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ザ・ブラインド  作者: 千勢 逢介
第二章
92/172

55

「ジョン。おい、そこの小僧」


 海に出て三日目。船尾の手摺越しに遠ざかりつつあるヨーロッパ側の水平線を眺めていたジョンは、横合いからそう声をかけられた。彼は船倉に閉じ込められる生活のなか、一日に三十分だけ外の空気を吸うことを許されていた。

 わずかとはいえ自由な、それも生まれてはじめての船旅で許されたこのひとときを、ジョンは船の航路が白波となってしばし漂うさまを眺めるのに使った。


「おい、聞いてるのか。この小僧」


 ジョンが深い青色が作り出す光景に気をとられて返事をせずにいると、声の主であるピーノが頭を小突いてきた。

 どこかで吐いてきたばかりなのだろう、青い顔に不機嫌そうな表情を浮かべるピーノを見て、ジョンは迫りつつある危機に気づけなかったことに対する後悔を感じるよりも先に、恐怖で全身が震えあがった。


「名付け親に挨拶もなしか」


 ジョン、という名前は迎えの船を待つあいだにピーノが彼につけたものだった。

 呼び名が必要だというレオの提案に、彼は迷うことなく少年にジョンという名前を与えた。イングランドの国王からとったものだそうだ。

 ジョン国王は父であるヘンリー二世から領土を与えられず、また失策から大量の土地を失ったために失地王と呼ばれていたそうだ。


 帰る故郷を失った子供にはもってこいの名前だろう、ピーノは悪びれもせずそう言った。根っからの悪党であるピーノにはふたつの長所があった。無学ながらも彼はどこからか知識を仕入れる術に長け、そしてそれをいつまでも正確に覚えていることができた。そうした長所こそが、彼が突飛なひらめきを生み出す原動力となったのだろう。ただし、その使い方の善し悪しは別としてだが。


「本当に金ばっかりかかって愛想のひとつもない小僧だぜ」言いながらピーノはすくみあがるジョンにゆっくりと歩み寄った。「おべっかのひとつどころか笑顔もねえ。おい、おまえはなにができるんだ? あのちんけな売人はおまえがなんにでもなれると言ったが、いったいなんになれる?」


 ピーノがジョンのすぐ隣に立つ。ジョンは身動きひとつできず、ただ黙って自分の主人を見上げることしかできなかった。


「なにも言えねえんだな」ピーノは懐から煙草を取り出すと、海風に吹かれながら火をつけたそれを吸いはじめた。「それにしても船の上は暇だぜ。どうだジョン、ひとつおれと遊ばないか。なに、簡単なゲームだよ」


 そう言って、ピーノは船尾の向こうに広がる海を指差した。指のあいだに挟まれた煙草からあがる煙が、海風に乗って細い線を引いている。


「見ろよ、海だ。いまから十秒やる。なんでもいい、海に関係する言葉を三つ言ってみろ。女といえばブロンド、泣きぼくろ、イケてるランジェリー、みたいにな。どうだ、面白そうだろ。口がきけないんじゃひとつも楽しめないゲームだ。だんまりをきめこむんなら、おれはそれでも構わねえがよ。それじゃあいくぞ……言ってみろ!」


 ピーノの怒声にジョンは思わず息を飲んだが、すぐに「青。大きい。波」と単語を並べた。


「いいぞ。口もきけるじゃねえか、生意気な小僧だぜ」罵りながらもピーノは口の端を持ち上げていた。「次は五つだ。船から思い浮かべるんだ。今回も十秒くれてやる。ひとつにつき二秒の計算さ……やれ!」


 今度ジョンは躊躇しなかった。


「浮かぶ。速い。汽笛」


 最初の三つはすぐに言えたが、そこからが続かなかった。なにかないかと首をめぐらすと、すぐさまピーノがジョンの視界を阻む。


「おっと、ずるはなしだぜ。あと六秒だ」

「壁の浮き輪!」


 ジョンは叫ぶように言った。ピーノは振り返ったが、白い壁には浮き輪はひとつもかかっていなかった。それでも、この船のどこかの壁に救命用の浮き輪がかかっていたのを、ジョンは咄嗟に思い出していたのだ。

 もしも実際に壁に浮き輪がかかっていたらゲームはそこで中断となり、ジョンはピーノに不正をはたらいたと難癖をつけられた挙句にしこたま殴りつけられていたであろう。


「いいだろう……あとひとつだ。残りは二秒――」

「タービン!」


 ジョンは声を張り上げた。その単語は船倉に押し込められているとき、船員たちが廊下でしていた立ち話から得たものだった。それがいったいどういう形で、なにをするものなのかは見当もつかなかったが、少なくとも船に関連する言葉だということは理解していた。


「まったく、そんな言葉どこで覚えやがった。まあいいぜ、今回もおまえの勝ちだ」


 ピーノの笑顔には底意地の悪さが垣間見えていたが、ジョンは次のゲームに期待していた。

 なかば強引に引き込まれたゲームに悪意が見え隠れしていたとしても、子供がその柔軟さでもって恐怖をスリルに変えて楽しんでしまうのは仕方のないことなのかもしれない。

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