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島田家の人々  作者: 泉 五月
3 プレゼントの行方
14/15

蒼維くん、ずるいね

 

 台風は、いきなりやって来る。


「こんにちはー! お邪魔しまーす」


 言葉と同時にドアを開けたのは奈留だった。一応インターホンは鳴らしているが、返事をする間もなくドアの内側に現れている。

 洗濯機から脱水を終えた洗濯物を取り出していた早苗が、いきなり現れた奈留の姿に呆気に取られていた。


「あれ?」


 奈留も一瞬きょとんとして、すぐに手を打つ。その腕には、デパートの紙袋が提げられていた。


「あ、もしかして蒼維くんのお母さん?」


 写真も一度見たことがあったからすぐにわかったのだろう。ぺこりと頭を下げた。


「どうも初めまして。島田奈留です。蒼維くんとは友達? っていうか、まあ何か家族ぐるみで色々と仲良くさせてもらってます」

「あ、どうも……樋口早苗です。こちらこそお世話になって……」


 奈留の勢いに少々押され気味になりながら、早苗も名乗る。


「もしかして、未咲が電話した時に出た……?」

「ああそうそう、そうです」

「お友達……? 彼女じゃ、ないの?」


 こちらを窺いながら遠慮がちに聞いた早苗に、奈留が笑う。


「やだー、違いますよお母さん。あたしに蒼維くんはもったいないですー」


 どこの子だこの子。

 奈留のぶりっ子全開モードに目を見張る。若干気持ち悪ささえ感じる。


「あの、奈留ちゃん……」

「あ、蒼維くんこれお母さんから差し入れね、こないだオムライスで洋だったから、とりあえずひじきと肉じゃがで和。米くらいは自分で炊けるよね?」

「まあ、わざわざそんな……」


 奈留が差し出したデパートの紙袋を見て、早苗が恐縮したように眉を下げる。


「いいんですいいんです、うちのお母さん料理作るの好きだから。元はといえばうちの兄がフットサルに誘ったのが原因だし」

「あ、そうなんですか……」

「そうそう、まだ聞いてませんでした? もしかして今来たばっかり?」

「いえ、おととい……」

「あ、そうですかー」


 その時、わずかに奈留の声に変化があったのがわかった。

 やばい。今絶対奈留の何かのレーダーが作動した。


「っていうか奈留ちゃん、今日学校は?」

「三年は休みー。本格的に暑くなる前に校舎のエアコン総入れ替えするんだってー。土曜の模試の振り替えも兼ねてる」


 突っ立っている蒼維にデパートの紙袋を渡し、奈留が早苗に訪ねる。


「蒼維くんのお母さんは、いつまでこっちいるんですか?」

「実は今日もう、帰るつもりなの。あ、でも、こっちに妹夫婦がいるから、そこにもう一泊させてもらってから、帰る予定にはしてるんだけど」

「え、そうなの?」

「うん」


 初めて聞く情報に思わず反応してしまった。

 そういえば叔母さん夫婦は横浜にいたような気がする。滅多に会わないから忘れていたけれど。でも、自分の前じゃ会いに行くなんて一言も言っていなかったのに。

 それを聞いた奈留が、いかにも残念そうな表情になる。


「もう帰っちゃうんですか? 蒼維くんって気ぃ遣いーだから人になかなか物頼まないんですよねー。お母さんがいたらしばらくは心強いのになー……って、思ってると思いますよー」


 何言い出すんだこの子。

 ぺらぺらとよく喋る口に、今早苗が取り出していた洗濯物を突っ込んでやりたくなった。

 どこまで奈留の言うことを信じたのか、早苗が奈留と蒼維を交互に見ながら迷う様子を見せる。


「え……あ……そうなの?」

「いや、別に……」

「そんな、お母さんの前じゃ言いませんよー。でも男の子なんてみんなそんなもんですって。蒼維くん今お世話してくれる彼女もいないみたいだし」

「奈留ちゃ……」

「そういえばほら、蒼維くんそろそろあれ買わなきゃって言ってたじゃん、赤本。次くらいから使いたいって」


 そんなこと一言も言っていない。


「あ、実は今あたし蒼維くんに家庭教師やってもらってるんですよー」

「そうなの?」


 声で早苗が意外だと思っているのがわかる。


「蒼維くんの教え方ってすごくわかりやすくってー。塾とか入らないで蒼維くんに頼んでよかったって、家族みんなで言ってるんですー」


 笑顔ですらすらと出てくる嘘に、何かもう、どうでもよくなってくる。


「でも蒼維くん今松葉杖だし、赤本はあたしが買って来てもいいんですけど。他にも参考書選んでくれるって話してて、そうなるとほら、結構重くなるじゃないですか。でも、車出せる兄と予定がなかなか合わなくってー……。あ、でもこんな荷物持ちみたいなことお母さんには頼めないか。ごめんなさい、変なこと言っちゃって」

