でも、蒼維くんが嫌な思いするのは違うよね
三日間悩んだ末に、蒼維は再び〈よし乃〉を訪れた。前回会った時も奈留の連絡先は聞いていなかったから、会おうとすれば彼女の家かここに来るしか方法がなかったのだ。さすがにアポなしで家へ行くのはハードルが高くて、こちらに来ることを選んだ。
封筒に入っていた写真は、全部で三枚だった。
一枚は、奈留と二人のもの。あとの二枚は蒼維一人のもの。奈留と二人の写真はおそらく〈よし乃〉から彼女を家まで送った時のものだ。あたりが暗くて、写りもぼんやりしている。蒼維一人のほうは、いつどこで撮られたのかわからない。でも服装からして、おそらく封筒を見つけた日の前日だろうと思われた。
三日前、玄関にしゃがんで写真を見つめながら、こんなものが郵便受けに入っていた理由を考えた。その時ふと、頭を過ぎったのはピンク色の紙袋だった。ゴミ箱に捨てられた、母の日のプレゼント。
あの日奈留は、店で自分につきまとっていた男が、一緒にいた蒼維に嫌がらせをしたのかもしれないと言っていた。真相はわからない。ただ万が一そうだったとしても、あれは突発的なもので、あの一回きりで終わったものだと思っていた。だがもし、そうじゃないなら。それなら、あの日からずっと見られているということになる。もう二週間近くだ。気味が悪い。
そしてまずいと思ったのは、写真の中に奈留と一緒に映っているものがあることだった。もしもこの嫌がらせに彼女がまったく関係なかったとしても、自分の知り合いだと認知されたことで、今後何かあったらそれこそ取り返しがつかない。
それでも余計な心配をさせるだけだから言わないほうがいいだろうかとか、万が一を考えて相談すべきだろうかとか、うだうだ考えているうちに三日が過ぎた。
学校の友達に相談したら、「何お前変態に愛されちゃってんの?」と心配するどころか笑われた。まあ別れ際には「もっかい何かあったら考えもんだな」と、真顔になってくれたけど。
けれど結局、その「もっかい」を待つこともできず、様々に浮かぶ可能性を自分の中で持て余すようになって、誰かに話を聞いて欲しくなった。となると、やはり相手は事情をよく知る奈留になる。
白い封筒から写真を取り出した瞬間、奈留は盛大に顔を顰めた。
「うーわ……」
一枚ずつ写真を見て、テーブルに置いていく。
今日は話が話だったので、奥のテーブル席に座らせてもらっていた。カウンターの他のお客さんがいるところで写真を広げるのもどうかと思ったのだ。カウンターの奥の空間には、入り口から真っ直ぐ伸びる通路の右側に、暖簾で空間を仕切れる四人掛けのテーブルが一つと、六人ほどが入れる掘りごたつの座敷が一つ、そしてお手洗いがあるだけだった。今は入り口に近いカウンターに一人、常連らしい男性がいるだけなので、暖簾は下げていない。
奈留は前と同じ桜色の作務衣に臙脂色の前掛けをして、今日は髪を二つに結んでいた。入り口のほうに背を向けている蒼維の斜め左、テーブルの横に立って、写真を見つめている。
最後の一枚をテーブルに置くと、奈留が口の端を歪めたまま「陰湿ー」と呟いた。
「何が目的なんだと思う?」
「嫌がらせの目的なんて、その人を嫌な気持ちにさせることに決まってるじゃん」
「それはわかってるけど。でもそうされる理由に心当たりがないんだよね」
「ほんとに?」
「うん」
奈留が腕を組んで首を傾げた。
「最近誰かと喧嘩してない?」
「俺平和主義だし」
「誰かに告白されてふったとか」
「残念ながら」
「じゃあ実は周りに妬まれるほど輝く才能の持ち主だとか」
「そう見える?」
「ううん、見えない」
「でしょ」
うーん、と奈留が唸る。
「じゃあ最近、いつもと変わったことは? 学校に行く道変えたとか、新しいバイト始めたとか」
「ないよ」
バイト中お客さんが怒るようなミスをしなかったかとか、街で誰かと肩がぶつからなかったかとか、ここ数日の自分の行動を事細かに思い返してみたが、思い当たるものが何もないのだ。
唯一、もしかしたら、と思うことは。
「奈留ちゃん」
「え?」
二つ結びの毛先が揺れた。
「俺の周りでここ最近変わったことと言えばさ、奈留ちゃんと知り合ったことくらいなんだよね」
「あたし?」
「そう」
それが、ただ一つ思いつく可能性だ。
