子や間宮麻美らがいる。小声で顔を寄せ合い、ひそひそ話だ。
「何よスカートとか履いちゃって、男のくせに」
「男に媚び売っちゃってね~。体重だってあっさり言って、軽いですってアピール?」
「ねえ、あづさもそう思うでしょ?」
少しぼうっとしていた江川あづさは慌てて頷いた。彼女は前髪を額で切りそろえて、ちょっと野暮ったさが漂う。
「うん、確かに軽い」
「頭が軽い、じゃない? 絶対組まないからね」
くすくす笑いが起きる。あづさは彼女たちに合わせながらも、志音たちに視線を送っていた。
「あっそうだ。ちょっといい事を思いついちゃった!」
恵茉は形の良い薄い唇を歪め、手を叩いて笑った。
体育祭騎馬戦問題は、数日後に決着がついた。志音の参加が認められたのだ。渡辺が職員会議で男子参加を議題に乗せたところ、当初は反対意見が多かった。しかし志音の体格と、普段はスカート着用の実績がある。女子の拒否反応もないならば認めるとなったのだ。他のクラスへの不公平がないように、人数が足りない場合はそれぞれ男子一人までなら助っ人OKとなった。もちろんクラスでの話し合いは必須である。
志音は土台を切望したにも関わらず、騎手になってしまった。女子達が担がれるのを嫌がったためと、やはり軽いからだ。良い騎手の条件は二つだ。一つは背が高くて軽い事。相手へ上からの攻撃性に優れる。もう一つは小回りが利くため軽い事。やっぱり軽いのは上に乗る点で有利だ。志音は後者だ。
すぐに放課後や昼休みに練習が始まった。志音はもちろん長いジャージを履いて参加した。始めはお互い照れていたが、組んでしまえば目的は一つだ。男子たちの羨望の眼差しを背に受けて練習に励むのだった。土台の一人は梨乃だった。美麗は背が高いわりには軽いので、騎手になった。
もう一つの練習が応援合戦だ。任意でクラスの半分ほどが参加する。美麗や梨乃は不参加だ。田辺恵茉のグループが加わる。
これは和彦が演目を決めるのに相当苦労する羽目になった。男子部の応援といえば、ハチマキに学ランで太鼓を鳴らすという古い言葉でいえば『バンカラ』。昭和チックな男臭さだ。しかし今どきそんな単語を知っている女子は希少だ。
逆に女子部の集合ダンスは、衣装や音楽を生徒が選んで麗しく踊る体育祭の華である。放課後に全員参加の企画会議が行われたが、スムーズには進まない。
「団長なんだから俺の言う事を聞け」
などと時代錯誤な和彦の言い分が通るはずもない。
「皆の意見を取り入れてまとめるのが団長の役割でしょ?」
などと恵茉に論破される始末である。
ここで透伍が発言した。
「日本には素敵な文化がたくさんある。皆で共有し、アピールすれば共感を得られる! ミシッピちゃんだ!」
提案したのが人気アニメの『いたずら天使のラジカル☆ミシッピちゃん』の楽曲だった。ミシシッピー川のセントアントニー滝を越え異界から来たプリンセスのミシッピちゃん。仲間のセンティーちゃん、アンティーちゃんと共に変身して、人間界に襲いかかる異次元の敵アクトと戦うアニメである。幼稚園の女子からオタクおじさんまで男女問わず高い人気を誇る。主題歌『ミシッピのウフフ♡』も大ヒットした。
何よりクラスのほぼ全員が知っていた。和彦でさえ主題歌を歌詞のカンペなしで歌えてしまうほどだった。
「これで、競技で疲れた皆の心身を癒すのはどうだろうか?」
整った顔が真面目に囁く。これには女子は落ちるだろう。さらにミシッピを始め仲間のコスチュームはミニスカートである。男子が反対できるだろうか。いや、できはしない。
恵茉が軽く腕を組んで黙っている。いつものメンツと一緒だ。塔子が呟いた。
「え~アニメ?」
そうね、と恵茉が同意する。
「これまで女子部のダンスといえばレベルの高さで学外にも有名だったのよ。応援を兼ねるからといって、急に方向を変えるなんて。ねえ?」
麻美が頷く。一瞬遅れてあづさも同意した。
重苦しい空気になった。せっかく決まりそうな企画がまた最初に戻りそうだ。和彦の声が低くなる。
「じゃあどうすればいいっていうんだよ」
「それを考えるのが団長でしょう?」
「まずどうしたいか言えよ」
「こわ~い」
またも透伍が割って入る。和彦の肩をぽんぽん叩いた。
「まあまあまあ。やっぱり僕はミシッピちゃんがいいと思うんだよね」
髪をサラッと流して、爽やかな笑顔を恵茉に向ける。
「なぜならミシッピちゃんは美少女だからだ! 田辺さん、君は美しい」
「は?」
透伍は海外育ちのおかげか。気恥ずかしいような褒め言葉を自然に言ってのける。
「君ならミシッピちゃんのビジュアルに耐えられる。いや、オリジナルを越えるだろう! 日本のアニメ文化を舐めてはいけないよ」
かつては海外のスケート選手が、日本アニメのコスプレでエキシビションを舞った事もある。
「世界に向けて発信される優れたコンテンツなんだよ。それをいわば実写化しようというわけだ。それには美少女が必要なんだ。田辺さん、君らがいれば可能だよ。僕には確信がある。ジャパニーズ・オタク、それは世界共通言語さ! 訴求力は絶対だ!」
何だかよく分からない理屈が繰り広げられる。ほぼ全員が透伍の演説について行けなかった。当事者にされた恵茉もだ。しかし容姿を褒められているのには間違いない。反論はしなかった。
すっかり毒気を抜かれた和彦が静かに言った。
「...じゃあ多数決で決めよう...」
恵茉たち四人は、賛成にも反対にも挙手しなかった。そして反対者ゼロで応援音楽は『ミシッピのウフフ♡』に決まったのだった。
企画が決まれば後は早い。
女子は変身後のミシッピスタイルで、男子は学ランに決まった。裁縫が得意な家族に頼んだり、自分でできる生徒がコスプレ衣装を用意することになった。
志音も結局は応援団のメンバーになっていた。和彦が勝手に参加者リストに記名したせいだ。参加を取り下げない代わりに、ここは絶対に譲らないで学ランチームである。
どこかで調達しなくてはならない。志音は少し考えてから、うんと頷いた。
翌日、志音のバイトは休みだった。帰宅したのは十七時を回った頃だ。駅から五分ほどのマンションだ。相生家がオーナーの建物である。最上階だけは、志音の家の一世帯だけだ。
「ただいま」
鍵を開けると、玄関にはヒールの低いパンプスがある。志音はにっこり笑った。急いで応接室へ向かう。柔らかいベージュの内装に、白いソファだ。テーブルにはティーセット。母と向かい合って、細い背中があった。
伯母の里琴だ。振り返る。肩までの髪が揺れた。
「おかえり、志音ちゃん。連絡ありがとうね」
「いらっしゃい、おば様」
志音は彼女の隣に座った。
「来てくれたんだ、ありがとう。週末にでも僕が取りに行ったのに。体調は?」
「最近はとてもいいの。早く志音ちゃんに会いたかったから来ちゃった」
「ご飯は? 僕はまだなんだ。一緒にどう?」
里琴の細い指が甥の頭を撫でた。
「頂いていこうかしら。それにしても相変わらず可愛いわねえ! 制服が似合うわ」
志音の母の真琴がふんわりと笑った。頬も腕も、ほんのりとピンクでふっくらしている。
「でしょう? 女の子が二人いるみたいでとっても楽しいわ。お洋服も一緒に選びに行くのよ」
母は息子の女装に関しては寛容だ。というよりも、むしろ推奨している感じもする。
赤ちゃんの頃から姉のお下がりを着ていたせいなのか。志音自身も、物心ついた時からリボンやレースに囲まれているのが自然だった。
「いいわねえ...うちの息子どもはもうすっかり大人になっちゃった。頼りにはなるけど、そういう楽しみが薄くて」
それから傍らの紙袋を志音に差し出した。
「はい、これ。どうぞ。ズボンは無しでいいのね?」
「うん。ありがとう!」
里琴の息子が来ていた学生服だ。まだ取ってあったら貸して欲しいと連絡したのだ。OKなら取りに行くつもりだった。スラックスは、上に合う黒い物を買えば何とかなりそうだ。
「志音ちゃん、ちょっと羽織ってみて」
「うん。大きいかな」
志音も少しずつ身長が伸びてはいる。だが制服はLサイズだ。肩が落ちてしまった。袖もやっと指が覗く。
母と伯母は同時に叫んだ。
「か~わいい~!」
ドアが開いた。顔を出したのは、志音の姉、鮎だ。髪を後ろで一つにまとめてある。ブルーのスーツで、会社から帰宅したところだ。彼女は相生家の不動産業を手伝っていて、職場は近い。公認会計士の資格を持つ。
志音とよく似た顔を少ししかめた。
「いらっしゃい、おば様。ところで今度は何のコスプレ祭りかしら?」
年の差は十歳。昔から少し口調が強い姉である。志音はもごもごと答えた。
「体育祭の仮装...というか、応援団で...」
里琴が援護射撃をする。
「学生服が必要だって連絡をくれたのよ! ねえ可愛いでしょう?」
「可愛くするための服じゃないでしょう? それで動けるの? 志音、腕を回してごらん」
母も口を挟む。
「肩は詰めてあげるわ。仮縫いで、後で戻せるようにしておくから。ねえ鮎ちゃん、志音ちゃんがスカートを履くのは嫌がるわよね。男物を着ても厳しくしちゃうの? 母さん、淋しいな」
「初登校で、もうスカートを汚してきたじゃない? そんなにやんちゃをするならスラックスの方がいいでしょって話し」
和彦に水をかけられた時の事だ。原因は話していない。
志音はそっと服を脱いだ。ていねいに畳んで袋に戻す。それを横目に、鮎の追及は止まらない。
「それに今は、動けるか聞いただけよ。体育祭ってまだ先でしょう。急ぎじゃないのに、おば様に届けさせて! 退院したばかりよ。夜の湿気は体に良くないわ」
母は堪えない。
「そうね。じゃあ、お姉さんには泊まってもらおうかな」
「あら、いいのよ。ご飯の後にタクシーを呼んでちょうだい」
里琴は優雅にカップに手を伸ばした。姪に笑顔を向ける。
