蒼維くんはどいといて
「お店に入ってきた時も思ったけど、今日の蒼維くんお好み焼きの匂いがするねー、おいしそう」
夜道を歩きながら、奈留がこちらに向かって鼻を引くつかせた。
「今日バイトだったから」
「広島風の店って言ってたっけ?」
「そうだよ」
「今度行ってみようかなあ」
おいしい? と聞きながら、さりげなく肘のあたりに手をかけてくる。奈留のさりげなさは、正直こちらが舌を巻くほどだった。
〈よし乃〉から家への帰り道。蒼維が奈留を送るのは、今日で五回目になる。
最初断りもなくいきなり腕を組まれた時は思わず体が固まってしまったが、最近はようやく慣れてきた。それでも、距離が近くなると離れようとしてつい斜めに歩いてしまい、奈留に「照れてるー」と何度かからかわれた。最近の女子高生って怖い。
「俺はおいしいと思うけど」
「蒼維くんも焼くの?」
「焼くよ」
「へー。でも不器用そうだよねえ、ちゃんと引っくり返せるの?」
「あのね、もう一年もやってるんだよ? それ以前に小さい頃からさんざん作って食べてきてるんだから」
「えー、どんだけお好み焼き好きなの」
「広島県民は大抵そうだよ」
「え? 蒼維くんって広島出身なの?」
「そうだけど」
「そうなんだ、へー。広島かあ、まだ行ったことないなぁ」
あ、と思い出したように奈留が声を出す。
「じゃああのプレゼントって、わざわざ帰って渡したの?」
「え? ああ、いや……送って……」
「へえー、わざわざ。お母さん思いだねえ」
「別にそうでも……」
言葉を濁すと、奈留が「てかさー」と話題を変える。女の子って次から次へと話題を変えるよなと、奈留と話していると改めて思う。
「なーんもないね」
「え?」
「反応がさ。何も変わったことないんでしょ?」
「うん……」
作戦を開始して約半月。ゴミを漁られることもなければ郵便受けに汚物が入れられることもなく、静かな毎日が続いている。
「あたし関係なかったのかなー」
「どうだろ」
「向こうもこれ以上何かやるとまずいって思ってるとか」
「まあそこで留まってくれるような人ならいいけど」
「そだねぇ。でもやったことはやったことで反省してもらわないとね」
目には目を。歯には歯を。奈留はそういう考えの持ち主らしい。
「いっそのことさー、チューでもしちゃう?」
「えっ」
「うっそー」
奈留が舌を出す。
「別に蒼維くんならできないこともないと思うんだけど、さすがにそれはねえ……見てないところでやったらただのやり損だし。あ、したかった?」
「いや……遠慮しときます」
もちろん可愛い子は好きだし、奈留も可愛いとは思うけど。彼女の印象は初対面の時から変わらない。人懐っこくてちょっと図々しい、妹のようなものだった。キスなんてできない。…………たぶん。
「じゃあ今度はさー、デートしてみる?」
「え?」
「だから、新たな刺激」
「いる? 新たな刺激」
「で、デートの最後にはホテル入るとか」
「やめて。そんなことしたら殺されそう」
「ふりだよ?」
「ふりでも……っていうか嫌がらせの犯人の前にお兄さんに殺されそう」
「修兄はそんなことしないって。あ、でもお父さんならするかもねー」
あははー、と声をあげて笑う。
これまで何回か送った道中に、時々奈留の家族の話も出てきた。少子化のこのご時勢珍しい四人兄妹六人家族だということ。奈留は末っ子で、修兄は長男だということ。そういえば、修兄の本名は修成というらしい。
蒼維は奈留を家まで送っているが、上がったことは一度もない。奈留は修成以外にこの「作戦」のことは話していないらしく、余計な心配をかけるからと蒼維の存在自体家族は知らないらしい。
