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ザ・ブラインド  作者: 千勢 逢介
第二章
101/172

64

 邸宅に戻るジョンを見た者は、誰もが目を丸くした。

 唯一レオだけがジョンを見ても驚きをしめさず、片方の眉をわずかに持ち上げただけだった。


 ジョンは右に行くことを選んだ。


 そして邸宅をぐるりとまわって正面玄関まで進むと、ポーチで数人の男たちと一緒に煙草をふかすレオを見つけた。


「どうやら見た目ほど賢くはないみたいだな」


 レオが手摺にあずけていた身を起こし、腕を組みながら言う。ポーチは地面よりもフロア半分ほど高くなっていたので、ジョンは仰ぐようにしてレオを見つめ返した。


「おまえ、どこで転んだんだ?」レオの傍らで煙草を吸っていた男が言う、「それとも昨夜は誰かに可愛がってもらったのか?」


 ジョンがなにか言おうとするよりも先に、レオが男を睨みつけた……あの魔術師の視線だ。


 男はにやついた笑いを引っ込めると、ほかの連中を連れてポーチの反対側へと場所を変えた。


「なんのまねだ?」ひとり残ったレオが訊ねる。

「あなたの言うとおりだ。僕には行くあてなんてない」ジョンはそう答えた。きっとまだ声変わりをしていない、少女のような高い声だったろう。「でも、残りたい場所ならあるんだ」


 ジョンは右手を持ち上げると、レオをまっすぐ指さした。指を向けられた瞬間、レオはぎくりと大きくのけぞった。まるでジョンの指から熱線でも放たれたかのような反応だった。


「お願い」ジョンは指をさしたまま言った。


 レオは銜えていた煙草を吐き捨てると、苛立ちを隠そうともせずに足早にポーチを降り、ジョンに詰め寄ってきた。


「いいか、勘違いするなよ。おれはおまえに同情してあんなことをしたわけじゃない。ただ面倒だったからああしただけだ。冗談じゃないぜ、ガキの子守なんて。首をくくるほうがましだ」

「それは困るよ。あなたが死んだら僕はどこかへ行かなくちゃならない。同情でなくてもなんでもいいよ。あなたが僕を助けてくれたことに変わりはないんだから」


 レオはまっすぐ見つめるジョンから視線を逸らした。渋面を広げ、口の中で悪態をついている。


「おれにどうしろっていうんだ?」レオはジョンに向き直ると、両手をポケットに入れて胸を張ってみせた。

「僕を強くしてほしいんだ」

「ピーノの言いつけに従おうっていうのか?」

「ううん、違うよ。僕は生きたいんだ。誰にも頼らず、誰にも傷つけられず。ひとりで生きてゆけるようになりたい」


 レオは少年の瞳の中に輝きを見たのかもしれない、この数十年後、わたしが色を失ったジョンの瞳を見たときとおなじような輝きを。


 だが、少年のそれは暗い輝きだった。

 彼がこの眼の輝きを手に入れたのはどこだったのだろう。邸宅の倉庫の中か、大西洋上の船倉の中か。奴隷のように売り買いされる子供たちが詰め込まれた牢獄かもしれないし、両親を殺された家の軒下かもしれない。


 屈辱を受けた少年は暗いあなぐらの奥底で、その場所よりもさらに深い闇を育てていた。

 心を蝕んでいた恐怖という土壌は不運によって耕され、憎しみの芽を出した。そこから生え育った木は生きる意志となって空へとのびていく。


 それは熱帯の原生林にそそり立つ巨木ではない、過酷な荒野での環境に耐え抜き、歪み、捩れた枯木だ。


「それで?」レオが訊ねた。「おまえを鍛えてやって、おれにはなんの得がある?」

「あなたの役に立つ。買い物でも雑用でも、なんでもやるよ」

「おまえの世話なんて必要ねえ」


 レオは懐から出した新しい煙草を銜えた。


「でも、ピーノは僕がいなくなったと知ったら、きっと面白くないんじゃないの?」


 レオの動きがぴたりと止まる。ちょうど煙草に火をつけようとしているところだった。

 ゆらゆらと揺れるマッチの火とは対照的に、彼はジョンを見たままじっとしていた。まるでなにかを見極めようとしているかのようだ。


「これもあなたの言うとおりだ。ピーノは僕がいなくなっても探しはしない。でも、きっとあなたのことを責めると思うよ。ピーノにとって重要なのは僕なんかじゃなくて、あなたをやっつけることなんじゃないかな。だから、僕がいなくなったら、あなたの立場はいまよりももっと悪くなる」

「なるほど……」レオはマッチの火を振り消すと、ジョンに歩み寄った。「訂正しよう。おつむのできはいいらしい。よく見てやがるぜ」


 レオが口の端をわずかに持ち上げる。それを見て、ジョンも笑いを誘われた。

 その直後、ジョンの緩んだ頬をレオの拳が直撃した。


 ジョンは殴られた頬を起点にきりもみながら吹き飛ぶと、ろくな受け身もとれずに芝生に倒れた。


「だが馬鹿なことに違いはないな」


 レオの拳は相変わらず強烈だった。いや、昨日よりもさらに衝撃と痛みが増していた。


 サイコロのように脳が頭のなかを転がる気分を味わい、ジョンはふらつきながら芝生の上で身を起こした。その鼻先にレオがしゃがみこんでいる。

 反射的に、音楽室でしこたま殴られた記憶がよみがえる。

 だが、レオはその大きな手をジョンの肩に置いただけだった。


「いいか、いまのは罰だ。おれのそばにいたけりゃ、二度とそんな生意気な口をきくんじゃねえ」


 わかったな、と訊かれ、ジョンは黙って何度も頷いた。それからようやく理解が追いついてくる。


「それじゃあ……」

「ああ、戻ってきちまったもんはしょうがねえ。それに、おまえの言うことには一理ある……腹は立つがな。おまえが消えたら、ピーノはおれに当たり散らしてくるだろう。そいつも癪だ」


 レオは立ち上がると、ポーチへと向き直った。


「あなたはいい人だ」ジョンはその背中に言った。

「そいつはどうかな。おれたちのいる世界には善人なんていやしない。ああそれから、おれのことはレオでいい。あなた、なんてこまっしゃくれた呼び方されたんじゃぞっとするぜ」レオは肩ごしに振り返った。「自己紹介がまだだったな。レオだ。フラヴィオ・レオ」


 レオは握手などはするつもりもないのだろう、その両手はポケットにおさまったままだった。

 ジョンもそれにならって手は差し出さなかった。タフな男の仲間入りができた気分になった。


「おまえは?」レオが訊ねる。

「リップ」ジョンはすぐに答えた。「ジョン・リップ」

「リップ? そいつは自分でつけたのか?」


 ジョンは頷いた。


「ひどい名前だな」レオが苦笑する。「だがいい名前だ。おれたちらしい」


 ジョンは照れくささを感じた。

 はじめて自分の名前を誰かに明かしたこと、その名前を評価されたこと。それ以上に自分がようやく認識され得る誰かになれたことへの幸福感が、ジョンをそわそわとさせた。


 アメリカに渡って半年。これが捕らわれの身であったジョンの、その後の人生が変わる最初の出来事だった。

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