「まだそんなに遅くないわ。鮎ちゃん、心配ありがとうね。体調はいいの。今は、少しでも機会があれば誰とでもたくさん会いたい。外出するのがとても楽しいのよ」
また髪を撫でる。こけた頬が一瞬だけ陰った。隣に座った志音の肩を抱く。
「ああ、良い匂い。ねえ鮎ちゃんも来て座って」
少しためらってから、鮎も座った。志音の反対側だ。若い二人に挟まれて里琴は微笑む。鮎は黙って伯母の手を握った。
「わあ両手に花! 出かけられるのって最高よ!」
志音が尋ねた。
「ねえ、おば様。体育祭は来られそう?」
「残念、その日はお花のお稽古があるの。ねえ真琴、動画を撮って来てね」
「任せてちょうだい!」
鮎はため息をついた。
「あ~あ、もう。二人とも...」
母の真琴はニコニコしている。両方の手を胸の前で握りしめた。乙女である。
「鮎ちゃんったら、志音ちゃんに焼きもちやいているの? あなたはお父さんの右腕じゃない。頼りがいがあるわ。それに、とってもキレイだわ」
里琴も賛同する。
「そうそう。鮎ちゃんはキレイ、志音ちゃんはカワイイ」
「うわあ、僕は嬉しい!」
素直に喜ぶ志音だ。とうとう鮎は音を上げた。
「はいはい、ありがとう。平和で何よりだわ」
呆れた様子ながらも笑顔になった。
「晩ご飯は私が作ってあげる。消化の良い物がいいわね。志音、手伝うのよ。おば様、ゆっくりしてらして。着替えて来る」
ぴょん、と勢いよく立ち上がる。
志音は伯母の背中を何度か撫でた。それから彼もそこを離れた。選んだ私服は花柄のお家ワンピース。エプロンはピンクのレース付きだった。鮎はため息をつく。そして里琴と真琴の目は、またもハートに輝いたのだった。
翌週から、放課後には応援団の練習も始まった。場所は教室だ。机を後ろにまとめて振り付けの場所を作ってある。参加男子の殆どがもう学ランを用意していた。志音のお直しも済んだ。肩を詰めてもらったものの、やはりサイズが大きい。着丈が長いうえに幅も広いのでなかなか動きにくかった。額には膝まである長い黒のハチマキを巻く。
女子は体操着だ。衣装は本番までとっておくらしい。黄色のポンポンはスズランテープで、参加者全員の手作りだった。
(持って踊ってみたい)
と思わなくもない志音だったが我慢だ。
誰が持ち込んだのか、CDプレイヤーを利用する。何度も何度も何度もエンドレスで再生だ。
女子の振り付けはあまり問題ない。ほぼMV通りだ。校庭のフォーメーションをどうするかがセンスの見せ所だ。
問題は男子である。ミシッピ声優の透き通った歌声と可愛らしい歌詞。そこへ声変わりもすっかり終わった男共が合いの手を入れるのだ。
『♪きゅんきゅんラブリーハートのミシッピちゃんだよ!』
「ラブラブ、M、I、S、I、PP! ミシッピ!」
何の騒ぎなのか。体育祭の応援のはずだ。和彦はぽつりと『ペンライトを用意してオタダンスするか』と呟くが、本番は真っ昼間の屋外だ。
もっとも志音はこんな雰囲気が嫌いではなかったが。
ひと段落して休憩だ。志音は机の上のペットボトルを持ち上げた。
(喉がひりひりするなあ...)
大声を出しっぱなしだ。
窓際で飲んだ。校庭が見下ろせる。体育祭の練習期間ではあったが、活動中の運動部もあった。校庭の端っこにはテニスコートがあるし、野球のグラウンドもある。吟華高校は二つの学校を統合するだけあって校庭も広い。
そしてトラックを走る数人。そのうちの一人が颯だった。
志音は窓枠に肘をついて眺めた。ちらっと自分の机を見る。カバンには『黒曜石(以下略)様』のキーホルダーが下がっている。定期入れには彼のシールを貼った。美麗と出かけたコラボカフェで買ってしまった。グッズを見たら我慢できなかった。何しろカッコいい。アクリルスタンドも購入済だ。席のチャージ料とドリンク代はもちろん払った。メニューを一つ注文するたびにグッズがもらえるので、追加もオーダーした。
(カッコいいもん...あ、そうか)
似ている。颯の面影だ。気が付いてしまった。とくん、と胸が鳴る。
颯がふと見上げる。目線が合った。志音は思わず手を振りそうになる。
「ちょっと出るね」
誰にともなく声をかけて教室を出た。何だかじっとしていられない。もどかしいような、むずがゆいような感じ。校庭に降りた。颯も休憩なのか。水飲み場にいた。どのクラスも練習しているらしく、あちらこちらから様々な音楽が流れている。
「あ...部活中だよね...お邪魔していい?」
「部活じゃない」
颯はタオルを頭からかぶった。タンクトップと短パンだ。逞しい胸板がのぞく。
(同じ男でこんなに違うなんてずるい...)
無理やり視線をはずした。
「あれ? 陸上部じゃなかった?」
「入らなかった。男子部のコーチがこっちには来ないんだ」
統合には人員削減の意味合いもあったのだろう。新学期になったら何人かの職員と教員を見なくなった。
「それだけじゃないけどな」
颯はふっと息を吐いた。
「中学では勧められたから短距離をやっていたけど、もっとやりたい事が見つかったんだ」
「聞いてもいい?」
「ああ。トライアスロンだ。部活はないから自主練だし、学外でコーチを探すのも考えてる。いずれは大会にエントリーしたいと思っているんだ」
「ハードな競技だよね? それにチャレンジってすごい! やりたい事を見つけて進むっていうのが本当にカッコいい」
颯の頬が少し染まった。ごほん、と咳払いする。
「相生は応援団の練習か?」
「うん。似合う? イトコのを借りたんだ。おかしくないかな? あ、こんな事を聞いても良かったかな?」
腕を広げてみせた。サイズが合っていない。だぶだぶだ。志音の髪は肩まであるし、これはこれで女子が応援団のコスプレをしているような倒錯感がなくもない。
颯が真面目な顔で言った。
「お前さ、すぐに何々していいかって聞くけど。自分がそうしたいって思ったなら許可なんか取るなよ。スカート履くって決めた奴らしくもない」
あ、と志音の口が固まった。意識せずに聞いていた。言われたらその通りだ。自分の事なら決められる。でも相手があるのなら気を使ってしまう。それが当たり前だった。気の回しすぎで面倒なヤツと思われたのか心配になる。
「あの...ごめん」
「謝るなよ」
そこへ頭上から声が降って来た。和彦が教室から顔を出している。
「そこ~! いちゃついてんじゃねえ! 練習再開だ!」
志音は真っ赤になった。
「そ、そんなんじゃ...。すぐ行くよ!」
もう『ミシッピのウフフ♡』が響いている。顔が熱い。志音は振り向けなかった。急いで階段を駆け上がった。
それぞれの想いを乗せて五月の半ばに体育祭当日だ。学校近くの運動公園で開催される。場所は競技場の一つを貸し切りだ。生徒たちは現地集合である。これは例年通りだ。違うのは、前回まで男女別で二日間の開催だった。これからは一日限りだ。
クラスごとに観覧席に分かれて座る。それぞれのクラスが座席に思い思いの飾りつけをしている。『〇組必勝!』などと書いた垂れ幕を掲げる所もあった。昼食も決まった時間ではなくて各自で食べてよい。
保護者も専用席が定められて入場と退出は自由だ。平日ながらも立ち見が出るほどの賑わいだった。姉は仕事だ。去年通りに母の真琴が来ているだろう。父もいるはずだ。今日は休暇を取った。妻を一人で外出させたりはしないのだ。お嬢様の真琴をとても大事にしている。動画も、父が撮ってくれるだろう。
手を振るくらいはしたかった。だが人が多くてなかなか探せない。
(まあいいか)
志音は体育祭に集中する事にした。
採点は教師と体育祭実行委員の生徒による。生徒の自由度が高い分、お祭り気分が漂う行事だった。進行も生徒が行う。競技の準備や片付け、放送、点数の表示なども全てだ。初の男女混成だ。多少の滞りやミスはもはやお約束である。多少時間は押し気味ながらも競技は進んだ。
また女子部恒例の行事も引き継がれた。フォトジェニック選抜だ。写真写りや見栄えのする生徒を選んでラインで投票する。時間は開会式から最後の競技の間までだ。
前半と後半の間に応援合戦である。くじ引きで決まった順番で演じる。A組は一番手だった。これは不利だ。高い点数が出にくい。まずは大太鼓がグラウンドのど真ん中に据えられる。学ラン姿の男子生徒が一列に並んだ。高身長が真ん中だ。志音は端っこである。髪を縛っていないので、遠目には女子が紛れ込んでいるようだ。
まずは和彦が太鼓の前に出る。
「それでは~A組の勝利を祈念して~一拍子!」
ばん、と男子一同が手を打つ。会場はまだ静かだ。本当に盛り上がるのか。観覧席に残っているクラスメイトが少し心配そうだ。
しかしそれは杞憂だった。テーマ曲のオープニングが流れると場内がざわついた。赤いミニスカートのコスプレ女子が一斉に入場だ。ポンポンを振り回す。
せーの、と和彦が手を振る。
「ミシッピのウフフ!」
と全員で叫ぶと始まりだ。
『♪毎度よろしくラジカルマジカル、大河を越えてミシッピが来たよ』
「ハイハイ来ました!」
『♪ミシッピ、ミシッピ、ミシシッピー! あっちの世界にいっちゃうからね♡』
「一緒に行きます、行かせます!」
これはあくまで応援合戦である。そのはずだ。しかし場内は一気に盛り上がった。手拍子が始まる。グラウンドは一気にアイドル地下劇場といった様相を見せ始めた。
明るく可愛らしい曲調に乗せて、下腹に響く太鼓の音。男子たちの野太い声。合いの手を入れると同時に手拍子も入れる。そして一列を崩さずに向きを変えて走ったり、手足の振りを入れたりする。振り付けは和彦と透伍の合作だが、やはりオタダンスの要素が濃かった。そして男子は全速力で走る。志音も遅い方ではないと思っていたのだが、身長差でどうしても遅れがちになる。髪とハチマキを翻して懸命に追いかけた。
(練習よりも早くない?)
