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ザ・ブラインド  作者: 千勢 逢介
第二章
55/172

18

 わたしは署長のオフィスを出ると、二階にある殺人課のオフィスを素通りして一階へと続く階段に向かった。

 一階はその面積の半分以上がひとつの巨大なエントランスホールになっており、階段の途中に立つわたしの眼下では事務員や内勤者が、机を並べてできた通路を行ったり来たりしている。


 正面玄関のほうに視線を向けると、ホールをふたつに分けるように横長の受付カウンターがしつらえられており、拘留された身内との面会希望者や、盗まれた財布を取り戻してほしいと懇願する観光客などが押しかけている。

 カウンターと正面玄関とのあいだに設けられた待合スペースには、利用者が書類を記入するための机と、黒い合皮張りの長椅子が置かれていたが、それを使うものは誰もいない。


 エントランスを眺めるわたしの鼻に、食べ物のにおいが届いてきた。

 別名「十九分署のうまうまダイナー」は、カウンターの職員側の一角に設けられたスペースのことだ。多忙を極める職員たちはそこに自分たちの昼食を置き、暇を見つければ立ったまま食事をしていた。

 食べ物のにおいによって集まった人々の苛立ちが余計に増すことなど意に介さないかのように、正面玄関側の壁に設けられた四枚の大窓からは柔らかな光が差し込んでいる。予報では午後から雨が降るそうだが、見るかぎりでその気配はない。


 十九分署の職員は原則として正面玄関からの出入りを禁止されているが、その決まりがなくても署員はみんな裏口を使うだろう。いくら市民のために働く公僕とはいえ、群がる暴徒のような人々のど真ん中にバッジをふらさげて飛び込むことなどごめんこうむりたいからだ。


 わたしは正面玄関と、それに殺到する市民たちに背を向けると、足早に正面玄関とは反対側に位置するドアの奥へと引っ込んだ。


 ドアの向こうは廊下が左右にのびており、ホールの喧騒が嘘のように静まりかえっていた。すぐ目の前にある男子トイレの中からは、ときおり誰かの話し声がぼそぼそと聞こえてくる。わたしは廊下を右に進むと、男子トイレから数えて二番目のドアを開けた。


「ああ、アークライト刑事。どうも」


 わたしを出迎えたのは、壁際の椅子に腰かけて足を組む、顎の割れた制服警官だった。彼はわたしに一瞥をくれるとすぐに視線を落とし、手にしていたやすりで爪を熱心にとぎはじめた。

 制服警官と向き合った先には、頑丈な鉄格子がホールでのカウンターと同じように、この部屋をふたつに隔てていた。鉄格子の向こうはさらに別の鉄格子でふたつに分けられており、それぞれの檻の中に数人の拘留者が押し込まれていた。


「見ろよ、女だ」拘留者のひとりがわたしを見て言う。

「ああ、なかなか悪くないぜ。よお、ねえちゃん! こっちきておれたちと遊ぼうぜ」

「奥、いいかしら?」わたしは彼らを無視して制服警官に言った。

「ええ、どうぞ」相変わらず自分の爪を見つめたまま彼が答える。

「ありがとう」


 わたしは鉄格子を横目に制服警官の前を通り過ぎると、入り口の奥にある鉄扉を目指した。


「待てよねえちゃん。こっちにきていいことしようぜ」


 拘留者たちがふたたび野次を飛ばしてくる。

 制服警官は口をすぼめて(その拍子に、たくましい顎の割れ目がさらに深くなった)、粉状になった爪を吹き飛ばすなりゆっくり立ち上がった。


「静かにしろ、この豚野郎ども! それともこいつをこっぴどく食らわせてほしいのか?」制服警官は腰にさした警棒に手をかけた。

「おいおい、おっかねえおまわりだぜ。なあ、警棒なんかよりそのやすりをよこしなよ。そいつでここを抜け出てやるぜ」

「よせよ」別の拘留者が言う。「あんなもの使ったところでじいさんになっても出られやしねえ。その前に棺桶に入ってこことおさらばよ」

「静かにしろと言ったのが聞こえなかったのか?」留置者のやりとりに、ふたたび制服警官の怒号が飛ぶ。「次になにか言ってみろ、その口に警棒を捻じ込んでやるからな」


 その言葉に留置者たちは口を噤んだものの、すぐにまたひそひそ話がはじまり、それはたちまち下品な応酬へと変わった。


「あなたも大変ね」鉄扉を開けながらわたしは言った。

「これがわたしの仕事です」


 警官はそう返事をしながら檻のほうを睨みつけていたが、やがて椅子に腰かけなおすなりふたたび爪にやすりをあてはじめた。


 もともとが警察署庁舎として設計されなかった建物のせいで、十九分署の部屋の配置には少々理屈に合わないところがあった。

 そのひとつがこの留置所だった。

 わたしがこれから目指す部屋へ行くには、拘留者たちがたむろするここを通っていかなければならない。部屋の配置を変えるなり別の入口を設けるなりすればいいのだが、市の財政は殺し屋を雇う金はあっても公務員への還元に回す予算は持ち合わせていないらしい。


 だが馴れとは恐ろしいもので、はじめは拘留者たちの野次に辟易していたわたしでさえ、いまではその存在をそよ風ほども感じていない。

 殺し屋への報酬と改築費用。結局のところ、どちらを重視するべきかはかなり曖昧だ。


 しかし扉を閉じる瞬間、わたしの頭をよぎっていたのはそんな施設の使い勝手の悪さではなく、拘留者のひとりが言った言葉だった。


 なかなか悪くないぜ、と彼は言っていた。

 これはつまり、わたしの容姿に多少なりとも女としての魅力が備わっているということなのだろう。もちろん、男しかいないむさくるしい檻の中にいたせいでわたしを美女かなにかと勘違いしたということも考えられる。砂漠を何日にも渡ってさまよい歩けば、泥水でさえも甘美な清流と遜色なく思えるものだ。


 それでも自信を持つべきだ。わたしはそう思い直して深呼吸をひとつすると、ブラウスのボタンをひとつ余計にはずした。

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