年頃の娘をこんなことに付き合わせて――といっても計画・立案は奈留自身だが、もしかしたら危険な目に遭わないとも限らないのだ。彼女の両親に対して多少罪悪感はあったが、自分の心の平穏にも関わる事態なので、心苦しさを感じながらも、蒼維はいつも門前で帰るのだった。
「まあ前回は蒼維くん家に行ったのに何もないし。もう付きまとってないのかもね」
そうなのだ。前回〈よし乃〉から奈留を送った時は、真っ直ぐ奈留の家に帰らずに、蒼維の家に行き、二時間ほど経ってから家に送っていった。実際は事前に鍵を渡しておいた修成が部屋にいて、三人でクイズ番組を見ながらコンビニスイーツを食べていただけなのだが。その後は蒼維と奈留だけ先に帰り、修成は時間をずらして家を出た。
もう犯人が近くにいないのならどれも無用の工作なのだが、一ヵ月やると決めたからには、多少面倒だとは思っても付き合うことにした。そもそもは、すべて自分のためなのだ。
「でも時々、見られてる気はするんだよね……まあ、勘違いかもしれないけど」
この数週間で、夜道を怖がる女性の気持ちが少しだけわかった。
「誰かに見られてると思うから、そう感じるだけなのかもしれないし。わかんないけど」
「まああるよね。意識して勝手に作り上げちゃう人」
「だから自信ない」
「まあ今回そういう気持ちがわかっただけでも、一つ成長できたんじゃないの?」
「奈留ちゃんって言葉のいちいちが人生の熟練者みたいだよね」
「まあ、だてにママのそばにいないから」
確かにあのママは経験豊富そうだ。
「ママって何歳なの?」
「それ、ママに直接聞いてみなよ」
「聞けないから奈留ちゃんに聞いたんでしょ」
「ひみつー……あ、電話。修兄だ」
それを聞いただけで、少し背筋が伸びる。
「はいはい……うん……そう、わかった。大丈夫。修兄もね……うん、オッケー」
短い会話を終えて、通話をきる。
「何て?」
「ようやく、おでましみたい」
何が、とは聞かなかった。
「どうするの?」
「とりあえず、人気のないところまで行って。そこでかな。修兄次第」
しばらく歩いた。奈留はあいかわらず話しかけてくるが、蒼維が答える口数は明らかに減っていった。
「蒼維くん、緊張してる?」
「そりゃ、ちょっとは……」
「大丈夫だって」
「逆に何でそんなに落ち着いてられるのかが疑問なんだけど」
「うーん、経験の差?」
奈留が小首を傾げたところで、手の中のスマホがもう一度鳴って、すぐ切れた。光る画面を一瞥して、奈留が言う。
「声かけるみたい」
その、直後。
背後で声が上がった。
「奈留! 行ったぞ!」
「お、ビンゴだったみたい」
半身で振り返ると、男が一人、こちらに向かって猛然と走ってくるのが見えた。その後ろを、ガタイのいい男――修成が追っている。
「奈留ちゃん、危ないから……」
そう言って彼女の体を壁際に離そうとするが、実際それからの対応には迷っていた。武術の心得なんてないし、喧嘩だってほとんどしたことがない。迷っているうちに、男はぐんぐん近付いてくる。
「蒼維くんはどいといて」
「え?」
「邪魔だから」
はっきり告げると、奈留は自分からそれまで組んでいた腕を解いた。すうっと息を吸った胸が膨らんだのがわかった。
「止まったほうがいいよー!」
その言葉は、真っ直ぐ男に向けられている。しかし男には、聞こえていたかどうかさえわからない。聞こえていたところで、素直に止まりはしないだろう。
あーあ、と奈留が小さくこぼした。男はもう目の前だ。速度を落とす気配はない。
「止まれ、っつってんだ、ろっ!」
見ていた蒼維は思わず「うそ」と呟いていた。
「ハッ!」
全速力で走ってきた男に対し、奈留がすれ違いざまその横腹に鋭い蹴りを入れたのだ。もろにくらった男は見事に体をくの字に折り、何とか踏んばろうとしていたが、結局はそのまま地面に蹲った。