本番で気合が入っているのだろう。
そして女子達も大活躍だ。輪になったかと思えば、グラウンド一杯に広がる。縦横無尽に笑顔とポンポンを振りまいた。
特に目を引いたのは恵茉の美少女ぶりだ。一人だけ髪に深紅のバラを差している。それだけでも目立つ。遠くからでも分かるほどその姿が美しい。アニメから抜け出たようだ。くるりとターンするとオーバーパンツが露わになる。そのたびに野太いため息が沸き起こった。
美少女アニメと硬派応援団の組み合わせが混とんとした世界観を醸し出す。ある意味、透伍のいう通りのなんでもありな「日本の文化」なのかもしれない。
さらに透伍の透明感溢れる姿が目立つ。長身ですらりとして立っているだけで絵になる。白手袋がてきぱきと宙を舞う。長いハチマキが揺れて彼の動きを彩った。きゃあきゃあと各所から声援が飛ぶ。和彦の暴れっぷりが若干浮いていたが、とにかく大成功だ。
(コレを姉さんが見たら何て言うやら...。でも僕はおまけだなあ)
志音はそう思ったが、目立ちたいわけではない。無事に終わったので充分だ。
二年生の演舞が続く。D組まで終わった時、A組の応援団はトップの点数だった。競技場の入退場門の付近で待っていた面々は、扮装のまま皆で手を取り合って喜んだ。団長の和彦は満足そうだった。
「良かったな! 好評だ。志音にもポンポン持って躍らせたかったな~」
「う~ん...機会があればね...」
アニメのコスプレなど滅多にできるものではない。志音にも多少心残りはあった。着てみたい気持ちは確かになくはない。しかしミニスカートである。動きまわるなら短パンを履くとかしないと、さすがに『男子』が目立ってしまうだろう。それは恥ずかしすぎる。
透伍が志音の頭をぽんぽん叩いた。
「よくやったね。学ランも可愛い」
「ありがとう。上野君、すごいカッコよかった」
「あ~志音ちゃんに褒められた~嬉しい~」
お約束のように抱きしめられた。
「やめてよっ」
「やめない。可愛いもん」
ヒューヒュー、と周囲が冷やかす。
少し離れた場所で恵茉のグループが見ていた。相変わらず塔子と麻美とあづさが一緒だ。
「ふん。浮かれちゃって」
恵茉は両手のポンポンを叩きつけた。
「B組の子に言っておいたからね。見ものだわ」
あづさがもじもじした。その場を離れる。
「トイレ」
「ふ~ん」
背中が消えてから、塔子が恵茉に言った。
「あの子ってちょっと暗くない? よくこのグループにいられるよね。中学からだよ?」
恵茉は顎を上げて笑った。
「入れてあげてるの。だって引き立て役って必要じゃない?」
「ああ、それならね」
この後も競技は続く。応援団の参加者も適宜その場を離れ始めた。
この年は接戦だった。どの組も譲らず点差が開かない。何しろ初の男女合同開催だ。張り切らないはずがない。
残すところはあと二つ。男女別騎馬戦とクラス対抗の選抜リレーだ。騎馬戦は一年生から3年生までのA組対B組、C組対D組で行う。勝った同士の決勝戦で、負けた同士が三位決定戦になる。どの組も騎馬は五台だった。男女混成の騎馬は、志音の他にもちらほらいた。人数の関係だろう。志音を始めとする参加男子は、全員長いジャージ着用だった。肌が直接触れ合うのはやはりお互い遠慮があるようだ。
A組は赤の帽子だ。Bの白の帽子を狙う。ホイッスルが鳴った。ゆらゆらと騎馬が動き始める。いきなり二年B組の二組が志音に近づいた。まともに向かって来られると、意外と手を伸ばせない。やっぱり女子相手に遠慮が出てしまう。
「帽子取って!」
土台の梨乃が叫ぶ。
B組騎手の二人はにやっと笑った。一人が志音の両手首を抑える。後ろのもう一組が、後ろから体操着の裾に手をかけた。
「え?」
帽子ではなかった。狙いは志音のシャツだった。ぐるんとめくられる。首までたくし上げられた。上半身がむき出しだ。おおおお、と大きな騒めきが巻き起こった。
「やめなよ!」
志音の下で制止が入る。しかし彼女たちは止まらない。肌が露わになった志音を引きずり回す。両手を抑えられて何もできないし、土台の女子達も崩れないように必死だ。女子はほぼ全員グラウンドにいる。男ばかりの応援席からは制止の声と同じくらい、意味不明な応援の声がしていた。
「いけ~! 脱がせろ!」
なんてセクハラな言葉も聞こえたような。
ピー! ホイッスルが鳴った。ジャッジ役の女性教師だ。絡み合う騎馬に駆け寄った。
「そこ! やめなさい! やめて!」
彼女たちの動きは止まった。しかし悪びれた様子はない。
「反則してませ~ん」
「してます。首から下への攻撃はダメ!」
手首を抑えた騎手はさらに不満そうに口を尖らせた。
「攻撃じゃないし。腕を掴むのはいいんですよね」
「共謀です。二組とも失格。自分の陣地ラインまで戻りなさい」
不承不承ながらも二組とも騎馬を解いた。口を尖らせ、何か言い合いながらも陣地に戻る。
騎馬は十五対十三になった。幾つか帽子を取り合う。不利な立場になったB組は必死だ。懸命にグラウンドを走り回る。女子だからと闘いに情けは無用だ。掛け声と表情の勇ましさが何とも逞しい。志音もそれに励まされて頑張った。相手の帽子は取れなかったものの、騎馬は生き残って時間切れとなった。
結果、A組連合の勝利だ。
決勝戦に向けて一旦退場だ。陣地に戻った美麗は、勝利の喜びよりも怒りが勝っている。志音に言った。
「大丈夫? あれはないね」
「ごめん。役に立てなかった。女の子にやっぱり手を出しにくくて」
「そっちじゃない。...平気?」
「二組で来たから...力負けしちゃった...」
「いやいや、だから」
恵茉のグループがにやにやしながら見ている。それに気が付いている美麗の方が、志音よりもイラつきを隠さなかった。会話がかみ合わない。
「皆の前で脱がされたじゃない」
「え? 僕オトコだし」
しらっとした空気が流れた。スカートを履いてはいても、心が女子ってわけじゃない。志音としては裸を公開されたのよりも、女子に力負けした方にがっかりなのだ。勝利には貢献できなかった。そちらに残念だ。
「相手は反則の失格だから、帽子を取ったんじゃないのが残念だなあ」
「そこ?」
はああ、とため息をついたのは美麗だけではない。恵茉が眉をしかめた。ちいっと軽く舌打ちする。B組の知り合いに話をしておいたのだ。ちょっと良い気になっている志音に恥をかかせてやろうと思ったのに堪えていない。仲間とひそひそ耳打ちする。
「恥じらいがないよね」
いや男性なのだが。予想よりも志音の心がオトコなので作戦が失敗に終わった。残念そうだ。
グラウンドではC組とD組の試合が始まっている。音楽の合間に悲鳴や怒号が聞こえる。あちらも盛り上がっているようだ。
結局、志音のA組対C組で決勝戦が行われた。騎手のはずだった男子が馬になっている。勝利の為に機動力を上げる布陣を組んだのだ。彼も小柄ながら、志音よりもがっしりした体格だ。それなりに筋力がありそうだ。そのせいばかりではないだろうが、A組は後塵を拝する状態...つまり負けて二位となったのだった。
女子に続いて男子騎馬戦だ。戦い終えたばかりの女子達は、それまでの戦闘モードを脱ぎ捨てた。応援合戦で使った道具やポンポンを持ち出す。それぞれのクラスの席で、臨時の応援団が形成された。
A組には長身の男子が二人いる。颯と透伍だ。颯はそれなりの筋肉質だが、細身だ。透伍も手足は長くて細い。この二人が騎手である。長い腕をひょいっと回して帽子を奪い取って行く。戦況はすぐに勝負が見える状態になった。
志音は席に戻らず、グラウンドの隅っこで見ていた。ジャージを履いたままだ。脱ぎに来たのだが、更衣室まで行くと騎馬戦を見損なってしまう。
(かっこいい...黒曜石様...)
