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ザ・ブラインド  作者: 千勢 逢介
第一章
31/172

28

 さらに時間が経ち、街は眠りから本格的に目覚めつつあった。青白い幕に覆われたような空気が、少しずつ活気をとりもどしていく。


 かじかむ両手で双眼鏡を交互に持ち替えたのも何度目になるだろう。丸く切り取られた視界の中で十五階にある問題の部屋の明かりがついた。

 わたしが息を呑んで見ていると、ひとりの男が部屋に入ってきた。


 後ろに撫でつけた髪から長いひと房がこめかみに垂れた優男風で、ネクタイを巻いていないシャツがはだけた胸元からは、どぎつい香水のにおいがここまで漂ってきそうだ。さして体毛が濃いわけでもないのに、わたしは相手を見て狼男を想像していた。月光を浴びていない、人間になりすました昼間の狼男……


「ジョン、誰か来たわ」

「男か? ひとりで?」

「ええ、男よ。でも待って、もうひとり入ってきた」


 男の次に入ってきたのは、見事なブロンドヘアを持つ女だった。

 こちらはドラキュラ伯爵から永遠の若さと命を授けられたばかりのような瑞々しい色気がある美人で、体に張りつくタイトなミニのワンピースにピンヒール、それから口紅まですべて鮮やかな赤で統一されている。

 ブロンドと赤の組み合わせは、そこだけまだ妖艶な夜が尾を引いているかのようだ。唯一口元の大きなほくろだけが、吸血女が太陽の下を歩くため授けられた免罪符のように、不完全な美しさに仕上げをほどこしていた。


 わたしが見ているそばから、ふたりは室内でおたがいの首に両腕をまわし、視線をからませた。女は赤い唇を弓なりに吊り上げ、男も牙を剥くように獰猛な笑みを浮かべた。

 それからふたりは濃厚なくちづけを交わしはじめた。狼男と吸血女の熱いキス。わたしはこのゴシックホラー顔負けの場面を、特等席から盗み見ていた。


「リサ」背後からジョンが声をかける。

「ええ、わかってる。でも、もうちょっと……」

「いいから、双眼鏡を置いてくれ」


 そう言って肩に手をかけられ、わたしは我に返った。

 行こう、とジョンは足もとに置いていたケースを手にすると、わたしの横から通用口を抜けていった。


 屋上ではそこかしこから伸びた配管やダクトが、わたしの足をすくおうと待ち構えていた。

 いましがた出てきた通用口の隣には背の高い給水タンクが並んでいる。暖房や給湯用の配管で温められた空気が湯気となって立ちのぼり、わたしのまわりで渦巻くもやになっていた。

 わたしたちのいる建物以外でも、屋上で白いもやがかたまりとなってたちこめている。自分がいまいる場所の高さもあって、さながら雲の上を歩いているような気分だ。


 そんな配管と白煙で歩きづらい場所を、ジョンは平然とした様子で屋上の端へと進んでいった。わたしも複雑に絡み合った屋上設備と格闘しながらそのあとを追った。

 手にした双眼鏡をしまえば両手が自由になることに気づいたのは、屋上をぐるりとかこむフェンスまでたどりついたときだった。

 ジョンはフェンスの前にしゃがみこみ、ピッキングツールを使って、かんぬきにかけられていた南京錠を開けようとしている最中だった。


「ねえジョン、警官の目の前でなにしてるわけ?」

「なに、すぐにこんな犯罪行為はどうでもよくなるさ」


 ジョンが言うと同時に、南京錠は短い声で降参を告げた。シリンダーがはずれ、蝶番を支点にフェンスが道を開ける。


 フェンスの外側にある幅三フィートほどの空間に出ると、ジョンはわたしに向きなおった。その顔からはサングラスがはずされ、あのさえざえとした白い瞳がこちらを見つめていた。

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