片足を上げたまま静止していた奈留が、ゆっくりとその足を下ろす。
スカートの裾を直したところで、蒼維はようやく我に返った。
「……奈留ちゃん、空手かなんかやってるの?」
堂に入った蹴り、片足立ちの軸のぶれなさは、いっそ見惚れるほどのものだった。
「小さい頃何年か、少林寺習わされたんだよねー。おもしろくなかったけど、最近は役立つこともあるからまあ無駄じゃなかったかな」
事もなげに言ってのける。付きまとわれる経験に加えて武術の心得もあるのなら、確かに焦ることもないだろう。どちらの経験もない蒼維が敵うわけがない。男としては面目ない限りだ。
と言っても、ここまで奈留が落ち着いて対処できたのは、事前に「来る」とわかっていたからだろう。
奈留と蒼維が恋人のふりをして犯人を刺激し、二人の後を修成が尾けることで、怪しい人物がいないかどうかを確かめる。ごくごく単純な作戦だったが、こうもうまくいくとは。さっきの電話は、修成からの、尾けている男がいるという報告と、声をかけるぞという合図だった。
蹲っていた男の肩を修成が掴み、上半身を無理矢理起こす。ぱっと見男は、三十前後に見えた。正直言って、冴えない感じだ。
「あれ? あんた……」
男の顔を見た奈留が首を傾げる。そしてすぐに思い当たったようだ。
「あーあーあー。思い出した」
「誰?」
「時々お店に来る人だ。大抵入れ違いの時間だけど」
奈留によると、男は月に二、三度来る客で、奈留が上がる頃に入れ違いでやって来ることが多いらしい。それで奈留の記憶にもあまり残っていなかったようだ。
「あれ? じゃあ犯人はこの人? 前に奈留ちゃんに声かけてきた男は関係なかったってこと……?」
蒼維は首を捻ったが、奈留は答えることなく、修成に押さえられている男の前にしゃがんだ。
「何でこんなことしたのか言ってみなよ」
男はその視線から逃れるように顔をそらす。
「言わないなら、あんたの大事なとこちょん切って口ん中につっこむよ?」
「奈留ちゃん」
女の子が口にすることじゃない。しかし奈留は、注意した蒼維のほうには一瞥もくれなかった。
「ねえ、お兄さん。それともおじさん?」
「…………」
「何か言いなよ。いくら店のお客さんでも、こんなことした人に優しくする気ないからね」
挑発的な言葉遣いにはらはらしたが、修成は男をがっちり押さえて尋問役は妹に任せるつもりのようだし、奈留も奈留で態度を和らげる気はないらしい。
「問答無用で警察に突き出されるのと、ここで全部吐いて一発殴られて家に帰るのとどっちがいいの?」
それどっちも嫌だろ。というかすでに一発蹴られてるし。
しかしそんなつっこみを口に出せる雰囲気でもなく、心の中に留める。
「………………ごめん、なさい」
警察という言葉が効いたのか、男がかすかな声で言った。
「謝るのは後でいいよ。今はこんなことした理由を聞いてんの」
エンジン音が聞こえ、通りの突き当たりのT字路を、一台の車が通り過ぎていった。
静かな空間が戻る。
「あのさ……とりあえず、移動しない?」
こんなところを誰かに見られたら、自分たちが通報されかねない。
奈留は返事こそしなかったものの立ち上がると、「少し先に公園あるから」と先頭を歩き出した。修成に促された男は、すでに逃げるつもりはないらしい。足取りは重いものの素直についてきた。
滑り台と砂場と鉄棒があるだけの小さな公園で、男をベンチに座らせ、その背後に修成が陣取る。斜め前に奈留が立ち、その横に蒼維も倣った。電球がもう古いのか、時折外灯がちかちかと点滅する。
「で?」
これ以上ないくらいの簡潔な催促だった。男は俯いてしばらく歯を食いしばっていたが、三人に囲まれて無言の圧力に耐えかねたのか、しばらくすると苦しげに口を開いた。
「……すいませんでした」
