10話 なにがなんだか…
狼は、動かなくなった匡に容赦なく噛み付いた。
その身体を倒し、腹に食らいつく。
あたりには深い血溜まりができていく。
狼の唸り声と、ただ捕食する音だけが響いていた。
そうして10秒ほど時が経ったとき。
突然、狼が動きを止めた。次いで、謎の衝撃派が狼を吹き飛ばす。
地面を引っ掻いてなんとか体勢を保ち、ガウ?と腑に落ちない鳴き声をあげる狼。
その目線の先には、先程と変わらない小柄な男の死体。
いや、よく見ると先程ととは様子が変わっている。
腹部の噛みちぎられた跡や怪我はそのまま、ボロボロになった服装や汚れた黒髪も見てきた通り。
動きはなく、黙っていれば誰もが死んでいると思う体勢のまま。
ただその瞳が、
戦意を失い、意識を失い、光を失ったはずのその瞳が、
いま目の前の狼を見据えて、爛々として金色に輝いていた。
◇
はぁはぁと息を漏らして、少女は駆ける。
何を考えても立ち止まりそうになるので、頭を空っぽにして。
自分を逃してくれた少年の声に従って、真っ直ぐ、真っ直ぐに走った。
しばらくして、街が見えてくる。
少女が、兄、姉とともに目指していた大きな街。
高い塀に囲まれ、上から眺める街並みは美しく、三つの大規模ギルドの支部を擁する辺境の都市・サウザン。
油断すると涙が溢れそうになる。
思えばこの旅は辛いことばかりだった。
魔物の襲撃で家を失い、両親を失い、兄たちに連れられてやっとの思いで村を出た。
食べ物に困って、飢えと闘いながら野宿をする日々。
途中の村で小銭を稼いでいた姉が、帰り道に盗賊に襲われて、戻ってこなかった。
馬車に同乗していたものたちは、不利を感じて投降して女と持ち物を差し出したというのだ。ふざけるなと噛みつきたい気分だった。
でも、全員で死んだ方が良かったとは思わないのだから自分も大概で。
兄とともに大泣きした。
兄は始め助けに行こうとしたが、すぐにやめたようだった。
わけを聞くと、自分たちが無駄死にすることを、姉が一番望んでいないだろうからと言った。
たしかにそうだと思った。自分が一人で生きていけないのは明白で、兄も力仕事くらいはしていたが戦いは経験がない。
盗賊の討伐を冒険者に依頼しようにもお金がないのだから仕方ない。
無事を祈って、二人で先に進むことにした。
我ながら薄情なものだと思う。でもどうすることもできなかった。そしてそれは今も変わらない。
サウザンまであと少しというところで、狼型の魔物に襲われた。それは大きく、怖かった。
狼のことを、兄は、グレイトウルフだと言っていた。
隠れていろと言われて、何も考えないままに隠れたが、兄が心配で仕方がなかった。
ずっと狼の唸りが聞こえていた。
暫くしたあと、狼の大きな吠え声と、兄の呻きを聞いた。つい茂みから顔を出すと、その時丁度、兄が狼の攻撃を受けて、血の中に沈んだのが見えた。
叫んだ。
何を言ったのかは覚えていない。
狼のことなど忘れて、夢中で茂みを飛び出し、兄の遺体に縋りついた。辛かった。ただ辛かった。そして怖かった。
狼はまだそこにいた。
ひっと息を呑んで、兄に背を向け今度は必死に走り出した。
ずっと守ってくれようとしていた兄の思いを、姉の意思を、無駄にすることは出来なかった。
どの方向へ進んでいるのかもわからなくて、再び狼の気配を感じた時、反射的に近くの茂みに身を隠した。
狼がウロウロと歩いている音を聞いていた。
ここにいるのはきっとバレている。
また逃げられるだろうか。疲れた頭でそんなことを考えて、動いてしまった。
狼が飛びかかってくるのは一瞬だった。
ただ絶望に目を見開いて、固まったままその瞬間を見ていた。
終わった。結局みんな、どこにもいけずに死ぬ運命だったんだ。
と感じた。
ところがそうはならなかった。
狼の背後から誰かが飛び出して、ナイフを振るったのだ。
狼は当然、そちらへ興味を移す。
少女は腰が抜けて座り込んだ。
