003
言いつけ通り、あまり離れずに死骸を探し、エネルギーを蓄えること数日。かつて出会った少し開けた場所に、エルフの少女が再び姿を現した。
「ごめんね、待たせちゃった?」
僕は横に揺れて否定の意を示す。
彼女はこの世界で唯一、僕の存在を好意的に受け入れる相手だ。エルフの集落で悪事が露見して来られなくなるのを危惧していたが、杞憂だったようだ。
再会を喜びながら軽やかな足取りで近づいてくる彼女の腕には、分厚い本が数冊抱えられている。僕の前まで来ると、真っ直ぐに差し出す。
「魔法のこと、知らないって言ってたでしょ? だから、それっぽい本を持ってきたの。捲ってあげるから、一緒に読もう!」
そう言って彼女は丸太に腰を下ろし、隣の空間をぽんぽんと叩く。促されるように、その隣にふわりと漂って腰を据えた。
――どうやらこの世界の住民は皆、魔力を持ち、それを用いて魔法を行使できるという。
それは、僕とて例外ではなかった。これまでエネルギーと称して取り込んでいたものは、魔力であったらしい。その魔力を消費することで、魔法が使えるのを確認できた。
「ふふっ、呑み込みが早いね! 君に必要そうな魔法を考えておいたから、今日はそれを試してみよっか!」
少女が教えてくれたのは、近くの者に思考を直接伝える"念話"と、気配を悟られないようにする"隠形"の魔法だった。
前者は当然会話をするために、後者は死にたくない僕に必要なものだと考えたらしい。同族を誰にも悟られずに殺してみせるなど、端々から要領の良さが窺える。
そして僕は、その魔法を教えられるまますぐに使えるようになった。たまたま魔法の素質があるのか、このゴーストと呼ばれる魔物の特性によるものか――それは分からないが、驚くほど自然に魔法が身についていった。
僕はさっそく魔法を行使して、ずっと気になっていたことを尋ねた。
『君、名前は?』
貴重な存在だというのに、まだ名前を知らなかった。もし何かあった時、その名が貴重な手掛かりとなる。
「あー、言ってなかったね。リヴィア。私はリヴィアよ。いい名前でしょ?」
『リヴィア』
言われた名を反芻すると、彼女は満足げに微笑む。
「あなたの名前は?」
『僕の?』
「そう。私だけじゃ不公平でしょ?」
名前……そういえば、この世界に来てから考えたこともなかった。
一応、生前の名ならばあるが、それを口にする気にはなれなかった。この世界には似つかわしくなさそうだし、何より死の記憶が深く刻まれている。
『……ごめん、無いや』
「そうなの? じゃあさ、私が付けてもいい?」
リヴィアが期待を込めた瞳で僕を覗き込む。
別に拘りがあるわけではないし、彼女には少しでも愛着を持ってもらった方がいいだろう。
『いいよ』
「じゃあ……君の名前は、"イリス"なんてどう? ちょっと私の名前に似せちゃった」
『イリス?』
「どう? 気に入った?」
『いいよ、気に入った。よろしくね、リヴィア』
「うんっ!」
それからというのも、かなりの時間をリヴィアと共に過ごすようになっていた。
彼女はいつも、新たな魔法書や知識を携えて現れ、惜しみなくそれを教えてくれる。
生命活動に直結する魔力は、もともと新鮮なエルフの死体から得た分で十分に足りていたが、リヴィアが魔物や動物を狩ってくれるおかげで、さらに潤沢になった。その結果、魔法の修練もますます捗っていく。
時おり、見慣れぬエルフたちの姿や、リヴィアを含めた一団が森を移動するのを見かけることもあった。
どうやら彼らは定期的に狩りへ出ているらしく、その時には教わった隠形の魔法で気配を消し、気付かれないように遠巻きに様子を窺う。リヴィアだけは気付いているようで、時折視線を向けてきた。
『リヴィア、それは?』
ある日、彼女が持ってきたのは、これまでのものとは明らかに雰囲気が異なる本だった。表紙には何の記載もなく、ただ異様な気配を纏っている。
「里で厳重に保管されてた禁書だよ。面白そうだから、盗み出してきちゃった。えへへ」
彼女の教えは、基礎的な魔法から始まり、徐々に高度な理論、実践へと進んでいった。そしていつしか、その中には禁術と呼ばれる危険な魔法も混ざるようになった。
