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島田家の人々  作者: 泉 五月
2 父と娘のエトセトラ
9/15

そのぐらいの歳なら、一人暮らししたい時だってありますよ

 

「へえ。あの子そんなこと言い出したの?」


 そうなの、と奈津子が応える。


「まあ確かに、若い頃は一回は憧れるよね、一人暮らし」


 鉄板の薄い生地の上にキャベツの山を二つ盛ると、江奈えなが目を丸くした。


「それ一つが一人分? そんなに入れるの?」

「蒸らしたらかさ減りますから。大丈夫ですよ」


 キャベツの山にボウルを被せる。これでじっくり蒸らしてキャベツの甘みを出すのだ。

 土曜の昼。蒼維がバイトをしているお好み焼き屋『げんちゃん』には、江奈と奈津子が訪れていた。時間はすでに十四時近く、客もまばらになっていた。とはいえこの店は大学の近くだからか、平日のほうが学生や関係者がひっきりなしに訪れ混んでいることが多い。

 今日は、二人一緒に買い物に行った帰りに寄ってくれたらしい。他のメンバーはそれぞれ友達と遊んでいたりゴルフに行っていたり家でごろごろしていたりと気ままに過ごしているという。


 鉄板の前に立っていると空調を入れていてもすぐに暑くなる。背中に店のロゴが入ったTシャツの肩で額に滲んだ汗を拭った。

 鉄板を見つめながら、江奈が尋ねる。


蒼維あおいくんは一人暮らしだったっけ」

「はい。実家が広島なので」

「あ、そうなんだ」

「わざわざ東京に出てきたのは何で? やっぱ堂賀園どうがぞのに入りたかったから?」

「まあ僕の場合堂賀園っていうよりは、どうせ地元離れるなら東京かな、って感じで」

「ふーん」

「親御さん反対しなかった?」


 奈津子の問いに肩をすくめる。


「父親は少し。……でも、結局は許してくれたから」


 鉄板のもう一方の端では大将が一家族分のお好み焼きとホルモン焼きそばを作っている。それを見て、「焼きそばもおいしそう」と江奈が呟いた。


「反抗期かしら」


 奈津子の言葉に江奈が母親を振り返る。


「遅くない?」

「でも思い返せば杏奈って目立った反抗期なかったのよね。あんたはひどかったけど」

「へえ、そうなんですか」


 頃合いを見て、キャベツの山の横にそばの袋を開けた。


「まあそういう時期もあったよね」

「もうね、意地でも『お母さん』って呼ばないの。仇みたいに睨んできてねー」

「仇ですか」


 少量の水をかけ、ごく細かい水滴が跳ねる中そばをほぐす。鉄板とヘラがぶつかる音が響き、江奈がその手元を興味深そうに見つめている。これは麺がぶつ切りにならないような絶妙な力加減が必要なのだ。最初の頃は箸でほぐしていた。


「その間の給食費確かお父さんからもらってたよね」

「まあどっちからもらっても出所は同じなんだけどね。とにかく母親とは話したくない! みたいな。ぷりぷりしちゃって。まああたしの昔に比べれば可愛いもんだけど」

「母さんの昔と比べないでよ。敵うわけないじゃん」

「奈津子さんの昔って、どんな感じだったんですか?」

「んー、盗んだバイクで走り出したり? 学校の窓ガラスは割ってないけど、先生の車は何台かパンクさせたかなあ」

「え……」


 先日の「鉄パイプ」というキーワードも引っかかっていたが、今の話で奈津子の過去がいよいよ怪しくなってきた。しかし確かめる前にまたしても話題を戻されてしまう。


「まあでも、昔ちゃんと反抗期がなかったから、今来たのかな」

「そんなことあるの?」

「でも、反抗とはちょっと違う感じよね」

「何かしたいことでもあるのかな」

「一人暮らし自体がしたいことなんじゃないの? あんただって学生の時は言ってたじゃん」

「うーん、でも杏奈って、そういうタイプだっけ?」


 二人の推測が続く中、ほぐしたそばを二等分する。キャベツに被せていたボウルを取ると、緑の山が一回り小さくなっていた。その上に分けたそばをのせ、冷蔵庫から出した豚バラも二枚ずつのせる。


