表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
島田家の人々  作者: 泉 五月
2 父と娘のエトセトラ
8/15

あたしもちょっと報告あるんだけど

 

「ほんとにもう、聞いてびっくりしたし。何でそういうことを事後報告にすんの? って」

「すいません……」

「いや蒼維あおいくんはいいんだって。どうせ奈留が無理矢理引っ張りこんだんでしょ。で、修兄が悪ノリするパターン」


 まさにそのとおりだ。

 食卓に小皿を並べていく長女の江奈えなの推測に軽く感動する。さすが家族。よくわかっていらっしゃる。

 酔っ払った杏奈の父親を送った日のわずか三日後。夕方、蒼維は島田家のリビングダイニングにいた。

 初めて足を踏み入れたそこは、家の外観に反して畳ではなく広いフローリングだった。もしかしたら中はかなりリフォームしているのかもしれない。

 父親を家まで送ったことに加え、遅ればせながら奈留と修成と親しくなった一連の出来事を聞いた奈津子が、お礼代わりにご飯でもご馳走しようかと言い出したらしい。その結果が、今の状況だった。


 蒼維が座るダイニングテーブルには、着々と食事の準備が進められている。冷しゃぶのサラダに唐揚げ、きんぴらごぼうに冷や奴がすでに並んでいる。

 対面式のキッチンのカウンターに置かれていた箸を取ると、江奈はそのうちの一膳を蒼維に渡した。

 島田家の長女、江奈はすでに社会人で一人暮らしをしているらしく、今日は蒼維が来ることを知らずに帰ってきていたらしい。満員電車で通勤するのが嫌で、職場までバスで十五分ほどのところに部屋を借りているという。


「今回は無事で済んだからよかったようなものの、何かあったらどうすんの。自分だけならともかく蒼維くんに怪我があったら賠償もんよ」


 それぞれの席の前にも箸を置いた江奈が、リビングのソファに胡坐をかいている奈留に説教を続ける。済んだことだと言いながらも、釘は刺しておくべきだと思っているらしい。


「奈留、聞いてる?」

「はいはいすいませんでした」

「反省の色がなさすぎる」

「はーい」


 ソファの奈留が上げた両手を額の横につける。まるでうさぎだ。江奈が視線をそらした隙に指をくいくいと曲げた。やはり了解の意味じゃなくふざけているだけらしい。その手はすぐに下ろして再びテレビに目を戻す。