目線の先には颯。どうしても釘付けになる。
勝利はもちろんA組だ。決勝戦も同じような展開だった。
(女子の分は挽回だ!)
嬉しい。胸がどきどきする。急いで更衣室に向かった。
少しの休憩時間を挟んで、残すところは選抜リレー。これで総合優勝が決まる。
まだ応援の声がする。地下の更衣室にも何となく響いている。無人の室内は埃っぽくて空気が涼しい。一気に体が冷えた。髪も汗ばんでいる。
(やっぱりジャージは暑いよね...)
ドアが開いた。颯だった。騎馬戦終了後だ。まだ頬が紅潮している。
「あ」
お互い声が出た。足首まで下げていたジャージを急いで抜いた。
「上野君も着替え?」
「いや。ハチマキ忘れた」
「代表だったよね。これから見に行くよ」
二人は揃って更衣室を出た。颯はまたも志音に歩幅を合わせてくれる。
「午前のクラス対抗でも上野君はめっちゃ速かったね」
「見てたんだ」
「うん。去年も選抜代表だったし。そういえば、昼休みも時々走ってたじゃない」
颯を見上げる。こんな感じは久しぶりだな、と思った。
......覚えてるかな......
男子部の校舎に通っていた去年。
女子が居ない分、今よりももっと男子たちに可愛がられていた志音だ。たまには一人になりたい時もある。そんな時は校舎の外れにある視聴覚準備室に行っていた。大概は誰もいない。四階の端で、しかも階段ではないと行けないのだ。自然と用が無い者は来ない。それが志音には幸運だった。
しかも眺めが良い。お弁当を食べ終わった後に時々訪れていた場所だ。置いてある資料には古いアルバムなどもあったし、校庭を見下ろして走る生徒たちを見ていたりもした。
ある時、不意に颯が訪れた。資料を探しに、と言ったようだ。上の棚からアルバムを引き出そうと苦戦する志音の背後から、すっと手を伸ばして取ってくれた。髪の上を颯の息がかすめ、背中全体に彼の温かさを感じた。
それから何度か来た事があった。その度に何か言っていたけれど、そうやって来るのは颯一人だけだった。
(少し楽しみだったんだよね)
一人になりたいのに矛盾している。
今、颯がすぐ隣にいる。手が触れそうなほど近くだ。
「俺が走るのを見てたんだ?」
「うん。あそこ眺めがいいんだ」
「視聴覚準備室か? グラウンドからも相生が窓際にいるのが見えてた」
「え」
志音が視聴覚準備室にいるのを知って来ていたのか。ひと際大きく鼓動が鳴った。
(それって...それってどういう意味...?)
視線が絡まる。きれいな切れ長の瞳から逃れられない。周りにも生徒がいるのに、二人きりの空間に入った感覚になる。じわりと体が熱い。颯の腕が上がった。長いきれいな指がすうっと近づく。志音の髪に今にも触れそうだ。
(え? 髪? ヤバい! 汗くさいかも?)
ただでさえ紫外線の強い五月の晴れだ。しかも応援合戦の学ランは長袖長ズボン。さらに騎馬戦二回をジャージでやっている。
放送が流れた。
「選抜リレー選手は、入場門に集合お願いします」
あわてて志音は体を思いっきり引いた。数歩下がる。
「あっほら! 上野君が呼ばれている!」
伸ばしかけた指を宙で握りしめる。拳はそのまま体の横に下がった。
そこへ透伍が通りかかった。彼もハチマキをしている。
「上野君、行こう!」
そしていつものようにいきなり背後から志音を抱きしめた。
「ぅわ」
「志音ちゃん、応援よろしく! なんたって玉のお肌を見ちゃったからね~みんなテンション高いよ!」
「僕、男だし!」
ここでも美麗に言った言葉が出る。
颯は無言だ。すぐにくるっと踵を返した。透伍はすぐに追いかける。振り向いて手を振った。
「頑張るよ」
「うん」
何とか笑顔を作ったが、引きつっていないか不安だ。颯は振り返らない。
(ああ、僕の黒曜石様が行ってしまう...)
そう思ってすぐにぎょっとなった。
(え? 僕の...? 僕ったら自分の物って...!)
リレーの準備の間に急いで席に戻った。美麗が笑顔で迎えてくれる。隣に座った。
「志音ちゃん、間に合って良かった! ねえフォトジェニックの投票した? もうそろそろ終わりだよ」
「まだ。美麗ちゃんは終わった?」
「もちろん」
志音も急いでバッグを探った。投票はクラスと名前をラインで送る。個人情報とかいいのかなと思うが、まあ学内だけのお祭りだ。男子と女子を一人ずつ投票できる。
(え、選べない...)
女子はまだあまり名前を知らない。クラスの女子は全員かわいい。男子は...。一人しかいない。指が震える。迷っているうちに梨乃から肩を叩かれた。
「ほら、もう始まるよ。応援しよう」
場内に掲示された点数ではA組が優勢だ。騎馬戦の男子優勝が効いている。しかしリレーの結果次第でどうなるか。まだ応援グッズは席にたくさん転がっている。和彦の号令でまたも臨時の応援団結成だ。彼はまた学ランを羽織った。団長の扮装がお気に召したようだ。
「A組勝利を祈念して三々七拍子行きま~す」
女子がまぜっかえす。
「行っちゃって~」
「帰ってくんな~」
和彦はめげない。
「来て下さい! 心を一つにしましょう!」
何だかんだで男子と女子は馴染んでいるようだ。すぐに和彦の音頭で声援が一つになった。
スターターと第一走者が位置に着いた。威勢の良い音楽に変わる。いよいよスタートだ。
ぱん! 走者一斉に走り始めた。学年ごとに各クラス男女二人ずつの四人。三学年で一チーム十二人だ。それぞれがグラウンドを一周する。走る順番は作戦次第だ。男女の組み合わせ次第で順位が入れ替わっていく。選抜メンバーだけに全員早い。みるみる周回を稼いでいく。
どのクラスも声を限りに声援を送る。一年生が終わった。A組は三位だ。二年生が位置に付く。透伍が一番手だ。和彦ばかりではなく、クラス全体が声をさらに張り上げた。逃げ切り作戦とでたか、二位に差をつけて女子につなぐ。しかし他のクラスの二番手は男子だった。追いつかれてしまった。
そのまま抜かされて、バトンミスもあってA組は三位。二年の最終走者は颯だ。
志音はいつの間にか両手をしっかり胸の前で組んでいた。小さく呟く。
「がんばれ、がんばれ」
バトンが渡った。名前の通り颯爽と走り出す。前の走者を猛追だ。志音の喉からも大声が出た。クラスメイトと一緒に夢中で声援を送る。
颯が二番手を捕らえた。長い脚が大きく躍動する。そのままかわして次は先頭を行くランナーを狙う。そこだけ時間が違う流れかのように颯が走る。きれいなフォームが崩れない。バトンを渡した時には二位と半周近い差が着いていた。
(すごい...やっぱり黒曜石様だ)
これだけの差をもらったのだ。少しひやひやする瞬間はあったものの、逃げ切りでA組が勝った。
(あ。投票)
しそびれてしまった。
(まあいいや。黒曜石様は僕だけのフォトジェニック賞だから!)