「うん。それはわかった。だから、理由。あんた、あたしたちのこと尾けてたんだよね?」
奈留の質問に、男は何度か浅い呼吸を繰り返した後、意を決したようにこぼした。
「僕……奈留ちゃんのこと、か、可愛いと思ってて……」
「ふうん」
その反応は少なからず衝撃だったのか、男が口ごもる。しかし奈留はまた「で?」と先を促した。
「店で見た時から……ママに高校生だって聞いて、しかも、めい……姪っ子だって聞いて……可愛いし、店のお客さんにも評判いいみたいだし……」
「うん」
「だから、たまに店に行って、顔見るだけでもいいって、思ってたんだけど……」
まあそこまでは、よくある話だろう。店の店員に心引かれて、常連客になる。その子に会いに、店に足を運ぶ。まだ、許される範囲だ。しかし問題はその先だった。
「じゃあ、何でこんなことになったわけ?」
「見かけて……」
「え?」
「二人で一緒にいるところを、偶然見かけて……」
「店から帰る時?」
「いや……もっと前に……」
男が口にしたのは、プレゼントを買ったあの日、蒼維と奈留がジェラートを食べた店の名前だった。ちらりとこちらを見た奈留と目が合った。
「可愛いから、当然彼氏がいるんだろうなって、思ってたし……わかってるつもりだったんだけど、直に見たら、何か……」
そこで男は口ごもった。
「じゃあ、プレゼント盗って、ゴミ箱に捨てたのもあんた?」
「……はい」
奈留の問いに、震える声で返事があった。
「じゃあ写真は?」
「……すいません……」
男の体がどんどん小さくなっていく。
「あのさ、あんたがプレゼント捨てて写真ポストに入れたんなら、謝るのはあたしじゃなくてこっちでしょ」
奈留が立てた親指で蒼維を示すと、男が消え入るような声で謝罪を口にした。
「よくもまああんなことをしようと思うよね」
「ほんとは……」
咄嗟にといった風に顔を上げた男を奈留が見据えた。真っ直ぐな視線に男は一旦開けた口を閉じたが、奈留が止めないのを見て、ぼそぼそと呟き始めた。
「ほ、ほんとは、ベンチに忘れたのを見た時……届けようかと思ったけど。追いかけて、忘れてますって……でも、何か……できなくて……捨ててしまえばいいって、頭のどこかで、思ってしまって……帰りながら、何てことしたんだろうって後悔したけど……別の日店に来たら、彼が奈留ちゃんと一緒に帰るところで……今までお兄さんが迎えに来てたのに、何か二人でいるところを見たら、やっぱりそういうことなのかって思って、そしたらまた……」
「むかついた?」
返事はなかった。代わりに男の体が一回り小さくなった。つまり、そういうことなのだろう。そこですぐ写真を撮り、家まで特定して写真をポストに入れるという行為に走らせた男の執念には、改めて薄ら寒いものを感じるが、今目の前でうなだれている姿からは、そんな気配はまったく感じられない。
「ちなみに言うけどさ、この人、あたしの彼氏でも何でもないから」
「え?」
奈留が明かした真実に、男の目が揺れる。
「最初に見たっていう日も、成り行きで一緒に買い物して帰りにジェラート食べただけだし、あんたが写真撮った日は、たまたま修兄が遅れるって言うから代わりに送ってもらっただけだし。それ以降ここ最近はずっと、嫌がらせした犯人の目星つけるために、恋人のふりしてただけだから」
「そう、なの……?」
「そうしなきゃいけないと思うほど、どっかの誰かさんが陰湿なことするからさー」
奈留が夜空に向かって大きく息を吐く。まったく容赦がない。
「っていうかさ、何であたしのこと好きなのに、あたしに来ないで一緒にいる相手に行くわけ?」
「すいません……」
「だから謝るならこっちに謝れって」
