あれからどう?
引き戸に手をかけると、さほど力を入れずとも戸がからからと溝を滑った。店内は温かみのある照明に照らされていて、装飾も少なくこざっぱりしている。そう広くはないようで、入ってすぐはカウンターだけ。奥にテーブル席がいくつかあるようだ。
割烹〈よし乃〉。一週間ほど前、出会った奈留に教えられた店だった。
来るかどうかはだいぶ迷ったが、「来たい」と言うよりは、「あいつやっぱ来なかった」と思われることが何となく嫌で、足を向けた。
「いらっしゃい」
カウンターの中には、着物に白いエプロンを着けた四十代くらいの女性がいた。右目の目尻に黒子があって、どこか色気のある顔立ちだ。奈留の姿はない。
「お兄さん、一人?」
「あ、はい……」
「じゃあカウンターどうぞ」
言われるままに手前から三番目の席に座る。明るい木目のテーブルは、置いた手にしっとりと馴染んでくる。
「お兄さんみたいな年で、うちに一人で来るなんて珍しいね。初めてだよね?」
カウンターの中から、おしぼりを差し出してくる。この人がママだろうか。
ぎこちなく頷きながら、入っている曜日も聞いとくべきだったと少し後悔していると、奥の暖簾から待っていた顔がひょいと出てきた。奈留だ。
「あー、蒼維くんじゃん。来てくれたんだ」
「どうも」
割烹着の女性が奈留を振り返る。
「知り合い?」
「そう。前に話した蒼維くん。一緒にプレゼント選んだっていう。ママ、安くしてあげてね」
やはりこの妖艶な女性がママらしい。確かに伯母さんと呼ぶには微妙なラインだ。
よくあることなのか、ママは「しょうがないね」と肩をすくめると、「好きなもの選びな」と太っ腹な言葉を寄越してくれた。
よかった。こちらとしても「いやいやそんな、ちゃんと払いますんで」とは言えなかったからだ。事前にネットで見てみたら、割烹〈よし乃〉は以前奈留が言っていた通り、そこそこいい値段がする店だった。学生の身で行きつけにするには結構きつい。万が一奈留がいなかった時のために多めに財布に入れて来てはいたが、安く済むならそれに越したことはない。
おしぼりを脇に置くと、カウンターの向こうから奈留が筆で書かれた手書きのメニューを渡してくれた。今日は髪を後ろで一つにまとめていて、地が桜色の作務衣のような服を着ている。それが仕事着なのだろう。
「プレゼント、喜んでくれた?」
「え? ああ、うん」
「そう、よかった」
カウンターの一段高くなったところに両肘を乗せた奈留が笑った。
「奈留ちゃんは? お母さん、喜んでくれた?」
尋ねると、奈留は右手の親指をぐっと立てる。
「やっぱポートックスで正解だった。花音のと迷ったんだって話したら、誰それ、って言われたし。パートに行く時いつも着けてる」
「そっか」
「うん。で、何にする?」
「えーっと……」
尋ねられて、メニューに目を落とす。割烹だからもちろんメニューは和食なのだが、しばらく迷った。安くしてくれるからといってあまり高いものを頼むのも何だし、といって値段ばかり気にしていると腹は膨れない。決めかねていると、見かねたのかママが口を開いた。
「一応聞くけど、二十は越えてるんだよね? 今日はお酒は飲むの? それとも食べるだけ?」
「お酒はいらないです。普通に晩ご飯のつもりで来たから。一応、こないだ二十にはなりましたけど」
「嫌いなものは?」
「ねばねばしたものはちょっと……」
「魚は焼いたのと煮たのどっちがいい?」
「じゃあ、煮たの……普段食べないし」
「オーケー。ちょっと待ちなね」
ママは頷くと、暖簾の奥に消えていった。どうやら今ので注文になったらしい。一体何が出てくるんだろうと若干不安になっていると、奈留が水のグラスを差し出してきた。
「大丈夫。何が出てきてもおいしいから」
味ではなく財布の心配だったのだが、それは言わずにおいた。
グラスを受け取ると、奥のテーブル席から声がかかって奈留はカウンターを出て行った。
少し待って出てきたのは、白いご飯とメバルの煮物、ほうれん草のおひたしにたけのこの煮物、そら豆が入った肉団子を揚げたものだった。最後にみそ汁が追加される。