「ううん、私は別に……」


 そうだろう。早苗ならそう言うはずだ。何で会って間もないのに、奈留はわかるのだろう。申し訳なさそうにしていた顔が、すかさず笑顔に変わる。


「ほんとですか? お母さん優しー! 本当ならあたしも一緒に行くべきなんですけど、今日はこの後予定入れちゃってて……あ、問題集のお金はこっちが出すので、レシートだけ取っといてもらえます?」

「あ、そうなの……うん、わかった。じゃあ私、ちょっと妹に行く時間が遅くなるって連絡を」

「あ、急に予定変えてもらってごめんなさい」


 奈留が眉を下げる。もはや彼女は女優になれるんじゃないかとすら思えてくる。早苗はまったく気にしていないように微笑んだ。


「ううん、いいのよ。私も手伝えることがあるなら嬉しいし。今日も相手は妹だから、時間がずれたところでそんなに気を遣う相手じゃないし」


 じゃあちょっと、と部屋へ行き、バックから携帯を出すと、ベランダに出て電話を掛け始めた。

 会話を始めたのを確認して、玄関に残ったままの奈留が蒼維の裾を引っ張り声を潜める。


「……で?」

「で、じゃないし。聞きたいのはこっちだって。何なの今の」

「何なのって?」

「聞いてて気持ち悪かったんだけど。しかも赤本って何。奈留ちゃんまだそのレベルじゃないし、やる気もないでしょ。参考書増やしてどうすんの?」

「うるさいな。一人で買うには適度に重くて適度に人が関わってて断りづらいものっていったら、即座にそれしか思いつかなかったんだって。食材系はすでに買ってるだろうと思ったし」

