第33話 一時の休息
それから3日ほどで起き上がれるようになったルイーズは、ゆっくりとだが食事の量も少しずつ増え、元気を取り戻していった。
アトラスはその間、ずっとそばにいて看病してくれた。
「寒くないか?」
「はい、大丈夫です。あ、あそこに見えるのって、もしかして海ですか?」
アトラスに案内されて城の中を歩いていたルイーズは、高い塔の上から見た山の向こうに、青く輝くものが見えて声を上げた。
「ああ。あの辺りは狭い湾になっていて、港もある」
「へぇ……」
アトラスの説明を聞きながら、ルイーズはちらりと手元を見た。アトラスはずっとルイーズの手を握ったまま、城の中を歩いている。
自然に手を取られてしまって、手を振り解くこともできず、そのまま歩き続けている。嬉しいけれど、少し恥ずかしい気持ちもあって、ルイーズはずっと落ち着かなかった。
「こんにちは、アトラス様」
「見張りご苦労」
「奥方様と散歩ですか?」
「ああ、城の中を案内している」
「時間があれば、また我等の相手もして下さい。手合わせしたい兵士たちが、まだまだいますから」
「分かった」
見張りに立っている兵士が気さくに声を掛けてきて、アトラスは穏やかに答えている。それを隣で聞いていたルイーズは『奥方様』という言葉に思わず下を向いてしまう。
(そうよね、私はとりあえずアトラス様の妻ということになっているんだものね……)
契約上はそうだけれど、アトラスの妻だなんて自分はまったく思っていない。
(でも……、アトラス様はどう考えているんだろう……)
繋いだ手の意味を考えてしまう。熱を出して倒れた時も、額にキスをしてくれた。
アトラスの気持ちを聞いてみたいと思いながらも、自分が思うような答えが返ってこなかったらと思うと怖くて聞けない。
ルイーズはここ数日、もやもやとした気持ちを胸に抱えて過ごしていた。
「ああ、そろそろ昼食の時間だな。今日は陛下と一緒に食事することになっているから行こう」
「はい、アトラス様」
城の中に戻り廊下を歩いていると、次々にアトラスは兵士や貴族たちに声を掛けられた。
皆とても親しげで、言葉もあまり畏まったものではない。敵国の王太子であったアトラスがあまりにもオルナンドに馴染んでいて、ルイーズはとても驚いた。
「オルナンドの人たちは、私たちが敵国の人間だということをあまり気にしていないのですね」
「そうだな。私も最初は戸惑ったよ。オルナンドはシオンよりずっと柔軟な考え方なんだ。身分や立場で縛られない。個人をちゃんと見てくれる」
「身分に縛られないなんて、シオンでは考えられないことですね」
ルイーズはシオンでの生活を思い出して、溜め息をついた。シオンでは個人という存在はあまり重要視されない。とにかく生まれた身分が大切で、誰もそこから逃げられない。
ルイーズもまた貴族として生まれ、窮屈に思いながらも、それが当たり前だと思って生きてきた。
食堂に到着し、緊張しながら国王が現れるのを待っていると、少しして早足で国王がドアから入ってきた。
「待たせたな」
「いえ。お忙しいのに時間を取って下さりありがとうございます」
「いやいや、余も二人と話したかったからな」
穏やかな声で返事をすると、国王は正面の席につく。すぐに料理が運ばれてくると、3人での昼食会が始まった。
「ルイーズ、随分顔色が良くなったな。身体は辛くないか?」
「おかげさまで、もうすっかり良くなりました。陛下のご温情に感謝いたします」
「そんなに畏まる必要はない。アトラスの妻なら、余の娘も同然だ」
「え?」
国王の言葉の意味がよく分からず、思わずアトラスに視線を向けると、アトラスは困ったように肩を竦めた。
「陛下、ご冗談が過ぎますよ」
「冗談で言っている訳ではないがな。ルイーズ、アトラスはどうだ? 仲良くやっているか?」
「はい。とても優しくしてもらっています」
「そうか。アトラスは目覚めてから、ずっとそなたのことを心配していた。やっと会えて片時も離れたくないと、兵士の手合わせも断っていると聞く。よほど愛しいのだろうな」
「陛下!」
アトラスが慌てたように声を上げて国王の言葉を遮ると、国王は声を上げて楽しげに笑う。
ルイーズがポカンとした表情でアトラスを見ると、ハタと目が合った。その瞬間、ルイーズは顔を真っ赤にして下を向いた。
(え、嘘……、本当に?)