「奈留ちゃん言ったよね? 店で自分をつけ回してたやつが、俺が奈留ちゃんといるのを見て嫉妬して、嫌がらせしたのかもしれないって」
「言ったね」
「ここ最近で何か思いつくとすれば、それくらいなんだよ」
それを奈留に告げるのには、少し勇気が必要だった。だって要するに、これは「あなたのせいだ」と言っているようなものだからだ。決して奈留のせいではないのに。
しかし奈留は、傷付いた顔一つしなかった。
それまで立っていた通路から、蒼維の向かいの椅子にすとんと腰を下ろすと、無造作にテーブルに置かれた写真の一枚を手に取った。
「そうだねえ……まあ、蒼維くん自身に何も心当たりがないなら、その可能性もあるか……。プレゼント捨てられたのもこの写真撮られてるのもあたしが一緒の時だし」
奈留は写真の角を二本の指で持ち、ぺらぺらと揺らす。
「そうかぁ、やっぱそうなのかなぁ」
やっぱ、と言うことは、奈留もその可能性は考えていたということだ。
「もしそうだとして、今はターゲットが俺だからいいけどさ、そのうち奈留ちゃんにも手出すことだって考えられるわけじゃん。その前にどうにかしないと」
「まあ、それはないと思うけど」
「え、何で? こんなことするやつだよ?」
「だって、あたしに手が出せないから蒼維くんに嫌がらせしてるんでしょ」
「…………」
そうか、それも一理ある。ならば、奈留に危害が及ぶかもしれないという心配はしなくてもいいのか。それなら少し肩の荷は下りる。
「でも、蒼維くんが嫌な思いするのは違うよね」
奈留が揺らしていた写真を止めた。
――まただ。
蒼維は写真を見つめる奈留の顔を見て思う。
奈留は強引で、時に人を軽くあしらっているように見えるが、実は相手を思いやる気持ちは深いんじゃないか。なくなったプレゼントを探した時もそうだし、今の台詞もそうだ。
っていうかさ、と奈留が写真を置く。
「こいつ撮り方下手くそじゃない? これも、これも。あーやだなあこの顔」
唯一、二人で写っている一枚を指で叩く。
せっかく彼女のいいところを見直していたのに、少し株が下がる。
「そこ問題?」
「勝手に撮られるってだけでも不快なのに、さらに下手くそって許しがたくない? どうせなら美人に撮れよっつー」
「何この写真」
「え? うわっ」
急に割って入った声に振り返ると、間近に男の顔があった。テーブルの写真を覗きこむように蒼維の背中に近付いている。慌てて広げていた写真を集めて手で覆った。
しかし奈留は、驚くこともなく相手の名前を呼んだ。
「修兄」
「え…………お兄さん?」
「ん? どなた?」
体を起こして少し傾げた首は太かった。というか、全体的に筋肉質で体育会系なのがもろに見た目に出ている。顔は奈留と似ているような気がしないでもないが、とにかく全体的にがっちりしていて、中には若干の暑苦しさを感じる人もいるだろう。
「蒼維くん。友達。っていうか……知り合い?」
思えば会うのは三回目なのだから肩書きは微妙なところだろう。
どうも、と座ったまま頭を下げると、奈留の兄は自分で「どうも、修兄です」と片手を上げた。人は良さそうだが、何だかこっちはこっちで若干癖がありそうだ。
結局奈留も情報を付け加えないため、「修兄」が修平なのか修一なのかわからないまま話は進む。
「……で? 何これ。盗撮? っていうか何、二人付き合ってるの?」
「違います」
「でもこれ腕組んでるよ」
修兄は蒼維が手で覆っていた写真の一枚を指差す。奈留と一緒に写っているものだ。この間家まで送った時に、途中で奈留が「ねーねードッキリしない? 彼氏ですって言って家に上がってみる?」とふざけていた。
「これは違いますよ、組んでません」
「えー、組んだじゃん」
「奈留ちゃんがふざけただけだろ」
「へー。まあ恋愛は個人の自由だけど、実の兄に見せびらかすって結構度胸あるねえ。ははははー」
「違います違います」
「別に隠さなくてもいいよ? 俺オープンマインドだから」
言っている意味が若干わからない。そして笑っているけど何だか怖い。
「まぁ修兄も座れば」
奈留が自分の隣の椅子をぽんぽんと叩く。
「お前仕事しなくていいの?」
「だってお客さん一人しかいないし。必要ならママが呼ぶよ」
修兄が奈留の後ろに回りこみ、奥の椅子、俺の斜向かいに腰を下ろした。「置かせてもらっていいかな」と、身を乗り出して俺の隣の椅子に鞄を差し出す。