「第一俺今日授業あるんだけど?」

「授業一回休んだくらいで死なないでしょ。代返頼みなよ代返」

「こういうことはすぐ頭が回るんだから……」

「こういうことはって何、失礼な。ってかお母さん来てたならそれいらなかったね」

「いや、これはこれで普通にありがたいけど」


 奈留が持ってきた紙袋には、今日もタッパーが二つだ。まだ温かい内に入れたのか、蓋が曇っている。

 早苗の電話は続いている。


「で、渡したの?」

「え?」

「え? じゃないし。プレゼント」

「…………」


 途端に黙った蒼維に、奈留が鼻に皺を寄せた。


「何で?」

「何でって……」

「来たのおとといなんでしょ? っていうかおととい来たのに今日の今まで捻挫の理由知らないってどういうこと? この二日間何話してたの?」


 やっぱり引っかかっていたか。

 捻挫の理由は聞かれたけど、蒼維が「サッカーしてて」とだけしか答えなかっただけだ。別に話していなかったわけじゃない。

 奈留が乗り出していた体を起こした。


「蒼維くんに課題を与えます。お母さんが帰るまでに、プレゼントを渡すこと」

「え」

「だから『え』じゃないってば」


 奈留が自分の腕を組んだ。


「前にも言ったよね、そうしないと蒼維くんのこと家庭教師って認めないから。給料も払わないしご飯も出さないし勉強もしない」

「赤本買うのに?」

「それはせっかくだからもらっといてあげる」


 本当に図々しい。


「ってか前者二つは奈留ちゃんじゃどうにもなんないじゃん。お金払うのもご飯作るのも奈津子さんと修児さんでしょ」

「蒼維くん甘いね」

「え?」

「部屋で二人で勉強してる時にあたしがちょっとシャツをはだけてちょっと叫んでちょっと涙目になれば即行蒼維くんクビだよ」

「まじ?」


 何てことを思いつくのだ。


「大マジ。ついでにその時家にいる人によっては捻挫どころじゃない怪我もするかもね」

 主に修児と修成だろう。もしかしたら未知数だけど奈津子が加わるのかもしれない。

 娘が襲われたとなればそりゃあクビにするだけじゃ済ませないはずだ。というかまずリンチ、その後でクビ宣告、というのがおそらく正しい順番だろう。

「勘弁してよ」

「じゃあ頑張ってプレゼント渡してね」

「…………」

「何をそんなに躊躇ってるわけ? 別に普通に話せるんでしょ? それにわざわざ心配して広島から飛んできてくれるなんて、いいお母さんじゃん」

「わかってるよ……」

「じゃあ蒼維くんも素直になろうよ」

「…………」


 そう言われてなれるなら、こんなに苦労はしていない。

 ベランダから奈津子が戻ってきた。


「時間ずらしてもらったから、夕方までは大丈夫」


 途端奈留の声音が変わる。


「あ、ほんとですかー? よかった。蒼維くんよかったね?」

「え……」

「ね?」


 笑顔が怖い。


「うん……」


 結局、強制的に頷かされた。




 *    *    *




 タクシーを呼んで、寄り道はせず真っ直ぐ本屋に向かった。ショッピングセンターの三階に入っているそこそこ大きな本屋で、堂賀園の赤本はまだ発売されていなかったから、センター試験用の赤本を二冊だけ買った。

 エレベーターのほうが楽じゃない? と気を遣われたが、乗り場が遠かったのでエスカレーターで下りることにした。

 こんなに急に予定を変えることになって、早苗は本当に迷惑じゃなかったんだろうか。


「あ、あれ蒼維くんに似合いそうね」


 エスカレーターで下りながら、メンズフロアに飾ってあったマネキンを早苗が指差した。


「あ、でもジャケットって嫌いだったっけ?」

「別に、嫌いじゃないけど」

「え? あ……そうなんだ」


 早苗がもう一度マネキンを見て、顔を前に戻した。その横顔が少し、寂しそうに見えた。

 もうちょっと会話を弾ませるべきだっただろうか。でも今の自分の実力じゃ、多少長引かせることはできても弾ませるのは無理だ。

 同じビルに入っている飲食フロアで昼食を済ませ、タクシーで一度家に戻った。本はずっと早苗が持ってくれた。

 タクシーを外に待たせたままで部屋に上がり、買った赤本を机の上に置くと、早苗は部屋の隅に置いていた自分の旅行鞄を取り、「じゃあ、またね」と言った。相手が妹だからとか何だかんだ言っていたが、やはり当初の予定より遅くなっているのが気になっていたのかもしれない。それか、息子と二人きりの時間に気まずさを感じていたのか。少し慌ただしいと思えるほどの去り際だった。クローゼットに手をかける暇もなかった。それでも止めなかった。

 急いでいたから。

 荷物が増えるから。

 やっぱり、久しぶりに会ったら、イメージが合わないと思って。

 考えれば、理由はいくらでも出てくる。


 しばらく、ベッドに座ってぼーっとしていた。

 この数日、何だかどっと疲れた。

 思うように動き回れない身体的なもどかしさに加え、精神的な疲労が蓄積していた。

 ばたっと体を倒した。

 今日も十七時からバイトだ。おとといみたいにうっかり寝ないようにしなければ。

 瞼を上げると、カーテンの向こうのベランダで、出かける前に早苗が干した洗濯物が揺れていた。

 やはり主婦は、干し方からして違うようだ。一緒に住んでいた時は意識して見ていなかったが、干す前に服を叩いて皺を伸ばしていたり、風に飛ばないよう洗濯ばさみできちんと留めていたり、早苗の家事はいちいちがきちんとしていた。

 昨日着ていたTシャツが、風に揺れる。


 そういえばあのTシャツは、今日早苗が指差したマネキンが立っていた店で買ったものだった気がする。

 マネキンが着ていたあの服――薄いグレーの七分袖のジャケットだった。折り返した裾が薄いピンクで、どちらかというとカジュアルなデザイン。

 ジャケットが嫌いだなんて、何で早苗はあんなことを思ったのだろう。

 ああやばい、眠くなってきた。

 だが瞼を落としかけたその時、ふと思い出す。


「あ……」


 一瞬のひらめきが引き金になって思い起こされた記憶に、一気に、眠気が飛ぶ。

 あれは確か、高二の時だ。早苗からの初めてのプレゼントだった。早苗にとっては、プレゼントというほどでもなかったのかもしれない。父親と早苗と未咲、三人が買い物に行って、未咲に服を買ってやったから蒼維にも、とその頃の蒼維の年代には結構人気のあるブランドのジャケットが入った袋を渡された。紺色で、胸ポケットや袖口に同色系のステッチが入っていた。前を留めるのはまだらの茶色いボタンが一つ。

 自分はそれを、一度も着なかったのだ。

 デザインが気に入らなかったわけじゃない。むしろなかなか洒落ていていいと思った。

 ただ、贈り主に対しての複雑な感情が、ジャケットに腕を通すことを躊躇わせ、結局、袋に入れたまま今も実家の押入れのどこかで眠っている。


(やっぱり、ひどいのは俺じゃないか……)


