アリシア、論破する
すみません。指を深めに切ってしまい、数日間打鍵を控えていました。
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しかし、今日のアリシアもとことんツイていないようだった。
フレインの店は静まり返っており、いつもなら漂ってくるパンの焼ける香りもしない。
フレイン親子の笑顔が見られないことも、おいしいパンが食べられないこともそうだが、今アリシアは一番、店が開いてないこと自体にがっかりしていた。
(……どうしよう)
ギルドに早く着くこともできるけれど、行っても山積みの引き継ぎ書類や素材に追われるだけだ。それではこの澄んだ朝が無駄になってしまう気がする。
そう思ってカバンの肩ひもをぎゅっと握りしめたアリシアは、その重さに気付いた。
中には一昨日の夜に借りた本が入っている。昨日昼休憩に職場で少し読み進め、それきりになっている本。中身は少し前の史実を読み物にアレンジした英雄譚だ。冒頭は史実をなぞった説明になっており、この気候のなかで集中して読み進めるのは、なかなかいい判断かもしれない。
アリシアはひとつ頷くと、ギルドに背を向けて歩き出した。
真正面から昇りつつある太陽の日差しがまぶしい。
それでもその光に自分が洗い流されていくようで、アリシアは少し気分を上げて、ずんずんと中央の噴水へと向かった。
サビ防止に深緑に塗装されたベンチに腰掛け、花壇の花を目の端にとめながら、古の英雄に思いをはせる。数分後に訪れるであろう自分の姿を想像して少し微笑んだアリシアは、しかし、唐突にその足を止めた。
あと数メトルだろうか。アリシアの進む道から一番よく見えるベンチに、アリシアではなく、遠目にも手足の長い精悍な男性が座っていた。腕と足を組んでうつむいている。
(……なんで)
アリシアは口を引き結んだ。
正直、居なければいいと思っていた。忘れていてもいい、寝坊してもいい。やっぱり冗談だったと、笑われても謝られてもいい。
アリシアが仮にのこのこ赴いたとしても、“ここ”には誰もいなくて、自分はそれですっきりさっぱりして――ほんの少し心が苦くてもよくあることだと掃き捨てて――また“日常”に戻れるはずだった。
ベンチに腰掛ける男性、ザカルトは眠っているようだった。
――今なら、引き返せる。
アリシアの頭に明確に浮かんだ一言は、それだった。
昨日あんなにはっきり断ったのだ。今日だってここにくる義理はないはず。業務ではないのだし、多少不誠実でも、許されるはず。
迷いながらも、アリシアがかかとを浮かせたときだった。
ザカルトの顔が上がり、目が開き、背後から昇る太陽にも似た金目のきらめきが、アリシアを捉えた。
そして見たこともないほど優しい笑みがアリシアに向けられる。
アリシアは驚いて、何を言うべきかも分からず口を開いたのだが、
「よ~ぅ。やっぱり来てくれた……アーシャ」
次の瞬間ザカルトの口からはいつもの気安い声が出、その笑顔も見慣れたそれに変わってしまう。
行き場を失った言葉を飲み込んで、アリシアは口をぎゅっと閉じた。
ザカルトはニッと笑うと、ベンチから立ち上がり、大きく伸びをすると、首や肩をコキコキと鳴らす。
「やー……捕まえられてよかったわ。遠征が長かったせいか、明け方には目が覚めてさ。二度寝したらヤバイ、ってことでこのベンチで仮眠取りながら待ってたんだわ」
「……寝てたと思ったのに」
自分でも良くないなと思うぐらい憮然とした声が出た。そんなアリシアをザカルトは気にせずニコニコと眺めている。
「さすがに、人の気配があれば起きるよ。ましてや、アーシャなんだし」
「だからその、アーシャっていうのやめてください」
「っと、そうだったな。ここで嫌われちゃ敵わない。な、アリシア?」
「……はい」
思わず素直に返事をしてしまうアリシアに、ザカルトは嬉しそうにははっと笑った。
「さぁて、あんまり時間もないよな。話しするが、隣、座るか?」
ザカルトが紳士を気取ってベンチを手のひらでさすが、アリシアは動かなかった。
「結構です。そんなに居ませんので」
「なんだよぉ……。まあ、いいか。んじゃ改めて……」