「あの子口数にしても態度にしてもすべてにおいて省エネじゃん。生活するためにバイト頑張るって、何か杏奈っぽくない気がするんだけどなぁ」

「まあ、それは確かにね」


 キャベツの山に生地のタネを少量回しかけると、山の両側から底にヘラを入れ、さっと引っくり返した。鉄板に触れた豚肉がじゅっと音を立てる。


「「おー」」


 奈津子と江奈が拍手をくれた。

 それまで下敷きになっていた薄い生地の端が熱で揺れている。少しだけ散らばったキャベツをヘラで集め、もう一枚も同じようにすると、再びボウルを被せた。


「さすが、手馴れてるねえ」


 奈津子の賛辞に「どうも」と頭を下げる。


「でもやっぱ関西風より手間がかかるんだね。蒸したり、材料別々に焼いたり。家で作る時も広島風なの?」

「そうですね。ただ僕は物心ついた頃からお好み焼きといえばこれが普通だったから、そこまで面倒だとは思いませんけど」


 綺麗にした鉄板に、今度は卵を二個落とし、黄身をつぶして丸く広げる。塩コショウをしてからさっき被せたボウルを取り、キャベツとそばの山をそのまま卵の上にのせた。しばらくしてそれをひっくり返すと、一番シンプルな肉玉そばのお好み焼きの完成である。

 鉄板の上を滑らせて二人の前に持っていき、ソースをかける。じゅぅ、とソースの焦げた匂いが立ち上った。


「うわー、超おいしそう」

「お腹空いたー」

「青のりとかつお節はご自由にどうぞ」


 勧めると、出先だからか二人とも青のりは避け、かつお節だけかけて手を合わせた。


「いただきまーす」


 何度も息を吹きかけて冷ました後、ようやく口に入れる。十分咀嚼した後で、うまい、と両者からグーサインをもらえた。




 *    *    *




 チャイムが鳴ると、教授が授業の終わりを告げる前に、生徒は早くも筆記具を鞄にしまい始める。

「じゃあ今日はここまで」という言葉が教授の口から出ると、待ちかねたように席を立ち、講義室の前まで出席確認代わりの感想用紙を提出しに列ができる。


保科ほしなの姉ちゃんって、一人暮らしだったよな」

「え? うん。してるけど。何で?」


 列の後ろに並びながら、同じ講義を取っていた保科に尋ねる。何だかんだ真面目――というか度胸のない蒼維は、いつも用紙の半分は埋めるようにしているが、保科はいつも一行か二行しか書いていない。「俺は別に可がもらえればいいから」というのが保科の口癖だ。


「何で家出たの?」

「そりゃ、一人暮らししたかったからだろ。親のいないとこで羽伸ばしたかったんじゃないの?」

「だよなぁ」


 こんなことを聞いたのは、昨日江奈と奈津子が店で話していたことが頭に残っていたからだ。杏奈が一人暮らしをしたい理由は何なのか。

 実家暮らしなら今現在杏奈に金銭の負担はないだろうし、家に行った時も、家族仲が悪いようには見えなかった。理由があるとすれば、本当に「してみたいから」という理由くらいしか思いつかない。でもそれを家族が疑問に思っているということは、杏奈には口にしていない別の理由があるということだろうか。

 江奈が杏奈は「省エネ」だと言っていたが、合コンの時みたいに、身内以外に対しては愛想よく振舞えるスキルは持っている。許されるとわかっているから、家族にはぞんざいな態度をとれるのだろう。それとも、そんな態度をとるどころか反応することさえ、彼女には面倒なのだろうか。


 ぞろぞろと列は縮まっていき、教壇の上に無造作に提出された感想用紙の上に自分の紙をひらりと加える。そのまま流れに従い、二人して講義室の出口に向かう。


「何? 妹が家出たいって言ったの? そんな年だったっけ?」

「いや、俺の妹じゃなくて、別のとこの話」

「ふうん?」


 講義室を出ると、廊下は授業の終わった学生で溢れかえっていた。

 保科とは次の講義も一緒だ。二年までは教養科目が多いため自然と同じ講義が増える。


「そういえばお前、あれから杏奈ちゃんと連絡取ったりしてんの? まあちょっと変わってそうだけど、彼女」

「まあね……」


 保科の中でも、合コンの最中のそれなりに愛想のいい杏奈と、絡まれた時の杏奈のギャップは引っかかっていたのだろう。次の日も、「ちょっと猫被ってたのかね」と感想を漏らしていた。


「なぜか今、家族ぐるみでお付き合いみたいな感じになってる」

「は? 何で? あ、ちょい待ち、喉乾いた」


 保科はそう言うと、売店のほうへ蒼維を誘う。特に異存はなかったので保科に従い二人して売店へ向かった。構内にはコンビニを含めいくつかの売店が点在している。ここから一番近いのは生協だった。


