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9話 狼

 

 ただ我武者羅がむしゃらに走っていると、匡の丁度左手側からもう一度、先程聞いた獣の唸りが聞こえた。


 ここか。


 匡は走るのをやめて息を整えつつ森に近づいていく。

 獣に気づかれないよう息を潜め、少しずつ、木の影を伝って進んでいく。

 そうしているうちに、急に少し開けたところが見えた。

 進み出ようとした足を焦って止める。

 ここで出てたら見つかっていた。

 ゆっくりと息を吐く。


 そこには、大きな、赤い目をした狼がいた。

 赤い目…ということはただの狼ではない。

 匡は唾を飲んだ。

 辺りをジッと見回している。見た限りでは一頭だけのようだ。

 狼は群れで行動する動物だった気がする。

 異世界だから?魔物だから?それとも近くに群れがいる、?

 自ら乗り込んだ窮地に、心臓は絶えず大きく音を立てる。


 そうだ、少女はどこに…

 もう殺されてしまったのか?


 慎重に動いて辺りを観察する。

 そして一点を捉える。向かいの茂みが僅かに動いたのだ。

 そして気付くのは当然匡だけではない。

 狼が唸りをあげて駆けていく。


 マズイッ


 獲物に逃げ隠れされてさぞかし苛立っていたことだろう。

 気が立っていたことだろう。

 だから背後から急に現れて後を追う匡に少しだけ、気づかなかったのだ。

 狼が一瞬後にその気配に気づいて振り向くのと、匡が決死の思いでナイフを振り上げ、振り下ろすのは同時だった。


 ギッと刃が嫌な音を立てる。

 多分、浅い。


 だが狼の気を引くことには成功した。

 なんで気を引くんだ。

 それじゃあ俺が殺されるじゃないか。

 匡は自分の判断を心の中で嘲笑う。

 そして


「うッッ」


 振り向きざまに飛びかかってきた狼の牙を、背中から倒れることでなんとか回避する。

 いや、回避というか体勢を崩されただけである。

 でも食らわなかっただけ偉い。偉いだろう。

 ごろごろと転がって追撃を逃れると、ナイフを両手でもって突き出しながら、急いで起き上がって距離をとった。


 見ると、案の定茂みには少女が隠れていた。

 驚きから、座り込んでいるようだ。

 手には何も持っていない。桃色の長い髪は血で汚れていて、その顔には絶望が浮かんでいる。

 ああ、やっぱり失ったんだなと匡は歯を食いしばる。


「諦めるなよ…」


 狼は匡を睨みつけている。今にも飛びかかってきそうで、手に汗が滲む。不意をつけたから一応は警戒されているようだが、普通に攻撃されただけでも勝ち目はない。

 この状況で狼に背を向けたとして、匡が逃げ切れる可能性はゼロだろう。それどころか、先に考えた通りここには死体が二つ転がる。

 ならば、一番良い道を選ぶしかない。

 狼から目を離さずに、足を少しずつ後ろへずらす。

 ついてくるが、まだ襲ってこない。

 少し大袈裟に一歩を踏んだ。

 その勢いに反応して、狼が匡の右肩のあたりへ飛びかかってくる。


「うおッ」


 反射的に飛びのいたが、しっかりと噛みつかれて少しフラつく。骨も折れたのではないだろうか。

 いや、いい。考えるな。

 痛みは思考から取り除いた。反撃とばかりに隙のできた腹に左手でナイフを突き込む。

 狼は飛びのいた。

 動かそうとするが、右腕はほとんど動かなくなっていた。

 利き手じゃない左手で無茶苦茶にナイフを振って、また後退する。

 武器の扱いなんて知らないんだ。

 狼は今度は、ナイフを持つ左手を狙って迫ってくる。

 しっかりと力を入れて、その牙を受け止めようとするが、しっかり刃は当たったもののあっさり力負けして吹っ飛ばされる。

 尻餅をつくが、急いで立ち上がって痺れる左手でナイフを握り直した。

 近づく狼を勢いよく蹴り飛ばして、距離を取る。

 グルル…という音とともにその鋭い眼差しを向けられて、また怯む。


「ッッ…」


 飛びかかってきた狼の、その圧倒的な力に押し倒されて寝転がる。骨がミシミシと音を立てている。

 上にのしかかったその大きな口から唾液が垂れている。


「このッッくそ狼が」


 必死にもがき頭を齧られまいとして身を捩る。

 その牙は匡の首を浅く抉った。

 その間にも、匡は狼の足に潰された左腕を、必死に動かそうとしていた。

 ナイフは捨て、肉を削ぎ落とす覚悟で腕を引く。

 そしてついに抑えを押しのけた左手で、ぐっと狼の顎を押す。

