第32話 優しい時間
オルナンドに到着し、大広間でアトラスに再会したルイーズは、信じられない気持ちでいっぱいだった。
オルナンドでアトラスを探しだせるなんて、本当はまったく自信がなかった。胸に広がる不安をどうにか押し殺してここまでやってきた。
それがこんなにも早く会えるなんて思っていなかったから、驚きと嬉しさで涙はいつまでたっても止まらなかった。
こうしてアトラスに抱きしめられても、まだ夢のような気がしてならない。
「積もる話もあるだろう。挨拶はまた後で聞くとしよう。二人でゆっくり話すがよい」
「ありがとうございます、陛下」
アトラスは頭を下げてそう言うと、ルイーズの肩を抱いて歩きだした。
謁見の広間を出て廊下を進み暖かな部屋に入ると、ルイーズはアトラスの3年間の話を聞いた。
「……本当にアトラス様が無事で良かったです。オルナンド王が助けてくれなかったら、どうなっていたことか……」
「そうだな。キール王太子のことといい、不思議な縁だ……」
話を聞き終えて、ルイーズは改めてオルナンド王に感謝の気持ちが湧いた。敵国の王太子の命を助け、丁重に扱うというのは普通に考えればあり得ない話だ。
「私は安全な場所で傷を癒し暮らしていた。ルイーズの方がよほど苦労させてしまった。本当にすまなかった」
「いいえ……」
真っ直ぐに見つめて謝るアトラスに、ルイーズは笑顔で首を振る。
これまで何度も謝ってくれた。その表情と声で、心からそう思ってくれているのは十分伝わっている。
「もうそのことは気にしないで下さい。アトラス様が悪いわけではないのですから」
アトラスの膝の上に置かれた手に、そっと自分の手を重ねて置くと、その手をギュッと握られた。
その手の大きさと温かさに、さっきの腕の中の温かさを思い出して、ルイーズは頬を赤らめた。
(私、さっき勢いで抱きついてしまったけれど、変に思われなかったかしら……)
よく考えればアトラスと会うのはこれが2度目で、まだそんなことをする仲ではない。
ルイーズが自分の浅はかな行動を反省していると、アトラスが顔を覗き込んできた。
「どうした? 疲れたか?」
「あ、いえ、大丈夫です」
「長旅で疲れただろう。それに詳しい事情を知らないままで来たのだ。不安だっただろう?」
優しい言葉に、ルイーズは笑顔で首を振る。
「不安でしたが、オルナンドにはアトラス様がいると分かっていましたから、こちらに来られると分かって希望は持っていました」
「そうか。君には知らせておこうと思ったのだが、上手くタイミングが合わずゼフィを飛ばせなかったんだ」
「そうだったのですね。でもこうして会えたのですから良かったです」
2年間、鏡越しに話してきた。けれど限られた時間の中で、深い話はできなかった。聞きたかったこと、話したかったことがまだまだたくさんある。
アトラスの目を見つめてそう言うと、アトラスは顔を歪め抱きしめてきた。
「ア、アトラス様?」
「……私の話はもういい。君の話が聞きたい。全部私に話してくれ。私のせいでこんなことになったんだ。いくらでも詰ってくれて構わない」
「アトラス様……」
アトラスに文句を言うつもりなんてない。そんな気持ちは微塵もない。今はただ会えたことが嬉しいのだ。
その気持ちを伝えたくて顔を上げると、間近にアトラスの顔があって驚いた。
「こんなに痩せてしまって……」
両頬を手で覆われてさらに顔を近づけてくる。触れてしまいそうなほどの近さに、ルイーズは顔をさらに赤くしてしまう。
「ゼフィのようにそばにいけたらどんなにいいかと、どれほど思ったことか」
「……アトラス様はおそばにいて下さいました。ずっと私の心の支えでした」
「私の方こそ君と話すことで、どれだけ救われたことか」
「救われた?」
自分は何もやっていないと首を傾げると、アトラスはそっと頬から手を放し苦笑した。
