最終話 兵は神速を貴ぶ
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「北へ逃げた袁尚をかくまっている烏丸を討ち、北方を完全に制圧しましょう!」
曹操の軍議で、ひとり郭嘉が「北を征伐すべし」と訴えたとき、そんな妻への思いも片隅にあったかもしれない。
「何と? そこまでするか?」
烏丸とは、河北のさらに北(今の内モンゴル自治区)にいた遊牧騎馬民族のことだ。
袁紹と仲が良かったので、曹操に負けた三男の袁尚が烏丸族を頼って遠く北へと落ち延びていた。
「こんな北の果てまで追いやった。これ以上やる必要などあるまい」
「それよか南の劉備の動きのほうが心配じゃね? 北への遠征で許を留守にしたら、今度こそ襲われちまうぜ?」
「北なんかほっといて南を攻めるべえ」
同僚たちは口々にそう言ったが、曹操は結局、「大丈夫だよ。どうせ劉備なんて劉表が邪魔で動けやしないから」という郭嘉の意見を採用し、烏丸討伐へ軍を進めた。
◇◆◇
北の果ての想像を絶する過酷な大地――。
曹操は、普段とは打って変わってすっかり弱気になっていた。
『苦寒行』という陰鬱な詩を詠み、始終うなだれているほどだった。
「道が険しい……。橋が壊れてる……」
木々が寂しげだ……。風も悲しげだ……。
「そこに熊が寝てる……。どっかで虎が吠えてる……(ガクブル)」
雪が激しすぎる……。
寝泊まりできる場所がない……。
お腹すいた……。
「つらいよぅ……早く家へ帰ろうよぅ郭嘉ぁ!」
曹操はもはや限界だったが、郭嘉は足を止める訳にいかなかった。
「兵は神速を貴びます」
「やだ、どういう意味?」
〝戦いは迅速に軍隊を動かすことが最も大事〟という意味で、この強行軍で生まれた現代まで残る郭嘉の名言である。
「身軽になればスピーディーに行ってこれます。重い荷物を置いて騎兵だけなら通常の倍のスピードが出ますよ。なんなら補給もみんな置いてっちゃいましょう」
「えええっ、なんで?! なんで食糧を置いてくの?!」
「相手の予想より早く懐に飛び込めば、敵は怯みます。そこを突くんです!」
「飢えるのってホント恐ろしいんだよ……。兵站って大切よ……トホホ」
だが曹操は今回も泣きながら郭嘉の案を採用した。彼の生涯で一番のトラウマ的な強行軍だった。
(時間がない。急がなければ)
郭嘉は知っていた。自分の命がもう長くないことを。
(だが曹操さまの北方平定を安泰とするまでは死ねない)
自分がいなくなったのちに背後となる北から攻められては、曹操軍は安心して南を制圧できない。
(命あるうちに烏丸だけはどうにかしないと……)
過酷な強行軍で郭嘉は血を吐き、その寿命をさらに縮めた。
◇◆◇
「烏丸の王、蹋頓は義理堅いヤツだ」
郭嘉は前々からそう思っていた。
確かに袁紹と蹋頓は仲が良かったが、その袁紹はもういない。
その落ちぶれた息子たちを部族まるごと命がけで庇うなんて、郭嘉にすれば「義理堅すぎる。お人好しにもほどがある」というものだった。
(聞けば武勇に優れた人物だという。騎馬の機動力も魅力的だ)
そんな遊牧騎馬民族の烏丸族を、曹操軍は神速の名を冠した捨て身のスピード行軍と、いくつかの小ワザで油断させることに成功。
ついに両軍は、白狼山にて遭遇。
あまりの速さに烏丸族は一瞬ビビった。
激戦の末、精鋭中の精鋭部隊を率いていた曹操のいとこの曹純が、とうとう烏丸の王・蹋頓を捕らえ、斬首しようとした。
「ちょっと待ってくれ、曹純どの。オレに考えがある。蹋頓の命をオレに預けてくれないか」
鬼気迫る郭嘉の申し出に、曹操の許しが出て、ひとまず烏丸の王は郭嘉の前に引きずり出された。
郭嘉は蹋頓に向かって言った。
「オレはそなたの命を助ける。その代わり、中華の次なる皇帝による密命を受けてほしい」
「――えっ? 中華の次なる皇帝って誰? 誰の密命なの? 郭嘉ちゃん」
烏丸の王ではなく、曹操のほうがビックリして横から口を挟んだ。
「曹操さま。あなたのことですよ。あなたは必ずや漢の次なる新たな王朝を建国なさるでしょう」
