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ザ・ブラインド  作者: 千勢 逢介
第二章
73/172

36

 ふと通路の端でなにかが動いたかと思うと、階段へとつづく曲がり角から誰かが飛び出してきた。

 ジョンは素早くわたしを背後にさがらせると同時に、通路の暗がりに向けて拳銃を構えた。支えを失ったわたしもなんとか体勢を立て直し、彼の背中から顔をのぞかせた。


 通路に立っていたのはトチロウだった。


 美男子の姿は見るかげもなかった。

 撫でつけていた長髪は房ごとに乱れ、浅黒い肌が脂汗で人工物のようになっている。これまで多くの女の子を魅了し、これからもそうするであろう黒い瞳は焦点が合わず、はにかんだときにのぞくチャーミングな上下の白い歯がカスタネットのようにかちかち鳴っている。

 歯だけではない、トチロウの全身はおんぼろエンジンのように震えていた。


 そして震えは、彼が腰だめに構えた散弾銃の銃口にまで伝わっている。

 わたしの気がかりは、動揺している彼の指が引き金にかかっているかどうかだった。いまの彼なら、仔犬に吠えられただけで引き金を引いてしまうだろう。


 わたしがジョンから身を離すのと、彼がトチロウに向けた銃口をさげるのとはほとんど同時だった。


「トチロウだな?」ジョンが訊ねる。

「ああ、リップさん。じいちゃんはどこにいるんです?」


 トチロウの位置からは倉庫の中の様子がわからないようだった。夕日が逆光で差し込んでいたし、なによりミヤギ氏の亡骸はわたしたちの身体で隠れていたからだ。


「この奥だ」

「なにがあったんですか?」


 トチロウは訊ねながら銃を構えなおした。おそらく無意識のうちにそうしたのだろうが、そこに警戒心はおろか敵意まで感じとったわたしは思わず身を強張らせた。


「まず落ち着いてくれ。銃をおろすんだ」ジョンはそっと手をのばしながらいった。

「いったい、なにがあったんです?」トチロウが一語ずつ強調して繰り返した。

「ここまでくればわかる。だからまずは銃をおろすんだ」

「ジョン……」


 わたしはジョンの腕に手をそえてたしなめたが、彼は首を横に振るだけだった。


「彼にあれを見せるなんてあんまりだわ」

「それでも、トチロウにとってはこれが最後の別れになるかもしれないんだ」


 わたしたちがやりとりをしているあいだも、トチロウの銃口は危なげに揺れていた。

 鳥や鹿撃ちなどの狩猟にも使われる散弾は、拳銃弾などとは違って標的を面でとらえる。わたしは銃口から放たれる散弾が描く死の円を想像し、それが重なるのを感じるたびに身体のその部分がざわついた。


「通してください」

「まず指から引き金を離すんだ」ジョンが辛抱強く言う。「人差し指を立てるんだ。できるだろう?」

「だめです。指がかたくなっちまって……」

「いいだろう」ジョンが両手をあげて言う。「なら、銃を床に向けるだけでいい。ゆっくりとだ。それならどうだい?」

「はい、それなら」


 トチロウは銃口をゆっくりとさげた。その動きは、暮れなずむ夕日が落ちていく速度といい勝負だった。


 ジョンは両手をあげながらわたしのほうを振り返ると、「リサ、頼めるか?」

「わかった」


 わたしは頷くとトチロウのほうへとゆっくり、まわりこむように歩み寄った。

 彼はいくらか冷静さを取り戻しているようだったが、まだ油断はできない。不用意に近づいて爪先が靴ごとピンクの霧になるなんてごめんだ。


「ハイ、トチロウ」わたしはトチロウの真横に立って微笑みかけた。笑顔が引き攣っていないことを祈るばかりだ。「今朝会ったわね。覚えてる?」


 こちらを向いてトチロウが口元を緩めるのを見て、わたしはひとまず胸を撫でおろした。弱々しくはあるが、すくなくとも彼はわたしを見て緊張を解こうとしてくれているようだ。


「アークライトさんでしょ。あんたのような美人は忘れないよ」

「嬉しいわ。よかったらリサって呼んで。それでねトチロウ、あなたが銃を手放すのを手伝いたいんだけど、いいかしら?」

「ええ。おれからも頼みます。どうも自分だけじゃうまくいかなくて」

「無理もないわ……じゃあ、これから銃とあなたの手に触るけど、驚かないでね」

「驚きはしないけど、緊張はしますね。なにせあなたに触れられるんだから」


 トチロウが声を出して笑う。勢いよくひねった蛇口からほどばしるような笑いが狂気の琴線を弾いてたてる音色に思えてならず、わたしは思わず身を強張らせた。


 ミヤギ氏の亡骸はジョンの身体に隠れてまだ見えなかった。もしも動揺したトチロウが祖父の変わり果てた姿を目にしていたらと思うとぞっとする。そうなったら二十分後にここで息をしているのは、できたての四つの死体を調べる警察官だけかもしれない。


 警察と考え、ほんのわずかだがわたしの思考は店の出入り口に面した通りに向けられた。

 野次馬にまぎれた善意の第三者が素早い対応をしてくれていればいいのだが、まだ現場に踏み込む警官どころか、パトカーのサイレンのひとつも聞こえてこない。もっともこの惨状に居合わせた刑事としては、話がこじれるのを避けたい気持ちもあるのだが。


「リサ?」


 名前を呼ばれ、ふと我に返る。目の前に眉根を寄せるトチロウの顔があった。彼の黒い瞳は恐怖にとらわれたままだったが、その奥にこちらを気遣う様子も窺える。暗い海の彼方で灯台の光がきらめくようにかすかなものだったが、望みを持つには充分だった。


 そこからはうまくいった。トチロウはおとなしくわたしに銃を渡すと、無言のまま目で頷いた。彼の目にはまだ恐怖と動揺が残っているものの、分別もよみがえりつつあった。

 預かった銃をどうすべきかを考えあぐねているあいだに、トチロウが倉庫の奥へと駆け出す。それを止めたのはジョンだった。トチロウは小柄だったので、ジョンはこの段階でも身体で彼の視界をさえぎることができた。


「覚悟をするんだ」トチロウが肩に手を載せてジョンが言う。「ひどい別れになるぞ」

「それでも、なにもしないよりはましです」


 トチロウの声には確信が宿っていた。彼は自分の祖父の身になにが起きたのか、すでに半分以上理解できているのだろう。

 わたしたちの様子から、部屋に充満する血のにおいから、そしてなにより、血縁者同士のみが持つことができる第六感から。


 ジョンは頷き、脇にずれてトチロウの視界をあけた。

 わたしの目にも、ふたたび夕日を背に浴びたミヤギの死体が飛び込んでくる。


 トチロウの嗚咽が倉庫を満たすのに一分もいらなかった。彼は血で汚れるのもおかまいなしに膝をつくと、祖父の脚に顔をうずめて泣き出した。


 全体を通してトチロウは静かだったが、ときどき思い出したように声をあげた。

 それは祖父を襲った理不尽な死に対する怒りで彩られてはいたが、あとを引く震えから彼がいまだに恐怖も感じているのもわかった。


 わたしは小さく震えるトチロウの背中を見ることしかできなかった。

 ジョンはトチロウの涙が落ちる音を聞くことしかできなかった。

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