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「リサ。もう一度だけ言わせてくれ。本当にこれが最後のチャンスだ。まだ間に合う」
わたしはその言葉を無視して彼の横を通り抜けると、膝上ほどの高さがある屋上のへりに腰かけた。肩ごしに双眼鏡を覗きこむと、すでに吸血鬼女は舞台袖に引っ込み、狼男だけが残っていた。
「わかった。もう止めないよ」
ジョンはそう言うと、わたしの隣に立った。見上げた彼の横顔はひどく疲れきっており、同時に悲しげだった。数日前、<ノアズ・パパ>で出会ったときから十歳は老けこんでいるように見えた。
ジョンは傍らにケースを置いてから地面に腰をおろすと、懐から取り出した煙草に火をつけた。
「あなたも煙草吸うのね。意外だわ。わたしの元相棒も吸うの。きっと彼の肺はコールタールみたいにどろどろだわ」
「きっときみの元相棒は、こういった代物を良薬のように言うんだろうな。だが、煙草なんてどこまでいっても毒にしかならない。お友達にはそう忠告しておくんだね」
「同感だわ。リッチー……その元相棒がわたしの説教に耳を貸すかどうかは疑問だけど」
でも、あなたも煙草にそれなりの思い入れがあるんじゃない? そう質問しかけた直後、ジョンは火をつけた煙草を指でつまみ、それからもう片方の手を口の中にさしいれた。彼が口から取り出したのは先ほどまで噛んでいたガムだった。
醜く変形した板ガム二枚分のモンスターが外気にさらされるなり、輪郭のぼやけたミントの香りが鼻をつく。彼はガムをわたしの座るそばにはりつけた。
「すこし横によけてくれ」
言われたとおりにわたしが尻をずらすそばで、ジョンが粘土でもこねるように、片手で器用にガムの形を整えていく。
完成したのは中心が盛り上がったガムの丘で、彼はその頂上に火のついた煙草をさかさまに突き立てた。火口を上にした煙草は小さな煙突のようで、摩天楼から吹き抜ける風を受けて煙を揺らしていた。
「ジョン……」
「頃合だ。ファイルを出してくれ」
わたしはへりからおりてジョンの隣に腰かけると、バックパックからファイルを取り出した。だが、あれだけ興味をそそられていたファイルの存在が、ジョンの不可解な行動を前にわたしの中で急速に魅力を失っていた。
「ファイルの四ページ目だ」ジョンが持参したケースを横に寝かせながら言う。
開いたファイルの一ページ目には白頭鷲をあしらった合衆国警察の紋章印が捺されていた。
二ページ目は白紙。
そして三ページ目に、いま目の前にいる……とはいっても双眼鏡があるからそう見えるだけで、実際には三百ヤード以上先にいるのだが……狼男の写真がクリップでとめられていた。
狼男は写真の中で、ジョンがかけているウェリントン型よりも洗練されたフレームのサングラスをかけていた。オープンテラスのカフェでカップを持ち上げるモノクロ写真で、解像度はあまり高くない。男がカメラに気づいていないことから、遠距離から盗撮されたものだとわかる。
「写真の男はあのオフィスにいる男と、同一人物で間違いないな?」
「ええ。でも、これって……」
わたしがしぼりだした言葉はたくさんの疑問をはらんでいた。
この男が何者で、なにをしたのか。わたしたちがこれからすることはなんなのか。
ジョン、あなたはいったい何者なの?
ファイルから顔をあげたわたしはその瞬間、口から出かかっていたすべての質問を飲み込んでしまった。
同時に、ジョンが手にしていたものを見たことで、わたしの疑問はあらかた解消された。




