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ザ・ブラインド  作者: 千勢 逢介
第二章
120/172

83

 ジョンは十一月の中頃には退院できた。

 看護師が止めるのにも耳を貸さずに鈍った身体を手荒いリハビリで叩き起こし、渋る医者を押しのけるように病院をあとにした。


 とはいえ、この主治医がジョンを止めようとする姿勢はけして強硬とは言えなかった。レオから治療費と称した法外な額の金を受け取ったとはいえ(そこには当然、口止め料も含まれていた)、素性もわからない、しかしごろつきと一目でわかる男にベッドを使わせていたのだ。本人の希望さえあれば、医者が厄介払いをするのは早いに越したことはない。


 シシーの窮状は、入院という形で与えられた安寧からジョンを目覚めさせるには充分だった。


 訪れたブラッドベリ地区の波止場は街よりもさらに冬の気配を感じさせた。


「おれはここで待っている。船が出る時間になったら迎えに行く。そうだな……」レオは腕時計に目を落とすと、「十分後に声をかける」


 ジョンは頷いた。彼の身体は以前とまったく変わらず、いや、それ以上に強く回復していた。


 横殴りの海風がジョンを打ってくる。彼は薄手のコートの襟を立てると、歩きながらポケットに両手を突っ込んだ。

 波止場にはほかに誰もいなかった。右手には貨物用の倉庫が建ち並び、左手は大西洋へと続く海が広がっている。ジョンはこの海に抱かれ、アメリカへとやってきた。

 遠くには、かすむようにして巨大な橋がかかっていた。橋の反対側、朝もやで隠れた先にあるのが大都市ニューオーウェルだ。


 その橋を背景にシシーがじっと海を見つめていた。目を細めて煙草を銜える姿は少し痩せ、クールカット風だった髪もこころもちのびていた。それでも芯の部分は、娼館の裏口で会ったあのときとほとんど変わっていなかった。

 ジョンの気配に気づいた彼女は一旦はこちらを向き、それからまた海へと視線を戻した。


「やあ」

「ハイ」


 ジョンはシシーの隣に立つと、同じように海を見た。


「なにをしているんだ?」

「海を見てる。あんたもそうでしょ」

「そうだな」


 以前のような何気ないやりとりができることに、ジョンは胸を撫で下ろしていた。

 シシーもそうなのだろう、横目で盗み見ると、彼女の表情も少し和らいでいる。


 そのとき、強い風が吹いた。風がシシーの煙草を、唇から波間へと奪い去っていく。

 彼女は乏しい表情のまま新しい煙草を取り出した。


 ジョンが火のついたマッチを差し出す。シシーは遠慮も感謝も示さず、ただ火に煙草を近づけた。風からマッチを守るジョンの手に、火と、彼女の吐息の温かさが伝わってくる。


「あんたが売人からあたしを助けてくれたんだってね。よく覚えてないけど、いちおうお礼を言っておくわ」

「いいさ、仕事のついでにやったことだ」

「素直じゃないのね。こういうときは素直に受け取っておくものよ。お礼なんて言われたことないでしょ」

「ああ、はじめてだ。なら、お礼の代わりにひとついいか?」

「なによ、一晩付き合えっていうの?」

「いや、部屋を片付けろ。あれじゃ誇張抜きにしてまるでゴミ溜めだ」


 ジョンの返事にシシーは目を丸くすると、途端に体を折って笑い出した。彼らのそばで寒さを堪えながら羽を休めていた海鳥が驚き、空へ飛び立っていく。

 以前と変わらないシシーの笑顔だった。だがいちばん見たいものだったにも関わらず、それがかつて見たものに近ければ近いほど、ジョンの胸は締めつけられた。


「冗談なんかじゃない、本気だ」声がうわずりそうになるのをこらえながらジョンは言った。「ひどいもんだ。キッチンは荒れ放題、ベッドは染みだらけ。おまけに下着まで脱ぎっぱなしだったぞ。あれじゃ、きみがどんなにいい女でも男はみんな逃げていくぜ」

「どの男に逃げられてもいいわ」シシーはそう言って目尻に浮いた涙を拭うと、ジョンをまっすぐ見つめ返してきた。「あんたさえいてくれれば」


 さきほどの表情は失せ、シシーは冷厳な海風がのりうつったかのような顔つきをしている。ジョンはその視線に射すくめられ、どきりと身を強張らせた。


「どうなの?」

「どうって……」


 ジョンが思わず目を伏せると、シシーは深いため息をついて海へと向き直った。


「あの部屋ならきれいに片付いたわ。引き払ったのよ。知ってるでしょ?」

「ああ。だからここにきたんだ。きみを見送りたくて」

「見送りたくて、ね……」シシーは水平線の彼方を指さした。「この方向の、ずっと先にあたしの故郷があるの。退屈で、ほとんど名前も知られていないような小さな故郷よ。たまらなくいやになって飛び出した場所。それがいまではたまらなく帰りたい場所なの。おかしいわよね、こんなのって」


 ジョンは頷くことも首を横に振ることもできなかった。故郷に対して遠くかすかな記憶しか持ち合わせていない彼は、未練も感慨もおぼえなかった。


 だから答えられなかった。

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