目の前に並ぶ料理に、思わず胃がきゅうと鳴る。すべて同時に持ってきてくれたのも、蒼維でもぱっと見でわかるようなメニューにしてくれたのも、肩肘張らず食べやすいように配慮してくれたのだろう。
「こんなにいいんですか?」と聞くと、ママは「気にしなくていいから、その代わり親やら先生に宣伝するんだよ」と赤い口角を上げた。
魚の煮物なんて、実家にいた時以来だ。それでも焼くほうが断然多かったから、三、四年ぶりに口にするんじゃないかと思われる。出された料理は、奈留の言うとおりどれもおいしかった。見た目はどれも普通の家庭に出てくる料理だが、味は一段も二段も上だ。食べ終わる頃には、おまけのようにいちごが三粒載った小皿が出てきた。
蒼維が食べている間、奈留はそれなりに仕事をしていた。客が来れば席に案内し、おしぼりと水を渡し、注文をとり、出来上がったものを運ぶ。今日の客は――といっても奥のテーブル席に一組とカウンターの奥に二人だけだったが、常連らしく、おしゃべりをしていることも少なくない。けれどそれを見たママが怒ることもない。つまりそのおしゃべり自体が、客を引き寄せる要因にもなっているのだろう。
残すところ茶碗の米と肉団子一つといちごになった頃、手が空いたのか奈留が話しかけてきた。カウンターの内側からではなく、蒼維の隣の椅子を引いて、体ごとこちらを向いて座る。桜色の作務衣の腰には、臙脂色の前掛けがしてあった。
「あれからどう?」
「何が?」
「変わったことない?」
「何で?」
茶碗を持ったままきょとんと問い返すと、奈留がカウンターに肘をついて呆れた声を出した。
「ほんっと、危機感ゼロだね。こないだのこともう忘れたの? プレゼント置き引きされて、捨てられたこと。もしかしたら嫌がらせのターゲットにされたかもしれないって、考えなかったの?」
「え」
声に若干の非難を感じ取って、茶碗を置いた。奈留はカウンターに寄りかかり、両腕を組む。
それは考えていなかった。あれはあの一回きりで終わりのものだと思っていたし、実際、その後今日まで何もない。
奈留はため息をつくと、両肩を下げた。
「まあその様子だと、何もないようで何よりだけど。あの時のはほんとにむしゃくしゃしたどっかの馬鹿がその場限りでやったことなんだろうね」
口調はきついが、つまり、多少なりとも蒼維のことを心配してくれていたということだ。
「何か、ごめん」
「何が?」
「いや、危機感がなくて」
「ほんとだよ。まあ、それが普通なんだろうけどね。嫌なことは早く忘れたほうがいいし」
言いながら、奈留はすでに蒼維が空けた皿をカウンターの上に載せていった。
その手元から、奈留の横顔に視線を移す。あの広い売り場でも目に留まった、整った顔立ち。やられた本人以上に気にしてしまうほど、彼女はこれまでにそういう類の感情に晒されることが少なくなかったのだろう。
「何?」
「え?」
「顔に何かついてる?」
布巾でこぼれていた煮汁を拭き取った奈留が、こちらを見もせずに聞いた。
「いや……可愛いのも色々大変なんだなあって思って……」
「はいはい」
「一応前半は褒めてるんだけど」
「そういうの、聞き飽きてるから」
「そうですか……」
「奈留、携帯鳴ってる」
カウンターの奥から、ママが呼ぶ。奈留は返事をして一度カウンターに入り暖簾の奥へ消えると、スマホを持ったまま再び現れた。バイト中にスマホをいじっていいとは何ていい職場だ。自分がバイト中にスマホなんか見ていたら絶対店長に怒鳴られる。
「修兄、迎え遅くなるって」
「あらそうなの」
奈留がスマホをポケットに入れ、カウンターの中から上げたままだった皿を下げていく。俺は残りのご飯をかき込み、惜しみつつ最後の肉団子も口に入れた。ママはさっきから何かの仕込みかカウンターの奥で両手を動かしていたが、そのママの目が、ふとこちらを見た。
「蒼維くんだっけ? あんた、奈留の彼氏なの?」
「え?」
「やだーママ、違うに決まってんじゃん。知り合った経緯は話したでしょ」
笑顔の奈留が秒速で否定する。いや、秒速どころじゃなかった。それを聞いたママは再び自分の手元に目を戻す。