「私を殺そうとした者たちのことを考えると、怒りでどうにかなってしまいそうだった。だがそんな時、ルイーズが一生懸命生きている姿を見ると、気持ちが落ち着いて前向きな気持ちになれたんだ」
「アトラス様……」
アトラスはそう言うとまたルイーズを抱き締める。ルイーズは胸をドキドキさせながらも、広い背中にそっと腕を回した。
ギュッと抱き締められていると、なんだかホッとして身体から力が抜けてくる。
「今日は疲れただろう? ゆっくり休んで、話は明日にしよう」
「はい」
気遣ってくれるアトラスの穏やかな声に、ルイーズは素直に頷いた。
それからルイーズはふかふかの毛皮が敷かれた広い部屋に通された。天蓋付きの大きなベッドに、美しい調度類が置かれた部屋は、今まで住んでいたボロボロの教会とは天と地ほどの差があって、最初はなんだか落ち着かなかった。けれどふかふかのベッドに入ると、3年間の疲れがどっと押し寄せてきたように感じて、それから落ちるように眠ってしまうと、次の日の昼まで眠り続けた。
「寝坊なんて恥ずかしいわ……」
「起こさないようにとアトラス様より仰せつかっておりました。お疲れでしょうからと」
ルイーズの着替えを手伝いながら、にこやかにメイドが答える。
暖かい毛皮の付いたドレスは山の上にある国らしい装いで、ルイーズは少し物珍しく思いながら袖を通した。
「ウエストが随分緩いですわね。少し詰めますので、そのままお待ち下さい」
「分かったわ」
メイドがテキパキと動くのを見つめながら、ルイーズは手持ち無沙汰で立ち尽くす。
人に世話をされるのが久しぶりだからか、なんだか落ち着かない。
(ずっと一人で暮らしてきたから、実家にいた頃のことなんて忘れてしまったわね……)
昔は貴族の令嬢として、なに不自由ない暮らしを送ってきた。たくさんいるメイドがなんでもやってくれたし、食べるものも着るものも、何も困ることなんてなかった。
けれどこの3年間の暮らしで、ルイーズの感覚はすっかり変わってしまった。この広い部屋も着せられたドレスも、何もかもが贅沢に思える。
(村の人たちは大丈夫かしら……)
オルナンドはもうすっかり雪景色だが、シオンはこれから雪になる。きっと昨年よりももっと食べるものが少なくなるだろう。
年老いた村人たちが、辛い冬を乗り越えられるか心配でたまらない。
「どうですか? きつくありませんか?」
「大丈夫よ。ありがとう」
「では支度が終わりましたので、食堂へご案内致します」
メイドの案内で城内を歩くと、たくさんの人とすれ違った。騎士や貴族や兵士たち、皆がルイーズの顔を見ると、笑顔で挨拶してくれる。シオンの静かで緊張感のある城内とは違い、どこか温かな空気に包まれていて、自然に笑みがこぼれた。
メイドが扉を開けると、長いテーブルの端にアトラスが座っていて、こちらに気付くと顔を上げた。
「アトラス様、おはようございます」
「おはよう?」
「あ、いえ……、ごめんなさい、随分寝過ごしてしまいました」
ルイーズが謝ると、アトラスは笑って首を振った。
「疲れていたんだろ、いいさ。さ、一緒に食事をしよう」
アトラスは立ち上がると、隣のイスを引いてくれる。ルイーズがおずおずとそこに座ると、すぐに食事が運ばれてきた。
美味しそうな肉や魚、それにフルーツもどんどん並べられて、すぐにテーブルは料理でいっぱいになった。
「アトラス様、私、こんなに食べられません」
「ルイーズが好きなものが分からなかったから、色々と作ってもらったんだ。好きなものを食べればいい」
アトラスの優しさがとても嬉しくて、ルイーズはとりあえず言われるままに食事を始めた。貧乏な生活のなかで、夢にまで見た豪華な料理に、どれを食べるか迷いながらも食べ始めたが、なぜだか手が進まない。
「どうした? 口に合わないか?」