 キッチンに入った江奈が冷蔵庫からドレッシングを取り出し、テーブルに置く。


「この子の相手するの大変だったでしょ」

「いや、そんなことは……」

「そんなこと言ってたらいいように振り回されるだけだから気をつけなきゃだめだよ」

「はあ」


 なかなか厳しいお姉さまだ。

 キッチンの中でコンロに向かっている奈津子が顔を上げる。音からして炒め物だが、何を作っているのかはわからない。


「にしてもほんと、奈留、あんた次になんかあったら自分たちだけで対処するんじゃなくて、ちゃんと言いなさいよ」


 姉に続いての母親の忠言に、奈留が引き寄せたクッションに顎を乗せる。


「でもお母さんに言ったら鉄パイプとか持ち出しそうでさー。そのほうが危険じゃん」

「何言ってんの、時代が違うわよ」

「お母さんももういい年なんだよ? 今さらそんなことするわけないじゃん」


 ちょっと待って、今の聞き流せない言葉。

 三人の間で交わされた会話に思わず耳が反応した。蒼維の中での母奈津子の常人説が怪しくなる。

 フライパンに材料を足したのか、じゅわっと音が大きくなった。


「今はお母さんよりお父さんよ。ねえ?」


 話を振られた父の修児しゅうじは、奈留の隣で新聞を読んでいた。


「何か言ってるよ、お父さん」


 奈留が肘でつつくと、「ん?」と少しだけ顔を上げる。しかし会話はちゃんと耳に入っていたようで、「まあ、家族に手ぇ出したら半殺しだな」と平然と言ってのけた。


「ほらー」


 奈津子が笑う。隣でご飯をよそっていた江奈が眉を下げた。


「いやそれ、楽しそうにするところじゃないんじゃない?」

「家族を愛してるってことでしょ?」

「気持ちはまあそうだろうけど。言い方が過激なんだよね」


 修児はすでに新聞に目を戻している。

 その横顔には、先日の泥酔の様子は微塵もない。今日蒼維が家に上がって挨拶をした時も、あの日のことを覚えているのかいないのか、「おう」と一言答えただけだった。奈留に尋ねると、「まあ、忘れてるんじゃない?」と返されたため、蒼維もあの日のことには触れないことに決めた。さすが奈留や杏奈の父親というか、黙っていればなかなか渋いいいお父さんだ。よく喋ったり当り散らしたりするのは酔っている時だけらしく、普段は口数も少ないらしい。ただ、時折物騒な面も覗かせる。


「で、どうやって犯人撃退したわけ?」


 すべてのいきさつを聞いたわけではなかったのか、江奈が尋ねてくる。


「あたしたちを尾けてたやつにまず修兄しゅうにいが声かけて、そしたら逃げたからこっちで出迎えて。あ、そういえばさあ、あの時蒼維くん、パンツ見たでしょ」

「は?」


 蒼維が口を開けるのと、修児の鋭い視線が飛んでくるのはほぼ同時だった。


「奈留ちゃん?」


 何でわざわざ今言うのだ。確かに見たけど。というか見えたのだ。奈留が男を蹴った時思い切り足を上げていたから。あれは不可抗力だった。

 完全に新聞から顔を上げて奈留の向こうから睨んでくる父親に耐え切れず謝罪する。


「すいません、確かに見えたけど」

「見たのか」


 声が一段低い。なぜか新聞を畳みかけるのが怖い。まだ読んでていいんですけど。


「見えたんです! 勝手に目に入ってきたんです! 奈留ちゃんがスカート履いてるのに目の前で思いきり足上げて蹴ったりなんかするから」

「お前も蹴られちまえばよかったんだ」

「お父さん」


 江奈が呆れている。

 確かにこれだと、奈留に手を出した男は半殺しにされるかもしれない。そういえば奈留も修成じゃなく父親ならやるかもと言っていたような気がする。偶然ながらストッパー役らしい江奈が帰ってきてくれていたことに感謝する。


 テーブルにご飯と野菜炒めが追加され、鳥団子が浮かんだ中華風のスープがそれぞれの前に置かれた。

 ちょうどその時、島田家の残りの一人が帰って来る。


「いやー、負けた負けた」

「また?」

「おしいとこまではいくんだけどなぁ」


 リビングに現れた修成は、頭にタオルを巻き、Tシャツに膝下まで裾を巻き上げたジャージ姿だった。今日はフットサルの大会があったらしい。職場つながりの仲間と時々参加していると以前聞いたことがあった。


「先にお風呂入ってくる?」

「いや、終わってから軽くシャワー浴びたし、できたてなら先食べる」

「奈留、杏奈呼んできて」

「あーねえー! できたよー!」


 奈津子の指示にソファに座ったまま杏奈が大声で叫ぶ。このへんに性格が出ていると思う。

 しばらくして下りてきた杏奈は、「あ、お邪魔してます」と頭を下げた蒼維に対して、「どうも」と目礼とも言えない目線を寄越してきただけで席に着いた。先日と変わらず素っ気ない。今回の食事に誘う連絡を寄越してきたのも、杏奈ではなく奈留だ。