「そりゃ聞いてたけど、念のためね。でもまあ、そうよね。あんたの彼氏にしちゃぱっとしない男だなとは思ってた」
「だよねー」
「あの……」
「いや、別にあんたが不細工って言ってるわけじゃなくてね。この子の理想は高いから」
それでも、面と向かって「ぱっとしない」なんて言われたら結構傷付くんですけど。
何も言い返せずに残ったいちごに手を伸ばすと、再びママが口を開いた。
「蒼維くんに送ってもらえば?」
「え?」
指名されて、いちごをくわえたまま顔を上げた。
「この子見た目がこんなだから、悪い虫が付きやすいみたいでね。まあ蒼維くんと出会ったのもそれが原因みたいだけど。遅くまで入る日はあたしが送るか家族の誰かに迎えに来てもらってるんだけど、今日は遅れるみたいだから」
今はだいたい二十一時前くらいだろう。確かに女の子が一人で帰るのは危ないかもしれない。
「まあ、別にいいですけど……」
「だって」
「じゃあ修兄に今日はそのまま帰っていいって送るね」
ママの視線を受けた奈留は早速スマホを取り出して操作した。
「お客さん少ないから、蒼維くんが食べ終わったら今日は帰りな」
ママの声を聞きながら、蒼維は残ったいちごの一粒をくわえると、へたをむしった。
* * *
「あー疲れたー」
履き潰したスニーカーを脱ぎ捨てて、家に上がる。電気をつけてキッチンを通り過ぎ、部屋の明かりもつけた。明るくなった部屋に鞄を放り投げる。
今日は閉店間際まで客が多くて、休む暇もなく鉄板と向き合っていた。蒼維のバイトはお好み焼き屋だ。平日は十七時から二十一時、遅い時は閉店の二十二時まで。土日はその時々によって昼から入ったり夕方から入ったりするが、大抵週四日前後働いている。大学に入ったばかりの頃から始めたから、今ちょうど一年くらいだ。バイトの条件としては賄いがついていることが第一だったのだが、居酒屋は何となく大変そうだなと思い、カフェもお洒落な感じで気後れするなと思っていたところで、大学の近くにお好み焼きの店を見つけた。しかも、広島風だ。広島出身の蒼維としては、店の暖簾を見た時点で勝手に親近感を抱いていた。それでもまずは味だと思い客として食べに行ってみたのだが、これがなかなかうまかった。バイト募集の貼り紙の時給はちょっと安いかなと思ったけど、接客してくれた店員の感じも悪くなかったし、ここでお好み焼きを食べられるなら家でホットプレートを買わなくてもいい。後日電話をして面接を受けに行き、即日採用された。
クローゼットを開け、プラスチックの洋服ケースからボクサーパンツを取る。自分じゃわからないが、たぶん全身がおたふくソースくさいはずだ。バイトの後に友達に会うと、必ず「お前ソース臭いよ」言われる。
頭をがしがし掻きながら風呂へ向かうと、正面の玄関ドアにくっついている郵便受けに白いものが見えた。そういえばここ数日ポストを見ていない。入ってくるものといえばチラシばかりだから、わざわざ見る気も起きないのだ。けれど隙間から見えるそれは、どうやら封筒のようだった。
郵便受けを開くと、何日分かのチラシがばさっと落ちてきた。水道料金の明細、宅配ピザのチラシ、宗教っぽいビラ、居酒屋の割引券、廃品回収のお知らせ、夜の店のティッシュ、そして白い封筒。
後ろ手にパンツを風呂の前に放り投げ、落ちたチラシ類をかき集める。チラシはゴミ箱行きだ。ティッシュはまあ、使うから取っておく。そういう店に興味があるんじゃなくて、ティッシュ自体に用があるだけだ。そして残ったのは、白い封筒。
本当に、真っ白だった。宛名さえ書いていない。そこまで厚みはないが、重さ的に紙一枚でもなさそうだ。ひっくり返すと、差出人の名前もない。糊付けさえされていなかった。
(何だこれ)
玄関にしゃがみこんだまま、折られただけの封を指で開ける。
中に入っていたのは写真だ。のぞいていた紙の質感からすぐにわかった。端をつまんで封筒から引っ張り出す。
「え」
そこに映っていたものを見て、蒼維はしばらくその場で固まった。
普通の写真だった。普通の、L版の。
ただそれは、撮られた覚えのない、蒼維自身が写った写真だった。