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ザ・ブラインド  作者: 千勢 逢介
第二章
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82

「酒を飲ませるのは名案だと考えたんだろうが、ああいう場合じゃ逆効果だ。気が大きくなったやつは信じられない馬鹿をやりかねん。実際にそうされたから、おまえはいまこうして不自由な思いをしているんだ」


 数日後、病院のベッドに横たわるジョンをレオが見舞いにきていた。


 バーで逃げる男を捕まえたのはレオだった。


 間一髪のところだった。車を横付けした直後、店内から悲鳴が上がるのを耳にしたのだという。それからドアが開き、逃げようとしていた男と鉢合わせになったらしい。


「すぐにやつが裏切り者だとわかった。なにせやっこさん、気の早いハロウィンの仮装みたいに化け物じみた顔つきをしていたからな。相当こっぴどく殴りつけたんだろう」言いながらレオは病室で煙草の煙をくゆらせた。


 レオは最初、男を突き飛ばした。生け捕りにする必要がある以上銃は使えなかったし、かといって男が武装していることに用心もしなくてはならなかったからだ。

 それから男が立ち上がってきたので、右の拳を振るってやったのだという。

 そこには本物の拳があった。たった一撃で大の男の闘志と意識を根こそぎ奪い去るような、本物の拳が。

 レオとくらべれば、ジョンがシシーの家の浴室で振るった拳などティーンエイジャーがはじめてのガールフレンドにする下手な愛撫と少しも変わらなかった。


 それからレオは持参した結束バンドで男を縛り上げると、自分でこさえた血溜まりの中でのたうちまわるジョンに歩み寄った。


「しばらくの辛抱だ。医者を呼んでやる」


 レオはそう言ったそうだが、ジョンはそのことをまったく覚えていなかった。ただ朦朧とする意識の中でシシーを助けてやってくれと、うわごとのように繰り返していたという。


 ジョンの頼みが聞こえたのか、レオは捕らえた男と一緒にシシーも車に乗せてくれた。

 事の顛末を病室で聞いて、ジョンは大いに感謝した。なにせレオはいやがるシシーに頬をひっかかれただけでなく、上等な上着と革張りの後部座席を小便まみれにされても文句ひとつ口にしなかったからだ。


 そもそも裏切り者の手におちた薬物中毒者の身柄を預かること自体が危険なのだ。だがそれでもレオは、そのいっさいを引き受けてくれた。

 ただひとつ、ジョンのことを除いて。


「おまえを病院に連れて行くことはできん」


 男とシシーを両腕に抱えながらレオは言った。

 ジョンが意識を失っていなかったら、その姿を見て目から鱗が落ちる思いだったろう。はじめからこうしていれば、外階段で泥にもつれるような苦労をせずに済んだのだから。もっとも、それには恵まれた体格にくわえて気力と体力が充分になくてはならないのだが。


「近くに顔のきく病院もないからな……おい、そこのあんた。頼みがあるんだ」


 レオは向きなおったバーテンに「911」に電話するよう言いつけた。

 ジョンがいまこうして堅気の病院のベッドで寝られている状況から考えて、バーテンはレオの命令に素直に従ったようだ。だとすれば、きっとレオからさんざん脅しつけられたにちがいない。

 後学のためにもその脅し文句を知っておきたかったが……意識をなくしていたのが悔やまれる。


 出血した量にくらべて、ジョンのわき腹に刺さったアイスピックは奇蹟的にも内臓をひとつも傷つけていなかった。おかげで手術も簡単に済み、退院の目途もすぐにたった。


「医者の話じゃ十二月のはじめには退院できるそうだ」レオが言う。「退屈だろうが、まあ休暇がとれたと思ってゆっくりするんだな」

「クリスマスには間に合わせるよ。朝まで飲み明かしたい気分だから」


 青白い顔でタフな台詞を言おうとするジョンに、レオは笑みを浮かべてみせた。ジョンもつられて笑ったが、それでわき腹の傷がひきつるように痛んだ。


「あいつは……裏切り者はどうなったんだ?」痛みを紛らわそうとジョンは訊ねた。同時に、最期まで彼の名前を知らなかったことにも気づいた。

 レオの顔から笑みが消える。彼はゆっくりとかぶりを振ると、「やめておけ。聞けばその話に出てくるものが一生食えなくなるぜ。魚か、豚か、あるいはニワトリや、カニかもしれない。とにかくいま重要なのは、アルベローニがやつの顔を見ることはもう二度とないってことだ」


 アルベローニ。これはもちろんあの薄汚い弟のピーノではなく、兄のロドルフォのことである。その名前が出た瞬間、午後の斜陽が差し込む暖かな病室が氷でできた洞窟に変貌した。


 もはや裏切り者はこの世に存在しない。

 それもただ死んだだけではない。文字通りこの世界から消滅したのだ。彼には墓石もなく、花を手向ける者もいない。空の棺桶があるだけだ。もしかしたらそんなものさえ必要ないのかもしれない。


 ジョンの胸中には多くの感情が去来していた。

 憎しみ、後悔、あの男への同情も浮かんだし、バスタブでうずくまるシシーを見たときの絶望感もよみがえった。だがそれらすべての背後には恐怖がそびえていた。ロドルフォ・デ・アルベローニという巨大な恐怖が。


 アルベローニとくらべるにつけ、ちっぽけさな自分が浮き彫りになるようだった。

 その名を口にしようとすればレオでさえ笑みを消すほどの男……レオの忠実な弟分である自分など、アルベローニにとっては取るに足らない存在なのかもしれない。

 それどころか石ころほどの価値もないのではないか。アルベローニにはそれだけの力があるのだ。権力、武力、それに金の力が。


「アルベローニは……その気になったら裏切り者を簡単に探し出せたんじゃないのか?」気がつけば、胸の内をそのまま言葉にしていた。「おれのしたことは無駄だったんじゃないか。アルベローニは最初から全部わかってたんじゃないか。わかっていながら、それを眺めて楽しんでいたんだ。猫がネズミでもいたぶるみたいに。それとも、閉じこめた虫同士が殺しあうのを見ていたようなものなのか」

「よせ」レオがジョンの肩に手を置いた。「無駄なんかじゃない。おまえは精一杯やったんだ。裏切り者を捕まえたし、なによりあの娘を救ったのはおまえなんだ。誇っていい」

「シシーは?」ジョンは顔をあげた。「彼女はあれからどうなったんだ?」


 シシーのことを忘れたわけではなかった。ただ、それを訊ねることで、あの日のすべてが現実だったと突きつけられるのが怖かった。レオの口から、シシーのいまを知らされることを恐れていた。


「大丈夫だ。知り合いの医者にあずけてある。安全だよ……だが、彼女自身の状態はあまりいいとは言えない」


 レオの言葉に胸を撫で下ろしかけたジョンが顔をあげる。


「今日はおまえにそのことを知らせにきたんだ」

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