 修児と奈津子、江奈と修成、奈留と杏奈が向かい合って座り、蒼維は一人テーブルの短い辺に座った。


「いただきまーす」

「机せまっ」

「お父さん醤油取って」

「ん」

「蒼維くん遠慮しないで食べてねー」

「杏奈醤油」

「はい」

「あっこぼれた」

「何してんの奈留」

「お母さん布巾ー」

「ねえ杏奈、こっちに唐揚げいくつかちょうだい」

「皿は」

「もう置くとこないって」

「スープあつっ」

「きんぴらうまっ」

「修成醤油」

「蒼維くんどーお?」


 奈津子にそう聞かれた時、蒼維は箸を持ったまままだ何も手をつけていなかった。


「何ぼけっとしてんの? 早く食べないとなくなるよ?」


 豚しゃぶのサラダを頬張った奈留に言われ、ようやく自分の小皿を持った。


「どうしたの蒼維くん。あんまり惹かれるものなかった?」

「いや、何か……すごい賑やかな食卓だなと思って」


 テーブルも品数が多くて賑やかだが、それ以上にその上を行き交う会話や食器の音が賑やかだった。


「まあ今日は全員集合してるからねえ。普段はもうちょっと静かだけど」

「そうですか」


 それでも、一人暮らしでテレビを見ながらの食事と比べればはるかに明るいものだろう。


「それよりも、食べて食べて」

「兄妹多いと食事は生存競争だからね」

「修兄一度触ったんならそれちゃんと食べてよ」

「今日漬物ないのー?」


 食べているのか喋っているのかわからないほど静かな間がない。思わず笑ってしまった。その顔を、奈留が見止める。


「あ、蒼維くんまた笑ってる」

「何、どうしたの?」


 江奈がこちら見ると、みんなの視線が倣ったようにこちらに集まった。


「いや……何か、久しぶりだなあと思って」


 答えると、みんながきょとんとしていた。口は閉じていたが、その口がみんな動いているからまたおかしい。

 奈津子がお椀を持ち上げる。


「そっか、蒼維くん一人暮らしなんだもんね。やっぱりご飯はみんなで食べたほうがおいしいからね」

「そうですね……」


 一人は気楽だが、こんな食卓ならみんなで食べるのも悪くないと思う。

 目の前の大皿に載せられた唐揚げを一つ取ると、蒼維は改めて「いただきます」と言って、熱い塊を頬張った。






 テーブルの上の料理は、三十分もすればすべて綺麗になくなった。奈留が言ったとおり、確かに奈津子の料理はおいしかった。店で食べるような味ではないが、温かい「家のご飯」のおいしさだった。

 修成は自分の部屋に荷物を置きに二階へ上がり、杏奈は自分の皿を下げた後リビングのローテーブルでチラシを眺めている。修児と奈留と蒼維はダイニングテーブルを囲んだままで、奈津子と江奈が着々と片付けを進めている。


「え? 蒼維君堂賀園どうがぞの大学なの?」

「まあ、一応」

「だってよ、奈留」と奈津子が娘を見る。

「そういえばそういう基本情報あんま知らないね」


 出会い方が特殊だったからか、奈留や修成とは知り合って一月以上が経っているが、お互いが知る情報にはところどころに穴がある。

 下げた食器をシンクに置きながら、江奈が奈留を見た。


「それならあんた、蒼維くんに家庭教師やってもらえば?」

「え?」

「えーやだー。そんなのいらないよ」


 江奈の提案に驚いたが、言ったそばから本人の盛大な反対票が入る。


「ねえ、お母さん」


 江奈が冷蔵庫にドレッシング類を片付けている奈津子を窺う。「そうねえ」と一瞬考える表情を見せた奈津子が、扉を閉めた。


「お金はそんなに出せないと思うけど、夜ご飯は出せるかな。ねえお父さん」

「いるのか? 家庭教師なんて」

「だからいらないってばー」

「本人がそう言ってるならわざわざやる必要ないだろ」

「ほら、お父さんがこう言ってる」


 たぶん父親の本音は娘のそばに若い男がいるのが嫌なだけなんじゃないかと思ったが、それは言わないでおく。修児はそんなことは微塵も思っていない表情でコップのお茶を飲んでいた。