「対象に幻聴や錯覚を引き起こして、理性を削る魔法だって! 魔法って面白いね!」
『……そうだね』
適当に同意しつつ、僕はその内容を頭に叩き込む。リヴィアのいう「面白い」は、いまいち理解できないが、死なないために使えるものなら何でも構わなかった。
彼女の話では、エルフもゴーストも魔法適性に優れた種族だという。ただし方向性が異なり、リヴィアは地水火風の四大属性を用いた王道的な魔法が得意で、僕は呪いや精神干渉といった如何にもおどろおどろしい魔法への適応が高かった。
「ねえねえ、イリス。今日も肩を揉んでよ」
『分かった』
中には、霊体の一部を一時的に実体化させる、僕に特化した魔法もあった。うまく扱えば、生者の心臓を直接掴み、そのまま握り潰すことすら可能だという。確かに禁術として扱われるのも頷ける。
対象が動いていれば命中は難しく、使える場面は限られるが……眠っている相手を襲うなど十分すぎる力だ。
その魔法を教えてくれたのは他でもないリヴィアだ。僕が強くなればなるだけ彼女を殺せる可能性も高まるわけで、その対応に当然戸惑った。
だが、当のリヴィアはまるで気にする様子もなく、むしろ冗談まじりにスキンシップを迫ってくる始末であった。
「それじゃあ行くよ?」
『いつでもどうぞ』
そして、時には鍛錬をする。
僕は死なないために。リヴィアは好き勝手に生きれるだけの力を得るために。
目的は違えど、お互い強さを欲する確かな理由があった。技をぶつけ合い、魔法を練り合い、知恵を交換しながら、僕たちは少しずつ成長していった。
気付けば――森の奥で過ごす日々は、すでに数年を超えていた。
* * *
ある日、風のような軽やかな足音と共に、リヴィアが満面の笑みで駆け寄ってきた。
「イリス! 見て見て、すごい発見! ゴーストが生者に憑依した例があるんだって!」
『……へえ』
瞳を輝かせながら抱えられた本を開き、所定のところを指差す。確かにそのような記載がされてある。
「試してみるよ! イリス、私の中に入って!」
『えっ?』
その言葉に呆気に取られる。いくらなんでも情報が足りなさすぎる。
その事例とやらの詳細は? 憑依の影響は? リヴィアの身体に何かあったら……。
「いいから!」
そんな懸念を意に介さず、リヴィアは身を乗り出してくる。
頭の回転は速いはずなのに、好奇心に火がつくとすぐに暴走する――そういう性格だ。
怖いのは確かだが、鍛錬で彼女の魔法を受けているからか、身体が彼女の魔力に馴染んでいる。今の状態ならば――。
『……分かった。もし異常を感じたら、すぐに言うんだぞ?』
「うん!」
僕は意識を集中し、彼女の中へと入り込む。
魂のようなものがあるので、それに触れ、慎重に境界を越える――。
以前、他の生きた動物で試したときは弾かれたが、今回は違った。まるで水に溶けるように、僕の意識はリヴィアの中へと染み込んでいく。
本能的に“目”を開く。
そこには、リヴィアが見ている世界が広がっていた。
『……入れた、のか』
「ふふっ、やっぱり。本での事例は親しい間柄だったもの! 声も聞こえるよ!」
『僕の声が?』
「うん! 生前は男だったのかな? かっこいい声してる。……おっ?」
試しに体を動かしてみると、リヴィアが目を丸くした。
どうやら、彼女が許してくれれば、僕の意志でも体を操れるらしい。だが、抵抗されれば動かせなくなる。
『なるほど、そういう仕組みか』
「便利じゃん! 基本的には受け入れるよ?」
彼女は平気なようだったが、正直この奇妙な感覚には慣れなかった。
一つの身体に、二つの意識が同居するという異常。僕は軽く酔いそうになり、そっと体内から抜け出す。
『……ごめん、ちょっと慣れないや』
「えーっ、もう少し特訓が必要かなぁ。でも、この状態なら私の里にも行けるようになるかもね!」
リヴィアはそんなことを言う。
彼女の住まうエルフの里は、特殊な結界が貼られて魔物は侵入することができない。それは僕とで例外ではない。
しかし、彼女に憑依した状態ならば……。
『確かに、そうだね』
同意すると、リヴィアは嬉しそうに微笑んだ。