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ザ・ブラインド  作者: 千勢 逢介
第二章
114/172

77

 骨を砕いた衝撃は、なによりもそれをやったジョン自身の脳髄に響いた。男はくずれ落ちると同時に、それまでをはるかに凌ぐ絶叫で痛みをしめした。


 念には念を。縛られたままのたうちまわる男を見てそんな言葉が頭をよぎった瞬間、激しい吐き気がこみあげてきた。これが男を逃がさないための最善策だと自分を納得させようとしたが、感情がそれを受けつけなかった。

 胃がひっくり返り、えずくのを抑えられない。それを悟られぬよう、ジョンは無防備にも男に背を向けるのがやっとだった。

 もっとも、男のほうは膝で爆発した痛みのせいで周囲に注意を向けるどころではなかった。


 喉までせりあがった反吐をどうにか飲み下すと、ジョンはシシーの待つ踊り場へとのぼっていった。一歩踏みしめるたびに足ががくがくと震えた。男との格闘でジョンはほとんど無傷だったが、ここにきて短いあいだに積み重なった疲労のつけがまわってきたのかもしれない。それともジョン自身が気づかないだけで、身体のどこかで大きな怪我を負っているのだろうか。

 いずれにせよ、ジョンの身体の動きは九十歳の老人になってしまったように鈍っていた。


 階段をのぼるとき、ジョンは足元を見ないようにした。手摺を握り、上にいるシシーだけを見据えた。それでも彼女の座りこむ踊り場が遥か遠くに感じた。

 なるほど、あの男が冗談まじりに言ったことの半分は正解だ。

 シシーがわめいている場所は間違いなく貿易センタービルの屋上にも匹敵する。ただ、このときそう感じているのはジョンのほうだった。シシー自身は襲いかかる幻覚に抗おうとするかのように、手近な手摺を必死になって握りしめていた。


 たっぷりと時間をかけて、ジョンはどうにか鉛のような全身をシシーのいる踊り場まで運び終えた。振り返ると、驚くほど近い距離で男が折れた膝をかばうようにして寝そべっている。


「シシー」

「ジョン! 駄目! あたし落ちちゃう!」ジョンの姿を見るや、シシーは短い髪を振り乱しながら言った。

「落ちやしないさ。おれが支えよう」


 ジョンはシシーを抱きかかえ、そっと立たせてやった。その拍子にキャミソールの裾にたまっていた小水がズボンを濡らしたが、頓着している場合ではなかった。


「駄目、あたし行けないわ」

「大丈夫だ。下は見なくていい。おれだけを見ているんだ。そうすればあっという間だ。さあ、階段の内側を歩いて」


 ジョンとシシーは寄り添いながら階段をおりた。

 残念ながら、紳士が淑女を優雅にエスコートするという光景からは程遠かった。紳士は疲労と自己嫌悪のせいで、淑女は恐怖と長期間の不摂生、そしてなによりもドラッグの禁断症状のせいでそれぞれ足元がおぼつかなかった。

 男がうずくまる階下に着くまで、どれだけの時間がかかっただろう。ほんのわずかな時間だったようにも思えたし、何時間も経ったようにも感じたが、時計を見ている余裕はなかった。


 ジョンはシシーを壁際に座らせ(身体を離そうとした瞬間シシーが首っ玉にかじりついてきたので、また彼女をなだめすかさねばならなかった)それから腕ずくで立たせた男を連れてさらにもうひとつ階を下った。そして先ほどと同じように来た道を戻り、シシーを連れていく。


 行っては帰る、のぼってはまたおりる。そんなことを繰り返しているうちに、ジョンはまるで自分が犬にでもなったような気がしてきた。


 手に入れたふたつの獲物を自分の小屋に持ち帰ろうとするが、運ぶのに使える口はひとつしかない。獲物をひとつ大急ぎで運んでいるあいだに、もうひとつを誰かに横取りされるかもしれない。かといってふたつを同時に運ぶ方法も知らない。

 仕方なく、それらを片方ずつ順番に運んでいく。始末におえないことに、とんでもない回り道をしているにもかかわらず、自分ではそれがとっておきの名案だと信じて疑わない。


 自分がそんな犬に……頭の出来が悪く、それ以上にごうつくばりな犬に思えてならなかった。


 自嘲的な考えとともに、男を階段の上から突き落としてやろうかとも考えた。こいつが首の骨を折りでもすれば、こんな馬鹿げた繰り返しをせずに済む。

 だがそうするわけにはいかない。男は組織の裏切り者であり、なによりピーノ一家がアルベローニ・ファミリーに赦しを請うための生贄なのだ。組織に身柄を引き渡すまで死なせるわけにはいかなかった。

 あれだけ激しかった怒りがなりをひそめ、その残り火さえも疲労でかき消されたいま、この状況にジョンが私情を差し挟む余地はなかった。


 とにかく前へ進む。ジョンはそれ以外はなにも考えなかった。

 男を恨むことも、シシーの身を案ずることもやめ、自分が犬だと思い込むことにつとめた。

 思いついた愚にもつかない名案でふたりを運ぶことだけに集中した。


 やがてその思考も消え失せようとしていた頃、ジョンは連れ立ったふたりとともに地上に辿り着いていた。

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