苛立ちのこもった奈留の声に男がさらに小さくなった。大丈夫か。この調子だとこの人豆粒にでもなるんじゃないかと心配になる。まあ、自分が心配してやる義理はないんだけど。
でも、少しだけ、わかるような気もする。
奈留は男にとって憧れなのだ。憧れには、手を出せない。嫌われたくもない。でも一緒にいる相手はむかつく。だから陰でその相手に嫌がらせをすることで、うさを晴らすのだ。要するに嫉妬が、悪い方向に暴走してしまった結果である。
質問しながら奈留もわかっているのだろう、だって奈留自身が以前そういうことを口にしていた。だからか、それ以上問い詰めることはしない。
ただ。
「あたし、あんたのこと嫌いだわ」
「え……」
「男でうじうじしてるやつとか、もう見てるだけでイライラすんの。その上あたしだけならまだしも周りに嫌がらせするとかまじないから」
「…………」
奈留が片足にかけていた体重を移動させる。静かな公園にじゃり、と砂をこする音が響いた。
「あんたほんとに、あたしのこと好きなの?」
ほんとにまあ、答えにくいことをずばり聞くものだ。しかし男もすでに感覚が麻痺しているのか、素直に言わないとまた蹴られるとでも思っているのか、答えは意外と早かった。
「す、好きっていうか……ほんと、見てるだけよかったっていうか……俺なんか、相手にされないだろうし」
まるで思春期の学生を見ているような気持ちになる。おそらく自分より十は年上だと思うのだが。奈留もそう感じているのかどうなのか、言葉の苛立ちを隠さない。
「ねえ、思うんだけどさ。それって、あたしに失礼だと思わない?」
「え?」
「つまりあんたはあたしを、人を見た目だけで判断して、自分のタイプじゃない人はすべてコケにするような人間だと思ってるってことでしょ?」
「いや、そんな……」
「じゃあ、何で直接話しかけてこなかったの? 店にいりゃいくらでもチャンスはあったでしょ」
「それは……」
「そりゃあたしは好き嫌いがはっきりしてるほうだけど、顔だけで判断したことはないつもりなんだけど。世の中にはハンサムな最低野郎だっているし、不細工な優しい人だっているんだから」
「…………」
そう言われたところで、すぐに行動に移せるかどうかは別だ。はたから二人のやりとりを聞きながら蒼維は思った。
この手の類は、徹底的に自分に自信がないのだ。おそらく、相手の美醜はさして問題ではない。もしも彼が好きになったのが奈留とは別の人だったとしても、その時はその時で理由を作って自分から遠ざけるのだろう。
「で? あんたはどうなの? 自分でもわかってるだろうしお世辞が好きじゃないからはっきり言わせてもらうけど、見た目はまあ中の下ってところだよね。あんたは性格もひねくれてる最低の中の下なのか、ちょっと自信がないだけで頑張る気はある中の下なのか、どっち?」
「奈留ちゃん……もうちょっと言葉を」
選ぼうよ、と言おうとしたら、奈留に軽く睨まれた。何で俺が。修成を窺うと、彼は黙ったままで小さく肩をすくめた。奈留に任せろということだろう。だがあまり言葉が直截すぎると、萎縮するだけじゃないか。
しかししばらくすると、男は自ら口を開いた。
「……頑張りたいって、言ってもいいんですか?」
「は?」
「こんなことしたのに、中の下なのに、僕が、頑張りたいって言ってもいいんですか?」
「まじでどつくよ」
「ご、ごめんなさい」
男は即座に謝ったが、奈留が「違う」と指摘する。
「本人が頑張りたいのに周りが『それはだめ』って言うのおかしいでしょ。あんたが頑張りたいと思うなら勝手に頑張ればいいんじゃん。人に聞いてどうすんの馬鹿」
もっともなことを言っているのだが、どうしてもうちょっとソフトな言い回しができないんだろうか。
男が膝の上の拳を握った。いつかその拳が震えだしていきなり殴りかかってくるんじゃないか。そんな想像が頭をかすめる。
