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ザ・ブラインド  作者: 千勢 逢介
第二章
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73

「おい、あばずれ!」


 その声は玄関から聞こえた。浴室の白いドアを振り返りながら、ジョンはここに来るまでのあいだ、出入り口を開け放したままにしていたことを思い出した。


「いるんだろ?」ざらついた感じの男の声だった。最初の呼びかけよりも声量は落ち着いていたが、それでも耳によく届いた。「まったく、戸締りを忘れるぐらいラリってやがんのか……おい、見世物じゃねえぞ。さっさと失せろ!」


 と、これは廊下に投げかけられる声。おそらく先ほど抱擁していた男女に向けたものだろう。ややあって、ドアが閉じられた音と、ごみをかきわけながら進む足音が聞こえてきた。


「いるのはわかってるんだ。出てこいよ、集金の時間だ。アルベローニ・ファミリーのもんだ」


 アルベローニと聞いて、ジョンのうなじが一気に逆立った。

 その名に恐れを抱いたのではない。そもそもこの界隈で幅を利かせているファミリーの一員が、わざわざ自分からそう名乗る必要はない。


 ジョンを総毛立たせたのは怒りだった。

 それまで仮説でしかなかった考えが、ほんの一瞬で正しかったとわかったのだ。男が必要以上にファミリーの権威を振りかざしたという事実は、ただそれだけでジョンを真実へと導いてくれた。憶測でしか判断できなかったところに、突如としてでかでかと正解を書いたネオンサインがあらわれたようなものだ。


 だがジョンの怒りは、ファミリーの名を騙ったことに対してもたらされたわけではなかった。脳裏ではまたしても、火に照らされた痣のあるシシーの横顔がよみがえっていた。


 男の舌打ちと物をあさる音が、先ほどよりも近い距離から聞こえた。もう寝室まで入ってきているのかもしれない。

 ジョンはゆっくりバスタブから離れると、寝室に通じるドア枠と、そのそばにある便器のあいだの壁に身をよせた。足音はおろか、わずかな衣擦れの音さえたてなかったのは、レオとの訓練の賜物だった。

 その直後、タイミングを見計らったかのように、シシーがまたぞろ拳銃を取り落とす。


 ごとり。


 暴発するかもしれない危険をはらんだ銃口が床の上で自分の右足に狙いを定めても、ジョンは眉ひとつ動かさなかった。彼の意識は寝室を物色する男だけに向けられていた。


「なんだ、そっちにいるのか」男の近づく気配と声がする。「風呂ならおれも付き合うぜ。なんならまた金の代わりに尺八のひとつでもしてもらおうか」


 浴室に一歩踏み込んだ直後、ジョンは物陰から手をのばした。男の襟首をつかむと体を半回転させ、勢いそのままに膝を振り上げる。


 ジョンの膝が男の股間に突き刺さる。水袋を潰すような湿った音と感触が伝わってきた。

 衝撃で男の呼吸が止まり、呻き声とともに脂汗がにじみだす。男はそのまま前屈みになると、チークダンスのようにジョンの肩に身をもたせかけてきた。


「あいにく持ち合わせがないんでね。代金はこいつでどうだ?」


 男の返答を待たず、ジョンはその頭を壁に叩きつけた。

 鈍い音とともに、かびが根を張ったタイルの一部が欠け落ちる。

 次にジョンはトイレのタンクに狙いをつけ、男の頭をそこに振りおろした。

 さらにもう一度、今度は便器のふちに撃ちおろす。掃除のゆきとどいていない黄ばんだ陶器に、切れた額から飛び散った血が赤い斑点模様を描く。


 朦朧とした様子の男にもジョンは手をゆるめなかった。髪をつかみあげ、男の顔面を便器にたまった水の中に沈める。

 息を吹き返したのか、それまでされるがままだった男が突然暴れだした。ジョンは振り回される腕を避けながら、もがく男を容赦なく押さえ続けた。

 男の抵抗が弱まってきたのを見計らい、トイレのタンク脇についているフラッシュハンドルを下げる。強い振動とともに、血でうっすらと染まった水が流れていく。その音にまぎれて、男が苦しげに咳き込むのが聞こえた。だがそれも、新しく流れてくる水によってすぐにかき消される。


 わずかな呼吸から活力を取り戻せたのか、男はふたたび暴れだした。ジョンはそのわき腹に数回拳を見舞ってやった。身体を密着させていたので満足な威力は発揮できないかと思ったが、拳が突き刺さるたび、肋骨ごしに男の肺をしぼる感触が伝わってきた。


 もう一度トイレの水を流すと、ジョンは引き起こした男を床に投げ飛ばした。背中を打ちつけた男は激しくむせ返り、顔を横に倒すなり汚水が混じった反吐をまき散らした。


 ジョンは身を起こそうともがく男の鼻っ柱をめがけて足を振り上げた。男が鼻血を吹き出しながらふたたび仰向けになる。ジョンはそのまま男に馬乗りになると、その胸倉をつかんだ。


 ふたりの男はここではじめて顔を見合わせた。

 予想通り、相手はピーノ一家の構成員だった。名前こそ知らないが、ピーノの邸宅で何度か顔を見かけたことがある。レオの話では、チャイナタウン経由で大量に仕入れた中国製のコピー商品の流通を任されている男だった。

 男もまた、ジョンを見て目を大きく見開いた。


「おまえ、知ってるぞ。レオについてる小僧だ。くそ、なんでてめえがここにいやがる。おれを誰だと思って――」


 ジョンはその口に拳を叩きこんだ。折れかけた前歯をぶらさげながら、男がぐるりと白目を剥く。


「黙れ。もうなにも喋るな」


 ジョンがふたたび拳を振り上げると、男は身を守ろうと腕をあげる。


 だが、ジョンのほうが速かった。

 防御をかいくぐって男の顔面をとらえた拳が折れかけの前歯を根こそぎ奪い、吹き出した血が額と鼻から流れたものとまじりあう。ジョンは男のガードの上からさらに顔面を殴りつけた。

 男の指を折ったのだろうか、鈍い感触とともに乾いた音が響く。それとも折れたのはジョンの指だったのか。

 だがもはや、自分が痛みを感じているのかどうかすらはっきりしなかった。

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