で?
キイ、キイ、と椅子が鳴っている。右手に持ったシャーペンを指先で回す奈留が、体を左右に捻っている。
外では霧雨に近い雨が降っていて、細い雫が空気を洗い流していく音が、邪魔にならない程度のBGMになっている。
「せんせー、授業がおもしろくないです」
「…………」
「生徒がもっと興味を持てるような授業をしてくださーい」
「……俺の仕事は奈留ちゃんが問題解いてわかんなかったとこを教えることであって、一から授業することじゃないんだけど」
「えー」
「っていうかさ、奈留ちゃんが苦手な箇所がばらつきがありすぎて俺には謎なんだけど」
「えー、そう?」
何度かテストをして、具体的に何が苦手でどういう対策が必要なのか、素人なりに把握しようとしたのだが、この結果がなかなか厄介だった。理系が苦手、とか英語だけはちょっと、というのならわかるのだが、奈留の場合そんな風にわかりやすくないのだ。
「何で暗記が苦手なのに、歴史のしかも江戸時代だけこんなパーフェクトなの?」
「ちょっと前に見た大奥のドラマがおもしろかったから、将軍とか色々調べたんだよねー。そしたらおじいちゃんがこれも読めって時代小説とかも薦めてきたからそれも読んだりしてー。だからかな」
「英語のスペルミスは?」
「だって英語なんて喋れれば問題ないじゃん。海外旅行に行くことはあっても日本に住んでて英語で文章書くことなんかある?」
「じゃあ生物は……」
「遺伝とかおもしろいじゃん。何型と何型の子供は何型が生まれるとか。人の体がどうなってるとか」
「その興味、植物の構造に対してはわかないの?」
「全然」
つまりすべてにおいて自分が中心なのだ。自分が興味があるかないかが成績に直結している。それはつまり興味を持てばすごい爆発力があるとも言えるのだが、そこまで持っていくのがなかなか難しい。
奈留は回していたシャーペンを置くと、机の右端に重ねていた参考書の一冊を取った。それを見るともなしにぱらぱらとめくり始める。
「蒼維くん何型?」
「Aだけど」
「AA? AO?」
「AO」
「じゃあもしあたしと蒼維くんの子供ができたら、全部の血液型の可能性あるね」
「いやいや、ないから」
「何で? だってあたしBOだよ?」
「いや、そういうことじゃなくて。その想定がまずないから」
「蒼維くん言わないの?」
「何を?」
「ほら、『じゃあ何型が生まれるか試してみる?』とか」
「何のAVだよ!」
「もちろんカテキョだよ。あ、学校の教師と生徒のほうがいい?」
「そういう問題じゃないって」
「ってか、蒼維くんでもやっぱAV見るんだ」
「うっ……」
「まあ男なら当然だよねえ」
というような感じで、勉強は遅々として進まない。
「で?」
「え?」
「何で渡さなかったの」
「…………」
話題の急転回に口をつぐむ。
先日、クローゼットに入れたままのあのプレゼントを不覚にも奈留に見られてしまった。
詰め寄る奈留にうまく答えられずにいると、「お好み焼きが焦げるけど。ってか染み広がってるけど」と杏奈が助け舟を出してくれ、その後も何とか逃げてうやむやにした。
今日はあの日以来の訪問だったから、何か言われるかと思っていたのだが、部屋に入った時に奈留が何も言わなかったため油断していた。もう見なかったことにしてくれるのかと思ったのに。
奈留が組んだ膝に開いた参考書を置く。
「まあ渡さなかったのは百歩譲って何か事情があるとしても、何でわざわざ嘘ついたの?」
「それは……何か、申し訳なくて……」
一緒に選んでくれたのに。あんなに真剣に探してくれたのに。なのに結局渡していないとは言えなかった。それに渡していないと言えば、その理由を聞かれるのはわかりきったことだ。
「嘘をついたのは悪いと思ってるよ。けどとにかく、今はこっち。今日はもうあんま時間ないから、このページの問題解いて終わろう」
「えー今国語の気分なんですけどー」
「じゃあ何で英語の参考書持ってんのかな?」
奈留の膝の上で開かれているのは英語の問題集だ。言っていることとやっていることが矛盾している。つまりは、勉強自体にやる気がないのだ。完全に集中力が切れていた。
「あのさ、堂賀園入りたいのは奈留ちゃんでしょ?」
「でも家庭教師は頼んでないもん」
「奈留ちゃんが頼んでなくても俺が奈津子さんと江奈さんに頼まれたの」
「横暴ー」