今の言葉が本当なら、嬉しくてたまらない。
自分の勘違いだったらと恥ずかしくて聞けずにいて、ずっともやもやしていたのだ。
「何を照れることがある。そなたらは夫婦なのだから、仲睦まじいのが一番だ。ここでゆっくり夫婦生活を過ごせばいい」
「陛下、それは……」
「二人が良ければ、ここに腰を据えてみる気はないか?」
ルイーズは言葉の意味を図りかねて顔を上げると、アトラスは困ったように笑みを浮かべ首を振った。
「とてもありがたいお話ですが、それはできません」
「やはり復讐せずにはいられないか?」
復讐という言葉にルイーズは身体が重苦しい何かに包まれたように感じた。
アトラスのやっていることは正しいことだと思う。冤罪を晴らすのは、決して悪いことではない。それは決して復讐ではない。けれどとても苦難の道だ。死ぬかもしれない辛い道を選ぶなら、全部を忘れて、ここで生きる道もある。
「復讐……、そうですね。私は私を貶めた者を許せない。けれどそれよりも今のシオンを放っておくことはできません。王族や貴族の怠慢で、市民たちは酷く困窮している。このままではどんどん死者が増えてしまう。誰かが歯止めをかけなければシオンは滅んでしまう」
「私も、アトラス様と同じ意見です」
ルイーズは国王をまっすぐ見つめ答える。
「オルナンドの方々には本当に感謝しております。陛下にも優しくしていただいて、とても心安らぎました。けれどやはり国を、皆を忘れて生きていくことはできません。私たちを助けてくれた人たち、今も助けようとしてくれている人たちを見捨てることなどできません」
はっきりとそう言うと、アトラスは真剣な目でルイーズを見つめ、その手を握り締めた。
「二人の気持ちは決まっているのだな」
「はい。申し訳ありません」
「謝る必要はない。ただ余は二人を気に入っているのでな、そばにいてくれると嬉しいと思っただけなのだ。年寄りの世迷言だと聞き流してくれ」
穏やかに笑う国王の顔は、まるで父親のそれで、二人はまた顔を見合わせると微笑んだ。
それから楽しい食事が終わると、二人は部屋に戻った。
「陛下のお言葉、とても嬉しかったな」
「はい。あんな風に思って下さっているなんて驚きました」
「息子のキール王太子を亡くされて、お寂しいのだろう。でも、私にはやることがある」
「そうですね……」
「ルイーズは、ここにいてもいいのだぞ?」
「え?」
アトラスはそう言うと、手を伸ばしてルイーズの頬に触れる。
「やっと身体が良くなってきたんだ。またシオンに戻ることもあるまい。私があちらに行っている間、ここでゆっくりしていればいい」
身体を労わってくれるアトラスに、ルイーズは心が温かくなる。
けれどルイーズは静かに首を振ると、立ち上がった。そのまま部屋の隅に置いたままだった自分のトランクを開け、麻紐で纏められた紙の束を持ってアトラスの元へ戻った。
「お渡しするのを忘れていました」
「これは……」
「私もアトラス様を陥れた者を許すつもりはありません。もしそれがカーティス様だとしたら、罪人が王太子であるなどこれこそあってはならないことです」
「ルイーズ……」
ルイーズはアシュリーが集めてくれた資料と、自分がまとめたものをアトラスに差し出す。
それを受け取り目を通したアトラスは、感心したような表情で頷いた。
「たった二人で、こんなに調べてくれていたのか……」
「二人だけではありません。アシュリー、ビリー、それに村の皆、いろんな人が助けてくれて調べたんです。皆頑張ってくれました。今度は私が頑張る番です」
一人だけ安全な場所で待っていることはできない。城の教会にいた時も、村で暮らしていた時も、いつも皆から優しさを受け取るばかりだった。
いつか必ず皆の役に立ちたい、この恩を返したいと思っていた。それが今なのだ。
「私はアトラス様をお助けしたい。そして皆も助けたいのです」
はっきりそう言うと、アトラスはしばらくルイーズを見つめたままだったが、諦めたように小さく息を吐いた。
「どうやら何を言ってもだめそうだな」
「我がままを言ってごめんなさい」
「いいさ。君が家の中でただお茶を飲んでいるだけの女性ではないということは、もう十分知っている。ずっとそばにいられるなら、それはそれで嬉しいしな」
「アトラス様……」
ルイーズが微笑むと、アトラスはルイーズの手を握り締め柔らかく微笑み返した。




