「どうしてあんな人と婚約しているんだ?」
アントーニオは激怒した。
必ず、かの顔が良く女癖の悪い侯爵令息ディーノから令嬢グリゼルダを救わねばならぬと決意した。
アントーニオには婚約者がおらぬ。アントーニオは子爵家次男坊である。真面目に勉学に励み、将来のためにと脇目も振らず暮らしてきた。けれども虐げられている美人に対しては、人一倍に敏感であった。
そういうわけで最近アントーニオはグリゼルダのことが気にかかっていた。グリゼルダ・フォルトゥナート。学年、いや学園一女たらしと言っても良い自他共に認める女好き、ディーノ・スカットーラの正式な婚約者である。
グリゼルダは公爵令嬢で、本来なら皆から敬われるべき存在である。にもかかわらず、学園内での彼女の評判は酷いものだった。
自分より優れた令嬢を見つけては権力にものを言わせ潰している。
自分で手を下すことを好み、時には自ら赴いて令嬢の心を折りにいく。
その被害者はゆうに百人を超える。
などといった悪評である。
しかし、アントーニオは疑問だった。彼はグリゼルダと同学年で、彼女のこともよく見かけていたし、会話もしたことがある。が、彼女はいつだって一人でひっそりと行動していて、傲慢に振る舞ったことなど一度もないし、彼女の周りで虐められているという女子も見かけない。
その疑問が氷解したのは、ある日の放課後のことだった。
「ねーディーノ様、婚約者さんを放っておいていいんですかあ?取られちゃうかもよぉ?」
「いいのいいの、どうせあいつに近づこうなんて輩、いねえから」
「そんなこと言って、ディーノ様があんな噂ばらまいてるんでしょお?かわいそー」
「ま、あいつにはこのくらいが妥当なんだよ」
肉厚的な女子と密着しているディーノが、空き教室にてそう言い放ったのである。たまたま教室の前を通りがかったアントーニオは、それを聞いて奮起した。
グリゼルダは決して絢爛豪華な美人ではない。だが、幸薄そうな表情、控えめな態度、そしてそれに似合わぬ抜群のプロポーションは、アントーニオの心をガッチリと掴んでいた。
アントーニオはディーノの失言を聞いてすぐに、グリゼルダの元へ直行した。
「どうしてあんな人と婚約しているんだ?あの人は、あなたのことを何とも思っていない!」
説明を受けたグリゼルダは悲しそうに顔を俯かせた。その仕草にアントーニオの心はますます燃え上がった。
「僕なら、あなたを悲しませはしない。ずっとあなたのそばにいて、あなただけを愛し続けるのに」
その言葉に、グリゼルダは頬を赤らめた。そして視線を彷徨わせると、「私もあなたに愛されたい…でも、ディーノがそれを許すはずもないのです」とか細い声で答えた。
アントーニオは自身の胸を叩き、「僕に任せて」と頼もしく宣言する。グリゼルダはうっとりと彼に体を任せ、アントーニオの情熱は最高潮に達していた。
アントーニオは決してこそこそと外堀を埋めるような真似はしない。
故に、真っ向から、アントーニオはディーノと対峙した。
「あなたは女遊びばかりして、婚約者を放置している。恥ずかしくないんですか!あなたがそんな風なら、僕が彼女をさらってしまいますよ!」
堂々と校舎裏で告げたアントーニオに対し、ディーノは後ろ髪をポリポリと掻いた。
「いやまあ、別にいいけどよ」
「何だって?」
「お前があいつを好きだってんなら、別に俺は構いやしねえよ。祝福だってしてやる」
予想外の展開にアントーニオは面食らったが、すぐに「それなら、あなたの方から彼女に婚約破棄を申し入れるべきだ」と助言する。これまた素直にディーノは頷いたが、
「ただ、一つ条件がある。これから三…あー、いや一ヶ月でいい。一ヶ月、あいつの相手をしてやれ。そしたら婚約も破棄してお前らのお祝いパーティーだって開いてやるよ」