「いいえ……、なんだか胸がいっぱいで……」
「大丈夫か?」
「はい。……アトラス様、お聞きしたいことがあります」
食事がのどを通らないことを心配されたくなくて、何気なく話を逸らそうとルイーズは口を開いた。
「私を助けてくれた人たちが今どうなっているか、分かりませんか?」
「村の者たちか?」
「はい。アシュリーやビリーも心配で……」
アトラスは食事の手を止めると、ルイーズに顔を向けて答えた。
「大丈夫だ。村の者たちは日常を過ごしている。ビリーは怪我が治ったあと、故郷に帰った。アシュリーはすでにオルナンドの密偵と合流して、色々と調べて回っている」
「そうだったのですか……。でも良かった。皆、危険ではないんですね?」
「ああ、心配いらない。それよりもっと食べるといい」
「は、はい」
アシュリーたちの安全が分かってホッとしたルイーズはまた食べ始めたが、結局少しのパンとスープを食べただけでお腹いっぱいになってしまい、食事を終えると一度部屋に戻った。
「ルイーズ様、少しお休みになったらお城の中をご案内致しましょうか?」
「……そうね……」
大きく溜め息をついたルイーズは、弱く返事をしながらソファに座り込む。
なんだか身体がだるくて、身体を起こしていられない。前かがみになると顔を歪め目を閉じる。
「ルイーズ様? どうなさいました? ルイーズ様!?」
メイドの声が聞こえたけれど、答えることができず、それきりルイーズの意識は途絶えた。
◇◇◇
「疲れが出たのでしょう。栄養失調も酷い。これ以上痩せてしまわれたら危ない状態です。滋養のあるものを食べさせ、ゆっくり休むことが大切です」
「そうか……」
「ご心配でしょうが、差し迫った命の危険はありませんのでご安心下さい」
「ありがとう。ああ、そうだ。何か塗り薬で良いものはあるか?」
「塗り薬ですか?」
「手がぼろぼろなんだ。爪も割れているし、あかぎれも酷い」
「ああ、それならとても良く効く薬がありますので、あとでお持ち致しましょう」
「助かる」
ルイーズは遠く聞こえる話し声に薄く目を開けると、アトラスは枕元にいた。
「アトラス様……」
「目が覚めたか」
掠れた声で名前を呼ぶと、パッとアトラスが顔を向ける。ホッとした顔で手を伸ばすと、ルイーズの額に手を当てた。
「熱があるんだ。気が付かなかったのか?」
「はい……、すみません……」
「謝らなくていい。ゆっくり休め」
労りのこもる声に嬉しくて笑みを浮かべると、アトラスは眉を歪めて浅く息を吐いた。
「辛いなら辛いと言ってくれ。もう自分一人で背負い込むことはないんだ。私を頼ってほしい」
「でも……」
「ルイーズ……。私を、恨んでいるか?」
ふいに思ってもみない質問が来て、ルイーズは言葉が出なかった。
アトラスの目を見つめていると、大きな手が頬に触れた。
「全部私のせいだ。こんなに痩せて……、どんなに辛い日々だったか……。いくら詫びても足りない……」
そう言うアトラスの方がよほど辛そうだ。
(なんて言ったらアトラス様の気持ちは軽くなるんだろう……)
ルイーズは少し考えてから、頬に触れるアトラスの手に自分の手を重ねた。
「最初は少しだけ恨んだりもしました。でもあの時、アトラス様は亡くなったと思っていましたから、死者を恨んでも仕方ないとすぐに恨みは消えました」
「では今は? 私は生きていたんだ。恨みを言ってもいいのだぞ?」
「じゃあ……。アトラス様、生きていてくれて、ありがとうございます。私はアトラス様が生きていてくれて、嬉しい。とても嬉しいです」
恨みなんて本当にない。たった数時間一緒にいた契約だけの結婚相手を見捨てず、これだけ心を砕いてくれている。それだけでどれだけ救われたか。
「ありがとう、ルイーズ」
ルイーズの言葉にアトラスはふわりと笑うと、顔を近付け額に優しくキスをした。