しかし、男はそうはしなかった。
あの、と恐る恐る口を開く。
「すみませんでした……」
「何が?」
「写真のこととか、付きまとったりして、不快な思いをさせて」
「うん。だからそれ、何度も言うけどあたしに言うことじゃないからね」
さっきから同じことを繰り返している気がする。しかし再び「すいません」と小さな声で謝った男は、あいかわらず目は合わせないものの、初めて体ごとこちらに向けて頭を下げていた。
あのさあ、と奈留が男に近付くと、正面でしゃがんで、ベンチに座る男を見上げた。
今度は何を言うつもりだ、となぜか男だけでなく蒼維までもが身構えてしまう。しかし、奈留の口から出たのは、意外な言葉だった。
「今度好きな子ができた時はさ、相手を追い回したり、周りに嫌がらせするんじゃなくて、自分に振り向かせる努力をしなよ」
「え?」
「たとえばその垢抜けない髪形をちょっと今風にしてみるとか、笑顔の練習してみるとか、じめじめじめじめ陰から相手を追い掛け回してても相手は気味悪がって逃げていくだけだと思わない? あんた同じことされたら嬉しいの?」
これで「嬉しい」という男ならお手上げだったが、そこはまだ常人の範囲だった。男はしばらく考えた後、かすかに首を横に振った。
「じゃあさ、欲しいものを手に入れたいなら、それに見合う努力をしなよ」
「別に欲しいとか……」
「うるさい。好きになったら普通手を繋ぎたいと思うしエッチしたいと思うでしょ。そうじゃなかったら何なのよ。そんなのしなくてもいいと思ってるならそっちのほうがよほど人間として変態だっつーの。もしくは自分の欲望を誤魔化すことばっかうまい童貞か」
「だから奈留ちゃん、もうちょっとソフトに……」
「蒼維くんさっきからうるさいよ?」
上目遣いに睨まれて、何も言い返せない。
高校生が吐く台詞としてはいかがなものだと思うのだけど。でも、あいかわらず修成が口を挟まないところを見ると、家庭内ではこれが容認されているのだろうか。
「まずは見た目を変えてみる。それが嫌なら相手の趣味に合わせた話題を仕入れてみる。そんで話しかけてみる。自分が努力しないのに欲しいものだけねだるなんてガキのすることじゃん。頑張る気はあるんでしょ?」
男はしばらく黙り込んだ後、ぽつりと言った。
「僕、ダサいですか?」
「ダサいね。少なくともあたしのタイプでは絶対ない」
ざっくり斬った奈留に男は再び俯く。
ああ、せっかく持ち上がってたのに。
でも、次に顔を上げた時は、その目つきが心なしかすっきりとしていた。けちょんけちょんにやられて、逆にふっ切れたのだろうか。
奈留との会話が、男の中でどう決着をつけたのかはわからない。しかし、男は少しだけ背筋を伸ばすと、初めてきちんと頭を下げた。
「本当にすいませんでした。……すいませんでした」
今度は奈留に言われる前に、蒼維にも頭を下げた。これまでで一番はっきりした声だった。
奈留は長い息を吐くと、膝に手をついて立ち上がった。
「あんたのやったことは最低だと思うけど、今、人として一歩進んだのは認めてあげる」
両腕を上げて、うんと伸びをした。
一段落した空気に、ずっと黙っていた修成が男の背中を叩いた。一回、二回、三回。
さすがに何か感じ取ったのか、男が背後に立っていた修成に戸惑った顔を向けた。
「あの……?」
「お前嫌がらせしたのが蒼維くんでよかったね。もし奈留に何かしてたら、半殺しだったよ?」
「修兄、洒落にならないから」
「え? そこは洒落じゃないの?」
兄妹のやりとりに思わずつっこむ。
だが修成の笑顔には、確かに奈留と蒼維の腕組み写真を見た時のようなうすら寒いものがあった。