すべての競技が終わった。点数表が一度外される。集計の為だ。順位発表と同時にまた掲示する予定だ。
点数の確認作業の間に実行員会から放送が入った。
「閉会式の前に女子部恒例ミスフォトジェニック、そして初! ミスターフォトジェニックの発表をします! 名前を呼ばれた方はグラウンドまでお越しください」
数人がかりでスチールの号令台が設置された。これはこのまま閉会式にも使うのだろう。
「今回は統合したばかりで票が今一つ伸びない中、投票ありがとうございました」
志音と同じく、名前が分からないから投票を迷った生徒も多かったようだ。
「まずは男子。ミスターフォトジェニックはぶっちぎりの票数でした! 名前は知らないけど、背の高い応援団の人という投票が多かった二年A組」
俺か、と和彦が乗り出すがそんなはずはない。
「大下透伍君! 学ラン姿がカッコいいと評判でした。どうぞ!」
順当な所だろう。透伍は立ち上がった。胸に手を当てて周囲に軽く会釈する。それだけで周囲から「ほおお~」とため息が漏れる。絵になる姿だ。学ランを羽織ってグラウンドに降り立った。
「そしてミスフォトジェニック! こちらは接戦でした。やはり二年A組の、あ」
がたがたっ、とマイクに雑音が入った。それ違う、とか無効票だ、と声も入った。いきなり音源が切れる。再開は数分後だった。
「失礼しました。集計ミスがありました。女子もダントツです。改めましてミスフォトジェニックは、二年A組田辺恵茉さん! グラウンドにどうぞ!」
透伍の目論見通りだ。アニメヒロインの恵茉の存在感は際立っていたようだ。しかし彼女は顔を曇らせた。
「何、無効票って。『あ』って言った?」
同じクラスで『あ』から始まる苗字といえば。じろりと相生志音を見る。
「ただ『あ』って言っただけでしょ」
塔子が恵茉にポンポンを渡した。クラスメイトが素直に拍手を始める。恵茉は笑顔を作った。そしてスキップするような足取りで観覧席を去った。透伍の隣に立った時は、さっきの怖い横目は封印。少しはにかんだ乙女な笑みだ。
号令台の上で表彰が行われる。小さな手作りメダルをもらった二人だった。透伍は右手でそれを高く掲げて振る。そして左手は恵茉の肩に回した。男女どちらの羨望を含んだ悲鳴が満ちる。
実は、ミスフォトジェニックは僅差で志音が一位だった。応援合戦で必死に体の大きな男子たちについて走っているのが、とても目立っていた。女子の仮装のように見えて本当に男のコ...というのが逆にとても可愛らしかったのだ。もちろん本人の意図ではない。しかしやっぱり男だ。初の統合ミスフォトジェニックは女性がふさわしい...というか、ルールとして無効だろう。
間一髪だった。発表前に志音が男子だと気が付いた委員がいた。それで二位の恵茉が繰り上がりだ。だがそんな裏事情が発表されるまでもない。
そしてフォトジェニックな二人が退場してから、各クラスの点数発表だ。初の男女混成体育祭の総合優勝はA組である。様々な良い処どりで幕を閉じたのだった。
解散後。更衣室に向かう透伍を追いかける美麗の姿があった。
日常が戻った。志音の髪はついに肩を越えた。そうなると一つ縛りが学校のルールだ。前髪のピンには色の規定はない。しかし髪を縛るとなると選べるのは紺、茶、黒だけ。華美にならないようにとの配慮らしい。形への言及はないので、髪を縛る女子はそれぞれ工夫を凝らしているようだ。志音は三色のリボンを揃えて日替わりで使う事にした。
和彦や透伍のちょっと濃いめのスキンシップも相変わらずだ。そんなある日の昼休み、あづさが志音に声を掛けた。
「ちょっと時間あるかな? 一緒に来てくれる?」
「何かな」
「騎馬戦の事、ちゃんと話したいって。B組の人が呼んでるの」
志音としてはもう終わった話だ。しかし断るのも悪い。うん、と席を立った。連れて行かれたのは人気のない場所。やはり定番の体育館の裏だった。すぐ後ろは塀になっていて狭い隙間だ。運搬用のカートや棒引きに使うポールなども雑然と置いてある。
待っていたのはB組の数人。騎馬戦で失格になった女子だ。志音は名前を知らない。それと恵茉だった。
「やっぱキショイわ、スカートまだ履いてるんだ」
脱がされた女子にいきなり言われた。騎馬戦の話は口実のようだ。別の話がしたいらしい。志音はとっさに回れ右をした。しかしあづさと塔子が通せんぼするように腕組みをして立っている。志音はため息が出そうになった。仕方なく彼女たちと向かい合う。
「えーと誰だっけ」
「誰もでもいいじゃん。あんたのせいで騎馬戦を失格になったんだよ。皆に責められたんだから」
「それルールのせいだよ」
「生意気~」
恵茉はにやにやしながら見ているだけだ。
「あんた男なのに大下君とイチャイチャしてるんだって? 髪を伸ばしたりしてさ~」
髪はとにかく、イチャイチャは聞き捨てならない。透伍が勝手にやっている事だ。
「大下君はふざけているだけだし、スカートも髪も誰にも迷惑をかけてないよ」
「かかってるよ。見てるこっちがキモイんだよ」
志音は黙った。女子達を見渡す。みんな可愛らしい顔立ちだ。それが口を歪めて上品ならざる言葉を吐き出す。彼にとって女の子は煌めく素敵な存在であってほしいのに。
「残念だ...みんな、とっても可愛いのに...」
心の声が出てしまった。
は? と女子たちが顔を見合わせた。斜め上をいく返事だったようだ。志音は続けた。
「大下君の名前を出すって、みんなは彼のファンなの?」
ちょっとざわつく。あづさがすっとその場を離れたのに気が付いた者はいなかった。
「関係ないじゃん...」
「呼び出したのはそれを聞く為? だったら関係あるよ。大下君はカッコいいから憧れるのは分かるけど」
「相生君もでしょ? 大下君が好きなんじゃないの?」
面食らったせいなのか、呼び方が『あんた』から苗字になった。隣のクラスにもスカート男子の名前は知られているようだ。
「違うよ! まあ性別で相手を好きになるんじゃないって気持ちを否定はしないけど。僕のスカートと髪だって、男だから変ってだけでいいのかな? 女ならショートでもロングでもいいじゃない? 女のくせに髪が短いなんて言う人、あんまりいないよね。僕はこれがいいんだ。普通にやりたいだけ、自分の当たり前で」
そんな話になるとはだれも思っていなかったようだ。静かになってしまった。しかし恵茉が黙っていなかった。
「勝手に何の話をしているのよ。そんな事言って、オトコにちやほやされたくてそんな恰好してるんじゃないの? なにこれ」
手を伸ばす。リボンを取ろうとした。制しようとした声が少し低くなってしまう。
「嫌だ。やめろよ」
「いきなり男に戻らないでよ! 体育祭ではヌード見せつけちゃって、本当に気持ち悪い」
これにはさすがに志音もむっとする。
「やったのはそっちだ。でも失格になったって事でチャラだよ。許してあげる」
「何よ、その上から目線!」
恵茉が大声を出した時だった。
がらがらがら!
壁に立てかけてあったポールが一斉に倒れた。その向こうに颯がいた。彼が軽く突いたようだ。
「倒れたな」
どこまで話を聞かれたのか。この状況は、どう見てもつるし上げ。女子達は真っ赤になった。反対側から一斉に逃げ出す。颯の後ろにはあづさがいた。
「相生君、ごめん。こうなるかとは思ったんだけど...呼べって言われて...」
恵茉達がつるし上げをするつもりだと知っていて志音を呼び出したのだ。颯が言った。
「江川さんが俺を呼びに来てくれたんだ」
「えっ。それは...お手間を...」
あづさは照れたように少し笑って首を振った。
「ううん。私も行くね」
そしてスカートを翻して走り去った。
もじもじする志音をしり目に、さっさと颯はポールを片付け始めた。急いで志音も手伝う。
「...ありがとう、来てくれて...」
「いや」
どうして颯を選んだのだろう。いやそれよりもどこから聞かれたのか気になる。
「髪、伸びたな」
「うん。腰のあたりまでいったら切るつもり」
ちょっと迷った。でも颯とまだ話していたい。普通に話せるのは体育祭以来だ。
「髪の寄付に挑戦中。三十センチ必要なんだ」
「ドネーション?」
「うん。医療用かつらに使ってもらうんだよ。伯母が病気になって、抗がん剤で髪が抜けちゃったんだ。かつらを作ってもらった時、とても嬉しそうでさ...もう目がキラキラしちゃったんだ」
これでまた外出できる、と喜んでいた。その様子は乙女のようだった。望まない形で、当たり前にあった物が無くなる。それは恐怖だ。だからせめてかつらで日常を感じてほしい。もちろん髪があってもなくても自然体でいられるのが一番だ。それでも必要とされるのなら。
「子供でも必要なんだって。欲しい人もいるだろうし。それで少しでも役に立てたらなって思ったんだ」
「そうか...」
颯が見つめている。そわそわした気持ちになってしまう。
「あの...上野君。視聴覚準備室によく来てたのは...」
「言っただろう。校庭から見えるって」
志音は確かに窓際にいた。
「相生が居たからだ」
志音、と唇が動いたようだ。見つめられて動けない。颯は両手を軽くこすってついていた草や泥を払った。髪にそっと指が触れて顔の横を撫でる。触れられた所から甘い痺れが広がった。顔が近づく。柔らかく温かい感触がこめかみに触れた。ちゅっと軽い音を立てたのは唇だった。
(え? え? ええええ? いきなり、ここで?)