「でもあんた、成績下がってるじゃん」

「下がったって死ぬわけじゃないしー」

「でも堂賀園行きたいんでしょ?」

「あ、そうなんだ」


 奈留がすでに志望校を決めているとは意外だった。というか、進学希望ということからして少し意外だ。

 江奈が布巾を持ってきて皿の片付いたテーブルを拭く。


「でも確かC判定でしょ」

「わかんないとこはあーねえ修兄しゅうにいに聞くもん」

「え?」


 チラシを眺めていた杏奈が明らかに嫌そうな顔でこちらを見た。


「うわ、冷た。妹のピンチを助けてよ」

「助けてくれる人ならそこにいるじゃん」

「だからそれはいらないってー」


 蒼維を指差した杏奈に、奈留がテーブルにうつ伏せる。


「奈留、拭くからどいて」


 言われるままに顔を上げると、その頬が少し膨れている。拗ね方の表現が子供だ。


「試しにでもやってみればいいじゃない。まあ蒼維くんがよければだけど」


 話の矛先を向けられた途端、奈留のじとっとした目が見つめてくる。


「まあ、週一か二回なら……バイトしてるけど毎日じゃないし、ご飯が食べれるなら僕は逆にありがたいですけど」

「蒼維くーん? そこは遠慮すべきとこだと思うよー?」

「奈留黙って。じゃあ決まりね」

「えー、本人の意思は?」

「嫌なら自分で成績上げなさいよ」

「げぇー」

「それに知らない人が来るより人となりがわかってるぶん安心じゃない」

「わかんないよー、羊の皮を被った狼かもよー」

「え、そうなの?」

「違います! 奈留ちゃん!」


 適当なことを言わないでほしい。じゃないと殺気のこもった視線が来るじゃないか。もう怖くてそっちは見れないけど。


「まあ、詳しいことはまた話して決めるとして」

「あー。呼ぶんじゃなかったー」


 背もたれから後ろにがっくり首を垂らした奈留にちょっと悪かったかなとは思うが、蒼維としてはラッキーだった。小遣い稼ぎができてご飯も食べれて、しかも教える相手が奈留ならあまり気を遣わなくてもいい。