「ちょっ、シーっ! そんな滅多なこと大っぴらに言っちゃダメだよ、郭嘉ちゃんっ」
「まぁお聞きください。そのときあなたが玉座にて望むもの――秦の始皇帝をはじめ中華の皇帝が代々、みな喉から手が出るほど欲したもの――それが何だか、もちろん曹操さまはご存知ですよね?」
「そんなコト急に訊かれても……知らないよーっ」
「不老不死の薬ですよ」
曹操はキョトンとした。郭嘉は畳みかけた。
「全土を掌握した後に中華の皇帝が最後に望むもの。それは永遠の命です」
「え~っ、ワタシそんなもの欲しがったことないけどなー。だいたいホントにあるの? 不老不死の薬なんて。ジトー。疑いの目」
曹操はこの時代の人にしては一風変わっていて、ちょっと現代風で実利的なところがあったから、不老不死なんて信じていなかったかもしれない。
げんに曹操は『歩出夏門行』という自作の詩のなかで、「たとえ伝説上の長寿の神亀でも、命に終わりはくる」とうたっている。
「あるかもしれませんよ。ずっと西の、ずっと北にある摩訶不思議な森の中にはね。ですから曹操さま。これは手前からの献上品として将来、玉座にてお受け取りいただきたい」
郭嘉は胸が少し痛んだ。
不老不死の薬が存在するだなどと、実は郭嘉だって微塵も信じてはいなかったのである。
これは曹操ではなく愛妻のため。
郭嘉は蹋頓に向き直った。
「……そして、烏丸の王よ。英流布族が住むというその森へ行き、この次なる王朝の皇帝・曹操さまのために不老不死の薬を手に入れてきてはくれまいか。ひとり案内人を用意する」
「ちょっ?! 案内人までいるの? さっきからゼンっゼン聞いてないよ」
また曹操が横から口を挟んだ。
「希少な異民族の女を捕まえております。おそらく、不老不死の森ゆかりの者です。……烏丸の王よ。今は許にいるその女を護衛し、森まで案内させよ。必ずや不老不死の薬を持ち帰れ」
すると初老の烏丸の王は大きく口を開け、ばかにしたように笑った。
「儂は中央アジア一帯を馬で駆け回っているが、そんな森の話などついぞ聞いたことがない」
「必ずあると思って探してくれ。袁紹への忠誠、まことに大儀であった。そなたの命はここで終わったと思い、今後は生まれ変わって我々のために尽くしてくれ」
「ハハ、正気か?」
「むろん正気だ。そなたの袁紹への義理堅さと屈強さを見込んで頼んでいる。その代わり、生き残った部族の者たちは、この曹操さまが手厚く迎え入れよう」
「もちろん、ワタシは大歓迎だよっ」
曹操が目をキラキラさせている。機動力の高い遊牧騎馬民族の部隊が手に入ることのほうが、曹操にとっては不老不死の薬よりも嬉しいことに違いない。
「頼む。この過酷な大地を、北西の最果てまで旅することができる人物。そして、皇帝の密命を託すほど信頼できる人物はそういないのだ」
「ふむ……」
「案内人となる女は弓が得意だ。馬にも乗れる。過酷な旅にも耐えられるよう、色々と教え込んである。それに妙な呪いも使えるから、きっと旅の役に立つ。なんならまだ若いから、婿を取らせても構わない。ただ、森へ到着するまでは必ず命を守ってやってくれ」
郭嘉は喀血した。
(許へ帰ればオレは死ぬ。あとは頼んだぞ)
◇◆◇
郭嘉は北方から帰還すると危篤に陥った。
曹操が心配して見舞いの使者を何人も何人も送ってきた。便乗して、付き合いのない近所の人までこの時とばかり次々に顔を見に来た。
客人は誰もがみな妻ルシエンの美貌に息をのんだ。
それだけでなく、その立ち居振る舞いの立派で上品なことに恐れ入った。
「金髪の人、まさかちゃんとした奥様だったなんて……」
それもそのはず。もともと名門の生まれで、漢民族としての教育は子どもの頃からしっかりと受けているのである。
もはや誰ひとり彼女を見て異民族の売女などと口にできる者はいなかった。
「……ルシエン。今まで妻としてオレの人生に付き合ってくれてありがとう。さんざん振り回してすまなかったね。最期に礼を言う」
ふたりきりになった郭嘉は病床で妻の手を握った。