奈留が開いていた参考書を閉じると、机の上に置いた。
「わかった。じゃあこうしよう。蒼維くんがプレゼント渡したら家庭教師として認めてあげる」
「え?」
そもそも部屋で二人で机に向かっているこの状況で、まだ認められてなかったのか。そっちに驚きだ。
「あんなに悩んでせっかく買ったのに、あげないなんてあの時間がまるまる無駄になるじゃん。プレゼントだって可哀想。ずっと箱の中でさー」
「それは……わかってるよ」
「別に直接渡せなんて言ってないよ。顔見て渡せないなら郵送すればいいじゃん」
「いや、でももう時期が……」
語尾にどうも力が入らない。
奈留が背もたれに寄りかかって、上半身をそらす。
「別にカーネーション買ったわけじゃないんだから、母の日じゃなくてもバイト代ちょっと多かったからーとか、日頃の感謝をこめてーとか、理由はいくらでもつけれるでしょ。誕生日は近くないの?」
「三月」
今はすでに六月も終わりに近い。
「じゃあちょっと無理があるか。それじゃ普通に母の日用で買ってて帰って渡そうかと思ってたんだけど、ちょっと帰れなかったから遅れてごめんけどあげるね、でいいじゃん」
「うん……」
「うわ、全然乗り気じゃない返事」
奈留が椅子の背もたれに体を預けて問題集をぱらぱらめくる。
「じゃあ何で買ったのー? あげるために買ったんでしょー?」
はた、とページを送っていた手が止まる。そのまま顔を見つめられてたじろぐ。
「何……?」
「もしかして蒼維くん……これまでお母さんにプレゼントとか渡したことがなくて、そのまま東京に出てきて、でも去年突然お母さんが亡くなったから、後悔の気持ちで初めてプレゼントを買った、とか……?」
「いや、ごめんけどそんなドラマチックな理由ないから」
杏奈の時にも妊娠がどうとか言っていたが、奈留はどうやら放っておくととんでもない想像を捻り出すきらいがあるようだ。
「とにかくさー、渡そうよ」
「いや、俺のプレゼントは後回しでいいから、先に勉強を……」
「渡されなかったプレゼントのことを思うと気になって勉強が手につかなーい」
「あのね……」
「あたしさー」
急に奈留の声のトーンが変わった。
「別にふざけて言ってるわけじゃないんだよ?」
「…………」
「一生懸命選んでた蒼維くん見てるから、あの時の気持ちを無駄にするのはもったいないなって思うわけ」
普段は軽い奈留が、こうして改まるとなかなかこたえるものがある。言っていることも耳に痛い。
「それにもう渡す気がないなら、さっさと捨てればよかったじゃん。残してるってことは、まだどこかであげたいと思ってるんでしょ?」
鋭い指摘に、何も言い返すことができない。
すると奈留が時計を見て膝の参考書を閉じた。
「時間だ。勉強終了ー」
「あ、ちょっと待って」
「待ちませーん」
机の上のシャーペンやプリントをどんどん片付けていく奈留に、大学の教授の気持ちがちょっとだけわかった。
結局今日は、二時間のうち約半分はただのお喋りになってしまった。こんなので大丈夫なんだろうか。
階下に下りると、修児はすでに一人で晩酌を始めていた。杏奈の一件以来、修児が外で飲む回数は減ったらしい。飲んでも帰ってくる時間は早くなったようで、深酒して絡んだり誰かに抱えられて帰ってくることも今のところはないようだ。
「あ、お疲れ様。ご飯すぐできるから、もうちょっと待ってね」
奈津子がキッチンから声をかけてくる。
テーブルには豚汁と、色の薄い小さめのハンバーグがいくつかすでに並んでいる。奈留は奈留で勉強が後半になってくると集中が切れだすのだが、自分は自分で階下から聞こえる包丁の音と立ち上ってくるおいしそうな匂いに、時折意識を惹かれるのが問題といえば問題だった。奈津子の料理はおいしい。
玄関のほうでドアの開閉の音がする。
「あ、修兄おかえり。今日早いね」
「勉強会なくて事務仕事も少なかったからなー。でも雨が。あー腹減った」
体についた水滴を払いながら、修成がリュックを下ろす。
「結構降ってる?」
「まあまあ」
子供たちがばらばらと席に着く。
江奈がいない時は一つ席がずれるらしく、奈留が修児の隣になる。蒼維はさらにその隣だ。誕生日席ではなく、杏奈がいればその向かいになる。今日は杏奈はバイトらしく、蒼維の向かいは空席だった。
「勉強は進んでるのか」
