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ザ・ブラインド  作者: 千勢 逢介
第一章
21/172

18

「あなた……その、目が?」


 サングラスを手渡しながら訊ねる。我ながらなんて間抜けな質問だろう。そもそもこんな暗い夜道でわざわざサングラスをかける理由など、少し考えればわかるはずだ。


 しかしわたしはその容易な答えにいままで辿りつくことができなかった。普段ならすぐに理解できるはずの事柄のまわりを、違和感が漂っていたからだ。


「ええ。病気を患いましてね」ミスター・ウェリントンがサングラスを受け取りながら答える。「ありがとう、助かりました」

「家はどこ? 送っていくわ」わたしは気を取り直して言った。

「いえ結構。すぐ近くですからね。ひとりで帰れますよ」


 表通りへと歩き出す姿を見ながら店でキャシーと彼が交わした会話を思い出し、わたしは違和感の正体に気づいた。


〝今日も杖を持ってきてないのね〟


 キャシーはそう言ったのだ。そしていま、立ち去ろうとするミスター・ウェリントンは視覚障害者が持ち歩く白杖を手にしていなかった。

 つまり彼は杖で地面を探ることなく、平然と往来を歩いていたのだ。わたしはその姿のせいで、ミスター・ウェリントンと盲目という言葉を結びつけることができなかった。


「ねえ、ひとつ教えてもらっていいかしら?」わたしは彼の背中にそう問いかけていた。「どうしてわたしが刑事だと?」

 ミスター・ウェリントンは立ち止まり、背中ごしに言った。「店の常連ですからね」

「答えになってないわ。それに制服警官とか事務職とか、たとえ警察関係者でも刑事とはかぎらないでしょ」

「それも店の常連だから、とだけ答えておきましょう」彼はそれからこう続けた。「お互いにね。たまたま店で居合わせたとき、あなたの話が聞こえてくるんですよ。けして聞き耳をたてているわけじゃありませんがね。わたしは耳がいい。それに、あなたのことについて信頼できる情報提供者もいる」

「キャシーね」それからわたしにあるひらめきが浮かぶ。「まさかとは思うけど……さっきわたしが近づいてきた音も聞こえたっていうの? それでわたしに教えるために強盗たちとわざとあんな会話を?」


 強盗とミスター・ウェリントンとの会話には不自然なところがいくつかあった。特に、強盗がどんな武器を持っているのかはわざわざ訊ねる必要がないように思える。相手の神経を逆撫でしかねない問いかけだったからだ。

 もしもわたしのこの仮説が事実なら、彼は想像以上のタフガイに違いない。

 しかし半ば期待するようなわたしの気持ちとは裏腹に、彼の返事は落ち着いたものだった。


「ご想像におまかせしましょう。いずれにせよあなたの役には立てたはずだ。だからこうして我々は生きていられる」


 たしかに彼の言動が意図的なものであったのなら役に立ったどころではない。

 犯人たちがナイフしか持っていないとわかったから、わたしは彼らの前に出ることができたのだ。わたしが知りたかった、三人の誰も銃を持っていないという情報を、ミスター・ウェリントンは危険にさらされた状態にもかかわらず、興奮する相手から見事に引き出してみせた。


「では、わたしはこれで」


 ミスター・ウェリントンが路地の出口に向かってふたたび歩き出す。わたしが呆然とその後ろ姿を見送っていると、またぞろ彼は振り返った。


「そうだ。差し出がましいようですが、失恋の痛手はよく食べ、よく眠ることで癒やすのがいいと思いますよ」

「なんですって?」

「すみません。今夜の会話も聞こえてしまったもので」


 申し訳なさそうに言う彼に、わたしもばつが悪かった。ひらけた店内であんなやりとりをしておいて、それを聞くなというほうがどうかしている。


「とにかく今夜は胃袋に目一杯詰め込んで、ぐっすり眠ることです」

「食べるものはなんでもいいわけ?」気恥ずかしさを押さえこみながらわたしは訊ねた。「なめした古皮でも?」

「なんでも結構ですし、それだけ冗談が出せればひと安心だ。それではおやすみなさい、刑事さん」


 ミスター・ウェリントンはそう言って姿を消した。

 自分の恋路に余計な口出しをされたにも関わらず、わたしは不思議と腹が立たず、むしろすがすがしさすら感じていた。


 それでも胸の奥にはまだちくちくとした痛みが残っていた。

 だがよしとしよう。この痛みもまた、恋という感情がもたらす特権のひとつだ。


 本来であれば事件の被害者として、ミスター・ウェリントンには現場検証に立ち合ってもらうべきだったが、わたしがそのことを思いついたとき、彼はすでに夜の街に紛れて消えていた。

 ひとまずわたしは私用の携帯で通報をすると、駆けつけた巡回中の警官へ報告と、付近の警戒を厳にすることを告げて家路へとついた。


 夜風の冷たさが染みるほど、頬が興奮で熱を帯びていた。

 それでもわたしは気分が良かった。恋人にふられたり強盗と対決したりで、短時間のうちにジェットコースターのように激しい浮き沈みをした精神が不安定になっていたからかもしれない。だがそれ以上に、ミスター・ウェリントンから思わぬ励ましをもらったことが大きかった。

 孤独や緊張感、それに新しい知り合いを得られた心強さとがないまぜになってなんともいえない酩酊状態をもたらされたわたしは、彼が言ったとおり帰りがけに立ち寄ったデリで徳用アイスクリームとウィスキーを買った。数時間後、二日酔いの頭を抱えながら目覚めて後悔するとも知らずに。


 起きたら朝いちばんに登庁して、昨晩自分が居合わせた強盗事件について正式な報告をするつもりだった。

 はたしてそれは、マートンのむごたらしい死による一連の騒動ですべてうやむやになってしまった。

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