何が入っているのか角ばったものがずっしり感じられるリュックを受け取り、改めて奈留の兄を見る。グレーのVネックにベージュのチノパンという格好は、仕事帰りなのか普段着なのかよくわからない。
「で? 何があったの。お兄さんに話してごらん」
本気なのかふざけているのか、そら来い、と言わんばかりの笑顔で開いた両膝に手の平をのせて二人を見る。
「ねえ奈留ちゃん……」
「ああ気にしないで。これが修兄の普通だから」
「ん? 何かおかしい?」
「いえ……」
おかしいというか、眩しいというか、爽やかすぎるというか。吐く息はキシリトールの匂いがしそうだ。
しかし蒼維と奈留とで事情を説明していくうち、その顔も徐々に真剣になっていった。
「本当にお前に声かけたナンパヤローが、蒼維くんに嫌がらせしてるの?」
問われた奈留は口を尖らせる。
「わかんないよ。今まであたし自身に付きまとうやつはいたけど、周りにくるのはなかったし」
「だよな」
「でも。その可能性は否定できないと思う。だって蒼維くんにそれ以外心当たりがないんだし」
だから、と奈留は続けた。
「確かめようよ」
「え?」
「本当にこないだ店であたしに声かけてきたやつなのか。まあ、ナンパして断られた人間がそんなことすんなよって話だけど、蒼維くんがあたしと一緒にいるのが許せなくて嫌がらせしてるんならさ、もっと刺激すればいつか尻尾出すんじゃない?」
「それって……」
「だから、いっそ付き合ってるふりしてべたべたしてれば、またこういうの送りつけてくるんじゃないかと思って」
「ちょっと危険じゃないか?」
口を挟んだ修兄に同意する。
「俺も、わざわざ刺激するのはちょっと……何もしなければ、このまま何も起こらないかもしれないし」
「じゃあ何でここに来たの?」
「え……」
「ただ黙って過ぎ去るのを待つつもりなら、別にあたしに話さなくたってよかったじゃん」
確かにそのとおりだ。そうしなかったのは、もしかしたら奈留にまで被害が……と思ったのもあるけど実はやっぱり、こんなことをされて不安だったからだ。誰かに話して安心したかったし、できることならすぐにでも問題は解決して欲しい。
「すっきりしたいんでしょ? これからずっとびくびくして過ごすの嫌じゃない?」
「そりゃ、嫌だけど……」
「男ならはっきり言えば?」
「嫌だよ。……けど、その案には賛成しかね」
「却下しまーす」
「…………」
被せてきた奈留に、正直いらっとした。けれどそれは心の中で留める。
「大丈夫だって。段階的に考えて、まだ刺しはしないでしょ」
「いやそうなったらまじで困るし」
「たぶんゴミ漁られるか、ポストに汚物入れられるくらいじゃない?」
「それもやだって」
いともあっさりと言ってくれる奈留にげんなりする。
確かにすっきりはしたいけど、あまり派手なことをするのは気が進まない。
重ねた写真の端を揃えて、一番上の自分の顔に目を落とす。
「この写真を警察に見せるとか」
「それ、やりたいなら別に止めないけど、犯人に対しては全然効果ないと思うよ。尾けられてる目の前で封筒見せびらかして駆け込むなら多少牽制にはなるかもしれないけど」
容赦ない指摘に兄も付け加える。
「確かに最近ストーカーの事件が多いっていっても、やった人間の目星が全然ついてないんじゃ、警察も相手にしてくれないだろうしなあ。よくてパトロール強化しますくらいしか言ってくれないだろ。蒼維くん男だし」
修兄が自分の言葉にうん、と頷く。
「よし、俺も協力しよう」
「え、そっちですか?」
「どっち?」
きょとんとする顔にチョップをかましたくなる。さっき危険じゃないかと言ったのはあなたでしょうに。
「普通、止めません?」
「被害があるとしてもまず蒼維くん家のポストだからな。一回くらいなら試すのもありだと思う」
むしろどこか楽しげに言い放った。つまり、妹には危害が及ばないからやってもいいという判断のようだ。
「じゃあ早速今日からやろ。蒼維くん、今日家まで送ってよ。で、これからバイトの時はここに迎えに来てよ」
まだ了承していないのに、奈留がさくさくと話を進める。
「もう用事がある日ある? ってかバイトとかしてる?」
「してるし、第一まだやるって言ってないんだけど」
「え、やろうよ」
何で、という顔を奈留がする。
「じゃあ、期間決めるか」
と兄。
「いや、だから……」
「一ヵ月」