「うんもうバッチリ」
「どこが……」
ウィンクまでした奈留に、ため息混じりにつっこむ。修児がビールを置いてこちらを見た。
蒼維自身、修児とは未だにそこまで打ち解けてはいないが、杏奈の一件以来、何かささいな失言があったとしても、刺すような視線を向けられることはなくなった。当たりはだいぶ柔らかくなったような気がする。
「進んでないのか」
「何というかまあ、あまり……そうですね」
「それでよく飯が食えるな」
「すいません……」
確かに言うとおりなのだが、実際一食でも食費が浮くのは学生にはありがたい。ちょっと心苦しいが、その分これから奈留の成績で返せればとは思っている。だからどうにか勉強してもらわなければならないのだが。
さらにグリーンピースの豆ご飯と、白身魚ときのこを蒸したものが追加され、今日のメニューが完成したらしい。ちなみに色の薄いハンバーグの正体は、鶏肉と豆腐のハンバーグだった。
「豆ご飯とか久しぶりです」
白米の中のつやつやした緑に目を落としながら言うと、奈津子がまさにその豆ご飯を飲み込んでから言った。
「この豆ね、匠くんの実家のお裾分けなの」
「匠くん?」
「あ、江奈の彼。こないだ、挨拶に来てね」
「ああ」
「地元が長野でご両親が趣味で畑やってるらしくて、旬はちょっと過ぎてるんだけど、たくさんあるからって」
「へえ。そうなんですか」
頬張ると、豆の食感が歯に楽しい。塩加減もちょうどよかった。
「それで、匠さんてのは、どんな人だったんですか?」
「何か全体的に優しそうで人のよさそうな感じだな」
「へえ」
修成の印象に奈津子が加える。
「お父さん的にも、オーケーだったみたいだし」
「そうなんですか」
初対面で嫌われた身としては、どんな人だったのか少し気になる。修児のお目がねに適ったということは、きっと悪い人ではないのだろう。
箸の先を口につけた奈留が首を傾げる。
「でもあたしはもうちょっと覇気が欲しかったけどなあー。優しそうなのは確かに優しそうだけど、何か物足りない感じ?」
「別にあんたが結婚するわけじゃないんだからいいでしょ」
「それはそうだけどー」
そういえばさ、と修成がこちらを見る。
「蒼維くんってサッカーできる?」
これはまた急な質問である。
「人並みにはできると思いますけど……」
「大会の日メンバーが一人出張になっちゃってさー、代わり探してんだけど、出てみない?」
そういえば、修成はフットサルをやっていたんだったか。
「それって、本格的なやつですか? 俺そんなうまくないですよ」
「いいっていいって。みんなそんなガチでやってるわけじゃないから。休みの日のリフレッシュっていうか、みんなで楽しみましょー的なやつだから」
修成が鶏肉と豆腐のハンバーグを一度で口に収め、膨らんだ頬をもぐもぐと動かす。
「それなら別に……いつあるんです?」
「試合は来週の土曜日。一応水曜の夕方に一時間練習するんだけど、それは無理だったら来なくていいよ」
スケジュールを思い出す。今度の水曜はバイトが入っているから練習は無理だが、試合のほうは行けそうだ。
その旨を伝えると、口の中のものを飲み込んだ修成が、「おーサンキュー、助かるわ」と片手を上げた。
* * *
「うわー、ほんとに固めてるー」
ドアを開けての第一声は、ちょっとおもしろがっていた。奈留だ。
それは、蒼維の左足を見た感想である。
修成に誘われたフットサルの試合。久しぶりの運動とお祭り的雰囲気に熱中しすぎて、蒼維は何と捻挫してしまった。
頭では華麗に動いているイメージがあるのだが、日頃運動していないためどうしても実際の動きにはずれがある。ボールを奪いにきた相手を避けようとしてボールに足を取られ、足首をぐきりといった。自滅である。
そのため奈留の家庭教師も、しばらくは奈留が蒼維の家に来ることになったのだ。信頼されているのは嬉しいのだが、若い男の家に高校生の娘を一人向かわせるのは、親の危機意識として若干いかがなものかと思ってしまう。
実際やる気のない奈留が本当に来るのかどうか不安だったのだが、彼女はちゃんと時間どおりにやって来た。どれだけの問題集を持ってきたのか、やけに荷物が多い。
「にしても災難だったねー、助っ人に行って捻挫て。あ、松葉杖もある」