それは黒髪の少年だった。狼の攻撃をなんとか、といった様子でかわし、少女のいる場所から遠ざかっていく。
◇
少女はぎゅっと口を結んだ。
考えてはいけない。
今自分にできるのは、一刻も早くこのことをサウザンの人に伝えることだ。
足を止めてはいけない。
かくして、少女はサウザンの街へたどり着いた。
「ついた…」
ずっとこの時を目指していた。サウザンと書かれた門を見て、しかし少女の心は沈んでいた。
ここに立つのは自分一人。こんなはずではなかった。
兄と姉と三人で、やった着いたぞと喜んで、新しい生活の話に花を咲かせるはずだったのだ。
「あは……」
堪えていた涙が溢れてくる。
それを拭って、少女は門衛の前に進み出た。
「お、サウザンへようこ……血だらけじゃないか!どうした!?」
そこにいた門衛は、少女の様子に焦って声を荒げた。
それとは対照的に、少女は比較的落ち着いた様子で応える。
「大丈夫……ローダの、わたしの血じゃないから」
兄の遺体に縋りついたときにべっとりとつけてしまった、兄の血だ。
「……そうか。なにか知らせることが?」
少女は頷く。
少女の様子に何かを感じ取り、門衛は奥にいた別の兵に声をかけ門を守らせたのち、少女の言葉に耳を傾けてくれる。
「ナナウ山の浅いところで、グレイトウルフに襲われた。それで…一緒にいた兄が殺された。そのあと近くにいた男の子が気づいて狼を引きつけてくれて、、ローダは、言われるままに逃げてきた…」
辿々しく言葉を並べる。
少女は、見た目ほど落ち着いてはいないようであった。
「なんだって!!」
門衛に肩を揺すられる。
「ちょっと君、、いやいい。俺が狩人ギルドに言ってくる。おいお前!この子を見ててやってくれ!」
そしてこう言って走って行った。
少女の元には、急に用を押し付けられた別の門衛がやってくる。
「大丈夫か?えと…不安だと思うけど、君を放り出しておくわけにはいかないから。疲れただろうし、こっちでお茶を入れてあげるよ。」
少女は頷いて、門衛に続いて詰所にお邪魔した。
◇
狼は慄いた。
死んだはずの獲物が動き出したのだ。
下がって、ウー…と警戒の色を示した。
黒髪の少年は、少し動きづらそうに、手を使って上体を起こす。次いで、ゆっくりと立ち上がって靴の調子を確かめるようにトントンとつま先を打った。
この間、ずっとその金色の瞳は狼を捉えていた。
少年が、一歩踏み出す。
捻られて原型がなかったはずの右足は普段通りに生えている。
調子を確かめるように、肩を回す。噛みつかれた傷はそこにはなく、折れて、外れた肩もいつのまにか戻っている。
少年が首周りに手を滑らせると、そこにあった傷も無くなっていた。
最後に腹部をペタペタと触ると、そこにも傷や穴はなかったし、内臓もはみ出ていなかった。
というか、ずっと普通に動かしているその左手も、指がバキバキに折れていたはずだった。
服は、特に上半身は破れてひどいことになっているし、髪もボサボサ。あらゆるところに血が付着して、未だ滴っているところもあった。
だが、その肉体だけは、万全と言っても差し支えないように見えた。
少年は襲ってこない狼を見て、まず後ろに落ちていたナイフを拾う。
そして、その間に飛びかかってきた狼を難なく躱す。
狼は不満を露にし、次々と牙を剥く。
しかし、先程、そう、少年が倒れるまでは普通に届いていたはずの攻撃が届かない。
至って普通の動きに、躱されつづける。
そして少年はそんな狼に隙を見出したのか、ついにナイフを向けた。
その刃は狼の首から、胴体へと深く入ってその心臓部を抉った。狼の体から力が抜ける。
体にナイフが刺さったまま、その巨体は少年の前で倒れ込んだ。
それを確認し、少年もまた肩の力を抜いた。
ふう、と大きく息を吐く。
そして空を見上げた少年が二、三度瞬くと、金色だった瞳は元の漆黒の瞳に戻った。
少年の体が軋み、ゆっくりと、倒れ込む。
「なにがなんだか…」
ほとんど声にならない呟きだった。