アントーニオには意味が分からなかった。だが、ディーノの顔にふざけているような色はなかったため、承諾した。
一日目。
ことの顛末を聞いたグリゼルダは、大いに喜んだ。「これで私は本当に愛する人と一緒になれるのですね」と紫色の宝石のような目を細めて柔らかく微笑み、アントーニオの愛をさらに増大させた。
「ところで、グリゼルダ。君はいつからその、僕のことを…」
「ふふ、実は…最初から、なんですよ」
アントーニオは彼女を絶対に幸せにしてみせると決意した。
三日目。
グリゼルダと共に行動していると、周りからの視線が集まってくる。中には心配して声をかけてくる生徒もいたが、アントーニオは彼女は本当はとても魅力的な人だ、必要ないと返答した。
授業も隣で受け、食事も一緒にする。寮に戻るまでは、ずっとそばにいる。
グリゼルダはとても嬉しそうだった。
これからは自分がグリゼルダを守る。学園に蔓延する噂も、いつか取り払ってみせるのだ。
六日目。
本日は休息日だ。アントーニオもいつもより遅く起床し、今日はグリゼルダと何をしようかと想像を膨らませていた。生憎外は曇り空だが…。
「えっ?」
窓の外に、グリゼルダの姿が見えた気がした。
しかしあり得ない。ここは三階だ。この距離なら窓から見えるのは空だけだ。
一応近づいて下を覗いてみたが、案の定誰もいない。
気のせいだろう。
十二日目。
「気のせいじゃない…」
確実に、グリゼルダはいる。こちらを覗き見ている。窓に近づくと消えてしまうが、確かにこちらを覗いているのだ。アントーニオは見たのだ。まさか恋煩いから来る幻覚かと思って学園専属の医師に相談もしたが、身体に異常はなかった。
アントーニオはカーテンを常時閉めることにした。
十五日目。
窓を塞いだことで、しばらく安息の日々が続く。グリゼルダにそれとなく尋ねてみたが、当然ながら不思議そうに笑われただけだった。
そう、何も心配することなどない。残り半月。半月もすればグリゼルダは晴れてアントーニオのものになるのだから。
十六日目。
窓の外に気配はなかった。
それなのに、視線を感じる。どこからかは分からない。しかし、いる。
どこかに、いる。
十八日目。
息をつける場所がない。校舎内の教室も、寮内の自室も。寝室はもちろん、風呂場も、トイレでさえも。常に何者かに見られている。
監視されている。
十九日目。
布団から出られない。布団の中だけは、他の何者も侵入することのできない、聖域だった。
二十日目。
扉の外から心配するような声が時々する。しかし、出たくない。
だがこのままではいけないと、精神力を振り絞って布団から這い出る。
妙な解放感があった。自分はどうして怯えていたのだろうと首を回し、
天井の穴から覗く
紫色の瞳と
目が合った。
二十一日目。
「もう、やめてくれ…」
アントーニオは懇願した。
自室に招き入れたグリゼルダは、何のことか分からないとでも言いたげにゆっくり首を傾げた。
「もう限界だ。どうして見ているんだ。いや、見るだけならいい、どうして隠れながら見るんだ。僕だって君がこうして目の前にいるなら、怖くはないのに。こうして見られているなら、こんなにも安心できるのに」
「…だって、恥ずかしいんですもの」
「恥ずかしい!?恥ずかしいだって!?そんなことのために、僕がどれだけ消耗したと思っているんだ!」
グリゼルダは大きく目を見開いた。
「君は変だ、おかしいよ、僕は…」
「愛しているんでしょう?」
「な、何?」
グリゼルダの目は、瞬きなど必要ないかのようにこちらをじっと見つめてくる。
「あなた、私を愛しているんでしょう?だったら、これくらい受け入れてくださいよ。好きなら、愛しているなら、平気でしょう?そのままの自分を受け入れてくれるのが、愛しているということでしょう?」