指を一本立てて、ずいと突き出してきた。
「何も起きなければそれでよし、何か一つでも置きればすぐ警察に届ける」
「島田家強引すぎ……」
「大丈夫だよ。万が一犯人が暴力に訴えてきて怪我したら、修兄が治してくれるから」
「え? お医者さんですか?」
意外だ。だが斜向かいの修兄を見ると、本人があっさり否定した。
「いや、理学療法士」
「理学療法士って?」
「まあ主にリハビリを手伝ったりする仕事かな」
「はあ……」
「つまり蒼維くんが逆上した犯人に金属バットでぼこぼこに殴られて複雑骨折したとしたら、俺の世話になるってこと」
「それ、絶対嫌なんですけど……」
「まあしょっぱなからそんなことにはならないって」
不安だ。
この人たち若干おもしろがってないか。
しかしそんな心配をよそに、奈留は身を乗り出してきた。
「迎えに来てくれる時はここの晩ご飯もつけるよ。ママには言っとくから」
「お前、そこは伯母さんにもうちょっと遠慮しろよ。友達来たらみんな安くしてもらってるだろ」
「えー、宣伝効果あるんだからいいじゃん。それに可愛い姪っ子の危機なんだよ? ママだって協力してくれるって」
「危機に陥るのは蒼維くんだろ」
「あーそこはわかってくれてるんですね」
むなしい笑いが出る。
「まあまあ。別に二人きりじゃなくても、奈留に彼氏ができたと思わせられればいいってことだろ? 俺も来れる時は来るからさ」
「でも修兄ガタイいいから、一緒にいたら犯人が近付いてこないかも」
「それならそれでいいだろ」
「だめだよ。そしたら犯人わかんないじゃん」
「犯人知るより、安全が第一だよ」
不服そうな奈留をなだめると、横から別の提案が入る。
「じゃ、俺はお前らと一緒にいるんじゃなくて、後から尾けるか」
「あ、そのほうがいいかも」
「で、二人をもの欲しそうに見てるやつがいないか、後ろから見張っといてやるよ」
「もの欲しそうにって……」
どんどん話を進めていく兄弟に、蒼維は心残りながらも、ブレーキ役になることをあきらめた。
「……奈留ちゃんに声かけてきたの、どんな人だったの?」
「見た目は爽やか系イケメンだけど、話してみたら、何かこいつ、自分のことかっこいいって思ってんだろうなぁ、ってわかる感じのうざいやつ」
「何か特徴とかないの?」
「えー? そんなによく顔見たわけじゃないしなぁ。まあ、暗めの茶髪で、背は百七十後半くらいだったと思うけど……」
「それ、世の中の若い男の四分の一くらいは当てはまるぞ」
四分の一という割合が合ってるかどうかは別にして、修兄の突っ込みには内心で同意した。
それくらいしかわからないのでは、気をつけることも難しい。
「まあつまり、これといって特徴のない、どこにでもいそうなイケメンってこと」
「イケメンはどこにでもいないだろ」
「そういう突っ込みはいいから。まあ、はっきり覚えてはないけど。もっかい見たら、ああこいつだったって、わかるとは思う」
もう一回顔を見る状況とはつまり、蒼維が危機に陥る場面ではないかと思ったが、目の前の兄妹にとってはさして気にすることでもないらしい。
「あ、そういえば番号教えてよ」
奈留が前掛けのポケットからスマホを取り出した。もはや逆らう気力もなく連絡先を交換する。
そのままなし崩しに蒼維のバイトと奈留が店に入る日を照らし合わせて、数分後には週二回程度蒼維が奈留の迎えに来ることが決まった。
「これからよろしくね、ダーリン」
語尾にハートをつけて奈留が言う。
写真を封筒に戻しながら、そんな奈留を横目で見た。
「これでほんとに何か起こったら、ちょっと恨むよ」
「何で? 犯人に近づけるんだからよくない? わかったらぶん殴ってやろうよ」
「まあその何かが傷害事件じゃなきゃいいけどな」
「勘弁してくださいよ」
「冗談だよ」
「洒落になりません」
本当に大丈夫なのだろうか。
一番は何事も起こらずに一ヵ月が過ぎ、平穏な毎日が戻ってくることだ。
「あ、お客さん来た」
引き戸の開く音に奈留が座ったまま体を乗り出した。
「適当にご飯持ってくるから待っててね。修兄は今日は? いる?」
「食べる」
さっきは遠慮しろとか言っといて、自分は胃袋を満たす気満々だ。
「こないだ食べたしぐれ煮があったらまた欲しいなぁ」
しれっと希望まで伝える奈留の兄を横目で見ながら、蒼維はこの先の一ヶ月を思ってそっとため息をついた。