 二階に荷物を置きに行っていた修成がリビングに戻ってくる。奈津子がキッチンからケーキのケースを持ってきた。


「はい、食後のデザートでーす。江奈からのおみやげね」

「おっマルシュラのケーキじゃん」


 ケーキという単語に反応した奈留の首が瞬時に戻る。


「はーい、みなさん選んでくださーい」


 奈津子が開けたケースの中には、色とりどりのケーキが入っていた。


「あれ? 六個しかないけど」

「ああいいよ、あたし食べないから」

「そうなの?」

「あ……いいですよ、僕食べませんから」


 江奈は蒼維が来ることを知らなかったのだから、家族六人分しかないのが当たり前だ。

 しかし江奈は笑って手首を振った。


「いーのいーの。お客さんなんだから食べて。甘いの苦手なら別だけど」

「お父さんどれがいいー?」

「お母さんこれでしょ?」

「これ何が入ってんの?」

「修兄つつかないで」

「どれもおいしそー」

「あんたたちまず蒼維くんに選ばせなさいよ」


 食事が始まる時の会話の投げ合いは島田家恒例行事のようだ。いつの間にか杏奈もこちらのテーブルに来ている。

 しばらくの悶着の末、みんなの前にケーキとコーヒーが置かれたところで、江奈が軽く右手を挙げた。


「はい、じゃあ食べる前にみなさんにお知らせがあります。……何かもう食べてる人もいるけど」


 奈留はすでに一口目が口の中で、修児もフォークをケーキに突き立てたところだった。


「あたし、結婚しますので」

「まじでー? 江奈姉おめでとう!」

「ついにきたかー」

「へえ、おめでと」


 以上、奈留、修成、杏奈の反応である。母奈津子だけは事前に聞いていたのか、江奈と一緒に反応を楽しんでいる側である。

 しかし父修児からの反応があまりないのが意外だった。ちらりと窺うと、無言でケーキを口に運んでいる。


「どんな人? ってか結婚式いつするの?」

「まあ相手は今度連れてくるから。式は三月くらいにできればいいなって思ってる」

「衣装合わせ絶対ついて行くー! 江奈姉行く時は絶対教えてね」


 奈留の浮かれ具合を江奈がはいはい、と軽く流す。


「仕事はどうすんの?」


 聞いてから、修成が自分のケーキをフォークで真っ二つに分けた。まさかと思っていると、大きく開けた口にその半分をそのまま放り込む。


「仕事は七月でやめるつもり」

「あら、やめちゃうの?」


 奈津子が残念そうに言う。


「うん、一応資格あるし、贅沢言わなければ復帰しようと思えばいつでもできるし」


 そうねえ、と江奈の言葉を聞いた奈津子は引き止める気もなさそうだ。


「だから、もしかしたら今の部屋引き払ってしばらくの間こっち帰ってくるかも」

「え、じゃあ部屋どうなるの? 相部屋?」


 フォークの先端を口に当てて奈留が尋ねる。


「そうなるねえ。ま、そん時は奈留か杏奈に頼むことになるかな。でももしかしたら早めに部屋借りてそっちに移るかもしれないから、そんなに長居することもないと思うけど」

「もう二人で住むの?」

「そのほうが式の相談とかすぐできて楽だしねー。式と引越しと全部同時にやるとばたばたするし、ちょっとずつずらしたほうがいいかもと思って」

「そっかー……で? どんな人なの? 年上?」


 興味津々の奈留が江奈を質問攻めにする。あいかわらず修児は沈黙したままだ。それが逆に怖い。蒼維は奈留のパンツを見てしまっただけでその目に射殺されそうになったのに。それともこれは嵐の前の静けさというものだろうか。


