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ザ・ブラインド  作者: 千勢 逢介
第二章
106/172

69

 シシーと会話をする習慣がぱったり止むと、ジョンはその気持ちをまぎらわすために仕事にのめりこんでいった。


 言われた仕事を懸命にこなしているうちに、気がつけば春が過ぎ、夏が終わり、秋が暮れようとしていた。

 そのあいだシシーに会うことは一度もなかったし、それを機にジョンも彼女のことを忘れようと努力した。


 ある日、集金を終えて娼館を立ち去ろうとしたジョンを呼び止めたのは、シシーの店の女主人だった。

 すっかり色の抜けた白髪をぼさぼさにのばす女主人の年齢ははっきりとはわからない。それどころか、ふとした横顔が少女のように幼く見えたかと思えば、深いしわが作る陰影で神よりも長生きな老婆にも見えることもある。

 彼女はいつも細長い銀のシガレットホルダーに差した煙草を吸っては、煙のかかる鷲鼻をぴくぴくと震わせていた。変幻自在の見た目とあいまって、ジョンは女主人を現代によみがえった魔女だと、なかば本気で信じていた。


「なんでしょう?」金を受け取って立ち去ろうとしたジョンは振り返ると、礼儀正しく見えるよう注意しながら訊ねた。

「あんたに頼みがあんのよ」女主人は自分の吐き出す煙に顔をしかめながら言った。この日の彼女は少女でも老婆でもなく、熟れかけた果実を思わせる四十がらみの妖艶な年増だった。「まず、その態度はよして。慇懃無礼って言葉を知ってる? その話し方もレオに仕込まれたんだろうけど、若造が紳士面しても滑稽なだけだわ」


 ジョンは頷くと、女主人が陣取るテーブルに近づいた。

 テーブルの上には伝票の束と帳簿に小さな手持ち金庫、それから半分空になった酒瓶が置かれている。女主人と差し向かいで椅子に腰かけた彼は、テーブルの空いたスペースに肘をついて身を乗り出した。


「それで?」


 ジョンがくだけた調子で訊ねても、女主人は疲れきった年増の顔つきのまま煙をくゆらせながら口の端を片方持ち上げてみせただけで、それ以上けして満足げな表情を浮かべようとはしなかった。

 やがて女主人は言った。


「うちに出入りしてるあんたらのお仲間のことよ」

「レオのことか?」

 女主人は首を横に振ると、「もっと若いわ。あんたより少し年上の。そいつがね、小遣い稼ぎのためにうちに出入りしてくるの」

「小遣い稼ぎ?」

「ドラッグよ。それも質の悪いやつをね。たぶん、どこからか仕入れてるんでしょ。このあたりをうろついては店の娘や客に売りつけてくるのよ。わたしに直接商売を持ちかけてきたこともあった。ひっぱたいてやったわよ。でも、そいつはにやついてるだけだった。切れた唇から血を流しながらね。気味悪いったらありゃしない」


 ジョンは青ざめる思いだった。

 ドラッグはアルベローニ・ファミリーが持つ重要なしのぎだ。女主人の言うことが本当なら、そんな禁足地を傘下であるピーノ一家の……さらに末端の構成員が泥まみれの靴で歩きまわっているということになる。

 想像したくもないことだが、あまつさえアルベローニの名を語って好き勝手してさえいるのかもしれない。


 縄張りを荒らし、売り上げを分捕り、同じくファミリーの稼業である売春婦や彼女たちの客を安物の薬で潰してしまう。下手な真似をすれば警察にも足がつくし、敵対する組織に隙を見せて出し抜かれることだってある。


 マフィア流の法律から罪状をあげればきりがないが、なによりも重いのは、ロドルフォ・デ・アルベローニ本人の面子を潰そうとしている罪だ。

 これがばれたら最後、この向こう見ずな大間抜けの巻き添えを食らって、ピーノ一家は丸ごと取り潰しになってしまう。

 アルベローニ・ファミリーの下っ端としてこき使われるのならまだましだ。そうでなければ一生ベッドの上で流動食を胃袋に流し込まれるか、問答無用で始末される……細切れにされて魚の餌になるか、路地裏ではらわたをネズミに引きずり出されるかを選ぶことすらできない。


 心臓をわしづかみにされるような恐怖とともに、ジョンは己の身ばかりを案じていた。その瞬間だけは、大恩人であるレオや、ほのかな恋心を抱いていたシシーでさえ頭の片隅に追いやってしまっていた。

 声も顔も知らないアルベローニの名誉に泥を塗った不届き者がいる。神に唾を吐きかけるようなもの……いや、アルベローニこそジョンたちにとっては神のような存在だった。

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