「残されたお前のことが心配だ。どうやら英流布族はとても寿命が長いらしいね。実母の故郷のことを調べたが、よく分からなかった。だがお前を……遠いその故郷の森へ……帰してやりたい」
郭嘉は苦しそうに喘いだ。
「烏丸の王、蹋頓という初老の男に、お前のことを頼んである。彼と一緒に行きなさい……。不老不死の薬のことを訊かれても……そんなものはない、などと正直に答えては、絶対にいけないよ。過酷な旅にはなるが……、きっと故郷へ辿り……着く……」
「旦那さま……」
ルシエンの碧い大きな瞳から、大粒の涙がポロリポロリとこぼれ落ちた。
「お薬でございます。ルシエンが一生懸命煎じました。子どものころ母に教わったお薬ですから、きっと良くなりますよ。英流布が好む、珍しい種類の林檎が入っております」
ルシエンは郭嘉の上体を起こし、清々しい果実をすりおろした煎じ薬を口に運んだ。
「……ああ、ありがとう。身体に染みわたるようだ」
そして郭嘉は眠るようにこの世を去った。
自らが見込んだ曹操が中原の覇者となる姿を見届けた。享年38歳だった。
◇◆◇
曹操は郭嘉の葬儀で、泣いて泣いて泣いた。
「若すぎる。若すぎるよぉ………」
郭嘉は曹操よりひと回り以上も若いのだ。次世代の筆頭として、自分が死んだ後のことを託そうと思っていたので悲しみも深かった。
「ルシエンどの……」
そして曹操は人妻が好きだった。未亡人も大好きだった。
「今後の暮らしが不安だろう。ワタシのもとへ来るといい」
曹操は最終的に13人くらい妻を持った。そして妻たちと連れ子たちの面倒をとてもよく見た。
「曹操さま。この上なくありがたきお申し出ではありますが、夫があのような病でしたので……」
「じゃあ息子の郭奕を預かろう。まだ10歳か。なあに安心しなさい。成人するまでワタシが立派に育ててあげる」
「曹操さまは本当に人がお好きなのですね。夫が常々、自慢に申しておりました」
「ワタシのこと、自慢してくれてたの?」
「ええ、とても。夫は曹操さまのことが、大好きでしたのよ」
ルシエンは微笑んだ。
曹操もニッコリと人好きのする笑顔で応じた。
「だいじょうぶ。アナタがたとえ郭嘉と同じ病気でも、何も心配することはないんだよ。ワタシのところへ来れば特別に部屋を与えるから、そこでゆっくりと静養しなさい」
曹操は妻たちを一人ひとり大切にしていたから、ルシエンのその後の生活のことも色々と気にかけてくれるだろう。
◇◆◇
葬儀を済ませ、ひとり息子を曹操に託した次の日の朝。
屈強な烏丸族の初老の戦士がルシエンのもとを訪ねてきた。
「ルシエン殿。いざ出立」
「よくいらしてくださいました、蹋頓さま。ただいま起こして参りますわね」
ルシエンは葬儀の後も埋葬せずに引き取り、ベッドに横たえていた郭嘉のもとへ行くと、
「お目覚めください。旦那さま」
と優しい口づけをした。
果たして郭嘉はパチッと目を覚ました。
「……え?」
「おはようございます。さあ、ともに英流布の森へ旅立ちましょう! 外で蹋頓どのがお待ちですよ」
「……あれっ、オレ生きてた?」
「キスで仮死状態から目覚めるように、リンゴに毒を仕込みました。無事にお葬儀も済ませ、晴れて自由の身ですわ」
ルシエンはこそっと郭嘉に耳打ちする。
「(郭嘉さま。ここ、ルシエンの知略ポイントでございますのよ!)」
「(これのどこが知略だよ。毒リンゴって白〇姫かよ)」
郭嘉は天を仰いだ。
「あれ? 飲まされたのって英流布の煎じ薬じゃなかったっけ?」
「毒も薬も同じでございます」
「危篤の人に毒リンゴ食わせたら死ぬだろ普通?!」
「あなた様のいない旅路はルシエンも寂しゅうございます。英流布の森であれば、きっと郭嘉さまのご病気が治せるお薬があるかもしれません。さあ、行きましょう。ともに!」
かくして西暦207年、愛妻とともに郭嘉は旅立った。
ずっと西のずっと北の果て。妻の故郷の摩訶不思議な森を目指して――。
――おしまい――
最後までお読みくださり、誠にありがとうございました!(*´▽`*)