全身の血が頭に上った。荒くなった呼吸が聞こえる。自分の息だと気が付いてさらに鼓動が速くなった。殆ど反射のように颯の肩を両手で押し返していた。
「...ど、どういう...」
つもりなの、と続く言葉が出てこない。キスはふざけて抱き着かれるのとは全く違う。しかも颯は真面目な顔だった。それが何故か怖い。
「嫌か?」
「じゃないけど...」
志音を叩くように予鈴が鳴った。びく、と全身が震える。俯いたままで顔を上げられない。ざっ、と音がする。志音が目を上げると、ポケットに手を入れて立ち去る颯の後ろ姿があった。
(あっ、待って)
でも何て言ったらいいのか。志音は両手を握りしめて立ちすくんだ。まただ。体育祭の時と同じ。彼は背中を向けて行ってしまう。
まもなく本鈴の時間だ。志音は思い切り走り出した。
教室に戻った。一足先に戻った颯は席にいた。何事もなかったように和彦と話している。
はあ、とため息をついた志音に、美麗が話しかけてきた。隣にあづさと梨乃がいる。
「呼び出されたよね? 大丈夫?」
あづさが状況を美麗に話したようだ。
「ああ...うん」
恵茉は教室の中央あたりに座っている。塔子と小声で話している。麻美も加わった。三人ともこころなしか表情が険しい。
梨乃は声を張り上げた。
「ちょっと! 透伍君!」
「僕?」
いきなりのご指名にきょとんとする透伍に問いかける。
「志音ちゃんを何でそんなにお触りするの?」
「ここで聞くかな。愚問だね。可愛いからだよ。女の子は気軽に触れないけど、志音ちゃんは撫で放題だからね!」
「うわ、キモ。カトーと一緒だ」
こちらもいきなり名指しだ。和彦が親指をしゅっと立てる。
「俺? 透伍と同じか? やったね」
透伍は秀麗な顔をしかめた。
「やめてくれ...カトーと同じカテゴリー...」
「落ち込むな。喜べ!」
背中を思いっきり叩かれ、さらに落ち込んだ透伍だった。まさか自分が志音の呼び出しに関わっているなど知るはずもない。その落ち込みぶりに、それ以上の追及をやめた梨乃だった。
数日間は何事もなく過ぎた。颯に話しかけるきっかけがない。六月に入って空模様が怪しい日が増えた。志音の心もすっきりと晴れない。
その日は日直だった。昼休みに五時限の準備の為に段ボールを運ぶ羽目になった。コンデンサーや豆電球など電流実験の教材だ。一つ一つは小さいが、クラス全員分なのでそれなりに量がある。さらにパワーポイント映写用の資料だ。
もう一人の日直は女子だ。教師に頼まれる前からトイレに行きっぱなしで戻らない。女子はそこでも集って話をしているものだ。だがやっぱり志音は中学からの男子校出身。そのような慣習は知らず、お腹でも壊しているのかと呼びに行ってもらわなかった。
体の前に抱えてよろよろと進む。職員室の前を通りかかった。がら、と扉が開いて出て来たのは颯だった。無言で志音から段ボールを取り上げる。
「あ、あの」
パワポ用の資料だけ渡された。
「えっっと...ありがとう」
颯は前を見たままだった。
「この間はいきなり悪かった。嫌な思いをさせて」
「ち、違うよ!」
思ったよりも大きな声が出た。頬が熱い。颯の視線を感じたが、恥ずかしくてとても見返せない。
「びっくり...びっくりしただけ...」
男同士だから。
志音ははっとした。性別は関係ない。自分でB組の女子達に言った言葉だ。それなのに。
(僕は矛盾している...でも...何でこんなにドキドキするんだろう...)
沈黙が気まずい。無理やり話題を変えようと試みた。
「上野君はどうして職員室へ? 呼び出し?」
「いや。書類を提出に来たんだ。引っ越し...」
言い終わらないうちに教室についた。日直の女子が戻っていた。
「志音ちゃん、ごめん! 呼びに来てくれたら良かったのに!」
「大丈夫。上野君が手伝ってくれたから」
「え~やばい。ありがと~」
今度は颯にお礼を言った。さりげなく片手が颯の腕に触れている。教壇に置かれた段ボールを二人で覗き込んだ。彼女の笑顔を颯が受け止めているようだ。
(どうして胸が痛くなるんだろう。それに引っ越しって言ったよね)
透伍が寄って来た。
「志音ちゃん! カトーと一緒でもいいや。抱っこしたい~」
「またふざけて...」
数日前の落ち込みはどこへやら。また抱き着こうとする。
「嫌だよ! 頭が汗くさいかもだよ。それに女子の代わりで、なんてオカシイって」
「志音ちゃんはいい匂いがする。代わりじゃないよ。本気を出そうか。それならいい?」
きゃ~と周囲で歓声が上がった。う、と詰まる。でも『本気』なんてこの場で言う事じゃない。やはりふざけているのだ。
「本気じゃないならお触り禁止っ」
透伍に背中を向けた瞬間、颯と目が合った。
...どうして...
汗臭いとか、オカシイとか透伍には気負いなく言えるのに。颯を前にすると喉が詰まる。心にある想いはなかなか言葉になって外に出ない。
(書類出したって...まさか転校?)
颯はふいっと横を向いた。さっさと自席に座った。それを横目に志音も席についた。ふう、とため息が出てしまう。
あづさがそばに来た。
「ちょっといい? この間の事だけど」
「呼び出し? もういいよ。助けてくれたし」
「実はね」
彼女は志音の机に肘を付き、顔を寄せてきた。小声で言う。
「誰かを呼びに行ったのは確かだけど。上野君が心配して志音ちゃんを探してたんだよね。だから連れて行ったの」
「そうなんだ...」
それですぐに助っ人が来たのだ。教室へ行ったにしては速かった。
「上野君も志音ちゃんも、お互いずっと目で追ってる感じ? 志音ちゃんも上野君を好きだよね」
「え?」
『志音ちゃんも』って...。一気にうろたえる志音だった。
あづさは机の横のカバンを軽く突いた。黒曜石様が揺れる。
「似てるよね。もう告った?」
「え、いや、え~」
小さい声とはいえ、ここで言うか?
「志音ちゃんが言ったのって、そういう事だよね?」
恵茉の一派は、志音が透伍を好きなのかと誤解していた。しかしあづさは志音自身がちゃんと自覚していなかった感情まで見破っていたようだ。志音の目線や様子から、本当に好きな相手は誰なのか。好きな気持ちは異性に限らないなんて言葉は、唐突に出る言葉ではない。
「僕は、え、そんな、まだ、分かんないよ」
「そっか。まだなんだ。急に言っちゃってごめん」
彼女は真剣な顔つきだった。真っ赤になって口をもごもごさせている志音を置いて立ち上がった。
「井上さん。話があるんだけど」
美麗が目を見張った。
「私に? 今から?」
「良ければ。二人だけで」
まもなく予鈴が鳴る。あづさは美麗の答えをじっと待つ。
「分かった」
軽くため息一つ。美麗とあづさは揃って教室を出て行った。恵茉のグループがちらちらと目線をやる。
「何、あいつら。あづさは美麗とつるむつもり?」
二人は屋上に来た。予鈴間近で誰もいない。金網の前で向かい合う。あづさは唇を噛み締めて下を向いていた。しばらくそのままだったが、やがてきっと顔を上げた。
「私もスラックスを履こうかなと思っているの。スカートより好きかな」
「うん。いいんじゃない」
まだ間が開いた。美麗は辛抱強く次の言葉を待つ。わざわざ別の場所へ呼び出したのだ。これだけのはずがない。あづさはぽつぽつと続けた。
「志音ちゃんって強いよね。たった一人でスカート履くなんてなかなかできないよ。呼び出された時も一歩も引かなかった。男も女もないって言って」
ふいっと上を見る。
「私ね、自分の顔とか自信がなくて。それで中学の時から恵茉と一緒にいたの。きれいな子といたら自分もそうなれた気がしてたから。でも違った。騎馬戦であんな嫌がらせして、つるし上げなんてしようとして。全然きれいじゃなかった。それに私は私でしかなくて」
ぎゅ、と両手を握りしめる。また美麗に視線を戻す。
「こんな私だけど...美麗ちゃんに聞いてほしかったんだ。自由で強いところが羨ましくて、でもなれなくて辛かった。それで逆に避けてた。何の話かって思うかもだけど、実はずっと憧れてた」
二人の間をさあっと風が吹き抜けた。なびく髪からのぞくあづさの瞳はまっすぐな光を湛えている。それがどういう意味なのか。美麗は少し考えた。あづさに嘘はない。そう思えた。それならこちらも真摯に対応するべきだろう。首をかしげて少し微笑んだ。
「...ありがとう...。でもびっくりしたなあ。正直、考えたこともなかった」
「そうだよね...気持ち悪いよね。ごめん」
「謝らなくていいよ」
あづさはまた灰色に淀む空を見上げた。ふう、と息を吐く。
「ありがとう。聞いてくれて」
くるっと背を向ける。一人で帰ろうとするのを美麗が止めた。
「ちょっとちょっと! 置いてきぼりにしないで」
「そういう所なんだよな...。優しいよね...」
同性からの告白だ。思う所もあるだろう。それでも一人にはせず、一緒に行こうとしてくれる。あづさは泣き笑いのように顔をしかめた。美麗は彼女に並んだ。
「そうかな? まあ...気持ち悪いとかは思わない。とにかく戻ろうか」
二人は歩き始めた。美麗が言った。
「私も言っておくね。気になる人がいるんだ」
「告白する?」
「どうかな」
体育祭の終了後、透伍を追いかけた。男子更衣室の近くだけあって、女子は遠巻きにしていたので二人きりになれたのだ。
......ちょっと話せるかな?