 しかもそれを、今の今まで忘れていた。

 自分がプレゼントを買う時に、着てもらえなかったらショックだから服はやめようと、あれだけ考えていたのに。

 早苗だって、あの時の自分のように悩んだかもしれないのに。


「最低だな……」


 それは、早苗がよそよそしくもなるというものだ。

 電話が鳴った。


「……もしもし?」

『あたしだけど』

「うん」


 ディスプレイを見たからわかっていた。杏奈だ。


「どうしたの?」

『奈留がさ、持ってくだけ持ってって、前のタッパー持って帰らなかったでしょ』

「ああ、そういえば……」


 以前オムライスが入っていたタッパーはちゃんと洗っていたが、自分も返すのをすっかり忘れていた。奈留が余計な気を回したせいでどたばたして、それどころじゃなかった。


『だから帰りに寄って取ってきてって言われて。めんどくさいことに』

「正直だね……」

『今日夕方家にいる?』

「今日はバイトだから、十六時半過ぎたら出かけるけど」


 今は十四時前だ。


『わかった。じゃあ十六時頃行く』

「わざわざごめんね。自分で持っていったらいいんだけど」

『別に』


 あいかわらずそっけない。でも杏奈のそんな態度にも結構慣れてきた。何だかんだで、結局取りに来てくれるのだから優しいものだ。

 それで電話は切れるのかと思いきや、杏奈は会話を続けた。


『お母さん、もう帰ったの?』

「帰ったよ」


 早苗が来ていたのは奈留から聞いたのだろう。だが、次の問いにはいささか驚いた。


『課題はクリアしたの?』

「え?」

『奈留から出されたんでしょ』


 あの末っ子は、何でそういうことを人に話すのだろう。


『それができなきゃカテキョは解雇するって言ってたけど』

「……じゃあ、解雇かな」

『…………』


 それも仕方がない。

 第一、自分がやりたくて始めたバイトではない。おいしいとは思っていたが、そこまで奈留が嫌なら続けることもないだろう。変態の冤罪を押し付けられるよりは、今日購入した赤本を渡してさっさと身を引いたほうがいいのかもしれない。奈留と離れれば、あのプレゼントのこともとやかく言われることはないのだし。

 と、思ったのだが、それは少し違うようだった。


『何で?』

「え?」

『多少ぎこちなくは見えたけど、別に険悪ではなかったって言ってたけど。何で渡さなかったの?』

「……奈留ちゃんが見たら、島田家にはすべて筒抜けなんだね」

『言って欲しくないならそう言っときなよ』

「次からそうします」


 ため息をつくと、ベッドの上でごろんと向きを変えた。

 電話は切れない。

 ということは、さっきの質問の答えを待っているのだろう。

 電話を耳に当てたままベランダで揺れるTシャツを見ていると、「話したくないなら、話さなくてもいいけど」と、受話器の向こうから聞こえた。

 そういえば早苗は、「あのジャケット着ないの?」と聞いてくることさえなかった。ずっと、その言葉は胸にしまっていたのだろう。なのに今日、「別に嫌いじゃないけど」と聞いた時、一体どんな気持ちになったか。

 それを思うといたたまれなくて。もしかしたら、自分がやったことを責めて欲しかったのかもしれない。

 それまでずっと、杏奈は電話を切らずに待っていた。何も言わず。

 ぽつりと、こぼしていた。


「……血がさ、繋がってないんだよね」

『え?』

「実の母親じゃないんだ、あの人……って言っても、杏奈ちゃんは見てないけど」


 奈留は実際の早苗を見て、似ていると思っただろうか。それとも、蒼維のことは父親似だと思ったのだろうか。


「本当の母親は俺が小一の時に死んで、今の母親は中三の時に父親が再婚した相手なの」


 これからよろしくね、と言われた。

 あの時自分は、何て答えたんだろう。


『うまくいかなかったの?』

「まあ、うまくいかなかったっていうか、うまくやってくつもりがなかったっていうか……その時は」

『蒼維くんに?』


 声音が少し意外だと言っていた。


「そう……あの時は、色々心の整理がつかなくて、それで、反抗ってほどじゃないけど、ちょっと、そっけない態度取ってたっていうか。それで落ち着いた後も引きずって、まだ微妙に気まずいっていうか……」