「で?」

「何でだろう。何かいつの間にかそうなってた……」

「まさか結婚を前提にしたお付き合い、とか? お前いつの間にそんなとこまで一気に進んだの?」


 違う違う、と保科の推測を否定する。


「合コンの時は気づかなかったんだけど、実は彼女の兄妹とすでに知り合いだったんだよね、俺。お……」


 父さん送って行った時にそれがわかって、と言いそうになってすんでのところで堪えた。


「へえ。世間は狭いねえ」


 そんな蒼維の様子には気付かずに、保科がのんびりと呟いた。

 講義棟を出ると、広い通りの斜向かいに生協の入った建物が見える。


「保科こそ、真菜香まなかちゃんとどうなったの?」


 杏奈のことはとりあえず置いておいて、話の矛先を保科に向けると、保科はふっふっふ、とわざとらしい笑いを漏らした。


「聞いて驚くな。今度山本と祥子ちゃんと四人で遊びに行くことになったぜ」

「まじで」

「まじだ」

「頑張ってるね」

「おうよ。だからお前も頑張れよ」

「うん、まあ……相手がいればね」

「そういうのは自分で見つけるんだよ」


 もっともらしく言った保科に、曖昧に返事をする。正直、今はそんなに彼女が欲しいとは思わないのだ。友達と遊ぶのは楽しいし、バイトもあるし、それなりに毎日が充実している。

 そういえば、とふと思う。

 杏奈は一人暮らしを始めたらバイトを増やすと言っていたが、一体何のバイトをしているんだろう。

 家賃に光熱費、食費に友達と遊ぶお金。もしかしたら携帯代も。学費まではさすがに違うだろう。でも、本当に一人暮らしをするとして、援助を当てにせずすべてを自分で賄おうと思ったら、一体いくらかかるのか。そのために、どれだけ働かなければならないのか。東京に出てきて以来ずっと、親からの仕送りをもらっている蒼維は、そこまで真剣に考えたことがない。


「大丈夫なのかな……」


 ふとこぼすと、保科がこれまでの会話の続きと思ったのか「大丈夫だって、お前なら見つかる」と、肩を叩いてくれた。




 *    *    *




 夜の十時、客の少なさに今日はもう上がっていいと言われ、Tシャツを着替えスマホを見ると、知らない番号から着信が入っていた。留守電を聞くと、声の主は修成だった。番号は奈留に聞いたのだろう。メッセージには「暇だったらかけ直して」と入っていた。早速かけ直すと、修成は二度目のコールで出た。


『あ、蒼維くん元気? ごめんな急に電話して。今暇?』

「ちょうどバイト終わったとことです」

『あーバイトだったのね。今さー、〈よし乃〉にいんだけど。もし暇だったら飲みに来ない? っていうか来なよ』

「あー……」


 正直こういう突然の誘いはあまり得意ではない。だが、まあ年上の誘いだし、明日は授業も二コマからだし、いいかと自分を納得させた。

 了解の旨を伝えて電話を切り、〈よし乃〉に向かう。

 だがいざ店に着き、久しぶりに会うママに「奥の座敷だよ」と言われ、通路の視線を遮る暖簾を分けた瞬間、早々に来たことを後悔した。


「何でお前がいるんだよ」


 蒼維を迎えた第一声は、前にも聞いたような台詞だった。言ったのは、島田家の大黒柱、修児しゅうじだ。座敷の奥の壁に背中を預けていて、顔からも声からも、すでに酔っているのがわかった。

 テーブルを挟んで向かい側に座っていた修成が、蒼維に「よ」と片手を上げる。


「どうしたんですか、これ」


 靴を脱いで座敷に上がりながら、小声で尋ねる。修児の隣は若干気が引けたが、修成の横には荷物が置いてあったため、修児のいるほうへ入った。微妙に間を空けて腰を下ろす。


「うん、まあ、飲みすぎだな」

「止めなかったんですか?」

「元々弱いから、ちょっとしか飲まなくてもこうなっちゃうんだよ」

「だから何でお前がいるんだよ」


 舌足らずな口調で修児が割り込む。


「俺が呼んだの。人数多いほうが楽しいだろ。ほらほらまだイカ残ってんよ、食べなよ」

「あー……まあ、イカはうまいからな」

「そうそう、うまいから。食べて」

「残したらばちが当たるからな」

「そうそう、おばさんのビンタがくるからね」


 それは嘘だろうと思ったが、壁から少し体を起こし、頼りない手元で箸を持った修児に、修成はイカの一夜干しがのった皿を押し出した。二回掴み損ねて、三回目でようやく口に運ぶ。