「そ…」
アントーニオは目を逸らした。
「そんなの、愛じゃない」
「どうして否定するの!!」
びくっ、と体が跳ねる。グリゼルダは立ち上がり眉を逆立て、アントーニオを充血した目で睨みつけた。
「何で!どうして!否定するのよ!おかしいじゃない!愛しているなら、否定なんかしない!ありのままを受け入れて、許してくれる!それが愛でしょ!?」
「だ、だけど、君のやり方は」
「あなた、私が好きなんでしょ!?愛してるんでしょ!?だったら全部受け入れなさいよ!私がどんなことをしても、笑って許しなさいよ!」
「違う!そんなの愛じゃない。君の価値観は間違ってる!愛っていうのは、もっと」
不意に、グリゼルダは表情を消した。
「ああ、そう。そうなのね。あなた、最初からそのつもりだったのね」
「な、何?」
「あなた、本当は私のこと好きじゃなかったんでしょ?好きでもないのに私に近づいた。それは、こうして私を否定するため。私を糾弾するため。馬鹿な話だわ。ああ、最低!私を騙して、笑い者にする気だったのね!」
「な…君は一体、何を言って…そもそも、君の方こそ最初から僕のことが好きだと」
「ええそうよ。私は愛しているの。私を愛してくれる人を、愛しているのよ。あなたが初めから私を愛しているなら、私も初めからあなたを愛している。だけどあなたは違った!愛しているなどと甘言を吐き、私を騙した!裏切者!裏切者!」
グリゼルダが喚き、部屋の中にある物を片っ端から投げつけ始める。
アントーニオは、命からがら逃げ出した。
息の続く限り走り、足の動く限り走り、心臓の鼓動する限り走り続けた。
もはや走れぬ。がくりと膝を折り、アントーニオは一生分の呼吸をした。
ポン、と肩が叩かれた。
「ギャアアアアア!」
「うお。心配すんな、俺だよ」
そこにあったのは、グリゼルダの婚約者、ディーノの姿だった。
「しかし三週間か。結構もったな」
「…どうしてあんな人と婚約しているんだ?」
「だっておっぱいでけえじゃん」
「それだけで…」
「馬鹿野郎、いっちばん大切なことだろうが」
ディーノはうんうんと頷きながら、地べたを這うアントーニオの隣に座り、問いかける。
「で、まだあいつと婚約したい?」
「…冗談じゃない…」
「だよな。これに懲りたら、もう悪い噂ある奴には近づくなよ」
「…でも、どうすれば…今のグリゼルダは相当…」
「安心しろって、俺が何とかしてやっから」
「…あなたは、婚約者なのにグリゼルダから監視されていないのか?」
「されてっけど、気にしなきゃあいいんだよあんなもん」
「超人か?…僕は無理だ…」
「男ならいつ女に襲われてもいいように備えてるってもんよ」
「すごいな…見直したよ」
「はは、男に言われても嬉しくねえわ」
軽く笑うディーノに、アントーニオは絶大な好感と、畏敬の念を抱く。
「ありがとう、友よ」と彼は心からの感謝を述べた。
数日後。
夕方、人の少ない食堂で一人茶を飲んでいたグリゼルダに、ディーノは声をかけた。
「よっ」
「…何よ」
「またこっぴどくやらかしたみたいだな」
「ふん、あなたに関係ないでしょう」
対面の席に座り、ディーノは顔を背けるグリゼルダを「まあまあ」となだめる。
「このままいけば結婚するんだし、ちょっとくらいいいだろ」
「…相手が悪かったのよ。あんな最低な男だと見抜けなかった私が馬鹿だったわ。ほんっと、私って男運が悪いわ」
「そうだなー、ま、理想の奴が見つかんなかったら大人しく俺にしとけよな」
グリゼルダは目を細めてからティーカップをゆっくりと口元に運ぶ。
「まあ、仕方ないわね。理想の人が現れなかったら、あなたで我慢するわ」
「おう」と答えて、ディーノは飲み干されたカップに口付けた。
追記、続編ができました。よろしければぜひ見てください。