「ごめんね蒼維くん、突然来てこんな話で」


 それまで黙っていた蒼維を気遣ってか、江奈が声をかけてくる。


「いえ、おめでとうございます。喜ばしい話なので全然」

「ありがと」


 江奈は最初からこの話をするために帰ってきたのだろう。蒼維のほうがイレギュラーなのだから謝ることはない。


「で、今度また一緒に挨拶に来るから、その日にちはまた連絡するね……いい? お父さん」


 そこで江奈が、初めて修児を指名した。

 すでにケーキを食べ終えコーヒーを啜っていた修児は、カップで口元を隠したまま、「ああ」と短く返事した。




 *    *    *




「お父さん大丈夫ー? だんまりしちゃって」


 奈留はダイニングの椅子に膝を立てて座り、スマホをいじっている。自分の式でもないのに式場を検索しているようだった。江奈はすでに帰った後だ。

 キッチンでお茶をラッパ飲みしている修成が口元を拭う。


「母さんは聞いてたの?」

「うん、電話で来るって言ってた時に、それとなく」


 ダイニングテーブルでコーヒーの残りを味わいながら奈津子が答える。


「うちからもいよいよ結婚するやつが出るかー」

「ってか順番的に言えば修兄が先でしょ」

「俺はもうちょっといいの」

「何それ」

「……ほんとに結婚する気か」

「え?」


 ぼそりと呟かれた言葉に、みんながソファに座っていた修児を振り返った。ソファを背もたれにして床に座っていた杏奈は、隣の父親をちらりと見上げてまたテレビに目を戻す。

 江奈がいる時は平然としていた修児が、わずかに仏頂面になっている。それもおそらく、自分では気付いていないのだろう。


「夢見てるだけじゃないのか」

「誰が?」

「お父さんが?」

「ざんねーん。江奈姉は意外と乙女だけど浮き足立ったりはしないでしょ。ほんとに結婚決めたから言ったんだよ」


 妻、次女、三女と三段攻撃を食らった父親が若干哀れになる。

 将来自分に子供ができるなら、女の子は一人でいいかもしれないと思った。


「昔は父さんと結婚するって言ってたのに」

「それいつの話?」

「それたぶんお父さんの幻想だよ」

「お母さんも聞いたことないなぁ」

「あたしもない」


 今度は長男も加えて三女、妻、次女の言である。これはフォローに入ったほうがいいんだろうか。でも修児をフォローするなんてちょっと自分にはハードルが高い。


「あーでもお兄ちゃんと結婚したいってのは聞いたことある」

「それは江奈さんが?」


 少しでも話題が逸れるならと、蒼維が発した問いに奈津子が首を振る。


「いや、杏奈」

「そんなこと言った?」


 杏奈がまったく記憶にないという風に尋ねる。


「言ってた」

「俺もそれおぼろげに記憶あるかも」


 修成が付け加える。


「いつ?」

「幼稚園くらいだろ」

「それで江奈が兄弟じゃ結婚できないよって言って、杏奈と喧嘩になったの。まあ喧嘩っていうか、一方的に杏奈が怒ってたっていうか」

「へえ」


 そんな時代もあったのか。極めて無口な今の杏奈からは想像が難しい。

 あのさあ、とテレビを見ていた杏奈が珍しく自分から声を出す。自分が話題の種になっているのが嫌だったのかもしれない。


「あたしもちょっと報告あるんだけど」

「さすがに一日で娘二人に嫁に行くなんて言われたらお父さん立ち直れないかもよ」

「違うよ」


 奈津子の心配を杏奈は否定する。


「じゃあ何?」


 杏奈は絨毯の上に伸ばしていた膝を立てた。


「あたし、家出ようと思ってるんだよね」

「えっ? 一人暮らし?」


 奈留がすぐさま反応する。

 そう、と答えた杏奈に奈津子が尋ねる。


「何で?」

「したいから」


 さらりとした報告に、修児はちらりと隣の娘を見て、テレビに顔を戻す。


「お姉ちゃんも帰ってくるかもしれないって言ってたし、ちょうどいいよね」

「よくないでしょ。お金はどうするつもり? うちは貧乏じゃないけど、正直あんたに一人暮らしにさせるほどの余裕もないよ?」

「大丈夫。今までバイトで貯めた分あるし、これからは時間増やす。まあ、援助がもらえるならそれにこしたことはないけど、無理にとは言わない」


 奈津子から出てきた現実的な話に、杏奈は淀みなく答える。


「でも、一人暮らし始めるなら色々かかるでしょ」

「家電は買い換える先輩から古いやつもらえるし、荷物も友達に車出してもらって自分で移動するから引越し代はそんなかからないよ」

「でも……」

「住む部屋も何個か目星つけてるの。決めたら言うから、借りる時の保証人になって欲しいなーって。ってことで、報告終わり」


 言うだけ言って、締めくくる。江奈のように「いい? お父さん」の確認すらなかった。

 持っていたリモコンをローテーブルに置いて立ち上がると、「お風呂入るね」とさっさとリビングを出て行ってしまう。


「へー、あー姉が一人暮らしかぁ。夜遅くなる時は泊めてもらおっと」


 奈留は暢気にスマホをいじっているが、不可解な顔をした奈津子がそばに立ったままの修成を見上げた。


「何だったのいきなり。前から言ってた? 一人暮らししたいって」

「ううん、俺は今初めて聞いたけど」

「お父さんは?」

「杏奈がそんなこと言うのは一度も聞いたことがない」


 何だか江奈の結婚報告の時とは様子が違うようだ。

 奈津子が持っていたカップをテーブルに置く。


「昔から何でも自分の中で考えて、決めてから口に出す子ではあったけど」

「しかもこうと決めたらあー姉は頑固だからねー」


 式場の検索に飽きたのか、奈留がスマホをテーブルに置く。


「だめなの? あー姉が一人暮らしするの」

「一人暮らしなんてする必要あるのか?」


 表情は冷静だが、修児の声は不機嫌だった。


「まあねえ。学校も普通に通える距離だし、わざわざ一人暮らししなくても、学生の間はここに住んでバイト代は友達と遊ぶのに使ったほうがいいのにねえ」

「三年になったら就活も忙しくなるだろ。バイトもまともに入れなくなるだろうに、そこはどうするつもりなんだろうな」

「何か修兄がまともなこと言ってるー」

「馬鹿。これでも俺は社会人だぞ」


 修成が奈留の座っている椅子の脚を軽く蹴る。

 成り行きで家族会議に居合わせるはめになってしまった蒼維は、黙っているのもいたたまれなくなり遠慮がちに口を開いた。


「で……結局賛成なんですか? 反対なんですか?」


 修児がじろりと蒼維を見てから、テレビに戻す。


「反対」

「まあ、理由次第だけど……するとなったら多少の援助はしなきゃいけないだろうし、そうなったらちょっと苦しいかなあ」


 と奈津子。奈留は「まあ一人暮らしには憧れるけど、確かに家にいたほうがご飯も出てくるし洗濯もしなくていいし楽なのにね」と堂々と言う始末。


「一人暮らししてみたいって気持ちはわからなくもないけど……社会人になるまで待てないのかね。実家に甘えられる間は、甘えとけばいいのに」


 最後に修成が口にした至極もっともな意見に、蒼維の目は杏奈が出て行ったドアを見つめた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