部屋の壁に立てかけてある松葉杖を見て奈留が言った。捻挫した足はギプスまではしていないが、包帯とテーピングでがちがちにされた上に固定具のようなものをつけられていた。しばらくは歩く時に松葉杖を使うよう言われていたが、家の中ではめんどくさくて使っていない。
「自分でも情けないよ」
「ま、やっちゃったもんはしょうがないから。あ、鳴ってるよ」
ベッドの枕元で携帯が鳴っていた。
咄嗟に動けない自分に代わって、奈留が取りに行ってくれる。ディスプレイに表示された名前を見て、奈留が片方の口角を上げた。
「未咲。……彼女?」
「違うよ、妹」
電話がかかってくるのは久しぶりだが。
奈留の指が、ディスプレイに触れる。
「あっ奈留ちゃ……」
妹だと言ったことを後悔した。あろうことか、奈留は勝手に電話に出たのだ。
「もしもし? ……え? あ、ちょっと蒼維くん今手が話せなくて……あ、あたし島田奈留っていいます、初めまして。……ああいや、違う違う。ただの知り合いです。ちょっと蒼維くん、こないだ足捻挫しちゃって。ああいや全然。しばらくしたら治るみたいだけど、やっぱり不便なこともあるみたいで……そうそう、うん。いえいえ全然。気にしないで。あ、そういえば、お母さんは元気ですか? ああそう、よかった。……いえいえ、会ったことはないですけど。蒼維くんから話聞いたことがあって。そう……お父さんは? ……それは何よりで。はい、はい……はーい、では…………だって」
電話を切ると、奈留がこちらを向いた。
「だって、じゃないよ」
「家族はみんな元気。また連絡するって」
よたよたと歩き、奈留から携帯を取り上げた。
「彼女だったらどうすんの」
「妹だって言ってたじゃん」
確かに自分で言った。
「優しそうな子だったね。いくつ?」
「今高二」
「一個下かぁ」
蒼維とは三歳差だ。
どちらかといえば大人しい妹だ。でも暗いわけではない。よく笑うし、それなりに喋るし、時には拗ねたり怒ったりもする。ただそのすべてが、溌溂というよりは少し控えめだった。最近はよく奈留といるから、余計そう思うのかもしれない。
「何で捻挫のこと言ったの」
「え、何で言っちゃいけないの?」
「余計な心配するだろ」
「そりゃするだろうけど、別に余計ではないでしょ」
「…………」
「買い物とかなるべく行かなくていいように、レトルトとか送ってくれるかもしれないよ? っていうか頼んどきなよ、また電話するって言ってたし。まあ頼まなくても、入り用なものがあれば修兄が車出すけどさ。あ、そういえばこれ差し入れ」
今日はやけに荷物が多いと思っていたら、可愛らしいどこかのブランドの紙袋をこっちに差し出してきた。
「何?」
「ご飯」
「まじで?」
「その足じゃコンビニ行くのも面倒だろうし、今日はうちでご飯食べれないから、持ってけって言われた」
言ったのは奈津子だろう。紙袋を覗き込むと、小さなタッパーにマカロニサラダが入っていた。その下の大きなタッパーは何とオムライスだ。これはかなりありがたい。
「まじでありがとう」
「うん。そのタッパー、そのままチンできるから」
「うん」
捻挫は完全に自分自身のせいだったが、誘ったことに多少の責任を感じているのか、修成は何かあれば車を出すと申し出てくれているし、奈津子はご飯まで差し入れてくれる。最近車を買った先輩は移動が不便だろと原チャを貸してくれたし、保科も見舞いだと言ってカルシウム含有量の多いらしい携帯食をくれた。まあ、骨折じゃなくて捻挫なんだけど、そんな細かいことは気にしない。風邪の時は人のありがたみがわかると言うが、今の自分はまさにそれだった。
今日の夕食が入った紙袋を一旦キッチンに置きに行き、部屋に戻る。
「それじゃ、勉強しよっか」
「あーあ」
「あーあって。じゃあ何しに来たの」
じんわりといい気分だったのが、奈留の態度にちょっとそがれる。
「蒼維くんの名誉の負傷をからかいに?」
「今度から宿題出すよ?」
「やめてよ。まあ出されてもやらないけど」
「奈留ちゃん」
「だってまだ認めてませんからー。仮だよ、かっこ仮」
まだ引きずるかその話を。
「いいよ仮でも何でも。とにかくやるよ。明日模試でしょ」
「へいへい」
「その親父くさい返事やめようよ」
「うぃーっす」
「今度はチャラい」
「注文多いなあ」
「注文じゃなくて注意。ほら、座る」
テーブルを叩くと、奈留はしぶしぶながら腰を下ろした。