「前も思ったんですけど、修児さんて普段と酔った時の差が激しくないですか?」


 口元を手で隠し小声で尋ねると、修児は肩をすくめた。


「まあ、普段色々溜めてるんじゃない?」


 修成には慣れた光景なのだろう。

 箸置きの存在を無視して皿に箸を置いた修児は、息子のほうへイカが数切れ残った皿を押す。


「うまいぞ、食べろ」

「俺はもういいよ。蒼維くん食べなよ。って、箸ないな」


 自分に差し出された皿を修成が蒼維のほうへ勧めると、修児がなぜか皿を引いた。


「お前にはやらん」

「え」


 何の意地悪だ。

 ここは「えー何でですかあ」と笑うべきなのか、「わかりました」と引き下がるべきなのか。

 修児はずいと上半身を乗り出すと、片方の肘を机にのせ蒼維の顔をじっと見つめてきた。睨んできたと言ったほうが正しいかもしれない。


「お前か」

「え?」

「お前なのか……?」

「何がですか?」

「お前が相手なのかって聞いてんだよ」

「は? 意味がわかんないんですけど、ちょっと修成さん」


 修児の剣幕に向かいの修成に助けを求める。

 すると、助けは別のところから現れた。


「はいいらっしゃーい」


 両手におしぼりと箸、そして水の入ったグラスを持った奈留が、暖簾を分けて現れる。


「はいはいお父さん何蒼維くんに迫ってんの? あーまだ料理残ってんじゃん。もったいないもったいない」


 おしぼりと箸を蒼維に渡しグラスを置くと、体を乗り出して奥に座っている修児の肩を抑える。修児は何やらぶつぶつ言いながらも娘に押されるがままに体を引いた。


「こんな時によく来たねえ」

「こんな時って?」

「お父さんがぐでんぐでんの時」

「聞いてなかったし」

「あ、修兄言わずに呼んだんだ」


 奈留の言葉に修成を恨みがましく見ると、悪気ゼロの笑顔で言った。


「悪いねー、ちょっと俺も一人で相手するのがめんどくさくなってきて」

「自分の親でしょ」

「何でも好きなもん食っていいから」


 と言っても、賄いで夜ご飯は食べたからそこまでお腹は空いていないし、食べたところで融通を利かせるのは修成ではなくママだろう。


「いいです、ここに残ってるもの適当に食べるから」


 受け取ったおしぼりで両手を拭く。奈留が通路に足を下ろしたまま座敷の端に腰掛けた。今日もあまり忙しくないのかもしれない。


「あ、今日バイトだった?」

「うん」


 おそらく匂いでわかったのだろう。

 頷きながらきゅうりの浅漬けに手を伸ばす。


「修児さんって、ここによく飲みに来るの?」

「ううん、ここでこんなに酔うのは珍しいかな。あんまり醜態さらすと後でママに怒られるから」


 つまり実の姉から説教を食らうということだ。この歳になって。


「ママの説教って怖そう」

「だよねー」


 さっきまでこちらを睨んでいた修児は、今は目下の箸をいじりながら、「そんなわけない」とか何とか一人でぶつぶつ呟いている。こちらの会話は耳に入っていないのかもしれない。