それは男も感じ取ったようだ。「すいません、もう絶対しません」と、そこで初めて修成に謝っていた。
結局、奈留は男を警察に突き出すこともなく、といって一発殴ることもなく、「じゃあもう解散」と区切りを付けた。さらに別れ際、驚くべきことに「またお店来なよ」と男を誘った。蒼維が驚いたのはもちろんだったが、男もそれには目を見張って、答えを迷っているようだった。
しかし戸惑い顔の男に、かけた奈留の声音は優しいものだった。
「今度は、入れ違いじゃなくてちゃんとあたしが手伝ってる時間にさ。あたしの理想は高いから、たぶん百年経っても無理だけど。あんたが頑張ろうって思う相手を見つけたら、相談くらいはのってあげるからさ」
それを聞いた男は、半分泣き笑いの顔をして頭を下げると、猫背気味の背中ながら意外としっかりとした歩調で帰って行った。
「すごいね」
男の背中を見送ってから、蒼維は呟いた。
重苦しい空気がなくなり、肩が軽くなったような気がする。
「何が?」
「こういうのって、一歩間違えれば相手を逆上させて大変なことになると思うんだけど」
「金属バットでぼこぼこにされたりとか?」
「やめてよ」
でも、その可能性は決してゼロではない。 しかも奈留の言葉選びは結構過激だからなおさらだ。
「奈留は飴と鞭の使い分けがうまいからな」
「まあだてにつきまとわれてないしねー」
「それ自慢すること?」
「つまりあたしに魅力があるってことでしょ?」
そのとおりなのだが、それを本人に言われると何だかしっくりこない。
「っていうかさあ、結局蒼維くん、何も言わなかったけどよかったの?」
「え?」
「え? って。嫌なことされたんだから、恨み言の一つや二つ言ったって罰は当たらなかったと思うけど」
「ああ……でも、奈留ちゃんが十分言ってくれたし」
奈留が呆れた顔をした。
「またそれ? こないだも言ってたよね。あたしが怒ったからもう腹立たないみたいなこと」
「だって、そうだから。今日だってむしろ、そばで聞いててあっちが時々かわいそうだと思ったくらいだもん」
「え? そうなの? 自分に嫌なことしたやつなのに?」
「やつだけど。わかるとこだってあるから。奈留ちゃんだって、わかってるから問い詰めなかったとこあるでしょ」
「あるけど、だいたいは言ってすっきりしたし」
「俺も、ちゃんと謝ってくれたからそれでいいよ」
「蒼維くん優しすぎじゃない?」
「そうかな」
「ま、いいじゃんか。蒼維くんがそれでいいなら」
ぱん、と仕切り直しのように修成が手を打った。
「じゃあ、一件落着ということで。帰ろう。その前に俺は、チャリ取りに行かなきゃいけないけど」
男を追いかける時にどこかに置いてきたのだろう。修成がいつの間にやら下ろしていたリュックを背負い直す。
「あー腹減ったなぁ」
「そういえば今日〈よし乃〉でも食べてなかったですね」
「家の飯がカレーだって聞いてたから食べなかったんだよ」
「カレーかあ。いいなあ」
「じゃあ食べに来れば?」
「え?」
「お母さんのご飯超おいしいよ。何たってママ仕込みだからね」
〈よし乃〉の女将直伝なら、確かに味に間違いはないだろう。でも今日はすでにバイトで賄いを食べたし、この時間から家にお邪魔するのも気が引ける。
申し出を断ると、「じゃあまた機会があればね」と奈留は話を切り上げた。
修成の自転車があるところまで一緒に歩き、そこからは、見送られる立場になる。
「じゃあね」
「また」
「気をつけろよ」
兄妹に見送られて、踵を返す。
きっとあの様子なら、男も逆恨みしてどうこうなんてことはないだろう。とにかくこれで、今夜からはぐっすり眠れそうだ。
ここ最近の非日常と別れるのが、今になって少し寂しい気もするけれど。
もう誰に見られていることもない家路を、蒼維は一人のんびりと歩いた。