『もしかして大学こっちに出てきたのって、それが原因?』

「うん……恥ずかしながら」


 家にいるのが、息苦しくて。その空気を作ったのは自分なのに、自分で耐え切れなくなった。

 父親は反対した。あれは東京へ出てくることに対する反対ではなくて、母親から逃げるために家を出ることに対する反対だったのだろう。それは直接言葉にしなくても、あの当時もぼんやりわかっていた。


『今のお母さん、嫌な人なの?』

「いいや」

『ひどい喧嘩したとか?』

「それもない」

『じゃあ何で?』

「うん……」


 これが理由だとは、自分でもはっきりと説明ができない。

 ただあの頃の自分は、どうしても新しい母親を受け入れることができなかった。

 まだ甘えたい盛りの頃に亡くなったからか、大きくなった後も、自分の中の母親は完璧な母親で、父親が再婚することも、自分に新しい母親ができることも、考えたことすらなかった。それなのに、父親はある日恋人がいることを打ち明けて、そのうち見たこともない人を連れてきて、「これから家族になるんだ」と言った。早苗自身に、嫌悪感は抱かなかった。むしろ朗らかで明るい人だと思った。ただ、それが新しい母親だと言われると、なぜか受け入れることができなかった。

 早苗を遠ざけて、たまに喋っても必要最低限のことしか言葉を交わさなかった。次第にその人となりがわかってきて、妹の未咲も早苗に懐くようになり、もしかして自分が間違っているのかもしれないと思った時には、離れた距離をどう縮めればいいのか、わからなくなっていた。


『……蒼維くん、ずるいね』


 杏奈は「ずるい」と言った。「ひどい」とか、「呆れた」とかいう言葉なら予想していたが、「ずるい」とは、少し意外な言葉だった。


『自分にできないこと、あたしに言ったんだ』

「え?」

『言いたいことあるんならちゃんと言いなよって。こないだあたしに言ったよね』

「…………」


 杏奈の家出騒動の時か。確かに言ったかもしれない。

 いや――確実に言った。自分のことは棚に上げて、偉そうに。


『嫌いじゃないんでしょ』

「…………」

『なら、言えば。言いたいこと』


 杏奈はそれだけ言うと、「それじゃあね」とあっさり電話を切った。

 待ち受け画面に戻ったディスプレイを見つめる。

 言いたいこと。

 あるんだろうか。

 あるだろう。

 でも、何て言ったらいいのかわからない。


 家を離れて一人で生活するようになって、まず家事の面で早苗を思い出した。ずいぶんそっけない――おそらく杏奈が家族に対するそれよりもそっけない態度を取り続けたのに、早苗は何も言わずにご飯を作ってくれたし、洗濯物を畳んでくれたし、その端々に気遣いがあった。

 父親と未咲と三人の食卓が寂しいわけではなかったけど、早苗が加わってからは会話が増えて雰囲気も明るくなった。ただ、その中に自分は入ろうとしなかった。

 何度も笑顔を向けてくれたのに、そのすべてを跳ね返していた。早苗も家族に馴染むために必死だったのだろうが、その態度は決して無理からくるものではなく、早苗自身の人柄が表れるものだった。

 けれどそれも、自分が変えてしまった。


 決定打は、家を出たことだ。早苗はそれを、義理の息子からの完全な拒絶と受け取ったのだろう。

 三年も笑顔を向け続けて少しでも心を開いてもらおうと努めてきたのに、結局は断ち切られた。早苗の態度が昔と変わるのは当然といえば当然だ。

 そんな早苗に対して、一体どんな言葉をかけたらいいのか。


(……だめだ)


 ベッドから上半身を起こした。

 考えてたら日が暮れてしまう。そしてきっと、考えているうちに動けなくなってしまう。

 言いたいことはわからないけど、渡したい物はある。いや、渡さなければいけない物だ。

 自分も、やり直せるだろうか。杏奈と修児が、やり直しつつあるように。

 いや、今、やり直さなければ。でなければずっと、このままだ。

 手に持ったままだったスマホを操作した。早苗の番号を呼び出す。


『もしもし?』

「今どこ?」

『え?』

「もう電車乗った?」


 答えるまでに、少し間があった。


『ううん……今、駅前。おばさんのとこに持ってくおみやげ買ってるとこ』

「何時発?」

『え?』

「何時の電車に乗るの?」

『十四時……えっと、二十七分』


 壁の時計を見る。原チャで行けば、まだ間に合う。ベッドから立ち上がった。


「ちょっと待ってて」

『え?』


 電話の向こうの早苗が戸惑っている顔が浮かんだ。それでも。


「いいから。今から行くからちょっと待ってて!」


 電話を切ると、蒼維は足を引きずってクローゼットに向かった。



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