ザカルトは脇の小物筒から白い紙を取り出した。分かりたくないが、おそらく昨日も見たアレだ。
「アリシア、俺と結婚してくれ。俺の分は記入済みだ」
お触れのように左手で書類を吊り下げ、ニカッと笑うザカルト。
アリシアはそれをじっと見つめ、それからゆっくりと視線を落とした。
「……せん」
「ん?」
「……信じられません」
言いながらアリシアの唇がわなわなと震えてくる。
「信じられないって……何で?」
対してザカルトは平然とした声だ。まるで、なんとも思っていなさそうな声。
だからだ。だからこそ……
アリシアは自分がどういう感情をぶつけたらいいのか分からないまま、顔をはねあげ、ザカルトをキッとにらみつけた。
「何でって……全部ですよ。理由が、ひとつも、分かりません」
「ひとつもって、そんなことないだろ」
ザカルトが困ったように頭をかいた。
「いいえ。そもそもザカルトさんと私は接点がほぼないですよね?」
「いつも、ギルドで受け付けしてくれるだろ? 助かってる」
「そんなの年に数回の話じゃないですか」
「……けどもう何年も前からの知り合いだろ?」
「ただの“知り合い”じゃないですか。一緒に食事をしたり、どこかへ行ったりもしていません」
「そりゃな……アリシアはそういうことがしたいのか?」
「そうじゃなくて……! けっこ……んとか、そもそも付き合うとかも全然遠くて……急で……」
「まあ、それはな。俺も、おとといひらめいたくらいだし……」
「ほら! ただの思い付きなんじゃないですか」
「や、違うって」
「何が違うんですか」
「あーっと……だからさ。その“結論”を見つけたのはおとといなんだが、それだけじゃなくてさ……」
視線をそらし、何かを探るように体を動かすザカルトを見て、アリシアは、やっぱり、と思った。
「理由、言えないんですか?」
「言えないわけじゃねぇけど……その……」
「……そもそも、何で結婚なんですか」
「そりゃ、アリシアと言ったら、結婚だろ?」
「……私、結婚願望なんてないです」
「あ? え? そうなのか?」
心底驚いた顔をするザカルト。一体いつどこでそう思ったのか。
「それに、ザカルトさんもないですよね、結婚願望」
「あ……そりゃ、なかった、といえば、まぁ……」
「それに確か、定住を嫌ってお家も持っていないんですよね?」
「あー……そうだ、な」
「だから、どの街でも宿や……その、女性のところを、渡り歩いているんですよね……」
「う……。まぁ……ハイ」
「そんな人が求婚してきて、誰が信じると思うんですか!」
「まあ、確か……に……。……っていうか、アリシアちゃん、案外俺のこと見てくれてんだなぁ」
アリシアが怒りの余り、若干仁王立ちになりつつあるというのに、嬉しいなぁ、とのんきに相好を崩すザカルト。
「今、論点はそこじゃないです!」
「あ、ハイ」
やー、やっぱりこれは結婚……、などとつぶやき始めたザカルトをぴしゃりと抑え、アリシアは大きく息を吸った。
「そもそも、何で……」
なんで“私”なんですか。
次はそう言って、返ってこない答えを待って、この不毛なやりとりを終わりにしようと思っていたのに、その言葉はアリシアの口から出てこなかった。
(聞きたくない。知りたくない)
心の声に気付いて、アリシアはふっと視線を落とす。
そうだ、分かっている。
何を聞いても、きっと“嘘”に聞こえる。
(だって、私は、私のことを……)
「……アリシア? 大丈夫か? やっぱり立ってて疲れたか?」
気遣うザカルトの声も、今は痛い。
「アリシア?」
「……とにかく! どこをとっても信じられる要素がありません! 以上です! 業務開始時間が迫っているのでこれで失礼します!」
駄々をこねるように叫んで、アリシアはくるりと向きを変えた。
やけっぱちのような大股でギルドに向かって歩いていく。
ザカルトが後ろから何か声をかけているような気もしたが、自分の心臓の音がうるさくて、分からなかった。
ザカルトが追ってくる気配はなかった。
明日はストック分を投稿できそうです。
書きたい、とひらめいたシーンを先に書く癖があるので、ときどき(想定外に長くなる)穴埋めに苦労します……。