「にしても、今日はこうなるの早かったね」

「半分お前のせいだろ」

「えー? 止めなかった修兄のせいじゃない?」

「何かあったんですか?」


 修児がこうなる原因が。


「蒼維くんも知ってるよ」

「え?」

「杏奈の一人暮らしの話あっただろ。あれ」

「ああ……」


 その前には長女の結婚話もあったのだ。立て続けに娘が離れていくのが寂しいのだろう。

 と、思っていたら、それは少し違った。


「こいつがさ、杏奈が一人暮らししたいって言いだしたのは、実は一人暮らしじゃなくて二人暮らしなんじゃないかって言いだしてさ」

「え……それはつまり、彼氏と同棲するってこと?」


 それはまずいだろう。いや、自分は別にいいと思うが、修児はだめだろう。


「でもあたし、別に男と二人とは言ってないけど」

「普通そう考えるだろ」

「女の子とルームシェアかもしれないじゃん」

「じゃあそう言えって」

「でも女の子とルームシェアなら、別に隠す必要はないよね?」


 奈留と修成の会話を聞いて、疑問を口にする。


「杏奈ちゃんて、彼氏いるの?」


 奈留が首を傾げる。


「さあ? あーねえ秘密主義だから」

「でも杏奈、昔奈留と二人部屋だった時も一人がいいって言ってたろ。ルームシェアするってことはないんじゃないか?」

「じゃあやっぱり彼氏かな」

「だからそれはお前の想像だろ」

「彼氏がいるって思ったからこんなぐでんぐでんになったんですか?」

「いやあ、それだけじゃさすがに」

「じゃあ何で?」

「奈留がさ……」


 修成が小さくため息をついて奈留を指差した。指名された奈留は半眼になり、蒼維を見た。


「実はあー姉は妊娠してて、家族の誰にも知られないように産もうとしてるとか……」


 そこまで言うと、くるりと表情を戻す。


「って、言ったら、最初は『何を馬鹿な』とか言ってたくせに、アルコールが入っていくうちにだんだんそうじゃないかと思い込み始めちゃって、二時間弱でこんな感じに仕上がりました」


 奈留が手の平を上に向けて、自分の父親を示す。


「いや、俺も今何を馬鹿なと思ったけど」


 出会ったばかりでそう詳しく知っているわけではないけれど、杏奈はそこまで突拍子もないことはしないような気がする。

 でもさあ、と奈留が通路の方に出している足を組んだ。


「じゃあ何で急に一人暮らししたいなんて言い出したの? 蒼維くんわかる? きっとどうしてもそうしなきゃいけない理由ができたんだって」

「にしても妊娠はないんじゃない?」

「えー、女の子は生理が始まったら、いつ妊娠したっておかしくないんだよ」

「奈留ちゃんあのね……」


 三女の発言を嗜める。事実ではあるがそういうことをあけすけに言うのはどうなんだ。

 水を飲もうと右手を伸ばすと、その腕を急に掴まれた。


「うわっ」


 指が当たったグラスの水が揺れる。掴んだのは修児だ。さっきまで一人でぶつぶつ自分の世界に浸っていたのに、再びこちらを睨んでくる。


「修児さん?」

「何で急にそんなこと言い出したんだぁ」

「そんなこと僕は知りませんよ」

「お前のせいか! やっぱり相手はお前か……!」

「だから僕は知らないって……」


 しかも「やっぱり」って何だ。


「お前が杏奈を……杏奈を……」

「何でそうなるんですか」

「そんなわけないだろう!」

「えー……」


 どうやら修児の頭の中では奈留の言ったことが事実かどうかせめぎ合っているらしい。


「どうなんだ! はっきり言え!」

「僕は何も知りませんって」

「父さん落ち着けよ」


 修児が掴んだ蒼維の腕を放そうと、修成が腕を伸ばす。


「ほら、イカあるよ。食べなって」


 それさっきも聞いたけど。この長男は、食べ物以外に父親の気を逸らす方法を知らないんだろうか。

 酔っ払いといえども同じ手は効かず、修児は「いらん」と言い捨てる。


「お父さんあんまりおっきい声出すと、ママが怒るよー」

「そんなの知らん。あんな女が怒ったところで何が怖いんだ」

「うん、それ後でママに言っとくねー」


 奈留のなだめも功を成さず、蒼維の腕は掴まれたままだ。


「何か知らないのかお前、知ってるだろ」

「知らないです」

「じゃあ何で杏奈が急にあんなこと……」


 また同じ質問の繰り返しだ。


「まあ確かにびっくりですよね、今までこんなこと言ってなかったんですもんね」

「何でお前がそれを知ってるんだよ」


 うわもう、すごいめんどくさい。散々みんなが言ってたことなのに。

 とりあえず修児の心情に寄り添ってなだめる作戦も早々に放り出す。


「まあ仕方ないですよ。このぐらいの歳なら、一人暮らししたい時だってありますよ」

「よくない! お前はそれでいいのか!」

「僕は別に……」

「勝手なやつだな! お前は杏奈が心配じゃないのか!」

「いやまあ、そういう問題じゃないっていうか……」

「何?」

「もー、勘弁して……」


 寄り添っても突き放してもだめだ。

 ママ、早くこの酔っ払いを叱りに来て。

 掴まれた腕を揺さぶられながら、蒼維は切実にそう思った。



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