......今? まあ少しならね。
気持ちが盛り上がってしまって黙っていられなかったのだ。透伍はくいっと顎を上げて合図をした。二人は建物の陰に移動した。
......大下君。私はあなたが
......ありがとう。でも続きは言わないでね。僕は美麗ちゃんが大好きだよ、人として。友達でいたい。
......それって私がスラックス履いてて女の子っぽくないから?
......違う違う。
透伍は優しい笑顔だった。
......僕はゲイなんだよ。隠しているつもりはないんだけどね。この学校を選んだのも制服がフリーになったって聞いたから。ジェンダーレスな校風なのかなって。あ、でも美麗ちゃんの気持ちは本当に嬉しいよ......
これは玉砕だ。恋愛対象として見られていない。ちゃんと告白する前からチャンスがないと言われてしまった。でも、まだ透伍を想うと胸がきゅうんと痛む。それに隠していないとはいえ、まだみんなは知らないのだ。彼の嗜好を先に言うつもりはない。一生懸命に言葉を探した。
「カッコよくて優しいんだよね。でも分かっちゃった。誰にでも優しいの。ちょっとドン引き中ではあるけどね~」
「何に?」
「カトーと同じ分類だって事!」
「あ、大下君か!」
ここに来てから初めてあづさは笑った。
「志音ちゃんに触りすぎだよね」
「チカンレベルだよ!」
透伍はかつてこうも言っていた。
...女子なら本当に好きな子しか触れたくない...
確かに志音を気に入っているようだ。でも、もしかしてチャンスがあるのだろうか。ちょっと希望を持つ美麗だった。
(透伍君なりの節度はあったんだ)
気持ちはすぐに切り替えられない。それでもこの感情をしばらくは抱きしめていたかった。さらに、あづさの告白には驚いた。顔には出さないようにしたが、かなりうろたえた。でも彼女に嘘はなさそうだ。誰かを好き。自分と似たような想いを抱えていたのなら。それで彼女を突き離せなかった。
五限目はもう始まっている。二人は笑いあい、小走りに駆けだした。
たった数日で季節が進む。どんよりした曇りが続く。そろそろ梅雨がやって来るようだ。
志音のバイトは試用期間の終了と共に最終日を迎えてしまった。春休みから約三か月。制服は可愛いし、やっと作業にもなれた所だったのに残念だ。今日はクリーニングした制服を返しに行っただけだった。順調に伸びる毛先を弄りながら改札を抜けた。金曜日なので学校から直行だ。制服のままだった。
(新しいバイトを探さなくちゃ)
気分が重いのは颯の件もあった。あれから殆ど接点がない。和彦あたりに彼の引っ越しについて聞いてみたかった。だがそんなに颯を気にしているのかと思われそうだ。あづさの発言もあった。
(好きだよねって...そりゃカッコいいですが! 優しいし! 嫌いなはずないよ!)
近づいた颯の顔と唇の温かさ。思い出すだけで顔が赤くなりそうだ。そして今日は欠席。教師から特別のアナウンスはなかったから、すぐに転校とかしないだろうが...。
スマホが鳴った。表示は和彦だった。もしや颯の情報か。素早く画面を開く。最初にお怒りマークだった。
『お前、バイトをクビだってな。せっかく店に行ったのに。今どこだ?』
志音があのねバーガーでバイトをしているのはバレていた。いつ来るかと思っていたのだが、まさかの今日。もちろん志音は店にはいない。
『もう帰ったよ。駅』
『待ってろ。落とし前つけてやる』
「はあ?」
それ以降、メッセージが来ない。仕方ないのでその場で待つ。十五分ほどで和彦一行が現れた。透伍と一緒だ。さらになぜか女子三人。美麗と梨乃、そしてあづさだ。しかも透伍の背後には颯までいた。和彦と女子は制服だ。あづさはこの間からスラックスである。
男子二人は私服だった。透伍は学校から家が近いと言っていた。着替えて来たようだ。通りすがりの女子が目をハートにして振り返る。グレイのチノパンでいかにも良い所のお坊ちゃんという感じだ。対して颯は黒のジーンズだ。カジュアルな中にもワイルドさが漂う。
志音は思わず見とれてしまった。体育祭での雄姿とかグランドの走りを思い出す。
(やっぱり黒曜石様...。僕は上野君を見るのが好き...かも)
和彦が手を挙げた。志音の微妙な沈黙に気が付いていないのか、呑気な声を上げる。
「おう、やっと会えた。ゲーセン行こうぜ。明日休みだし」
「やっと...って、今日も学校で会ってるじゃない。ゲーセンはやめておく」
志音はあまり出入りしない場所だ。バイトも辞めたし、お小遣いもメインの使い道は私服購入なのだ。和彦は不満そうだ。
「あのねの制服を着ているところを見たかったんだ。だからお嬢様たちも来て下さったというのに。せめてゲーセンくらい付き合えよ」
美麗が抗議の声を上げた。
「志音ちゃんのピンク制服が見られるって言うから来たんだ。ゲーセンなら行かない。あそこのケーキ屋さんでお茶する方がいいな。ねえ梨乃とあづさはどうする?」
二人の声はハモった。
「そっちがいい!」
そう言われては和彦は引き下がるしかない。彼女たちは期間限定ケーキセットを目指してさっさと離脱した。
和彦が尋ねる。
「女子に逃げられちまった。お前らは?」
透伍は目をキラキラさせて答えた。
「行くよ。ミシッピのガチャガチャをやりたいなあ。コラボのプリクラもあるんだ。期間限定!」
やはり彼はミシッピのオタクだった。
颯は首を振った。
「片付けが終わってないんだ。帰る」
そこにまだ食い下がる和彦だった。
「え~あのねバーガーには来たのに?」
「夕飯の分を買おうとしただけだ」
結局は和彦と透伍がゲームセンターに向かった。残ったのは颯と志音だ。しらっとした空気になる。最初に口を切ったのは颯だった。
「バイト、辞めたんだな」
「うん。本採用には髪が伸びすぎたんだ」
就業規則では長さの規定はないそうだ。しかし志音の髪は肩甲骨のあたりまである。動くと他の人や調理器具に当たってしまいそうだ。団子にまとめたら帽子がかぶりにくい。調理補助もある飲食店では問題ありとされてしまった。
「寄付だろう。理由は言ったのか」
「ううん。僕が勝手にやってる事だよ」
寄付の長さにはもう少し必要だ。でもそれで迷惑をかけてしまうなら、店の規則を曲げろなんて言いたくない。
「みんな親切だったし、楽しかったんだけど仕方ないよ。勤務態度は褒められたから、まあいいかな。次を探すよ」
「そうか」
じっと颯が見ている。志音は顔が赤くなるのを感じた。目を逸らす。
「この間は急に悪かった」
キスの件か。あわてて首を振った。
「驚いただけ。嫌じゃ...ない。謝らないでよ。逆に...悪い事したみたいじゃない...全然悪くないから」
恥ずかしくて顔が上げられない。
そうか、と颯は少し息を吐いた。ポケットに手を突っ込む。しばらく黙ってから言った。
「これから夕飯を買って帰るんだが」
颯がちょっと首を掻いて志音を見下ろした。
「この辺は詳しくないんだ。どこか持ち帰りの美味しい所を知ったら教えてくれ、志音」
まさかのファーストネーム呼びだ。心臓が跳ね上がった。
「あ、ああ! もちろん! 僕は地元なんだ。去年より学校が近くなったよ。歩きで行けるんだ。あ、前に言ったっけ」
何をしゃべっているのか、自分でもよく分からないままに口が動いた。
えーと、と頭の中で選びながら学校とは反対側へ二人で向かった。駅前の喧噪を離れると、商店街だ。外食のチェーン店も増えたが、昔ながらの個人商店がまだ残っている。どこかレトロな雰囲気もまだあった。
颯と二人で歩くのは初めてだ。周囲からどんな風に見えるのか。
(まさか、カップル?)