 皮膚は抉れていて風圧での痛みに顔を顰めた。

 これ以上噛まれてたまるか。

 少し力が弱まったのを確認して、勢いよく体を捻って右肘を振り抜く。

 気力だけで身を引き、ナイフを回収して立ち上がった。

 しんどい。

 しんどすぎる。

 こんなことならトラックに轢かれた方が幾らかマシだろう。と普段ならありえない思考が邪魔をする。


 軋む体を無視し、呼吸を整えるのを断念し、一度足を滑らせながらダッと駆け出す。

 その瞬間狼の爪が背中に食い込み、それほど深くはないものの、思わず足が止まる。


「ぐッ」


 しかし死ぬわけにはいかない匡は屈み込んでその勢いでまた前に駆けた。徒競走の途中で転びそうになってから持ち直したような体勢である。

 そして振り返り、眼前に迫る狼の口に少し背中を逸らしながら振ったナイフの刃は、偶然にも狼の鼻先を掠って少し怯ませる。


 そうして浅くはない傷を負いながら、匡はようやく目論みを果たしたことを確認する。

 死んでいない自分を称賛したくなった。

 つまり、少女の逃げ道の確保である。


 緩く曲線に後退して狼を森の奥に誘い出し、少女のいる場所からナナエズ高原への道を開く。

 決して簡単なことではない。

 でも、逃げていれば良いのなら。怯えながらでも、怪我を負いながらでも、動けさえすればいいのなら。

 匡にもできる可能性はあった。

 助けられる可能性があった。

 そのかわり自分が死ぬかもしれないが、そんなことは些細なことだ。

 見捨てるという選択肢を選べなかった自分のせいなのだから。

 寧ろ特別なことは何もせずに人生を貪って、いつか勝手に病や老衰で死んでいくよりは、よっぽど納得のいく死である。


 ほとんど意識を保つのがやっとの体で、匡は精一杯に息を吸った。


「そこの女子ィィ!!!」


 ◇


 未だただ呆然と同じ場所にいた少女は、突然の大声にビクッと身を震わせる。


「真っ直ぐ前!!森を抜けて、高原を抜けて、サウザンの街へ行けェ!!!」


 逃がしてくれようとしているのだと、少女は理解した。

 しかし、足が動かない。

 もう死ぬのだと、ここで自分は終わりだと思っていた心は憔悴しきってなんの意思も産まなかった。

 それでも、声に従ってなんとか立ち上がる。

 こわい。

 動くのが怖い。

 この先を考えるのが怖い。

 絶望に飲まれ、目の前が霞んだ。


 そこで、また匡の声が響く。


「早く行けよ、俺は弱いからな!!!…ここにコイツが居たって情報、きっちり持っていけ!!」


 少女は不思議だった。何故助けたのだろう。

 自分と年もそれほど変わらないように見えた少年だった。

 まだ戦っているのだろうか。死んでしまうのだろうか。

 そして、最後の言葉にハッとする。

 彼が助けようとしているのは何も自分だけではない。


 少女は動かない足を無理に動かして、森を抜け、駆け出した。


 ◇


 木々の間から、少女のいた場所が僅かに見える。

 彼女が駆けて行ったのを確認して、匡は右腕を抑えながらまた後ずさった。

 ナイフは、突き飛ばされて遥か後方へ行ってしまった。


 これで正真正銘、匡になす術はない。


 匡が大声をあげている間、少しジッとしていた狼だが、匡が黙ったのをきっかけにまた襲いかかってきた。


 気力が切れかけていた匡は、木の根に躓いて、転んでついに木の幹に背中を打ちつけた。

 ズルズルと座り込み、血で赤くなった視界で迫り来る牙を見つめる。

 すぐに立ち上がろうとして、足が動かないのに気づく。

 眼前には狼。

 守るものはもうここにはない。


 もういい、か?


 少女が無事にたどり着けば、今度は討伐されていないこの狼を倒すために誰かがやってくるだろう。

 その時に匡の持ち物も見つけて、納品が済んでいない依頼もなんとかしてくれるといいが…。


 いや。


 まだ倒れてはいけない。

 少女が逃げ出してからまだ僅か、少女の足はそんなに速くない。

 ここで匡がやられて仕舞えば、狼は追いかけに戻るに違いない。

 まだ終われない。

 終わってはいけない。


 もう少しだけ…時間を稼がなくては。


 歯を食いしばり、動こうと呻く。

 痛みで思考が麻痺してくる。


「ッッ…」


 ダメか……


 とうとう匡は抵抗しようと持ち上げかけた左手を地面に落とし、その瞼を閉じた。


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