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ザ・ブラインド  作者: 千勢 逢介
プロローグ
2/172

1

 彼に宛てて、長い手紙を書こうと思う。

 そしてこれは、同時に彼の物語でもある。


 彼のことで思い出すのは……まず第一に彼は雷が嫌いだということ。

 第二に彼が雷が嫌いになったとき、わたしはまだ乳歯も抜けきっていないウェストヴァージニアの田舎娘だったということ。




 次に苦い記憶とともに思い出すのは、わたしが彼と出会う少し前の出来事だ。

 彼のことを語るにあたって、まずはここから始めたい。


 そのときわたしは、いきつけのダイナーの窓際のボックス席に当時の恋人と差し向かいに座っていた。


 水曜日の午後九時。窓の向こうでは人と車が大通りを行き交っている。店が空いていればいつも通してくれるこの席からの景色を、わたしはぼんやりと見つめていた。


 ダイナーでいつも注文するお気に入りの料理はテーブルの上にあった。

 テーブルの上の、くすんだブロックチェックのクロスの上の冷えきった鉄板のそのまた上の、表面の油分がかたまったグレービーソースの上にのった、一ポンドのサーロインステーキ。

 だがこの大好物にも、いまは手をつける気にはなれない。


「わたしの聞き違いだった?」


 わたしは向かいに座る恋人に訊ねた。この街の銀行に勤める前途有望な彼は、この大衆食堂に足を踏み入れることはしても、その上等な上着を脱ごうともしない。実際わたしがこの店をデートコースに入れるたび、彼は文句こそ言わないもののよく顔をしかめていた。


「リサ……」彼はそう言いかけ、コーヒーカップを手にした。


 彼が次に切り出すであろう言葉を聞きたくはなかった。

 熱をなくした鉄板に視線を落とすと、とりあげたフォークでマッシュポテトをかきまぜる。普段はひとくちと半分で平らげてしまうこの添え物が、目下わたしの研究対象だ。


「もう一度言うよ。ぼくたちは新しいパートナーを見つけるべきだ。お互いにね」

「言いたいことはそれだけ?」マッシュポテトを粘土のように押し広げながらわたしは訊ねた。

「ああ」

「だったら訊くけど、いったいわたしのどこが不満だったの?」


 思わず過去形にしてしまう自分自身に腹が立つ。わたしだって、この恋がとうの昔に終わっていたことにまったく気づいていなかったわけじゃない。それでも訊かずにはいられなかった。

 半分は後学のために。もう半分は、悔しさをまぎらわすために。


 彼はコーヒーカップを口に近づけたものの、中身を飲まずに受け皿に戻した。

 冷めていたのだろう。わたしがいつものステーキを頼むのを尻目に注文したこのコーヒーを、彼はおかわりするどころか、ひとくちもすすらなかった。


 いまになって思えば、彼はこのやくたいもない別れ話をさっさと切り上げて家に帰るつもりだったのかもしれないし、職場で彼の秘書を勤める若い娘の家に転がりこむつもりなのかもしれない。

 一時間前までのわたしはそんなことは夢にも思わず、口中に広がるソースのどこか焦げっぽい風味を想像してにやついていただけだった。


「わたしの仕事が気に入らないの? 女がする仕事じゃないと思ってる?」


 返事をしようとしない彼にじりつきながら、わたしは追い打ちをかけた。

 彼はといえば、わたしがさっきしていたように窓の外に視線を投げかけているだけ。行きつけにしている地上六十二階の夜景を眺望できるレストランとくらべてはるかに見劣りするここの眺めを、彼が心底軽蔑していたのを、わたしは知っている。


「リサ」彼は姿勢をなおすと、カップを脇に寄せてテーブルに身を乗り出した。「誰かへの愛が失われるのに、これといった理由はないだろう。たとえ理由をあてはめることができたとしても、それは単なる後付けにすぎないよ」

「つまり、単にわたしに愛想が尽きたってこと?」


 訊ねながらも、わたしはその意見を認めていた。

 わたし自身こうしているあいだにも愛が失われていくのを感じていたし、あれほど好きだった彼の身ぶりが急に鼻持ちならない気取り屋の仕草にしか思えなくなっていた。


「だったら、そのあてはめた理由っていうものを教えて。それにならわたしも納得できると思う」

「いいだろう」


 彼はそう言ってため息をつく。その態度に、わたしは目の前の鉄板で彼の横っ面を張り倒してやりたい衝動にかられた。


「僕はいままで、きみがスカートはおろかヒールを履いたところさえも見たことがなかったからだよ」それからもうひとつため息をついた。

「なんですって?」

「言ったとおりさ。きみはいつもその野暮ったいスーツにスニーカーだろう。はじめはそれもきみの魅力だと思って気にならなかったさ。行動的な女性だとさえ思ったよ。けど……どうしたっていうんだ。きみは年中その格好じゃないか。クリスマスも誕生日も。仕事が忙しいのはわかる。けど、それは恋人に手を抜いていい理由にはならないよ」


 彼の言葉に唖然としたわたしは、なにも言えずにただ口を開けていた。

 それが別れの原因ですって? 崇高でもなんでもない、なんてつまらない原因。けれどいまお互いに確認し合ったように、別れの理由なんてどれもつまらないものだ。


「この店にしたってそうだ」彼は続けた。「きみはなにかにつけてここに来ては、その焦げた肉をうまそうにたいらげるじゃないか。そんな、まるで……」

「よしてよ。わたしのことはいい。でもお店にまでけちをつけないで」

「ああ、そうだな。すまない」彼はわたしから視線をそらすと、厨房で腕組みをしているコックのビルに頷いてみせた。


 ビルは彼のことは無視して、わたしに視線を向けた。わたしはそれに目で頷いて答えた。わたしと彼、彼とビル、ビルとわたし。客もまばらで静まりかえった店内に、無言の会話ばかりがかわされる。


 ふたたびわたしが窓の外に目を向ける番になった。

 行き交う人々は誰もが無表情で、怒っているのか悲しんでいるのかわからない。もしかしたら、わたしも同じような顔をしているのだろうか。それでも、胸の中にあるのは悔しさからくる怒りばかりだった。失恋の悲しみもほんの少しはあるけど、それは粉雪のようにすぐに溶けてなくなってしまった。


「行ってよ」わたしは言った。「消えて。もう顔も見たくない」


 彼は無言で立ちあがりポケットから取り出した数枚の小銭をテーブルに置くと、出口に向かいながらマフラーを身につけた。コートは脱がなかった彼がマフラーだけはずしていたのは、単に店内が暖かかったから。けしてビルとこの店に敬意を払ったわけではないことは明らかだった。

 三月に入ってまだいくらも経っていない。薄着で出歩けるようになるのは当分先だ。


 別れの言葉をかけそうになったが、意地になって飲みこんだ。窓の外、彼が雑踏に紛れていく後ろ姿が見える。ほんの少しの距離なのに、ガラスよりもっとぶ厚いなにかがわたしたちを隔てているように感じた。

 遠ざかる背中を追いながら彼が振り返るのを待ったが、とうとうその顔を見ることはなかった。彼はわたしの望みどおり夜の街に消えた。わたしが本当にそれを望んでいたかどうかはおかまいなしに。


 それで、わたしと恋人との話は終わった。

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