名前を呼ばれたし、と一人でドキドキする。
(僕も呼んでいいのかな? はやて...うわぁ)
夕日は夜の暗さに変わりつつ、帰宅を急ぐ人も多い。志音の心にざわめきが押し寄せる。
手作り惣菜の店に着いた。古くから夫婦で営業している。ショーケースの中はきんぴらごぼうや煮物がメインだが、ハンバーグやから揚げもある。
「ここが美味しいよ。僕も時々食べるんだ」
颯はから揚げとポテトサラダを買った。どちらも大盛だ。それからおにぎりを二つとサンドイッチ二つ、ついでに自家製プリンも。志音は目を丸くして見ていた。どう見ても二人分だ。
(ご両親の分? あれ? でも)
会計を終えた颯に聞いた。
「上野君...引っ越すって...。今日も休んだよね。転校しちゃうの?」
「だったら?」
はっと顔を上げた。思わず颯の腕を掴みそうになった。寸前で何とか止めたが、手は宙に浮いたままだ。
「いなくなっちゃうなんて嫌だ」
颯はふっと風のように笑った。
「じゃあ晩メシに付き合ってくれるか? 近くなんだ」
「え?」
それで二人分? 引っ越したのに二人分? えええ? 戸惑う志音に颯の頬が少しだけ染まる。
「嫌か?」
ぶんぶんぶん、と激しく首を振った。
そこから歩いてさらに十分ほど。住宅街に入った。ベージュの外壁のアパートで足を停めた。三階建ての一番上で角という条件のいい部屋だ。
「おじゃまします」
玄関には颯の靴しかなかった。短いながらも廊下がある。いわゆる2LDKのファミリータイプだ。室内はまだ段ボールが幾つか積まれたままだった。しかしリビングにテーブルはセットされているし、パソコンデスクもあった。他の部屋はドアが閉まっている。
「悪いな。荷物を運びこんだのは昨日なんだけど、荷ほどきがすすんでない。今日が両親の出発日だったんだ」
それで片付いてない、と颯は苦笑した。青いカーテンを閉めて、志音にクッションを勧めた。そして台所へ立った。鍋ややかんが出っぱなしになっているものの、すっきりとしている。もう普通に生活ができそうだ。
クッションの上で志音は固まった。ついつい正座だ。
(両親が出発? 何で? とにかく二人きり? え、やばくない? いやいやいやクラスメイトの部屋だよ? やばくない! え? でもキスされた...のに入るのか、アレ?)
ぐるぐる回る考えがまとまらない。
颯が戻って来た。
「もう食べるか?」
「あ、まだ...そんなにお腹が減ってなくて」
「実は俺もだ」
スマホをテーブルに置いた。颯はあぐらだ。前を向いたまま首を掻く。癖らしい。耳が赤い。
(もしかして上野君も緊張してる...のかな?)
そう思うと少し余裕ができた。
「聞いていいかな? あ」
許可をまた取ろうとしてしまった。言い直す。
「聞きたいな。転校しないよね? ね?」
「うん」
はっきりした返事にほっとする。
「親父が海外赴任になったんだ。母親もついて行くって。その間、俺一人じゃ家が広すぎるから貸す事になったんだ。その家賃も家計に少し助かるからって」
「どこなの?」
「ジャカルタ。でっかいプラント作るから、すぐには帰って来られないんだ」
中途半端な時期になったのは、現地から急な人員補充の要請があったせいらしい。事業が順調な証だろう。部屋がファミリータイプなのも、一時帰国の際に泊まれるからだ。そして海外と国内の二世帯を少しでも賄う為に広い家を貸し出す。
「ジャージを貸した日だったか。親に言われて賃貸物件を何件か見ていたんだ」
日中と夜では居住環境がまるで違う事がある。その確認だった。
「ずっと住んでいた所に他人がいるのも不思議な感じだけどな。俺としては学校が近くなるから助かる。それに」
と、志音を見た。
「志音と近所になれた。家はこの辺だったろう?」
「...知ってたんだ...」
「まあ...色々とクラスの奴らが話題にしてたしな。見ていたのは志音だけじゃない。俺もずっとだ」
颯の黒い瞳が志音を捕らえた。
「ずっと気になっていたんだ。去年の文化祭の時から特に」
「あ!」
志音は真っ赤になった。まだ男子部単独の開催だった時だ。ミス男子部なんてコンテストがあった。志音は他の姫ポジション男子と並んで髪に花なんか飾られて写真を撮られた挙句、体育館の壇上に並ばされるという辱めを受けたのだった。
しかし。
「そっちじゃない。クラス展示の方だよ」
志音のクラスの展示のパーテーションを、見学者の子供がぶつかったはずみで倒してしまった。学内の写真をパネルにした掲示物がメインだった。懸命に謝るのにクラスの男子がなかなか許さなかった。どうしてくれんだ、という怒鳴り声が響き渡った。それで隣のクラスの颯も気が付いた。親は近くにいなかったようだ。体の大きな学生に怒られて子供は泣きだしそうだった。あまりの興奮で他の生徒もおどおどするばかりで止められない。格闘技をやっている男子で、体も声も大きい。小学生にしては恐怖だろう。
そこへ志音が割って入ったのだ。彼は一人で落ちたパネルを拾い集めていた。そして臆する事なく子供をかばった。パネルは無事で仕切りが倒れただけなのだ。もういい、と怒ってその同級生は消えた。その後、志音はその子と一緒に掲示を元通りに直した。騒ぎを聞きつけた生徒が手伝ってくれた。
「あれって上野君もいたよね!」
姫ポジの志音が困っているのだ。かなりの人数がいた。
「けっこう集まったからな。大して手は動かしてない」
「でも嬉しかった」
いつも見ていただけの颯。それが緊急時に来てくれてずっといる。それだけではしゃいだ気持ちになったものだ。
「そうか? 俺はあれで志音が気になって...強くて優しくて、とても可愛くて」
気が付けば視聴覚準備室からいつも見下ろす視線があった。それが志音だ。
「褒めすぎ...。嬉しいけど」
「けど?」
颯の指がまた志音の髪に触れる。顔の距離が近い。
「僕の方が先に見ていたんだからね!」
志音だけの黒曜石。
「上野君、名前で呼んでいい?」
「許可が欲しいか?」
うん、と頷いた。
「分かった。名前で呼べ、志音。好きだ」
顔から火を噴きそうなほど熱い。いや、もう全身だ。頬に手を添えられた。鼓動の速さが伝わってしまいそうだ。それでもじっと颯を見返した。ちゃんと応えたい。
「...はやて...。僕も好き」
髪にそっと触れた。
お互いの距離がさらに縮まる。近づきすぎて顔がぼやけた。目をつぶる。颯の片手が肩に回された。もう片手が顎に軽く力をかける。
頭が真っ白になった。何も考えられない。さらに颯が近づく。
その途端、テーブルが震えた。颯のスマホに着信だ。二人の肩がびくっと震えた。急いで颯が応答する。
「あ、母さん。こっちは大丈夫。うん...これからメシ...」
ジャカルタに到着したようだ。状況確認の電話だった。通話を終えた後、颯は少し恥ずかしそうに言った。
「あっちも無事に着いたってさ」
ちょっと気をそがれた二人は、どちらからともなく少し笑った。
「じゃあメシ喰うか」
颯は台所へ立った。
「うん。僕は家に連絡を入れてから手伝うね」
座ったまま、家にメールを入れた。友達とご飯。これでいい。
でも颯に聞いておきたい事がある。
「僕を誘う前に二人分買ったよね? 明日の朝の分? 僕が食べて大丈夫なの?」
ひく、と颯の後ろ姿が固まった。
「一緒に...と思って買った。聞く前なのは...断られたら...」
ごにょごにょと呟く。背後から見ても耳が赤い。余裕がありそうなふりをしていただけのようだ。志音が家に来てくれなかったら。断られるのが恥ずかしくて最初に聞けなかったようだ。買ってしまったら、もう覚悟を決めて誘うしかなかったのだろう。
(か、可愛い)
志音の心にまた新しい感情が芽を出した。それはゆっくりと双葉を伸ばして、いつか花を咲かせるだろう。
「ねえ颯」
志音はぴょんと立ち上がった。カップを出している背の高い彼氏の横に寄りそう。
「明日は一緒に出かけない? ...あ、片付けがあるか...」
「ゆっくりやるよ。コーチ探しはここがもう少し落ち着いてからだし、午後なら手が空く」
優しい笑顔が見下ろしてくる。
「出かけるか?」
「うん! 僕は私服もスカートだからね」
「了解。志音は志音だ。俺はどっちでもいい」
颯の手が髪を滑る。
(これ、僕は好きだなあ)
ことん、と一瞬だけ颯の肩におでこを当てた。それから二人で食事の支度を始めた。初めての二人きりはおうちデートだ。自然と志音の頬は緩みっぱなしになる。
そして明日はお出かけデートだ。どこに行こうか。何を着ようか。実はもう決まっている。
......両想いになれました! 僕はやっぱりスカートを履きます!
了